「自分の人生を自由に選択できない社会では、自己責任を問うことはできない」
おそらくすべてのひとがこの原則に同意するだろう。「奴隷が幸福になれないのは自己責任だ」などというひとは、すくなくともいまのリベラル化した社会には居場所がない。
【詳細画像または表】
だとすれば、論理的にはこの原則を逆にして、「人生を自由に選択できる社会では自己責任を問われることになる」はずだ。
「自己決定権」を最大限重視する北欧の国で「自己責任」はどのようになっているのだろうか。それを知るために参考にしたのが鈴木優美氏の『デンマークの光と影 福祉社会とネオリベラリズム』だ
『デンマークの光と影』は2010年の発売だが、ほとんど知られていない「世界でもっとも幸福な国」の内側を在住者の視点で観察したとても興味深い本なので、今回はいまの日本にとって示唆的な箇所を紹介してみたい。
いまや国家の存在意義は「国民の幸福度を最大化すること」
デンマークが「世界幸福度ランキング」をはじめとするさまざまな指標で常に上位にいるのは、「西欧中心主義」だとか、自分たち(ヨーロッパ系白人)の価値観を基準にしているからではない(そういう影響もすこしはあるかもしれないが)。北欧の社会制度はやはり「進んでいる」し、それは今後、日本が目指すべきものだということを最初に確認しておこう。
デンマーク社会の根本にある思想を、鈴木氏は「最終的な福祉の責任を国が負っているため、国が国民を助ける動機づけがあること」だという。
他人の人生に対してなんの責任も負わないならば、よほど奇特な善人でもないかぎり、そのひとのためになにかしようとは思わないだろう。だがもし、そのひとが不幸になったときになんらかの損失を被るとすれば、自らの損失を最小限にしようと考えるはずだ。
悲惨な第二次世界大戦が終わって、国家の目的は「敵」を武力で倒したり、植民地を拡大することではなくなった。残された目的は「国民の幸福」だけだ。北朝鮮など一部の例外を除き、いまや国家の存在意義は「国民の幸福度を最大化すること」にある。これが「福祉国家」で、国民は自分たちの幸福度を向上させてくれることを条件として、政治家や官僚に権力(と暴力)を移譲する。
福祉を国家と国民の契約だとするならば、合理的な福祉国家は国民にお金をばらまくようなことはせず(そんなことをするとジンバブエやベネズエラのようなハイパーインフレになる)、最小限のコストで福祉を最大化しようとするはずだ。これが北欧の福祉国家で、ほんとうにヒドいことになる前に介入することで、権力行使のCP(コスパ)をよくしようとしているのだ。
それを鈴木氏はこう説明する。
「国民が苦しんでいたり、不幸だと、国の経済的負担が増える。貧困、病気、アルコール問題などで苦しんでいる人も、早く国が助けなければ、最終的に病院などの施設で莫大な公費を使って養わなくてはならない。うつ気味でも無理して頑張って、けっきょく燃え尽きてしまったら疾病手当、治療費用、職場再復帰費用などがかかるため、それよりは軽度のうちに求職してもらったほうがいい、となる。国民が健康で恵まれて、就労し、納税し、幸せな国民生活を送ること(ウェル・ビーイング)が結局、国にとっての最小のコストで済み、国の競争力と成長を伸ばす」
日本においては、“リベラル”は福祉国家を「お母さんのように国民の面倒をみる」ことだと考え、それを保守派は「お母さんに迷惑をかけるな」と批判する。どちらにも共通するのは、国が母親のような存在になっていることだ。だがこれでは、北欧の福祉国家のリアリズムは理解できないだろう。福祉政策とはなによりも「権力のコスパ」なのだ。
スウェーデンなどと同じくデンマークでも「中央個人登録番号」と呼ばれる国民番号https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180615-00172627-dzai-bus_all
おそらくすべてのひとがこの原則に同意するだろう。「奴隷が幸福になれないのは自己責任だ」などというひとは、すくなくともいまのリベラル化した社会には居場所がない。
【詳細画像または表】
だとすれば、論理的にはこの原則を逆にして、「人生を自由に選択できる社会では自己責任を問われることになる」はずだ。
「自己決定権」を最大限重視する北欧の国で「自己責任」はどのようになっているのだろうか。それを知るために参考にしたのが鈴木優美氏の『デンマークの光と影 福祉社会とネオリベラリズム』だ
『デンマークの光と影』は2010年の発売だが、ほとんど知られていない「世界でもっとも幸福な国」の内側を在住者の視点で観察したとても興味深い本なので、今回はいまの日本にとって示唆的な箇所を紹介してみたい。
いまや国家の存在意義は「国民の幸福度を最大化すること」
デンマークが「世界幸福度ランキング」をはじめとするさまざまな指標で常に上位にいるのは、「西欧中心主義」だとか、自分たち(ヨーロッパ系白人)の価値観を基準にしているからではない(そういう影響もすこしはあるかもしれないが)。北欧の社会制度はやはり「進んでいる」し、それは今後、日本が目指すべきものだということを最初に確認しておこう。
デンマーク社会の根本にある思想を、鈴木氏は「最終的な福祉の責任を国が負っているため、国が国民を助ける動機づけがあること」だという。
他人の人生に対してなんの責任も負わないならば、よほど奇特な善人でもないかぎり、そのひとのためになにかしようとは思わないだろう。だがもし、そのひとが不幸になったときになんらかの損失を被るとすれば、自らの損失を最小限にしようと考えるはずだ。
悲惨な第二次世界大戦が終わって、国家の目的は「敵」を武力で倒したり、植民地を拡大することではなくなった。残された目的は「国民の幸福」だけだ。北朝鮮など一部の例外を除き、いまや国家の存在意義は「国民の幸福度を最大化すること」にある。これが「福祉国家」で、国民は自分たちの幸福度を向上させてくれることを条件として、政治家や官僚に権力(と暴力)を移譲する。
福祉を国家と国民の契約だとするならば、合理的な福祉国家は国民にお金をばらまくようなことはせず(そんなことをするとジンバブエやベネズエラのようなハイパーインフレになる)、最小限のコストで福祉を最大化しようとするはずだ。これが北欧の福祉国家で、ほんとうにヒドいことになる前に介入することで、権力行使のCP(コスパ)をよくしようとしているのだ。
それを鈴木氏はこう説明する。
「国民が苦しんでいたり、不幸だと、国の経済的負担が増える。貧困、病気、アルコール問題などで苦しんでいる人も、早く国が助けなければ、最終的に病院などの施設で莫大な公費を使って養わなくてはならない。うつ気味でも無理して頑張って、けっきょく燃え尽きてしまったら疾病手当、治療費用、職場再復帰費用などがかかるため、それよりは軽度のうちに求職してもらったほうがいい、となる。国民が健康で恵まれて、就労し、納税し、幸せな国民生活を送ること(ウェル・ビーイング)が結局、国にとっての最小のコストで済み、国の競争力と成長を伸ばす」
日本においては、“リベラル”は福祉国家を「お母さんのように国民の面倒をみる」ことだと考え、それを保守派は「お母さんに迷惑をかけるな」と批判する。どちらにも共通するのは、国が母親のような存在になっていることだ。だがこれでは、北欧の福祉国家のリアリズムは理解できないだろう。福祉政策とはなによりも「権力のコスパ」なのだ。
スウェーデンなどと同じくデンマークでも「中央個人登録番号」と呼ばれる国民番号https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180615-00172627-dzai-bus_all
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