猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

戦前は“白山の哲学”と称されたって本当なのか?=戦前の東洋大学

2013-06-01 09:40:00 | インポート
*H25年6月14日:すこし追記いたしました。

何年か前からウィキペディアなどウェブ上で“第二次大戦前は「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」と称され、東洋大学は伝統的に哲学が有名である”、との言葉がいつの間にか広まっています。

これって本当なのでしょうか?

ウィキペディアの“東洋大学”の項の履歴を丹念に探ってみたところ“第二次世界大戦前には「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」と称され、伝統的に哲学が有名。”という記述は2007年2月19日に書き込まれ、その後2008年10月29日に“三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学”の部分が削除され、現在は「白山の哲学」だけが残っています。
しかも、2007年に書き込んだ投稿者のアカウントをクリックすると


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このウィキペディア・アカウントは多重アカウントか、あるいは第三者が便乗して作成したものであると考えられています。詳しくは以下のページを参照してください。


と表示されます。

思うに“「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」”という言葉は、ウィキペディアに載せられていた一年半くらいの間にコピペされ拡散していったのではないでしょうか?


わたくしは学問のことは良く解りませぬが、戦前の東洋大の野球部のことに関しては日本でも有数の研究家であります…(多分、他に居ないでしょうから)
ですので、戦前の東洋大学に関する書籍や新聞記事、或いは学校案内の類(戦前でも明治期から若者向けの受験案内や立身出世案内などが出版されていました)には一般のOB諸氏よりは目を通しているつもりでありますが、東洋大が早稲田や慶應と並んで“白山の哲学”と呼ばれているなどと書かれているのは目にしたことがありません。

色々調べているうちに、以前古書店で購入した戦後の昭和34年に東洋大学が発行した『学祖井上円了博士と東洋大学学術研究の一班』の中に、下記のような記述があるのを見つけました。

明治二十年を前後として東都に三つの私学が設置された。早稲田の早稲田專門学校、三田の慶応義塾、白山の哲学館がそれで、それぞれに特徴を持ち、早稲田は政治、慶応は理財、白山は哲学―これを当時東都の三名門校と称したが、いずれも明治、大正、昭和を通じてわが国文化史上における存在意義は大きい。うち早稲田はさておき慶應義塾と哲学館は全く対蹠的な出発点を持ったことに注目する必要がある。
これにつき宮西教授は次のように評している。
 「明治二十年代に入ると、欧化主義の潮流がおおきくそのうねりを変えて国粋主義的な潮流となって現れた。その潮流をつくる力となりその潮流を指揮した有力な一人が井上学祖であった。この潮流の上に、この潮流の結晶としてこの人の手によって創立されたのが哲学館である。これに対し日本の近代化、欧米化の新潮流の巖頭に立ってそれを指揮した1人は福沢諭吉であり、その新潮流の上に成立したのがこの人の創立した慶応義塾であった。慶応義塾が独立自尊をイデアとして欧化主義の戦士を作ることを目的としたのに対して、哲学館は護國愛理をイデアとして日本の学問の伝統を守護する使徒を要請することが目的となった。そこで慶応が進歩的であり、哲学館が保守的傾向を帯びるのは、その学府の成立した時代的、社会的意義と、その目的としたものの性格から来ることで、それによって価値判断を云々すべきことではなかった」と。
まことに適評である。

画??


『学祖井上円了博士と東洋大学学術研究の一班』は昭和32年の創立七十周年の年に記念事業委員会が立ち上げられ、井上円了に関する調査を進めたが予算の都合で途中で断念したため、「学祖研究室」が設けられてそれまでの成果を纏めたもの。
戦後の出版物ではありますが、慶応・理財、早稲田・政治、白山・哲学がワンセットで出てきました。
ただ、“東都の三名門校”と言ってはいますが、あくまで三つの学校の特色の違いを強調するニュアンスでもあります。
(「三田理財、早稲田政治、白山哲学じゃなくて、早稲田政治、慶応理財、白山哲学ですから・・・。“”と“”の違いで受ける印象は大分違ってくると思うのですが)


