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在宅療養生活で見たこと、思ったこと、を伝えます。

回顧録 25

2015年12月11日 | 回顧録
当初、私は気付かなかったのですが、妻は30代の時に自分の体の異変に気付きました。


そこで妻は私には内緒で医師の診察を受けたところガンであることが確定しました。本人もびっくりしたのでしょう。私にショックを与えないようにしばらくの間病状を伏せていたのです。


ガンとしてのステージは切除を必要とする進んだ段階でした。手術が成功しても5年の間に再発がなければ寛解であろうという当時の主治医の見立てでした。


後日、妻から一連の事を聞いた私は目の前が真っ暗になり動揺し、その日以降、手術の成功と再発がないことに望みを置く暗い日々を送ることになったのです。反面、妻は至って健康そうに、健気に振る舞っていたので次第に重要な状態ではないのだろうと思うようになっていきました。


それでも私としては隠居生活している母・小学生・未就学の子供達を抱えて万一の場合どのように生活していけば良いのか、日々頭の中がいっぱいの状態で暗澹たる日々がスタートしたのです。やっと掴んだ幸せの絶頂にいたと思ったのが、いきなり奈落の底に落とされ、はっきり言って嘗てない程のショックでした。


この時期になって、またもや試練が来るとは自分の人生は一体どうなっているんだ? と誰かにぶちまけたい気持ちでしたが、生憎な事に誰もいません。


その後手術としては成功し、後は予後の管理になりましたが、医療費が嵩んでいったのは言うまでもありません。その時点ではまだ生命保険の家族特約で収まっていましたが。


やがて手術から3年程経過し、一つの里程標を過ぎ、予後も安定し、これなら5年目までいけるかなという感じで、生命保険の更新時期になり経費削減の為だったと思いますが、安心して迂闊にも家族特約を外してしまいました。


そうしたら4年目位から妻の体にまたもや変化が生じ始めたのです。診察の結果は転移していました。この頃から入退院を繰り返すようになり、子供達の表情も冴えない暗いものになっていくのが手に取るようにわかりました。


子供達は学校・保育園のある週中は自宅で面倒を見て、週末は内孫のいない妻の実家で面倒を見てくれることになり、子供達の表情も心なしか明るくなったような気がしました。その頃の私の母親は自分の事で精一杯の状況でしたので、何とか今より悪くならないことを望むばかりでした。


この時は自分の背中に家族全員が、というより一気に100人位が被さってきた気持ちです。


私自身は妻の発病時の勤務先の給料では到底生活出来ない(治療費がかかる)のが明白でしたので、中途退職して往復50㎞かかる場所に所在する会社に転職しましたが転職先があるだけでも良かったと当時思いました。

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