< 昭和30年代 >
今でこそ、母親が子供を保育園に預けて勤めに行き、帰りには子供と共に帰宅。という生活は珍しいものではありません。
これが60年ほど前には珍しかった。当時は「サザエさん」のような家族が大半を占めており、私の家族は周囲からは好奇の眼差しで見られたようです。終戦直後だと、戦死した方の配偶者がまだ多くいて、さほど目立たなかった。
さて、生家を畳んで街に来たはいいが、農業しか知らないのでまず仕事探しに苦労した。今のようなパートとかアルバイトなどありません。まして、未就学の子供がいるので断られる方が多い。
勤めをいくつか転々としたその中の一つに「納豆売り」があった。最初は「なっと、なっとー」と言えなくて苦労したが、次第に固定客がついてきた。
線路の踏み切り番もその一つ。別のお客さんにはその後数十年して引っ越し先で偶然行き合ったりした事も。
いくつか職を変えた後、職安で材木屋の仕事を紹介してもらい、結構長い事勤めていました。私が20代前半位まで勤めていたので大体20年程でしょうか。私が家を初めて建てた頃までです。
そういう母親を見ていたので、なんとしても義務教育が最終学歴にならないようにしようと心に決めていました。