子どもとうさぎとねこと音楽のある風景

息子いっちゃん(2006年3月生)と3匹のうさぎと3匹のねこのいる歌と琴が好きな主婦の記録

ぷっくちゃん、本当は5才の誕生日

2009年12月20日 | うさぎぷっく大切な日々

本当は今日、5才のはずでしたね。
目前に月へ旅立ちましたね。

この写真は奇跡とも言える、ぷっく昇天の雲です。
ちょうどぷっくを火葬してもらってるとき、空にかかってた雲です。

これはどう見ても、メスのうさぎです。
右上に長く横に伸びてるのが耳、左が顔、そして、そのお顔の下には肉垂というメスだけ首が毛でぽこっと出てるところが確かにありました。
足もぴょんと飛んでました。
そして、お顔もちょっと長めのミニレッキスです。

これはぷっくからの励ましのメッセージにちがいありません。
火葬場はつらい別れでした。
お骨をもらうまでの間、花屋さんへ行きました。
その駐車場で見たうさぎ雲です。

ぷっくみたいな小さな人形と、うさぎの形のビオラも買いました。
クリスマスのころに生まれたぷっくを思って、ポインセチアも買いました。

こうして記事を書こうとすると、やっぱりさびしいものです。
いつもは忙しい毎日で忘れているけど、こうして思い出すと悲しいですね。
でも、ぷっくのことを時々思いたい気もするのです。

ぷっくは私が出産で実家へ3か月ほど里帰りしてる間、大好きな抱っこを一度もしなかったと、最近夫が言っていました。
私は知りませんでした。
ぷっくは意地のある子でした。
怒っていたのです。

私が帰ってきて、抱っこは再開しました。
3匹の中でも一番抱っこが好きな子でした。
というか、外に出すと抱っこばっかりしてる子でした。

そして、やっぱり、息子いっちゃんのお姉ちゃんでした。
胎教として、妊婦のころから慣れさせるといいと先生に聞いていましたが、もうじき里帰り出産するというころ、お腹の上に乗せてみたら、お山のてっぺんに乗った瞬間、ペロッと舌を出して「やったー!」という顔をしました。
「私が上よ!」という顔でした。

うさぎは子どもによくない、病気になったらどうするんだ、と特に私の母に言われて、母とはしばらく音信を絶つほどでしたし、それはぷっくがてんかん持ちだったからなおのことでした。
てんかんが移ったらどうするんだ、という根拠のない攻撃でした。

私がブログを始めたのも、実のところ、こんなに妊婦で心配を負って、うさぎと共存できるのか、生まれる子どもを犠牲にするかもしれないのか、という不安を抱えて、無事五体満足で生まれ、一例としてうさぎと共存できることを示すためでした。

うさぎが安全という根拠もないし、病気をもたらすという根拠もなく、でも、生まれる子どもを守る義務もあり、かなり悩まされたものでした。

でも、ぷっくは子どもを病気にさせるどころか、2年間子どもを授からなかった我が家に子どもを連れてきてくれたのだとも思っていますし、病気持ちで過敏なところのあるうさぎだったのに、一番いっちゃんが近くに来るのを喜んだ子でもありました。

子宮の手術後は抱っこはさせてくれなかったけど、前はひざでコロンしてたのを床でよくやっていて、いっちゃんがいっしょに遊んでると、喜んでコロンを連発してました。
いっちゃんが「ぷっく、コロンして!」と言うと、言った通りにコロン!
いっちゃんもそれに合わせてコロンすると、またいっしょにコロン!
きっと子ども同士のような、姉弟のような感覚だったのだと思います。
私や夫が触ろうとすると「ブー!」と言って怒ることもあったけど、意外といっちゃんだと怒らなかったり・・・。

動物病院の先生にも「自分がお姉さんだ、っていう顔してるでしょ?」と言われましたが、本当にその通りでした。

身近な家族を失って、身近なうさぎを失って、亡くなってもいや、存在してるんだと確かに思う反面、いや、生きてる間がすべてだ、とも思います。

亡くなっても存在するのは、その人や動物が残してくれて、教えてくれた愛、やさしい気持ち、かけがえのない思いです。
そして、生きてる間がすべてというのも本当なのですよね。
今生きてるその人、その動物を大切に、今生きてるこの人生を大切に、そのことも教えてくれます。

