よろしかったらピンクムーンをどうぞ、
04/08
最近のチューリップは色合いが様々で美しいわ、咲いてる間にも変化するからなおさら楽しい!
玉置さんは玉三郎さんを労わりながらリードし、控え目ながらご自分を表現する時には美しく歌い、このように素敵な
”恋の予感” ”夏の終わりのハーモニー”はとても心にしみました♫
思いがけない、理想的なパートナーを得たら、お互いの良さを引き出し合うのでしょうね、この週の教訓で(´∀`*)ウフフ
04/07
クリサンセマム・ムルチコーレですよ、以前、管状花と舌状花で学習しましたけど、風に揺れてる様がまた可愛らしくて
こんなに咲いて蕾もスタンバっててなかなかいい按配です、
04/07
水やりをしようと外に出たら雨~~~大した雨じゃなかったら夕方 again といきましょう、
このような小雨の日には思い出話の一つもいいかなぁと思ってね、詮無きことを並べてみたって時間が解決するしかない
ので、おそらくは誰にでもあっただろう恋バナでも、
下の欄からの続きですから 概略を、17 で転校して出会った O はMJのような感じで、今まで私が出会った boys の中では
ピカ一よ、あのエリアでですし好みのこともあろうから一概には言えないけど(´∀`*)ウフフ
車屋さん役(古いのでご理解頂けるかしら?その頃はパシリなんて言葉なかったし)の A(もうオトコもオナゴも関係な
い学校の平等事情だったから名は呼び捨て)が、P を誘って体育館に行ったところから、
アタッカーの O はその試合の華だった~~~♫ けど神は平等で、そうそういいことばかりはお与えにならない、試合は
負け、でも、それなりに活躍してた「O が学校帰りに家に遊びに来いってよ~俺も一緒だから」と A は言った、
その日は帰りの約束を F ちゃんとはしてなかったから、気楽に考えて「いいよ~」って言ってA と P は文房具屋に寄った
文房具屋の2F の部屋は茶の間でまだ炬燵があった、エリアではそんなもんだった、そしてご両親もいて、たいして広く
ない部屋で茶を頂くことになった、やり手風のお母さんが言った「P ちゃんのお父さんは何なさってる方~?」
単なる 同級生 に過ぎないだろうに、と思ったけど訊かれたら応える「○○所に勤めてます」「あら?農家でないの?」
驚いたようなぉ顔をなさってた、そしておとうさんが訊いた「お母さんのご実家はどこですか?」「△△△町の農家で」
そのおとうさんは驚いて「苗字はなんというのですか?」「こちら様と同じ苗字です」さらに驚いたように付け加えて、
「もしかしてお祖父さんはOKさんですか?」「そうです~ご存じですか?」そのおとうさんとPの母方の祖父は同じ福祉
学校の理事で知り合いだったということが判明した、世の中は狭いね、なんだか見合いでもしたらこんな感じの応答に
なるのかと可笑しかった、
きっと転校生の同級生を連れてくるといったから、どんな相手なのかと興味津々の親御だったのね、そしてもしや余所者
だったら手厳しく応対したのかしら(´∀`*)ウフフ
めでたくも一次審査は合格したようで「部屋にお菓子を運ぶから A 君も一緒にどうぞ~」と言われた、Pはのっけから
部屋に行きたくはなかったので駅前の本屋に行こうといった、だって欲しい本(原田康子センセ)があったからね、
でも小さな本屋には在庫がなかったから諦めて、A とOと P は図書館へ行って時間を過ごすことにしたけど喋る場所じゃ
ない、ので公民館(公立の)へ行って他愛もない話をしてクスクス笑ったりしてた、
それでも初めての経験だから、3人は気が合うということは分かったのよ、そして一緒に勉強するようになり、それなら
「図書室でもいいべ」と、学校の図書室で勉強するようになった、
その頃のあの高校のオナゴ達は選ばれて小人数だけ入学してた(錯覚かも)ということで、オトコ達は一目置くような
ところがあって、恋にはならず”姉ちゃん” のような立ち位置で、オナゴ達も同校の同級生のオトコは相手じゃないと思い
込んでたらしいので、え?それはありか?という意外感があったらしい、普段は話もしないようなオナゴ達が言った
「昨日、図書館でA とO と一緒だったか?」と訊かれたから「ウン!」と、思えば得意げに言ったんだね、反感を買った