それに、そもそも戦前の日本に於いては今と違って旧制中学以上の上級学校に進学できるのは限られていて、“名門校”云々以前に大学(高等専門学校)とは縁のなかった人が大多数だった筈です。従って入学することもまた、現在のような“受験競争”とは縁遠かったようです。

『東洋大学史紀要3』所収・西義雄「昭和初期の学園」に依れば、“東洋大学で入学試験を行って受験生を落とす程志願者が集まったのは昭和二十一年に開設された専門部経済科が最初だった”との事です。

また、大正九年から十四年まで東洋大学の教壇に立った和辻哲郎は『自敍伝の試み』のなかで“私立大学や国立大学を通じて三十年近く教職にあったが、そのいずれの大学でも、わたくしの関係した学部では定員以上に入学志願者が集まったことはなく、従って試験によって選抜しなければならないなどということは一度もなかった”と回想しておりますし、和辻自身が明治三十九年に旧制姫路中学から一高へ進んだ当時の“受験事情”を
わたくしが一高を受験した頃には、確かに世間で官立の大学や専門学校を尊重していた。新聞などでは官尊民卑の風潮をしきりに攻撃したが、しかしわたくしたち中学卒業生が志望校を選ぶとなると、やはり高等学校か、高商か、高工かであった。だからそれらの学校の入学試験はいずれも競争率が高かった。それらを初めから眼中に置かず、直ちに早稲田大学や慶応義塾に入學しようとする人は、わたくしの知っている範囲では、非常に少なかった。・・・中略・・・もし早稲田か慶応への入学を希望するならば、官立の入学試験に失敗した後にでも、自由に入学することが出来たという便利な事情であったと思う。これらの大学は、当時まだ大学令の出来ていない頃で、いずれも専門学校令に依ったものであったが、非常に包容力の大きい予科を持っていて、高等学校幾つかに当る位の学生を楽々と入れることが出来た。またそこの教授陣は、官立の高等学校や大学に比してさほど劣るものではなかったのであるから、入学試験に失敗しても、避難する安全な場所はちゃんとあったことになる。だから当時の世間に流れていた官尊民卑の風を超越しさえすれば、入学試験の弊害など受けずに、のびのびと大学教育を受けることも出来たのである。
(和辻哲郎『自敍伝の試み』~入学試験のこと~より)

と書き残しています。
(和辻哲郎が属したのは文系学部でしょうから他の学部では多少事情も異なるかも知れません。)


そこで、戦前の東洋大学について書かれたものをいくつか見ていくことにしました。
先ずは『東洋大学百年史』の中から学祖である井上円了自身の言葉を二つ。

「私立哲学館始業式館主井上円了演説」明治二十六年九月十六日
抑も哲学館は今を去ること恰も七年以前文科大学即生速成教授の目的を以て開きたる者にして当時或は法科学の速成教授を目的とする私立法律学校即專門学校専修学校、英吉利法律学校、明治法律学校等の如き種々これありと雖も未だこれに対して大学分科中の文科の速成教授をなすものは一もなき有様なれば哲学館は即此目的を以て設立し文科の簡易学校もしくは速成学校として世に知らるるに至りしなり。
(『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・下』より)


「私立哲学館第十六年度始業式館主井上円了講話」明治三十五年九月十六日
日本にて私立学校の最も古きものは慶應義塾なり、之に次ぐものは早稲田なり、哲学館は又之に次ぐ、国学館は更に後なり、尚他の方面に於いては攻玉社あり、済生学舎あり各法律学校あり、然れどこれ本より類を異にする、いふべき限りにあらず、ただ私立学校の各益完全の域に達せんとするは大いに善、我が哲学館の如きも日を追うて完全に進み、特に大いに奮はんとするなり。
(『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・下』より)


当然のことながら井上円了は名門だなどとは言っておりませんが、他の実学系專門学校との違いは強調しております。

次は円了が幼いころ通っていた私塾の先生でもある、石黒忠悳の祝辞。


「私立東洋大学三十周年記念式典 顧問石黒忠悳祝辞」大正六年十一月十一日
余輩ハ本大学ヨリ所謂大政治家ノ出デンコトヲ希ハズ、又所謂大実業家ノ出デンコトヲ希ハズ、唯切ニ剛健堅実実践躬行、以テ一郡一村ニ師表タルニ足リ、以テ一郷一都ニ導師タルニ足ルノ教育宗教家ノ輩出センコトヲ衷心切ニ希フモノナリ。
(『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・下』より)

大政治家や大実業家を引き合いに出してくるあたりは、早稲田・慶応を意識してのことなのでありましょうか?



