遠い昔の記憶のなかから普通の人たちとは違う生活をしていた人たちがいた事を想い出している。
たしか愚輩が小学校4年生のころ遊び友だったクラスの級長で勉強の良くできたH君のところに遊びに行った時のことである。彼と彼の家族がが住む相模平野を流れる大きな川の河岸縁から川原敷きに降りていくと 明らかに普通の人たちとは違う生活をしてるらしい一家族がほとんど河原の流木と葦で組んだような小さな小屋に住んでいた。まだ住み始めて数ヶ月だとのことだ。話によれば学校に行かない男の子が二人と小さな女の子と子供が3人いる5人家族だというがなんか怖いので遠くから眺めているだけだと。
でもH君の3歳年上の兄と近所の悪がきたちが時々その小屋めがけて小石を投げてやるのだそうだ。 ついこのあいだ投石したときにそこの家長らしき体格の良い怖い顔をした父親と息子らしき人二人がH君の家に来てそういう危ないことはしないでくれと文句を言いに来たといっていた。
そんな話をH君が話すのでではそこへ行こではないかということになりH君と恐る恐るその家を見に行ったのだが、遠くから見た限りでは葦原の中にかろうじて屋根だけが見えた。本当は怖くてそれ以上近づけなかったのですが…
まだ愚輩は小学生だったので深くは考えなかったが、いったい彼らはどんなことをして生活しているのだろうかと子供心に不思議な思いがしたことを覚えている。
その家族がサンカかどうかそのときもまた今も調べようも無いがそれがたぶんもしあったとすればだが、サンカという人たちに関する自分の唯一の体験である。
われわれ日本人とはいったいどこから来た何者なのかその一端を垣間見せてくれる興味深いサンカという人たちの話です。
サンカについて:
日本に存在するヤバイ集落、閉ざされた村【サンカ】
サンカ(山窩)とは
明治以降明らかにされた時点では、川筋伝いに村から村へと渡り歩き、主に蓑つくり、笊(ザル)つくりなど竹を主原料とする製品を作り、農家で穀物と交換する、といったことで生計を支える、関東以南から九州までをテリトリーとする漂白集団だった。定住しないため、テントをもって移住し、一夫婦と子供で一家族六~七人、五家族くらいの単位で共同歩調をとった。
サンカの語源はいろいろあるが、サンケチ(三つの職掌区分)からきたとする説もある。サンカ自身は自分たちをセブリ、(テントの意味、一セブリ=同居する家族)セブリモノなどと呼ぶといわれる。
ミツクリの一(カミ)(蓑つくりの総領)
フキタカの一(笛つくりの総領)
エラギの一(遊芸の総領)
サンカは徹底的な秘密集団組織として生きてきた。外部の者にはけっして自分たちのことを話さず、特殊な隠語を用いて話し、他の仲間への連絡には、特別の符合で書かれたアブリ出しを地面に埋めるなどして行う。その結束は固く、独自の行政・裁判法をもち、一般の倭人とは異なる習慣、信仰、伝承を維持し、しっかりとした相互扶助システムをもって全体の生活を安定させている。そして古くから戸籍を持たず、昭和期に至ってもなお届出を行わない者たちが多かった。
いわば、国家の中にあって国家権力の枠の外にある、完璧に自立した漂白共同自活集団とでもいうべき存在なのだ。かつてそのように生きる人たちがたくさんいた。その多くは遊芸者であり、神の女として春の恵みを売る巫女たちであり、木工製造・鍛冶・狩猟・沿岸漁業・川漁などにたずさわる人たちであり、呪術的宗教者であり、渡り商人たちであった。
巨大組織サンカの強固な組織連帯性の中核にあるのが純潔の保持である。サンカは決してサンカ以外の者たちと混血する事はなかった。
サンカには有名な伝承の蝮部伝承がある。蝮(タジヒ)とはマムシの事であり、このマムシを捕って生活の害を除き、精力剤を作る職業が蝮部という古代の職業であり、かつてのサンカの主要な職掌の一つだった。古伝承によるとサンカの祖は火明で、隼人(ハヤト)の一派がサンカの系統につながっている、となる。
五木寛之の小説「戒厳令の夜」「風の王国」は、明治維新以後現在に至るおよそ一二○年間に、公的権力に組み入れられることによって、まるで風のように姿を消してしまった漂白の人々が、どこへ行ったわけでもなく、実は私たちの身近な日常性の中にとけこんで実在しているという想像から展開されている、といってよいだろう。
