タイでゴルフ友達になりましょ。

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日本も 「教師の日」 を 設けたらいいのにね …

2012年09月05日 | タイと日本の違い!
  
 日本では 子供のいじめによる自殺を 食い止められない教師の役割、生徒の先生に対する
リスペクト等 よく 論じられています。 ふと、思います ・・・ タイでは、どうなのかなぁ~ と ・・・

タイでは 先生と生徒の立場が、我々の幼少時代のように 尊敬する度合いなど同じように感じられます。 
これは 時代が変わっても、継続されていくように思いますネ。 それには 日本との違いで、日常的に
教育現場の隅々まで仏教を 活用しながらの一線を 画した教師と生徒の関係にあるからでしょうネ。

 

タイには、昔から年に二回 「教師の日」 という日があります。 1月16日の 「ワン・クルー」
(教師の日) は、全国的に大学以外は休日となり、教師に対する感謝と敬愛を 表す日でもあります。 

そして 6月中旬にある 「ワン・ワイ・クルー」 ですネ。 「ワイ」 は、タイ語で合掌・拝む・尊敬・敬愛の
意味ですが、式典は 幼稚園から高等教育機関までで行なわれます。 これも教育の一つですよネ。

 

 バンコク週報に この儀式の様子が報じられていました。 今年の6月8日のクロントイ・スラムにある
共同体小中学校での 「教師の日」 では、朝8時にタイ国歌が流れ、全校生徒が国旗掲揚して朝礼が
始まります。 そして 校長先生が壇上の仏壇に三拝して蝋燭に点火して全員での読経へと進みます。

壇上には教師が椅子にずらりと並んでおり、子供たちの代表が次々と教師に跪ついて、感謝と敬愛の
気持ちを込めて 花や線香、蝋燭を 教師に捧げます。 式典の最後には子供たち全員がコンクリートの

校庭の地面に手と頭を つけて教師に対する感謝と敬愛を 表現します。 全校生徒が地面に
頭を つける姿は 厳粛そのもののようですヨ。

  

タイでは、「教師の日」 にでも このような伝統的な形式と儀式に のっとって、教師や目上の人へ感謝と
敬愛が重要であることを 教育していきます。 先生に逆らう、なんて とんでもないことでしょうねぇ~

だからかも知れません。 会社の上司にでも目上の人にでも、「タイの人は、自分の意見を 言わない」 と
評されるのは … 「教師の日」 のような儀式で養われたタイの教育の伝統や教師への尊敬の念などが
背景にあって、「意見を 言わない」 ということになるのでしょうか。 タイ人に一度聞いてみたいな …

 

 また 一方、中間所得層のタイ人も増え、受験戦争も激化傾向で、幼児期から子供を 塾に通わせ、
家庭教師を つけるのが普通になりつつあります。 このような塾で、今 行なわれている教師に対する
尊敬の念などの指導を 小中学校と同レベルでできるか、タイ文部省では疑問視しているようですヨ。

 発展途上国から中進国の仲間入りを したタイ、農業国から工業国へ変貌しようとしているタイ、
先生と生徒の関係だけは、変化が起きてくれなければと、切に思いますねぇ~  


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1 コメント

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creativity (noga)
2012-09-16 10:07:37
現実の世界は過不足なく成り立っている。
非現実の世界は現実には存在しない。
しかし、文章があれば、頭の中では存在させることができる。
現実にならって、過不足のない世界を成立させることができる。

英語には時制があるので、一つの事態は、現在、過去、未来において成立させることができる。
現在時制の事態は現実であり、過去と未来の時制の中では事態は非現実である。
非現実の事態を現実化できれば創造したことになり、現実の事態を現実の中で再現できれば模倣したことになる。
非現実の構文がなければ、非現実の事態を現実に変換することは難しいので、創造的な活動をすることはむずかしい。

思春期になると言語能力が増すので、現実 (現在) のみならず、非現実 (過去、未来) の構文が使えるようになる。
それで、英米人には高等教育が可能になる。高等教育は、大人になるための英語の再教育である。
時制があると、自分の考え (非現実) を述べることができる。こうしたことは、日本語にはない。
時制がなければ、考えを述べることはむずかしい。「そんなことを言ってもだめだぞ。現実にはそうなっていない」ということで、鬼が笑って相手にしてくれない。

非現実を表現するための構文がないということは、考えの筋道を立てることができないということである。
矛盾の排除ができないので、過不足のない世界観が構築できない。発言内容が出鱈目になる。





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