続いては円了没後になりますが、昭和七年の安藤正純の祝辞。安藤正純は浄土真宗大谷派の寺院の生まれで、哲学館に学んだあと更に草稲田の前身・東京専門学校に進み、卒業後はジャーナリストから政界へ転身したOBであります。

「東洋大学創立四十五周年記念式典 校友総代安藤正純祝辞」昭和七年十一月二十三日
私の通学して居りました時と今日とを比較して見ますと全く隔世の感があると云うても敢て差支えがない程隆盛になり、私立大学としては慶応早稲田の次には東洋大学と云へるのか云へないか知らないがその内容に於いては、慶応早稲田は出身者からボツボツ大臣も出しかかりましたが、この学校はまだ大臣を出して居りません、或いはなりかかって居る者は一人や二人あるかも知れませんが、併し大臣と言う者は偉い者かそれも分かりませんが慶応は財界の有力者を出して居ります、早稲田は種々の人が多方面に多数出て居ります、即ち、慶応は質に於いて早稲田は数に於いて各特色を持って居ります。
此の学校は数に於いても質に於いても或は慶応早稲田に譲るかも知れませんが大臣や実業家の俗物でなく精神的方面の教育界に多くの人を送って居りますし併し余り偉い教育家はありませんがその奥にある宗教家には幾多の人材を送って居ります、宗教界の管長と言ふ者が果たして偉いかと云ふ事は疑問でありますが…中略…官公私立大学多しと雖も此れ丈の管長を出した大学は東洋大学の外は絶対にありません、此の点に就いては慶応、早稲田に敢て遜色なしと云ふべきであります、此れは創立者たる井上円了先生の人格の倚らしむる所でありまする…
(『東洋大学百年史 資料編Ⅰ・下』より)


東洋大と早稲田の両方のOBでもある安藤正純はこの祝辞を述べた時点ではすでに衆議院議員で、戦後には文部大臣になりました。
まぁ、式典の挨拶という事で多少ユーモアを交えて語っているのでしょう…。



次に戦前に出版された学校案内の中から二つ。

『東京遊学案内』
館主は哲学を以て名の高き文學士井上圓了氏にして、三宅、國府寺、嘉納、棚橋、濱田、辰巳、石川、志賀の諸講師之を助けて熱心に教授せり。又行々は學科を高めて大學組織にする積りとかいへり。學士大家の此盛擧を賛成する者多しと聞けば、成功遠きにあらざるべし。(『東京遊学案内』明治二十四年刊)



『中学卒業修学顧問』より東洋大学の項
東京小石川の原町にある。もとは哲學館といった學校で、明治廿九年文學博士井上圓了氏の創立になる。三十九年前田慧雲博士が學長となって、今の東洋大學となった。私立大學中、小さいには小さいが異色ある學校の一つで、學科は大學部と專門部とに分かれ、各部は第一科、第二科に分かれる。修行年限は大學部四ヶ年、專門部が三ヶ年で、入學資格は、前述明治中央と同様である。
大學部第一科は倫理哲學英語を主とし、第四年になって東西の哲學殊に印度哲學を専攻させる。同第二科は國語漢文哲學を主とし、第四年に於いて支那哲學を専攻させる。
卒業後は中学學校、師範學校、高等女學校の教員免許状が成績次第で腑與せらるるが、その無試験検定を受くる學科目は、第一科卒業は修身科、第二科卒業生は國語漢文科である。次に、專門部も大學部同様、第一科第二科と別れて居て、第一科では倫理教育哲學英語を主なる學科とし、修身科、教育科の検定が與へられる。第二科は倫理國語漢文を主として教授し、修身科と國語漢文科の検定が得られる事になって居る。
大學部、專門部の外に研究科と聴講生といふのがあるが、研究科は修行年限が一ヶ年で、大學部、專門部を卒業して、中學教員の免状をもらひ得なかった人が更に検定試験を受くる爲に、入學するといふ風になって居る。聴講生といふのは正式に學校に入學せずに、或る學課を研究せんとする人の便利で、矢張、中等教員の試験の受験準備の人が多い。また、それに便利である。
要するに、この學校の特色は矢張、倫理哲學の方面で、學生には學者的研究に進まうとする人もあるが、多くは中學校女學校の倫理の先生である。東洋哲學を特色とするだけに國漢文の方もあるが、教員としての斯方面は國學院などの方が比較的評判がいい。
(『中学卒業修学顧問』大正三年刊)