延々と独自のコンミューンを保ち生き続けてきたサンカが、現在どのような形でこの高度資本主義社会にトケこんでいるのか。
一説によると現在一般の”非占領社会”にまぎれこんでいる彼らの数は、人口の一五パーセント以上、およそ二○○○万人以上に達するとみられている(1986年)
昭和三年、官憲のサンカ対策が目立ってきたため、東京のクズシリ(頭)隅田川一を長として東京一円を中心にシノガラ(忍びのヤカラ)と名付けられるサンカ秘密結社が結成されたという。シノガラは外面的には社会での職業生活を送りながらも、サンカ一族の堅固な結束を維持する重要な役割を負って生み出されたものだ。
このシノガラが中心となり、表の顔として財団法人全国蓑製作者組合が昭和二四年に組織され、まるで欧米のフリーメーソンのような形態をサンカ一族はとるようになっていった。時代のすう勢からこれまでサンカ一族が出しあってつくられた相互扶助のための基金を、全額アングラ・マネーとして積んでおくわけにはいかなくなったからでもあったからか。そのため一部を組合基金として浮上させたのである。
この共同基金の金額は、昭和三六年の時点で実に二億四九万一○一一円となっている。当時の大学初任給は二万円にも満たなかったから現在でいえば一五億円くらいに相当するが実際の額の一○分の一という見方もある。この基金はシノガラの手によって年一割二分の利回りで運用されているという。現在では基金の年々の増加と運用上の増加を考えれば、莫大な金額になっていることが予想される。また昭和五七年の時点で各自が最低一○○○円以上を収入に応じてシノガラに収めており、総額は五兆円を越すものとされている。サンカ一族はこの資金をフルに活用し、シノガラが日本の根幹として根を張りめぐらし日本の中枢を握ることを目的としている。(すでに達成されたものと考えられる)少なくとも昭和三六年の時点でシノガラの三分の一は官公史、次いで学会人、財界人が多数を成した。ある銀行の幹部がシノガラに独占され、組合から「逆差別」だといわれたエピソードなど体制化・権力化への道をたどっていると指摘されている。
(資料とさせて頂いた1986年出版の本は現在、絶版となり入手不可能。)
八切史観で「サンカ」について書かれた物に次のものがある「サンカの歴史」「サンカ生活体験記」「サンカいろは唄」。
「サンカいろは唄」等は先生の遺稿、遺書の感がある。御自分の生母や祖母のことも書かねばならぬので、随分と書きづらかったと序説に書いておられる。以下に紹介するのはニフテイの会議室で、サンカのほんのさわりを紹介したところ、質問が多く出て、その回答形式をここにUPします。己たちがサンカの末裔と知らぬものの、やはり血の成せる業か興味のある方が意外に多いのに驚いています。
○○様。◆◆◆長くなりますので三部にします◆◆◆
<<第一部>>
今日は。早速本題に入りましょう。○○さんは「風の王国」をお読みになったようですが、先ず、この本を書いた五木寛之氏の意図と経緯から考えて見ましょう。この本は「小説新潮」に三回の連載が一冊となった物です。ご存知のように「先ず申し上げておこう。我々は長い間ずっと口伝えによる文化の伝承を、文字による記録よりも大切にして生きてきた。(中略)しかし心の拠り所としては、文字より言葉、声による口伝えを根本とする」とその237頁に浪骨の言として五木氏は訴えたい事を書いています。
これは全くこの通りで、サンカの人々が書き残したものは無いからです。だから八切先生は口伝えの彼らの歴史を調査するため、全国を回りました。かって五木氏は「戒厳令の夜」を書き、文壇の地位を確立しました。しかしこの「風の王国」でサンカを書きたいため「さらば、モスクワ愚連隊」から数十年かかって、ようやく正面切ってというか、居直って、全体の250頁以下に、「フタカミ講」と「渾流組」といったものを、小佐野賢治をモデルにしたような壮大な射狩野グループの三つ巴の中で、当時世間を騒がせていた連中に迷惑をかけぬようにとの用心と配慮からか、僅か55人の紺キャハンの<へんろう会>の「天無人神講」としています。