成績がよかろうと悪かろうと高校生だもの、ただ面白く喋ったり登下校の一部を並んで歩いたりするだけだからいいんね
ないのよ、それでもそれが出来なかった女子生徒は面白くなかったようで私にはツンケンしたけど、PはA とO とつるん
でれば楽しかっただけよ、互いの家に行ってその家族とも茶飲んだりして、時間を過ごしているうちに受験の頃となった
Pの家にも A もO も来て茶飲み話はしたので、O の母親とPの母親が女学校で一緒の学年だったことも知ったし、母は
「ちえちゃんもお元気ですべ~」などと言いながら同席してた、そして聞きつけた叔母が(あの叔母です)かけつけて
「フンフン、なかなか器量よしの高校生なんでね~が?」と、面食いオナゴ達は燥いだ時もあったほど、
世間知らずのエリアの片隅で過ごしてた3人は、塾(なかった)に行くわけじゃなし、偏差値で決められるような偏差値
という言葉さえなかった時代だもの、進路指導や担任と相談して「ここらへんなら先輩もいるしいいんでね~が」と、
内申書がまだ存在してたから、それも一つの基準となって振り分けてたようだった、今思ったら呑気というほかはない
それでAもOもPも、第一志望校はダメで滑り止め校に決めた、O はもっと世間知らずで、初めて地元を離れ東京へ、初め
て進学塾に行き、その現実に打ちのめされた「入れる学校がな~い!」(笑)
A Pは第二志望で手を打って、仙台で過ごしてた、O は一浪して、やはり塾で振り分けられた学校へ、「一浪するまでじ
ゃなかった!」と笑った、最初から分かってたことだったけど本人と親御が W を目指してたなんて言葉もない(^^ゞ
それでも家を離れて下宿して、学生生活を楽しんでた、同じ学部じゃなかったけど、Pは幼馴のテンプルちゃんや、同じ
クラスになった、秋田のMちゃんや酒田のKちゃん、温泉宿の娘の A ちゃん達と過ごすようになって、それなりに充実
してたと今でも思う、講義も休まずに出席して出来栄えはよかったので、どちらの親御も喜んでた、その頃まではね~
そして松島でのボート・アクシデント、強風だったのに、指導員がGOサインを出したので乗ったら波が🌊大揺れとなり
なかなか岸へたどり着けなくなって慌てたのなんの、それでボートの相乗りしていい感じだった A はあまりの慌てぶりで
酒田の K ちゃんにふられ、A ちゃんは先輩の対応が素敵だったからか恋路へ、そして結婚、この違いは大きいよね、と、
今でも A はからかわれる始末、Pとテンプルちゃんは男手など当てにしてなかったので、二人の沈着なる判断で無事岸へ
二年ともなればそれぞれに交友関係も広がって、また違う高校からの友達もでき始めた、ふられた A は別なオナゴを探し
今度は仙台のオナゴだったのであか抜けてるべ~自慢し乍ら私らに紹介した、
テンプルちゃんとPは「またふられるべ」(´∀`*)ウフフ そして「またふられた~」と A から知らされた、まあね、
Pは二年生の初めの歓迎コンパで、「こんにちは、〇〇〇からきた T です~」と自己紹介されたから「学部はどちら?」
と訊いた、Main Deutsche を小脇に抱えた気障な後輩に、今でいえばナンパされたんだよね(笑)
二年の時は単位さえ落とさなきゃ何をしててもいい、自由な限られた時間だったから、一年後輩もまだ専門の単位取得に
至ってなかったから、きわめて自由な時間はあったわけよ、
それで、その年の夏休みに T はPを連れて自宅に帰省する、Pの家の途中に T の家があったから寄った、その母も茶屋業
で、その父は地元の◎所勤めだったから、たまたま家にいて茶飲みとなった、
また同じように「お父さんの仕事は~?」に始まった、ここでもかい?と思って「○○所に勤めてて、今は単身赴任です」
「地元は◇◇ですかぁ?」と訊かれたので、「はいーーー◇◇の農家の長男です、農業はしてませんけども」と応えた、
「大正何年です~生まれは?」とかなり詳細でしたので「大正4年で、地元で旧制中学まで」と言ったら、その父は「?」
怪訝な表情で「○○さんという名字の下の名前は?」と突っ込んでくるから「Y です~」と応えたら、なんと旧制中学で
同級生だったことが分かって、安堵の胸を撫で下ろしたらしい、そんなに気になるもんですかね?