ぷっくのことを思い出すのは悲しいけど、あたたかな愛も胸にじんわり感じます。

自分が生きてるメッセージって何だろう、と思います。
日本語教師の勉強をしてるとき、「タイトル」は結晶なのだと習いました。
長い長い文章があっても、最後にはひとつのタイトルに要約される。
きっと、ひとつの命も、長い人生を生きて、結晶となるメッセージというものがあるはずです。
簡単には口で言い表せないけれど。

本当は、家族も、離れていても、それを伝えられれば、伝え合えれば、愛を感じ、メッセージを受け取って生きる糧にできるのかもしれません。

大切な存在を亡くし、子どもを育て、していたら、そんな気がしてきます。

背中で語れるものがあるのか。
メッセージとして伝えられるものが自分の生き方にあるのか。

はっきり言って、来年は四十です!!!
それが私の課題です。

大河ドラマの兼続は5才で親と別れたとされています。
「今日からそなたは母の子ではありません。
この紅葉の葉のように、木の生命を育んで散るような、越後の子となるのです。」
そんな言葉とともに母と別れて・・・。

兼続の母は5才の我が子と別れようとも、若くして亡くなろうとも、母のメッセージをずっと送り続けられました。

12月に逝ったジョン・レノンを思って人々はジョンの作ったクリスマス・ソングを12月に歌います。

著名人だから、偉人だからメッセージが残せるわけではないと思います。
私も親として、人として、ひとつのメッセージが残せる生き方をしたいと思います。
それが四十代からの課題です。

かわいいぷっくちゃん。
もう亡くなる直前、病院へ連れて行くために、頼み込んで抱っこさせてもらいました。
でも、私はそのとき、うそをついてしまいました。

もしかしたら、もうこれが最後かもしれないとどこかで感じていました。
だから、もう、病院はいいから、抱っこだけ、させて!と頼みました。
ぷっくはもう抵抗できないほど、足がもつれていました。
私は、もう残り少ないぷっくの時間を楽に送らせてあげたい一心で、病院で点滴したいと思いました。
こっそり、キャリーをそばに置いて、抱っこしました。
動きたくないぷっくはキャリーへ逃げました。

もう本当は連れて行かずに、家で最期を迎えさせてあげればよかったかもしれません。
でも、キャリーへ入れられて、私にも欲が出てしまいました。
なんとか、病院へ連れて行けるかもしれない。

病院へはいかないよ、と言っておきながら、私はタクシーを呼んで乗せました。

5分も走らないうちに物音がして、ぷっくは私のひざの上のキャリーで事切れました。

悲しかったけど、私の本心は。
これ以上、ぷっくのつらそうなのを見ていられなかった・・・。
誰もいないところでぷっくが知らぬ間に息を引き取ることが一番の心配だったので、ほっとした・・・。
最期を見届けられた・・・。私のひざで・・・。
ほっとしたのでした。

医者に連れて行くということは、まだ勤務中の夫に許可をもらいました。
もし万が一のことがあるかもしれないから・・・。

もう長くないとわかってから、私はぷっくが楽に過ごせることだけ、考えました。
ブリーダーのさゆりさんに聞いて、お灸も取り寄せたところでした。
最期の日には、帰ってきてから、手をお湯で温めてなでなでもしてあげました。
お灸は届くのが間に合わず、亡くなってから、そっと体全体を温めてあげました。
最後に無理やりだけど、抱っこもできました。

苦しそうだったぷっく、息を引き取ってからは、ほんとうに笑ってるような安らかな顔をしていました。

・・・・・とりとめもないことをつらつら書きました。
書きたくないような、書いておきたいような、でも、ぷっくの大切な記憶です。
書いておきます・・・・・

お誕生日に、ぷっくの色のような黄色、オレンジ系のお花を買いました。
モーニング娘のダブルユーみたいに、ちっちゃくてかわいいアイドルみたいだったぷっく。
「辻ちゃんとぷっくちゃん!」なんて冗談でよく言ってました。

ぷっくがくれた愛は私の中でひとつの花となって、誰かを和ませるでしょう。
ぷっくが生まれた日。
ぷっくが命を授かり、私たちにもたらしてくれた大切なもの。
神様が授けた命。
感謝します。
ぷっくちゃん、誕生したこと、おめでとう!
いつまでもかわいいぷっく、永遠に。

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