○○さんが御質問の一番目の、
>> 1、サンカの人達が作る「天無人神講」という「講」の話しが出ていましたが
>>これは実在するモデルがあるのでしょうか。
五木寛之氏は極めて頭のいい優秀な作家ですから、何をどう書けばいいのか十分に吟味したと思推されます。
というのは、海洋渡来の”八”の部族や、後に沿海州から入ってきた騎馬民族は共に藤原体制から疎外され、差別されました。そして同じくまつろわぬ民としてサンカの人達も殺されたり差別の対象になっていたので、追われる者同志が庇いあって彼らの中に溶け込んでひっそりと暮らしていました。八の部族の民族色は赤で、騎馬系は白です。だから八と暮らすサンカは「赤のとけこみサンカ」つまり【赤サンカ】であり、騎馬系と暮らすのは「白のとけこみサンカ」、【白サンカ】なのです。しかし、何処にも絶対溶け込まず家族を一つの単位として、五家族で一つのグループで流浪するのを”セブリ”というので、これをモデルにしたのではないかと思われます。
(私も実は詳しくは無いのですが、「全国ハチヤ同盟」というのが在るという事です。これは京都の空也堂信者の大同団結といいます。全国で三千万だそうですこのハチヤはサンカではなく、天の王朝つまり海洋渡来系の末裔です。他に”水上会”というのもあり、これは水上の穏坊といいますがキッタン系の団体で「將門一族会」も結成して、その団結にロマンを求めているのです)
「風の王国」の後書きの後に、参考資料として160余点の書名が列記されていますが残念ながら、まあ増しなものは故宮本常一氏の「日本民衆史②」の、「山に生きる人々」ぐらいで、他は「柳田国男著作集」当たりです。
肝腎な八切先生の「サンカ生活体験記」を読んでません。八切先生は「知らない間柄ではないし、尋ね質問してくれたら注意したものを」と言っておりました。
ですから五木氏が参考にした殆どの関係の本は、故菊池山哉が仏教側資料によって解明した(体制側で弾圧した方の視点で書いている)裏日本から渡来した騎馬系の白サンカまでなのです。それをその儘に転用して自説としたにすぎない著作ばかりが、五木氏は
資料としてしまっているのです。しかし東大のY教授が北海道新聞の1997・1・10の「歴史の叙述と想像力」の中で
「柳田の民俗学で使われる”常民”という言葉は、市民でもなければ平民でもない存在を指す。それはやはり”常民”としか呼びようのない文化の基底を担う人々なのだ。彼らに対する無私の愛、その存在えの想像力こそ、柳田学から現代歴史学が受けた貴重な刺激と言うことになろう(後略)」柳田氏については後述しますが、この学者先生よくこんな寝惚けた事を書けるものと感心します。
何も判ってない事を天下に公言したようなものですね。五木氏は資料の選択は間違ったとはいえ、サンカを描こう、とする物書きの情熱と感性と想像力で真実に迫っています。だから私は五木寛之氏の方が数段増しだと、前記した訳です。
○○様。 <<第二部>>
◆◆◆◆◆解りやすく表にしてみましょう。◆◆◆◆◆
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前代サンカ・建国統一の7世紀から・ (A)裏日本から渡来・ (B)太平洋から
はみ出した部族。 居着きで非農耕 上陸の農漁業塩作り
遊牧サンカ の赤系サンカ。
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梅鉢サンカ・10世紀以降キッタン系 ・ セブリ流民として ・ 天照大神系として
日本史では隠して 五組編成で各地に 食料増産のため
宋とするが、 散在し、シコとして 限定地に居着き
指揮部族 防衛編成。 させられる。
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南北朝サンカ・明国や朝鮮の ・ 源氏とされ、後に ・ 平氏の子孫も世直し
影響が及ぶ 楠木正成らが に三河の足助次郎
隆起する。 らが決起する。
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戦国サンカ・徳政に反対し ・ 北条早雲一党 ・ 上杉謙信一党