こっちはこっちで家の中で茶を飲みながら「お宅のご商売は何ですか~?」と母が直球を投げた(笑)
「おとうさんはご商売を?」と母が訊くと「父親は◎所に勤めてます」と聞けば安心したらしく、茶菓子を追加して、
「お住いの〇〇〇は茂吉の故郷で有名で、あの川辺に座って眺めてた景色が近くにあるなんていいですねや~」T は
キョトンとしながらも「茂吉は地元では有名です~看板もあるくらいですから」と応じてた(´∀`*)ウフフ
Pは思ったね~地元でぉひとを選ぶときには、親族知人に紹介して、若い者だけじゃなくて大人の感想も気に留めれば
間違いはないんだって、知ってたはずなのに P はジモッティーから離れてしまったのが運の尽きだった、
A O P もなんとか卒業にこぎつけて社会人になった、A は仙台で、O は東京で、P は地元で仕事をしてた、そして年頃に
なったから紆余曲折を経て3人共それぞれ結婚して、A は仙台にそのまま、O は東京から嫁を貰い、P は東京へ嫁にいった
無事に家庭をもって子を得て、忙しくて大変な時期を過ぎて、結婚の難儀さとオトコとオナゴの心のすれ違いを知った、
みたいだった、のちの同学年会での話はそれ風の話でもちきりで、やはりね、
40歳の時に同学年会を地元で開催するとの知らせがあって、A O P は久しぶりに再会した、処は地元で大人数の参加、
そこで同級生の一人が◎会議員に立候補する旨を発表して、その応援に皆で協力しましょうということで再びあの高校生
だったA O Pも燃えた、見事一位当選をして、同学年会は定例会と称し2年に一回は集ってた、
善人だった◎会議員になった同級生は順調に役職にも就いて、家柄もエリアでは通っていたからそのままやがて◎長選だ
と同級生は期待してた、のにぉ坊ちゃま気質が仇になった(とひとは言ってた)保証人になってしまって多額の¥を払った
それで傾くようなお家ではなかったけど、同級生は傷つき人間不信に陥って同学年会には一度も顔を見せず、家業に専念
するようになった、卒業生名簿にも名は出したがらず、ひっそりと暮らしてた、
それでも子や妻の存在に次第に元気は取り戻していった、律儀なひとで 40 からは年賀状を欠かしたことなく、私に添える
言葉は「毎月の新聞の 57577 を楽しみにしてます、ぜひ続けてください、そして介護ごくろうさん!、いつか再会を」
嬉しいわね~
そしてそれぞれの人生が始まって思いがけないような出来事にも、各家庭に起こる様々な出来事は何処にでもあるような
事で一気に 60 代前後に話を飛ばす、だってその頃からのそれぞれの人生は予想外のことが多くて、ま、それこそドラマ、
O は東京からもらってきた嫁が、その子らが大学生になったのを機に東京に帰った、そして離婚して時には会っていた
住んでた家は元妻に名義を変えて慰謝料の代わりにした、
けれど O が発症して病院を転々としたり、実家で養生したりしてたけど、その時には独居で、傍にいる家族もいなかった
ありがちなことだけど他のオナゴが面倒を看るようになり、東京住まいの元妻や子らは足が遠のいた、そりゃ当然です、
近くにいて、やがてそのオナゴと、同居し二人暮らしになってしまったのだから、
そして同学年会は自然に散会したので、私らも会う機会はまったくなくなって、風の便りと年賀状だけが行き来してた、
A は別居した、仕事が忙しくて家に帰る暇がないと言って、仕事先の借り上げマンションに住むようになり、妻や子とは
疎遠の一途、これも仕方がないね、本人は仕事が忙しいといったって、近距離に居ながら帰れないとは話にはならない、
よくある話で、A 本人の言によれば家族に疎まれたからだと、
疎まれるからには理由があるだろうに、そこを素通りしちゃう根性がイケない(苦笑)
P が言うのもなんだけど、「オトコって言い訳が多すぎるからオナゴはフン!って言いたくなるんじゃないの?」
「大事なことを決められず、決めずに人任せ、結果を気に入りゃなあなあで、気に入らなきゃグチグチ文句を言うしね」
A は「なるほどなぁ、P も大人になったもんだ、説教できるようになったもんね」などとイヤミを言ってたけど頷いてた
P は独居の親のため介護というキャッチフレーズつきで地元へ、最初は東京と地元を行ったり来たり、そして 58 で元職の
非常勤とし毎日指定された時間だけ仕事した、久々の社会人としての日々に「やっぱ専業主婦はちょっと??だったね」
オシャレして職場に行き、それなりに一員としての会合にも参加して楽しんで、あの日々がなかったら今はもっと腑抜け
かしら(笑)
引き止められるうちが華としってたので 60 で辞めて介護に専念、その介護の顛末も、折角書いたのに削除したのでその内
思い出しながら書き留めたい、これからもっと介護が複雑になってくるのは必至だから、なにかの足しになるかもと、
こうして A O P はそれぞれ 70 代に向かって過ごしてた、と思う、会う機会もなかったので、
さすがに同級生の悲しい出来事を一面に書けないから前ページにすることにした、何年も会わないでいるうちに事情が変
わり A O P の日々は予想外の展開となってゆき 70 代の過酷な現実を目の当たりにした、
A のぉ連れさんが病を得て臥すようになり、その娘たちが近くに嫁してたので、その母の看病の心配はなかったものの、
ぉ連れさんは A の看護は受けたくないと娘たちに言った、それを阻害されたと A は感じたらしいけれども、それまでの
言動の結果だもの、甘受するしかあるまいと、
その療養の間にその娘たちに、それまでのAの言動を臥すその母が話すようになってしまったのを、娘たちは否めなかっ
た、思いを残してはその母の心は晴れまいと判断したその娘たちは一切を A には話さなかった、
そして緻密な遺言をし A のぉ連れさんは静かに逝った、その娘たちは母の思いに添って家族だけでおくることにした、
