こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は群馬県吾妻郡の東吾妻町と長野原町の境にある
須賀尾峠、信州街道の宿場町須賀尾宿を掲載してみたいと思います
須賀尾峠 標高約1020m
須賀尾峠(すがおとうげ)は、群馬県吾妻郡の東吾妻町と長野原町の境にある峠である
江戸時代北信州の飯山、須坂、松代の殿様の「廻米」
(食料)や武家・商人の荷物、また文人墨客・
草津温泉入湯客や善光寺詣客の往来があった峠であったと思われます
東吾妻町側から眺める須賀尾峠(すがおとうげ)
須賀尾峠の歴史
国道406号線の須賀尾峠より約600m北側の長野原側に行った右側に、
「丸岩740m」の標識がある
天正十年(1582年)武田氏が滅亡した後、
大戸城を攻略し須賀尾峠を越えて長野原進出を目論む
北条勢に対抗するため、真田昌幸が丸岩城に、
湯本・西窪・横谷・鎌原の諸将を交代で駐留させていたとのことです
須賀尾峠から眺める群馬県吾妻郡東吾妻町方面
須賀尾峠から下ってくると古い信州街道の宿場町須賀尾宿の案内板
須賀尾宿屋号清水屋さんの先は信州街道須賀尾峠への峠道
群馬県吾妻郡東吾妻町側の宿場町須賀尾宿入口案内板
信州街道の宿場町須賀尾宿案内板
案内板によると「須賀尾宿は、
江戸と京都を結ぶ中山道から分かれた信州を結ぶ街道の五番目の宿場町です
この宿は江戸時代のはじめ元和十年(1624年)に、
街道整備の一つとして整備されました
信州街道は中山道の高崎宿から分かれ、榛名山南西を通り吾妻郡に入り、
大戸宿から西におれ、鎌原宿、鳥居峠を経て信州に入り、北国街道と合流する
この街道は上州と信州を最短距離で結ぶ主要街道で、
大戸、大笹に関所が設けられました
須賀尾宿は、信州街道と草津道の分岐点で、峠下の宿場です
北信州の飯山、須坂、松代の殿様の「廻米」
(食料)や武家・商人の荷物、また文人墨客・
草津温泉入湯客や善光寺詣の客が往来し、
宿場には茶屋・居酒屋・旅籠などが建ち並ぶなど
旅客で大いに賑わいを見せ、現在でも多くの家に屋号があり、
繁栄した面影が偲ばれます
文化5年(1808年)、俳人小林一茶は草津への旅の途中
『須賀尾宿』に泊まり、次の句を詠まれました
『麦わらのマンダラもおれ筥根山』」とあります
須賀尾宿は草津街道との分岐点であると同時に
浅間隠温泉郷(薬師温泉・鳩の湯温泉・温川温泉)との
分岐点でもあり、享保6年(1721)には「右 信州 くさつ
左 鳩ノゆ」の道標が建立されています
現在の須賀尾宿は古民家は少ないものの街道沿いには
民家が軒を連ね宿場町だった雰囲気は残されています
江戸時代 旅客で大いに賑わいを見せていた須賀尾宿絵図
軒を連ね宿場町だった雰囲気が残されています
須賀尾宿街並み
現在は屋号が残っているのみで営業しているお店は
ほとんどありません
屋号 中屋さん何を商っていたのでしょうか
軒を連ね宿場町だった雰囲気が残されています
須賀尾宿
屋号 大黒屋さんは江戸時代は質屋だったのでしょうか
静かに佇む須賀尾宿街並み
屋号 菓子屋 江戸時代はお菓子屋さんだったのでしょうか
須賀尾宿街並みをゆっくりと散策してみました
観光客も全く居ない、古き宿場町の雰囲気を味わった寄り道でした
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は群馬県吾妻郡の東吾妻町と長野原町の境にある
須賀尾峠、信州街道の宿場町須賀尾宿を掲載してみたいと思います
須賀尾峠 標高約1020m
須賀尾峠(すがおとうげ)は、群馬県吾妻郡の東吾妻町と長野原町の境にある峠である
江戸時代北信州の飯山、須坂、松代の殿様の「廻米」
(食料)や武家・商人の荷物、また文人墨客・
草津温泉入湯客や善光寺詣客の往来があった峠であったと思われます
東吾妻町側から眺める須賀尾峠(すがおとうげ)
須賀尾峠の歴史
国道406号線の須賀尾峠より約600m北側の長野原側に行った右側に、
「丸岩740m」の標識がある
天正十年(1582年)武田氏が滅亡した後、
大戸城を攻略し須賀尾峠を越えて長野原進出を目論む
北条勢に対抗するため、真田昌幸が丸岩城に、
湯本・西窪・横谷・鎌原の諸将を交代で駐留させていたとのことです
須賀尾峠から眺める群馬県吾妻郡東吾妻町方面
須賀尾峠から下ってくると古い信州街道の宿場町須賀尾宿の案内板
須賀尾宿屋号清水屋さんの先は信州街道須賀尾峠への峠道
群馬県吾妻郡東吾妻町側の宿場町須賀尾宿入口案内板
信州街道の宿場町須賀尾宿案内板
案内板によると「須賀尾宿は、
江戸と京都を結ぶ中山道から分かれた信州を結ぶ街道の五番目の宿場町です
この宿は江戸時代のはじめ元和十年(1624年)に、
街道整備の一つとして整備されました
信州街道は中山道の高崎宿から分かれ、榛名山南西を通り吾妻郡に入り、
大戸宿から西におれ、鎌原宿、鳥居峠を経て信州に入り、北国街道と合流する
この街道は上州と信州を最短距離で結ぶ主要街道で、
大戸、大笹に関所が設けられました
須賀尾宿は、信州街道と草津道の分岐点で、峠下の宿場です
北信州の飯山、須坂、松代の殿様の「廻米」
(食料)や武家・商人の荷物、また文人墨客・
草津温泉入湯客や善光寺詣の客が往来し、
宿場には茶屋・居酒屋・旅籠などが建ち並ぶなど
旅客で大いに賑わいを見せ、現在でも多くの家に屋号があり、
繁栄した面影が偲ばれます
文化5年(1808年)、俳人小林一茶は草津への旅の途中
『須賀尾宿』に泊まり、次の句を詠まれました
『麦わらのマンダラもおれ筥根山』」とあります
須賀尾宿は草津街道との分岐点であると同時に
浅間隠温泉郷(薬師温泉・鳩の湯温泉・温川温泉)との
分岐点でもあり、享保6年(1721)には「右 信州 くさつ
左 鳩ノゆ」の道標が建立されています
現在の須賀尾宿は古民家は少ないものの街道沿いには
民家が軒を連ね宿場町だった雰囲気は残されています
江戸時代 旅客で大いに賑わいを見せていた須賀尾宿絵図
軒を連ね宿場町だった雰囲気が残されています
須賀尾宿街並み
現在は屋号が残っているのみで営業しているお店は
ほとんどありません
屋号 中屋さん何を商っていたのでしょうか
軒を連ね宿場町だった雰囲気が残されています
須賀尾宿
屋号 大黒屋さんは江戸時代は質屋だったのでしょうか
静かに佇む須賀尾宿街並み
屋号 菓子屋 江戸時代はお菓子屋さんだったのでしょうか
須賀尾宿街並みをゆっくりと散策してみました
観光客も全く居ない、古き宿場町の雰囲気を味わった寄り道でした
最後まで御覧頂きありがとうございます
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