各地でサンカ出身が 別所宗治一党 尼子持久一党
戦国武将となる
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江戸サンカ・綱吉の神仏混合令 ・ 飼戸の子の飼子が ・ 庭子小作奴隷が
によって反仏教徒は 幕末に殺し屋として 大百姓へ世直し
とされ弾圧される 上洛し利用されて を迫り一揆する。
恰好良く志士という イッキイッキという
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尼子持久を宇多近江源氏と歴史書はしているが、間違いで「ア」は海洋渡来系。別所宗治の三木城は秀吉に二年間も完全な兵糧攻めをされて、幼児の後藤又兵衛だけを託し残して玉砕。この分類の(A)の縦の区分を「馬鹿」と呼ばれたり四つと呼ばれたりしていた方だけは解明しています。「一畝不耕一所不住 一生無籍 一心無私」と風の王国巻頭にも出ています。
従って士・農・工・商以外の枠外の民である、騎馬系弾左衛門地が、明治までは隅田川以北は小菅から先もずっと草原で、一反の田畑もなかったのは有名な事実で、日本は豊葦原水穂の国と古来から言われるとおり、騎馬系は遊牧民族ゆえ、絶対に農耕も、漁業も、塩作りもしなかった。水穂のほうは奴隷百姓が米作りをしていました。
大衆作家の書く物に、その筋の侍だった者が、禄を失って田舎で百姓をするなどとありますが、有り得ない話しで出鱈目です。
この農耕しない民族は、(B)の民族と全く違うのに風の王国では(B)を区別してしまっているのです。
「山民は骨なり。常民は肉なり、山と里の間を流れる浪民は血なり、血液なり。血液無き社会は生ける社会にあらず。浪民は社会の血流なり、生存の証なり、浪民を自らの内に認めざる社会は停滞し枯死す。吾らは永遠の浪民として社会を放浪し(中略)山は彼岸なり。里は此岸なり。この二つの世の皮膜を流れ生きる者、これセケンシ(紹介者注・サンカ同志の連絡役)の道なり。
吾らは統治されず、統治せず。一片の赤心これ同朋に捧ぐ」と風の王国で定義されてしまうと、居着きもとけ込みも「常民」の側に置かれて
しまうわけです。
ですから○○さんの二番目のご質問、
>>2、この本が居着きサンカととけ込みサンカを混同しているというのは、具体的にどういうことを指しているのでしょうか。
上記のように(A)の者たちは全国を流浪しながら生活をしていたため、都市や村に居着きません。
一方食料生産をする(B)の方は重宝なので都市や村にとけ込んでおります。この(B)の八つと呼ばれる海洋渡来系は八切先生が日本で始めて解明したのですから、五木氏が解らなかったのも無理がないと思います。もう少し簡潔に言いますと、
●とけ込みサンカ・・・・他の部族にとけ込んで暮らす。
●居着きサンカ・・・サンカだけのグループで特定地で暮らす。となります。
さて、それでは最後の御質問に行きましょう。
>>現在もサンカの人達は、そのアイデンティティを守って、国内のどこかに
>>住んでいらっしゃるのでしょうか。
もうお判りでしょうが、彼らは原始共産主義というか、無政府主義者とも言える自由の民です。敗戦で日本各地の都市が絨毯爆撃され、とけ込みサンカはは離散してしまいました。それまでは鋳掛け屋とか、煙突掃除をしながらセケンシがサンカの各家庭を廻って歩き、貧しい人や病人に施しをしていました。また余裕のある者は金を出し、無い者はミノ一つでもよかったのです。彼らは徹底した相互扶助制度で助け合っていたのです。
そして彼らを束ねる大統領ともいうべき「大本様」が居たようです。一昔前、スイスの銀行で日本御三家と呼んでいたのがあり、一位が岸信介、二位が宮内庁と言われてました。今はサンカシノガラ資金が多いといいます。何故かというと、かってニクソンのドル下落の際、各国は必死に石油を買い漁りました。
馬鹿な日本政府はアメリカさんの命令で、石油を買わずにドルの買い支えをした事がありましたが、その時にサンカは逆にドルを売って巨利を得たのです。大本様は日本を見限ったのか、現在は海外に出てしまったようです。