友人知人にも知らせないで、1年を過ぎて「実は3回忌を」と知らせを受けて、その時にはもうコロナ禍で集う事さえも、
出来ずにお送りするものをそれぞれが送った次第となった、
近くに娘夫婦が済んでるとはいえ、事ここに至るまでに A の行状は、本人は「一生懸命仕事をして家に帰る暇もない」
とか何とか言ってたけど、よくある単身暮らしのオトコの勝手で、もちろん時間に不規則な対応も求められてたようだ
けど、いやいや聞けば自由な楽しい日々だったらしいよ、風の便りって案外真髄を突くからね、風はお見通しだったのよ、
それをその娘や妻が気づかないわけはなかったんだもの、
P の母の逝去については年齢のことを思えば「お疲れさまでした」と皆で花の葬送を出来たのだから、A O は遠隔地だっ
たので、お悔やみや花は送って、その気持ちを有難いと思ったと遺族は言った、
コロナ直前だったけれど、通常の思い描いてた祭壇を飾れて、別れの”謡” も、弔辞もなされて、その初孫のしっとりと
した中にも少しユーモアを加味した思い出話などゆとりのある式次第だった、葬儀をいい葬儀だなどと表現するのもどう
かと思わないでもないけど、心のこもった優しい時間だったので、こちらは悔いはないと思える、
O が 病に倒れ闘病をくり返し、病院も転々として、別れた元家族とも後半には会えずじまいで、家で の療養の希望も
叶わぬままに、看護してくれた別なオナゴの計らいで病室とする居住宅を見つけて、そこで療養はしてたらしい、
同級生も見舞いに行くのも遠慮して、誰も会わずに風の便りだけを耳にしてた、
O の元妻子は在京だったし、O の暮らし方を思えばこころのままに看護もできず、かといって気にならない存在ではない
嫁にきて異文化のなかで、その姑たちと同居して、想像を超えた価値観の違いや、言葉が通じない日々、やがてO 親子は
家を建て姑たちと距離を置くようになったら、今度は O の外でのぉ遊びが始まって、知らなかった土地で子育ての孤独感
は想像に難くない、
家族から逃げてた O の気持ちは「嫁が毎日、不満を募らせ、やがて会話がなくなり、子らはそういう家庭に心を閉ざし
子らが 18 になって進学する時には、やはりここの地元で暮らすのはイヤだ!と嫁が言ったから、話し合いの上別れた」
そして子を連れて O の嫁は実家に帰ろうとしたけど、実家にはその家の兄である長男が家業を継いで、その嫁や子も、
爺婆さんと住んでたので帰られずに、取り合えず近くの仮住まいを始めることとなった、
以前にも書いたけど、その後 O は4人の姉たちとも疎遠になった、長男なのに文房具屋も他人任せで、仕事もしないで、
その両親が亡くなった時も他人任せで、墓も仏壇も守れず、嫁にいった長姉の所に頼んでた、
姉たちも看護しようにも別のオナゴが仕切ってるので、お願いして経過を度ごとに聞くしか手はなかったらしい、あんな
に楽し気に過ごしてたのにと思うと、同級生たちも言葉がなかった、
しかしなぁ、よそ様の夫婦の話を聞いてても思うことだけど、なんで家から離れてぉ遊びや、仕事と称して家に帰らない
でいられるんだろうね~オトコって、オナゴとの本質的な違いだろうとしか思えない、そしてオナゴは独りでも子らを育て
て家事をする、だから文句も言わないで家で楽してるんだし、任せておけばいいやとでも思ってたんだろうね、オトコは、
アホか(笑)
一日たりとも休まずに静かに淡々と子らが育ちあがるのを待つ、これは産んだからそうするというのではなく、
子が可愛いからなんだよね、これが血肉を分けた親子ということで、オトコには一部、分からないかもしれない謎かもね
だから子育てに協力をといえば外で働いて¥を入れてるんだから十分な子育てをしてるという(笑)
話は飛ぶけど、この件では忘れられない昔のママ友とその夫のやり取りがある、
私の古いママ友(今風に言うならね、秋田出身のご夫婦で、職人さん堅気の生真面目なご主人で「私から思えば文句もない
でしょ?」と言ったら「とんでもない!俺様が仕事してるからアンタは生きてられるんだし、子供だって育つんでしょと
その夫さんが言っちゃったもんだから友は憤怒した、「ここに座ってください」初めての交渉に入った(^^ゞ
「あなたはそう仰いますけど子らは”紙幣”を食べて大きくなるんじゃないでしょう?買い物をして料理して食べさせて後片
づけして、洗濯して風呂入れて洗ってあげて寝せてと、労働をしてるから子らは育つんじゃないんですか?」(向き合って
の正座なんて見合いの時だけだったよ~と笑った、)「ならば私(その妻)が働いて外で頑張るから、アンタは家で家事を
怠りなくしてくださいね、酒の肴も自分で作ってね」と啖呵を切った、幼い子らは言った「えーお父さんが家にいるの?」
まあその夫さんもそれ以来は懲りた、と思ったけど、何回か繰り返していた、
その秋田のYちゃんは料理上手で、よく子育てにアタフタしてた私の所におかずをもってきてくれた、
その後夫婦は私たちより数年先輩だったので、いつも私らに気遣ってくれて、優しくしてくれて言葉もない、私らもできる
限りの御返しをしながら最後までお付き合いをしてくださった、
04/04
京王線の高架鉄道沿いの桜、この木の姿と枝ぶりがいいわ!と思って撮った、太陽が眩しくて散歩日和だった、桜の木を
維持するのは大変だろうなあと見上げながら感じた、桜の木って全景をみると、幹ががっしりとしてて、枝を自由に遊ば
せてるように見える成り立ちがいいのだったんだ、なびいてるように見える、仕舞い桜にふさわしい姿で惚れ惚れしたの
70 代のモヤモヤがないぉ方がいらっしゃるのかなぁと思ってしまう、コロナ以降の日々が 、なにも、私の時に、ここぞと
ばかりに、選りにもよって、私の貴重な 70 代を直撃しなくてもよかろうに、愚痴っぽいわね、
少しづつは気分も上がってきてはいるけど、習慣というのは恐ろしいもんで籠り癖がついちゃった、なかなかスッキリ!!!