時代は離れていますが両書ともちょっと毛色の変わった学校といった捉え方です。ただ、後者はからは哲学だけでなく教員免許という“実利”を求める学生も増加している様子も読み取れます。
で、“入學資格は、前述明治中央と同様である”ということなので、同書から明治・中央の該当箇所を見ると


大學部の入學資格も早慶に比較すると余程寛大で、矢張本科生、別科生の区別はあるが、本科生とは予科の卒業生、(本科生としての)と、外に、他の私立大學の予科即ち本科の予科と同程度以上の予科を卒業した人も編入する。更に又特別に入學試験を受けさへすれば、何等資格のない人でも入れる。其試験は予科卒業の程度を標準としたもので難しくない。勿論受験者は前述予科の本科生として入学し得る資格ある人に限る。次に別科生も之と同様であるが、唯、中學を卒業せずにも入學出来ること予科に説けると同様である。次に專門部の入學資格である
、之には正科生、特科生の区別があって、正科生の資格は予科本科生の資格と同様で、特科生といふのは別に何等の資格の必要なく、ただ國悟(片仮名交じり文)漢文(同文訓點)数学(四則、分数、比例)等の試験を受けて合格すればいい。又、士顯を受くれば第二學年以上に入學する事も出来、他の學校から轉學することも出来るようになって居る。
(『中学卒業修学顧問』より明治大学の項)

各部の入學資格は明治大學と相違なく、頗る寛大なもので、むしろ、どんな人でも入學出来るようになって居る。
(同じく『中学卒業修学顧問』より中央大学の項)


なんだか隨分簡単に入学出来たようでありますが、戦前の私学は大体何処も同じようなものだったようです。上級学校に進学する学生は限られていた上に和辻哲郎も書いていたように“官尊民卑の風”もありましたから、あまり間口を狭くしてしまうと授業料収入の確保も出来なくなってしまうという事情もあったようです。


続いて新聞記事を一つ見てみます。

―此頃の消息(六)東洋大學―
▲僧七俗三 經費その他の點に於て獨立大學を設立し得ざる二三の佛教各派の如きは自宗の生徒をこの大學に依託就學せしめて居る。現在學生二百五十名中七分迄は僧家の子弟で殘る三分が俗人である。從って其の氣風も他の學生に見る如き華々しく生きた所もなく輕浮な風潮もない何れも質朴に過ぎる程落ち着いて居る様だ。三十五年例の哲學館事件のため時の文部大臣より中等教育免状を取上げられ四年前に漸く再許を得たがその後の第一回卒業生にして免状を下付されたのは唯だ一人きりで本年四月には約三十名ばかりある卒業生の中から半数の十五名丈けは文部省に推薦が出來るだらうとの事だが僧家の人が多い丈け就職難の聲も餘り高くはない。
▲卒業生中で人からも成功を認められ自分も許して居るらしく思われるのは顕本法華管長本多日生氏、成田山住職石川照勤氏、日光輪王寺住職彦坂諶照氏等の外西蔵探検旅行の河口慧海氏、印度カルカッタに十餘年も止まって佛門修行に怠りなかった大宮孝潤氏、境野黄洋氏、高島米峯氏等である。斯ふした風に各宗の出身者が集まってをるから各自々宗の信仰を維持し自然校内の氣脈も色々に分かれて居るだらうと思う人もあるかも知れぬが此學校の生徒のみは然うした宗争的観念を持って居ない寧ろ各宗融合して佛教統一を計らうなどと意氣込む位であるそうな。故野口寧斉佐々木信綱氏等の如く全く方面ちがいの人もあったが創立當時は世人全く哲學の意味を解せず、又哲學思想の餘り普及して居らざりしため好奇心にかられて相當な地位ある人も入學した。また三並良氏等の如き熱心なクリスチャンが佛教研究の目的を持って入學した事もあるとの事だが現にニコライ神學校の學生が一名入學して居る。兎に角一個の特色を有する學校に相違ない。
(『讀賣新聞』明治四十四年二月四日)