話しは飛びますが、秀吉は家康を殺したかったのですが、家康は(B)から出た出世頭だったため、大本様の意志でさすがの秀吉も騎馬系が多く住む関東へ押し込める事しか出来なかったのです。そして秀吉は晩年は仏教勢力と結託した為、サンカ系の大名は一人残らず家康に味方して、関ヶ原で家康に勝たせてもいます。家康、秀忠まではサンカは吾が世の春でした。しかし綱吉の神仏混合令以降又厳しく過酷な弾圧が続くのです。
現代は自分たちがサンカだとは解らぬ若者がイッキイッキとはしゃいでいますが人口割合では(A)と(B)を足すと数千万は居るでしょう。
(五木寛之は何年休筆しても根強い人気がありますし、歌手の五木ひろしは三十も芸名をかえて五木にした途端人気が出ました。勿論彼らの才能や努力もありますが居着き人口の圧倒的な支持が有るからと思われます)
しかし居着きもとけ込みもしなかった純粋日本人のサンカは姓の上に「エケセテ」をつけていますから見分ける事は出来ます。
江川、江夏、江本、江田、遠藤、江戸、海老名、研、見城、千、千田、仙谷手塚、手嶋、勅使河原、寺田、寺山、猫田、根来、根津、辺見、目方、目黒
これらの人は管理社会では暮らせない特性があり、みんな芸術やスポーツの分野で活躍している人が多い訳です。いわば一匹狼なのです。しかし彼らは動物好きで家族を非常に大切にし、女性に優しいという長所があり「千万人とも吾ゆかん」とバイタリティーの塊です。
こうして見るとマスコミで活躍している人も多いので、随分と数が多そうですが東京都の電話帳でもおそらく千人とは居ないはずです。もう一つ重要な特徴として、民族の純血と増加を図る為か、少子化の現代では珍しく十人ぐらいの子沢山が多いと言えます。
私見によれば、自己本位で、自分さえよければ他はどうなっても良いという、官僚組織や、既得権益団体や家庭や個人が跋扈するこの国に、サンカの思想と行動様式を基底にした政治が行えるなら、この国の未来は捨てたものではないと思うのは私だけでしょうか。
【統治されず統治せず。一片の赤心これ同朋に捧ぐ】
規制徹廃、地方分権道州制、生活者主権、相互扶助の福祉重視、まさに平成維新そのものではないですか。
<第三部>
余談になりますが、これからの日本を救う人物はこのサンカの中から出現するのではないかと私は思っています。
アインシュタインの有名な言葉が在ります。
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世界の未来は進むだけ進みその間、幾度か争いは繰り返されて、最期の戦いに疲れる時が来る。その時、人類は誠の平和を求めて、世界的な盟主をあげねばならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜き越えた、最も古く、また尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
吾々は神に感謝する。吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを...............。
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どうでしょう? 「尊い家柄」といえば天皇ですから、宰相はやはり誰になるのでしょうか?。以前この事をUPしたら、大分顰蹙をかいましたが、こんな夢想をしなければならないほど、この国は腐ってますね。 閑話休題。
<<余談の余談>>
明治の東京政府は、徴税や徴兵のため当時始めて国勢調査をし、明治四年の壬申戸籍を作った。町人別、寺人別、侍交名帳でそれまでのの人口把握は出来たものの、居着きしていない四つの人口や民、それと無申告の民が余りにも多くて狼狽。
というのは、明治維新は彼ら庶民を原動力として成し遂げた経緯があり、金の無い東京政府は後に本願寺派仏教勢力と提携して彼らを裏切ったので、叛乱を怖れた。だから治安維持策として、「棄民政策」と称して北海道、樺太、北米、伯剌西爾へ彼らを放り出したのです。女はサンダカンへ性業婦として輸出し、外貨獲得。自国の国民をこうした扱いをする国が一体何処にあるでしょう?