とはゆかないもんだわね、年を取れば順応性がダウンするということもありましょうけれど、こんな日々は(´・д・`)ヤダ
今までなら恰好つける体力気力もあったから、イケイケの日々だった、ほんとにあれが私だったのか?と今は振り返る
ありさま、分からないもんですね、
世の中のせいにしてみたって、誰のせいにしてみたって、現実は目の前にあるわけだから、私も考えた、娘が言うように
息子が言うように「為すがままでいいじゃない~のさ、何をいまさら若ぶって!もう 77 と言えば立派な高齢者なんだか
ら、緊張して過ごすことなんてないじゃないの?誰もあなただけを見てるわけじゃない、自意識過剰 も大概にしないと
疲れるだけだよ~」子らも大人になったもんだ、感慨深い、子育ての努力は報われた、
折角のぉ言葉に「そだよね~~~わかった」一応は明るい声で応えておいた、オナゴは女優よ (´∀`*)ウフフ
04/04
青空にハナミズキの枝が広がって私が思い描いてたシーンが、いいですね~やはり散歩は大切なことだと実感した、
とても疲れてて食欲もなく動きたくもなかった、日常のことは熟してはいましたけど、そういう時っていいことなんて
考えられず、テレビを観てもつまらなくて、ただPCを眺めてただけ、飲み物しか要らない状態で、これじゃあイケないと
思いつつも、P ちゃんもこれで仕舞いか(笑)
などと言いながら復活しちゃった P は転んでもただじゃあ起きない、ということで誕生月なので〖子〗も同じくなので
居合わせたので急きょ”祝1回目・誕生会”とした、献立は買ってきて間に合わせた👇の記事の弁当と同じ欄ということで
買い物をしに行くのに〖子〗の車に乗せてもらって、あちこち回って取り揃えただけ、
それより〖子〗との会話が可笑しかった、「あーーあ明るいうちの酒は効く(この漢字でいいのかしら?)よね~今日の
誕生日の🍹は殊更だよ~」と私が言った、ら、「毎日が誕生日のようなもんじゃないのさ」と〖子〗が返した、
78寸前の母親とつき合ってくれる47直後の息子は、しかし面倒くさいだろうなぁと思わないでもないけど、
「でもさ、こんな横柄な私でも感謝してるよ、老いた両親と同じ空間で食事の時間を過ごしてくれるなんて」と殊勝な私
「ハハハハ~酒が旨けりゃいいじゃん、それに肴もね」とさり気ない気遣いをしたと、私が感じた〖子〗の言葉、
だから勤めの朝が早いからほぼ2時間ほどで切り上げることは鉄則としてる、
独身貴族は多いと聞くけど、どう思ってるんだろう「親や姉ちゃんや弟を見てると大変そうでちょっと気が向かない」と
「老い親を抱えて大変でしょうと会社の人に言われない?」と言ったら「抱えてはいない、自立してるじゃん!」だって
今のところはね、
まあ若く見えるし親の私が言うのもなんだけどイケてる方だし、自力で何とかしてくれるかしら(´∀`*)ウフフ
04/04
近くのコンビニに飲み物を買いに出たらハナミズキの思いもかけないいい色を見つけちゃった!このあたりは街道筋に
街路樹として等間隔に植えられてて歩くたびに楽しませてくれる、
ハナミズキの花びらと見える色のいい部分は”総苞弁”で”萼”と呼ばれ、苞の中心にある花芯が花だそうで今は蕾です、
楽しみよね~
楽しみよね~といえば母の介護で 70 代のほとんどは過ぎてて、あの亡母の輝いてた 70 代、80 代を思い描いてた私には
「え?これが 私の70 代の総決算?」って、誰かに突っかかりたくなるような日々だった、もっと楽しい日々が繰り広げら
れる予定だった、同級生ともそう言い合いながら、それぞれの現実に真面目に向き合っていた、
介護は使命感で、娘のひとりとして誰かが行う事だったから、長女の私で順当でしょう、悔いない日々だったと思える、
「出来るだけのことをしたんだから悔いないでしょ?」言われて「そりゃそうよ、しないで終わってたら悔い倒れ-笑-
不謹慎だけど3回忌も無事終えたし笑っても罰は当たらないでしょう、なにしろ享年 101 だった母だもの、許容してもらえ
るでしょうか」という気分でいられるし、
それ以外ではコロナ禍、これは今更どうこういったって5回の接種を全うし、り患しないで済んだから、そのロスタイム
を取り戻そうとしたって詮無いことだから、私には避けられなかった経験ですと言うに留めておきましょう、これも立場
によっては「軽々にものを言うんじゃない!」とお叱りもありましょう、
そして 私が75 歳で母とサヨナラしてから 10 か月は北国で独居、その後1年7か月余り、その間の日々は都下で過ごし
てました、コロナ禍で北国に帰る時期を逸して現在に至るというわけですけど、やはり独居は大変だなあと今更ながら、
私が年を重ねたからかしら?それとも親しい同級生が相次いであちらへ逝ってしまったこともあるかしら?