戦前の新聞は“インテリの朝日、大衆の読売”だったと何かで読んだ記憶がありますが、七割が僧侶の子弟という記事は東洋大学=お坊さんの学校というイメージを大衆に植え付けたかもしれません。


では、この辺でそろそろ実際に東洋大学にかよっていた学生たちは母校をどのように見ていたのかをさぐってみましょう。

下記に引用したのは昭和八年発行の学内誌『東洋学苑』特別号からのもので、明治末・大正初期・大正中~後期に在学した三人の回想であります。



「明治末年の洋大」田中治吾平
前田慧雲博士が井上圓了博士の後を引受けて學長となられ、名稱も哲學館大學から東洋大學となった翌年に=其れは恰度明治四十年であったが=僕等は入學し四十四年に出たのであるから、明治の最後の洋大を學生として知った譯で、思へば早や四半世紀の昔となった。その頃の日本は日露戰役直後であって、東洋の日本から世界の日本として進出しつつある國運を擔ってゐた時代であったが、然し経済的には大不況時代であった。恰度其の時代のように當時の洋大は又大不況難境のドン底に喘いでゐたものである。中等教員の無試験検定は取り上げられ、一般の思想も宗教や哲學に理解が無かったから學生の數も二百未満であり、校舎なども狭小なもので、今日から見れば確かに隔世の觀がある。

僕らのゐた時代は、學校の最も衰弊時代であったが、其の代り、資格も要らぬ、學閥も欲しくないと云ふような靑年が集まってゐたようであり、學生の數が少なかった爲に教授と學生の間に親しみも深かったことは今日以上であった事と思ふ。(『東洋学苑』より)




「明治後期より大正初期までの母校の憶出」関寛之
大正三年學窓を出で、同十三年教授となり、二十年の歳月の大部分を母校に送った身には、形式の上こそ學生と教授との別あれ、心の連續には何の斷絶もないので、この石段も離れ難いものになってしまった。當時前田慧雲博士が學長で、全學生を擧げて二百に滿たない時代、電車や路上で同じ帽章に行遭う範囲は母校十數町の圏内に過ぎなかった。學生界に於ける肩身は頗る狭かった。其處此處にバラック式の古色蒼然たる建物があって、學生社会から取残された是等學生書生は、ただ霞を食って活きる世界の裡だけでカントやヘーゲルを論じていた。哲學館時代の俗流を他所に思想の奥深くはひろうとする稜稜たる學風は餘韻を存し、就職や免許状は問題でなかった。霞が食えなければ一箇寺の住職に歸ればよかった者が大多數だったからである。

當時、學生の多くは哲學者的であったので、或日、煙草の吸殻から校舎の一部が火を吹いたとき、郷幹事が消火器を持出して消止めた。その後永く火の出た穴が遺ってゐたが、哲學者達はそれを見ると「玄の又玄、衆妙の門」と稱しては悦んだ。一層燃えてしまふと新築になるのにと祈ってゐたのである。今、鉄筋コンクリートの建築を見る時、今昔の感にたへないものがある。級長を選出することは問題ではなかった。不勉強家で、おしゃべりで、遊んでもよいような男に推しつけたものである。今日のように社会的な空気は全く學生にもなく、廣く學生社会もなかった。娯楽も勿論なかった。今ではカフェーやバーがあって學生諸君の財布を絞ろうとしているが、その頃はミルクホールで牛乳一合に官報を讀む外はなかった。音楽趣味も低く、映画も流行せず、学友会もなければ、その中の部もなかった。(『東洋学苑』より)