差別徹廃、解放、四民平等を信じて、命を捨てた名もなき草莽たちの無念やいかばかりだったでしょう。結局、天皇を象徴とした官僚支配の律令体制は現代まで残り、問題は今に到るも未解決である。前体制の残滓はかくも国民を不幸にする。だから
歴史の教訓に学び、平成維新は心してかからねばと危惧する心が、しつこい程私の「改竄の日本史の暴露」にかりたてるのです。
以下はある方にREとしたものですが、一部重複しますが大事な点なので再度UP致します。
【純粋日本人・サンカ】
サンカや問題というのは差別の原点でもあり、タブーであり、たいていの人は腰が引けて、避けて通るキライがあります。
しかし、この国の改革が成れば、又成る過程で此の問題は避けて通れない大変に厄介な問題だと思うのです。
それというのも根底には”偽造の日本史”があり、これが為に差別する方も、される方も理由が判らず、悲しい争いをくり返してきました。
この偽造の日本史を暴き、新生日本史を確立しなければこの問題の解決はおそらく不可能だと思います。
その為の日本開闢以来の史観が”八切史観”なのですが、私などはいわば伝道者にすぎません。
【紹介者・補記】
さて、柳田国男氏とその弟子の折口信夫氏らが「日本の全人口の三割はサンカだ」と発表して、タブーに果敢に挑戦しました。
つまりオカミの歴史に対して常民史観というようなことを言い出しました。しかしその存在を許さぬサンカが、全人口の何割も今に到るも生存している等とは以ての外であるし、その歴史探究など言語道断という事だったでしょう。
当時、今とは違い男色が最悪の不道徳とされていた時代「折口信夫との間を公表すれば如何となす」と特高に引張られ、脅されて「弟子の彼が可哀そうだ」と「あれは誤りだった」とやむなく訂正の評論を書いて、民俗学の方へ転向してしまいました。
現在柳田の研究書は沢山在りますが、こうした深い所ろへの視点が欠けているように思うのは独断と偏見でしょうか。
彼は非常に頭脳明晰な人だったと言いますから、あのまま研究を続けていれば、日本原住民史は、当時はまだ資料は残っていたでしょうから、随分と今とは違った形で解明されたでしょう。次に手がけられてやめた、白柳秀湖氏の場合も、一人娘さんがやはり人質みたいに
なって、男親って娘が可愛いから、結局彼も折角いいところまで行ったんですが、やむなく中止して右翼の評論家として亡くなってます。
全く日本のオカミのやる事は、昔から汚く陰湿です。
三角寛氏は朝日新聞のサツ廻りの記者でしたから、警察情報を基にし、後に内務省警保局の民族事業協和会からの財政援助でシノガラといわれる、サンカの人達との”サンカ生活体験記”を出版しました。しかしこれを書くと、自分の母親の事を書かなければならないので、書きにくくてしょうがなかったといいます。だから氏も結局”体制側からの視点”言い換えれば”仏教徒側から”サンカを書いた為、全く異なった虚像しか現在に残しておらず、後世の学者達がいくらフイールドワークしても、彼を越える物は出ない訳です。
さて、八切先生も「野史辞典」の資料集めに地方巡りをしました。その時ある村で、赤子を背負った女まで入れて八名の溺死体を淵から曳き上げている処へ行き合わせてしまった事がありました。赤ん坊のごときは水膨れでまん丸で、無惨などとは表現しがたい、異様な死体の
行列だったといいます。先生はどうしても書かれた物や写本では、探し求める匿された日本史が探し当たらず、やむなく口伝えの秘史を蒐集しようと、当時重たい旧型のテープレコーダーを持って日本各地を巡ったのです。
そして断る村民に無理矢理、御霊前にといくばくかの現金を包み、何とか頼みこんで御逮夜に泊めて貰い、総代という老人から話しを聞きました。
「ここは旧幕あたりまでは苗字帯刀、紋付きの家柄で格式もあった家ばかりだった。しかし今では全くあべこべになってしまった。だから嫁に行って子供まで産んでいても、ここらのの出だと判るもんなら、まるで獣のように放り出す。それで戻されてきたのに同情して、自分らも嫁に行っても何時か放りだされるんじゃないかと、こんな無様な心中をしてしまう。こんな調子だとここのの女達はいつか死に絶えてしまう」と、愚痴まじりにの不条理を訴えてきました。
夜になり酒が入ると他の人もぼつぼつ話し出しました。「自分らは、昔はエライ様で土民はあぜ道で御一新までは土下座しておじぎした
もんだ、それが今では昔はだった奴たちさえ馬鹿にして口も聞いてくれんのじゃ」と、憤慨して他の者もしくしく啜り泣きだったのが「ウオー」と号泣に変わってみんなが吼えるように唸った。土間の茣蓙の上に並んだ屍体の髪毛が乱れ、毛糸玉のように互いに繋がって見え、集団自殺の彼女たちのプレッシャーは酷く、凄惨な一夜で屍臭と線香の煙でむせた、といっております。
これは昭和四十五年の出来事でした。この時点からすでに三十数年を経ていますが、現状は何も変わってはおりません。マスコミもこうした問題には触れませんから一般ではなおの事でしょう。
<<終わり>>
サンカ(山窩)を考える(資料)
http://www.kumanolife.com/History/kenshi1.html
続く…
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