「空き家じゃ近所に迷惑かけるんじゃないの?」またしてもオトコが私に追い打ちかける、一体どういうつもりでセリフ
を言ってるのかね(笑)
そんなことは今となっては気にも留めない図太い神経を持ち合わせた私だから「言ってろ~」(ぉ下品で申し訳ない)と
思うだけだよ、私にはいざという時には行先はあるのでね(´∀`*)ウフフ
そんなこんなで、まるでこの世の終わりのような日々だったけど、今朝、突如、なんだかアホらしくなってきた、
(まずは洗濯、雨模様なのでおうち干し用の洗剤と柔軟剤使用、洗濯機の中での乾燥は子が苦手というから今は外干し)
(そして朝風呂を楽しみ、中でパックとカラートリートメント、趣味用の月刊誌を読み落ち込んでた打率にもㇷーーン)
(今までの重苦しかった空気を洗い流し-笑-新しい日々を迎えるぞ!の意気込みを得た次第)
誰だってこの歳になったら落ち込みはあるでしょう、でもトコトン落ち込まないと私は復活できない性分なので、この術
しかないのだから、今まで通りに”お日柄もの” で取り返した処です、ㇷ-----長かったわ~
04/04
そして幼葉の優しい色合いも気に入りましたよ~ 気に入りましたといえば、母の家には気に入った品々がわんさかある
それはそこで暮らしたり、その品々を磨いたり、分かりにくく言えば”愛でたり” 使い込んでいなきゃ分かるはずもない、
それにその方面に興味がなかったら不用品には違いない、
でも私にはそうは思いきれない数々のシーンや品々が母の家にきた経緯があって、それは親族だったり、母の知己だった
り、あるいは私の友だったりしたのだから、説明したってわかんないやね、連れにはね(´∀`*)ウフフ
「あの時に処分してから来ればよかったんだよ」とさらに追い打ちをかける連れ、あの時はちょっとこっちで気分転換し
て、また北国に帰って品々に向かうつもりだったのだよ とは言わず同意もしなかった、いやーーーここまで私の心の内に
土足で入り込む無粋なオトコ(ここからのオトコは私の連れに限定、連れというと少し愛着がるような意味合いで、私の
本意じゃない-笑-)だったんだねと改めて遠くにいるような気分だった、
そして強く思った、あの時に大断捨離しなくてよかったわ、そりゃ年寄りの(私です、私)有相無相の品々が家中に、
あったら、残された家族は迷惑千万でしょよ、だって思い出も愛着もない不用品なんだもの、私にとてそれ位は分かり
ますからね、でも今の私の、この言い知れぬ虚無感は、そこを埋める”作業” が出来ないということなの、それは時間と
いってもいいけど、あの時じゃなかったことだけは確かだわ、自分で取捨選択できるうちは大断捨離まではすすまなくて
いいと、捨てるのはいつだって、どんな方法だって今の世の中ありますもん、それで正解だった!私にとってという結論
にやっとたどり着きました、迷ってたら不用品なんて簡単に決めないで、迷う時間をかけたらいいのよ、
「両方を維持してゆくのは大変だろ」とぉ他人様さえ言ってくれるというに、「協力しようか」とか「出来ることがあっ
たら言ってよ」とかのセリフは山のようにあるだろうに、でも、もう、そういうことさえ私からは口にはしたくないなぁ
だって自力で決めた方が悔いがないし、ここまで引きずったのに何ら善後策も打ち出さないんだしね (´∀`*)ウフフ
私はこうして”もの” にとりつかれてたけど(笑)
考え方を変えたら軽―――――くなりましたから、もしや逡巡してるぉ方がおられたら、その時は必ずやってくるから、
慌てなくても宜しいわよ~品々には品々の存在の意味があるのだよね、生きてるひとにとっての、それはそれぞれの感性
で決めればいいことだとしみじみ思った、
04/04
そして水やりだけはしなくちゃ!とチューリップに向かったら、同じような色合いで咲いてるじゃありませんの?