「一時代に於ける東洋大學の文藝運動と文化學科の存立意義」柳井正夫
我々が、東洋大學に未だ一歩も足を振向けなかった以前、即ち大正八九年以前の、母校の我々に與へた印象は、譬へて見れば、ひどく燻んだ色彩―といふ一語に盡きるやうに思ふ。・・・(中略)・・・兎に角、時代思潮が、恰度、まだ私學といふものの存在価値を高めず、何といっても官學への一般の動向が強く且つ激しかったのと、もう一つは、古い傳統を、急ピッチに新しい時代へ向けて進んでゐた私立大學のある反面に、依前として舊套を脱せず、一つの殻の中に閉じ籠ってゐるといふ状態を東洋大學は持してゐたためであると思ふ。
假りに、例を早稲田なり明治なりにとってみる。我々が中學を卒業して專門學校に受験を志してゐた時分には、現在と違って、早稲田や明治は謂はば落武者の集まる學校で、到底一流の志望校とは云はれなかった。然るに、それが、一兩年を過ぎぬうちに官學に匹敵すべき私學中の権威と云はれるまでに一般の認識程度を昻めて行ったのはどういふわけであるか?
私はその原因のすべては知るよしない。が尠なくとも我々の眼に映じたところによれば、學校それ自體が時代意識にめざめて行ったためではあるまいかと思ふ。即ち、経営者である學校當局が、時代の動向をよく察して、それに適應する制度と學科目とを調べ、且つ、一方、抜け目ない宣傳につとめたためである。
東洋大學はその點遺憾ながら、彼等に一歩譲らねばならなかった。甚だ失禮なる申分ではあるが、東洋大学は文學といひ、哲學といひ、又宗教といひ、形而上の問題はあらゆるすべての學校を摩する程度までにその研究的立場を昻めて行ったとは云へ、一面からその存在価値を寧ろ低めて一般社会人に認識させるやうにつとめてゐたのではなかったか、とさへ思はれるのである。
忌憚なくいへば歸するところ、東洋大學は私學にとって最も重要であるべき、経営者にその人を得なかったのではあるまいか?(『東洋学苑』より)


三人のうち田中・関の両氏は小規模で地味な学生生活が感じられますが、大正九年入学の柳井氏が少々尖がった文章なのは、大正十二年の紛擾事件を経験して居るからでしょうか。
(大正十二年の紛擾事件についてはご存じない方は→和辻哲郎と東洋大学の野球…?をご覧ください)
柳井氏は卒業後も職員として残った方で、お気づきになった方もいるかもしれませんが、冒頭に載せた『学祖井上円了博士と東洋大学学術研究の一班』の編者であります。また、田中治吾平は神道講座、関寛之は教育学で卒業後は母校の教壇に立ちました。であれば、“白山の哲学”について少しは触れていてもよさそうなものですが、全文を通してもそのようなことは一切出てきません。


以上、色々と引っぱり出してみましたが、戦前の東洋大学のイメージは創立期から明治末頃まではお坊さんが多いちょっと毛色の変わった哲学の学校で、それが時代が経つにつれ教員志望者も増えていった地味な文系単科大学と言ったところでしょうか…。

確かに『学祖井上円了博士と東洋大学学術研究の一班』には“早稲田は政治、慶応は理財、白山は哲学―これを当時東都の三名門校と称した”との記述はありましたが、これは戦後になって言われだしたもののような気がいたします。

学生達には哲学者風の者も多かったようですから、“白山の哲学”も世間からそう呼ばれていたのではなくて、自分たちでそう呼んでいたのではないでしょうか。
それも、“東都の三名門校”のようなふんぞり返った物言いではなく、譬えて言うなら“銀座の慶応、新宿の早稲田、巣鴨の東洋”みたいな感じで…。

*5月22日追記
その後、『慶應義塾の光と影』池田信一著・WABE出版に
「理財の慶應」は非常に評判がよく、法科の帝大や政治の早稲田、工業の蔵前、商業の高商などと並んで、日本の高等教育機関の代表格とされてきた・・・中略・・・明治から大正時代にかけてのことである。
とあるのを見つけました。
ただ、いずれにせよ世間一般で広くこのように言われていたのではなく、せいぜい大学・高等専門学校進学を希望する人達の間で言われていたのに過ぎないようです。

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