それで気分が宜しくなってきたウソのようなホンとの話!花の色ってすごいわね~この色、好きよ、
それにしてもいい色だわ~球根を生かそう! こればかりはすぐにはドライにす気にはならなかった、
ずっとモヤついてたのは母の家にある色々なもの、片づけないでそのままにしてあるからアタマの片隅どころかいっぱい
を占めてるといった方がいいくらい、
【D】「専門家に頼めばチャチャっと片づけてくれるから頼んだ方がいい」素っ気なく言った、
つけ加えて「あんなにいっぱいの品はここの家には入りきれないよ」私の心が冷えた、
〖子〗「上の納戸に運んでもらえばいいよ、それから徐々に選別すればいいんだから」と言葉を選んで言った、
〖子〗は一緒に過ごしてる長男、やっぱ私が育てただけのことはある(´∀`*)ウフフ
いくら夫婦でも言葉は選べ~そこから私の気分はダダ下がり、愛着のある器が多いから考えるんじゃ!とは言わず退いた
子の前でアホな夫婦の会話はやめたから、もちろん連れへの皮肉です、やはり器が違うね(笑)
04/04
色違いのハナミズキも綺麗に咲きそうよ、信号機はちょっと写りこんでていい按配に都会的だわ、
都会的だわと言えば、あの”○○っぽ” と言われる処から出てきたオトコ(この場合もオトコは限定ですよ~)は根っからの
”○○”っぽ精神そのもののように、今となっては解釈するしかない、”○○”っぽ精神が全ての方々に当てはまるというわけ
じゃないし、否定してるのでもありませんし、私らのエリアの控え目精神がいいと言ってるのでもありません、あ!悪い
とは言ってないよ(´∀`*)ウフフ むしろ、どちらかというと主張できるパワフルな成り立ちは羨ましくも思えます、
名立たる武士でもあるまいに時代錯誤も甚だしい、オトコの場合は一般ピープルなんだし、世を背負って立ってるワケ
じゃないんだし、そんなにふんぞり返るとひっくり返るような年になってまで偉ぶりたいもんかね?
理屈っぽい・怒りっぽい・骨っぽいと聞こえは悪いけど、解釈しようによっては、理屈が上手ならアタマの回転も良い
んだろうし、感性が鋭いと捉えられもするし、一本木で律儀な性分といえなくもないからね、
ヤルじゃないお主!の可能性も無きにしも非ずと思ってはいたけど、私はすべったと読んだね、控え目な精神を頂いた
私とは真逆のぉ他人だった(笑)
04/04
このハナミズキの色も愛らしいじゃあありませんか?
前に予定してた 10 とは全く違った 10 になっちゃいましたけど、やはりその時の気分を詠むっきゃないから、
◎ポピー咲く ◎「老い親と
◎鉄幹は ◎友笑う
◎77歳 ◎花咲かせ
◎花水木 ◎美しい
◎北国と ◎言わせない
迷うことなくポストにポトン!まあね、ちょっと調子が出ないのが結果に出ててへこみはしてるけど、めげずに出すのよ
またまた5割の低空飛行で、表現が拙いのでということだろうと、さっぱりと諦めて次回への期待に気分を変えた、
◎せっかくの ◎濠の面に ◎はとバスに ◎源氏物語 ◎大袈裟に
今までならきっと「そうなんだぁ」とむくれて行く先を探すところだけど、もうそれはしないのよ、だって分かったのさ
せめてセレクターさんに伝わらなきゃ話にならないとね、趣味も勝負です、闘志がわいてきた (´∀`*)ウフフ
老後のリアル
さて大正オナゴと大正オトコの老後が始まった、退官したオトコは転勤族から解放され、自分の実家の地所に、その辺り
の農家の家並からは考えられない”小さな白い家”を建てた、地べたは果てしなく広がってるから使い放題だし、好きな花
を植え日がな一日を、タバコをふかしながら遊び、昼にはオナゴが作る朝食を食べて、それを肴に日本酒を嗜み、午後は
近所のお茶屋(農家ながら片手間に日本茶を売ることにした婆様の家、家族は息子夫婦と孫、オトコには遠縁にあたる)
で茶を濁しながら(笑)
悠々自適とはこのことで夢にみたままの理想的な、穏やかな日々が続くと思われていた、着流しで田んぼのあたりを散歩
しながら、朝から晩まで農作業に勤しんでる農家の人たちの羨望の的となり、この人生も悪くはないなあと思い始めた、
大正オナゴもそれなりに充実の日々で、田んぼはぉひと(オトコの実家の甥)に任せてるんだし、畑は自分の実家も農家
見よう見まねで十分な収穫を得て、新鮮野菜には事欠かず、実家のお山から採集してきた山野草などを植えて楽しんでた
その時大正オナゴは、まだ 50 代で若かったし、一度、奉行で「臨時」で働いた日々が忘れられずにいた処、またまた仕事
が舞い込んで、子らは一人は他地で学校だし、下の二人は地元で学校だし、迷うことなく相談もなしにOK!を出した、
大正オトコは独り家で過ごすことになったわけだからむくれた(笑)
大正オナゴは、転勤族でオトコに貸しを、あの大事な仕事を中途で退職させられた怨念もあって、更には朝から晩まで
オトコの食事から世話までとなると、そして同じ空間で、まあ 24 時間ご一緒となっちゃったら、今までの自由が殊更
惜しくてならぬ(笑)
そこでオナゴは「臨時」を始めた、オトコは置き去りにされたような気分、大袈裟よね、幼児じゃあるまいし、気儘で
いいじゃないかと思えばいいものを、それがなかなか思えないのが大正オトコの弱さだった、
初めのうちはその姉(本家・農家の後継者、婿取り)が面倒をみてたけど、自分の家もあることだから両立はなかなか
難儀だとなって足が遠のいた、
それになんで別家の嫁がしゃらしゃらと(そういう表現だった)勤めに行って、本家の嫁が手伝わなきゃならないんだ!
そういうオナゴ特有の嫉妬心もあり、うまくゆかなくなった、
「臨時」を始めると、大正オナゴが生き生きとして家を出てゆく様子にオトコは腹が立ってきたのでしょうね「辞めろ」
「辞めない」で揉め始めて、あの楽しみにしてた老後の日々は台無しになった、またもオナゴはオトコの勝手な言い草で
こころを踏みにじられた事になったんだね~
せっかく築き上げた”小さな白い家” にも暗雲が立ち込めた、オナゴは思った、今までだってオトコの決めごとに従って
自分を宥めながら、家事育児、家の渉外から経済までを切り回し、一生懸命やってきたというのに、まだオトコの勝手に
振り回されなきゃならないなら、夫婦でいなくてもいいんじゃないか?頂くものを頂いてさっさと自立しちゃいたい!
切にそう思うようになってることにも気づかず、大正オトコは呑気にタバコをくゆらしながら「臨時」を辞めたオナゴ
を、性懲りもなく”お手伝いさん”のように扱い始めた、
大正オトコの思いのままに日が過ぎて、大正オナゴは趣味に走った(笑)
その当時 57577 ブームで、俵万智ちゃんが教師をしてた高校が、オナゴの娘の居住地にあった縁も感じてファンになった
オナゴは疾うに60 過ぎで、でもミーハー気分は十分にもってて、あの若かった万智ちゃんの『サラダ記念日』をこよなく
愛してた、理解できてたということはオナゴには感性もあったということで、
そして万智ちゃんが仙台に移住したことも、自分で勝手に縁と決め、更には、その生き方が自由闊達で惹かれたらしい、
60 代と言えば、今思えば殊更だけど若いもんね~そして家にはいつもオトコがオトコ風ふかしてるから、ここは一つ
気晴らしをしようと思ったか、同じような年代の主婦が集っての 57577 会は盛況で、
地方紙はもとより全国紙にも欄が設けられ、素人歌人は増えに増えていった、歌会は月2で公民館で開催され、大きな会
から分派したエリア会が行われてた、
農村だもの、その時には働いてるひとが多い中を、和服で連れだって出かけるオナゴ達を、どのような言葉で評してたか
わかるというもの、でも、趣味に没頭してるわけだから、その人たちの雑言は気にしてる余裕もない、それがよかったん
だよね~オナゴは合間には、畑も熟して野良着を着て作業をしてれば、その時ぐらいは近所の人も立ち話や、土手に座り
込んで話し込む事も増えてきた、昔取った杵柄といおうか、オナゴのもってる性分や、控え目な言動がひとの心を無暗に
刺激しないという特質の賜物かな?
オトコはといえばオナゴに誘われて 57577 に参加すればよかったものを、本読みは好きなのに、その方面の閃きやボキャ
不足で、何だか知らねど置いてけぼりを食ってた(´∀`*)ウフフ
そして心に何かが引っかかりながらも、やっと手にした趣味の喜びで紛れてゆく自分に「まあいいか~」と思ったのか、
オトコが次第に諦観に至ったのか、諍いすることも減ってきた、
そういう時が来るのね~信じられない、あれほどツンケンしてたというのに、何かがそうしてくれる日がくるんだという
実感をひしひしと感じられたオナゴは、今まで通り、家のことはきちんと仕上げ、食事のしたくも怠らず、自分で育てた
野菜を工夫してオトコに出してた、
夫婦の在り方なんて、あればあっただけの状況があって、それに向かう人も考え方が違ったり、価値観が違ったり、年齢
にもよるし、子らの選択もあったり、親族の意向もあったりで簡単には決められないと思う、
04/08
なんていい色のビオラなんでしょうか、時にこのように思いがけない優しい色合いで咲くんですよ、花の色は見る方の
心模様が反映したりして、
日テレ 1993 嘘つきは夫婦のはじまり 水10 清水由紀 いとう斗士八・脚本 you tube
日テレ
夫婦をまるで目の敵にでもしてるような流れになってきたけど(笑)
そんなんじゃあありませんよ、そういう経緯があってこそ美しく穏やかな夫婦になってゆくのですよという指針を得る為
敢えて難解な、ドキッとするような物語を見て、どこも似たり寄ったりね~と得心して現実に向かおうというわけですよ
果歩さん役の夫が亡くなって7年が経って、子を二人連れて婚家を出てマンションの手付け400万¥を打って引っ越した、
婚約した佐藤栄作さん役は、同じマンションに婚約者と住もうと、親から400万¥を借りて手付けを打った、そして荷物を
運びこもうとして初めて2人は不動産詐欺に引っかかったことを知った、
先に登記した方が所有者になれると知ってからの攻防戦や、果歩さん役は元姑に、仕事先の上司にウソを重ね、栄作さん
役は婚約者や親に「仏壇やを継ぐから」などと出まかせを言ってウソを重ね、追い詰められて必死な喧嘩が可笑しくて、
同じマンションの部屋に暫くは住まなきゃならなくなって起こるいざこざが山のように起きてきて、
家主の独居のおばあさんを取り巻いて、あるいは果歩さん役の元姑・加藤治子さん役の手厳しいセリフ、深刻なようだ、
けど人情編で昭和ですね~という感じのドラマは最近観てないので、ひまをみては笑いたい、