*2021年8月15日:箱根駅伝出場者以外の学友会(自治会と文連と体育会を合わせたようなもの)や護国会(自治会と文連と体育会と学生課をあわせたようなもの)の名簿や会報、学内誌『思想と文学』作品掲載者などから見つけた戦没者を追加いたしました。
箱根駅伝に出場した戦没者
東洋大学における戦没者は2014年の時点で203名がわかっており、同年に発行された校友会120周年記念誌『東洋の軌跡』にその一覧が掲載されておりますが、戦前の箱根駅伝の記録などを調べているうちに、出場者の何名かがそこに記載されていることに気づきました。
昭和15年の“奉祝継走”は東洋大の学生が独自に取り組んだもので、当時の新聞記事は下記のように伝えています。
昭和9年の第15回箱根駅伝の7区に出場した田中栄次氏(昭和11年専門部倫理学東洋文学科卒)は、平成元年発行の『箱根駅伝70年史』の中で次のように当時を振り返っています。
学友会・護国会などの戦没者
『思想と文学』第四巻二号掲載、島田正六「富士を前にして」
在学中に応召した赤座金納氏の戦死を伝える『東洋大学護国会報』
『護国会報』第三号「雑詠抄」
丸田通男作カット
『護国会報』第七号「青蟲は生きてゐた」
東洋大学の戦没者の卒業年別の人数は下記のようになりました。昭和16年以降は修業年限短縮により卒業月はまちまちになっています
*その後、2015年に新たに一名が判明し現在確認されている校友戦没者は204名とのことです。
昭和17年の護国会幹事で昭和18年9月予科卒業、昭和20年7月5日にフィリピンのクラークフィールドで戦死した上原博氏のことが、昭和18年の学徒出陣で同地に出征した京大生・赤松信乗の手記『特攻基地の墓碑銘ー赤松海軍予備学生日記』出ていますので該当箇所を引用いたします。
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箱根駅伝に出場した戦没者
東洋大学における戦没者は2014年の時点で203名がわかっており、同年に発行された校友会120周年記念誌『東洋の軌跡』にその一覧が掲載されておりますが、戦前の箱根駅伝の記録などを調べているうちに、出場者の何名かがそこに記載されていることに気づきました。
宮芝義廣 | | |
昭和8年1月 | 第14回箱根駅伝 | 7区 11位:1時間28分02秒 |
昭和10年1月 | 第16回箱根駅伝 | 4区 13位:1時間28分12秒 |
昭和10年3月 | 専門部東洋文学科卒業 | |
昭和19年2月20日 | ニューギニア | |
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森藤加之 | | |
昭和11年1月 | 第17回箱根駅伝 | 8区14位:1時間36分24秒 |
昭和12年1月 | 第18回箱根駅伝 | 2区7位:1時間10分21秒 |
昭和12年3月 | 専門部倫理学東洋文学科卒業 | |
昭和16年3月3日 | 中華民国徐州 | |
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安藤文英 | | |
昭和12年1月 | 第18回箱根駅伝 | 3区7位:1時間22分18秒 |
昭和14年3月 | 専門部東洋文学科卒業 | |
昭和20年7月2日 | フィリピン・レイテ島 | |
……鶴見を4位で出た専修・斉藤選手は、後続の中大・若江、東洋大・森藤の後塵を浴びた……
……5位の立教・紅野選手と6位の東洋大・安藤選手は大接戦を続けて進んだが、藤沢の街に入って間もなく立教が競り勝った……
(『箱根駅伝70年史』第18回大会の項より)
安城敬二郎 | | |
昭和14年1月 | 第20回箱根駅伝 | 9区8位:1時間30分20秒 |
昭和15年1月 | 第21回箱根駅伝 | 9区6位:1時間22分18秒 |
昭和15年7月 | 宮崎、橿原、明治神宮間奉祝繼走 | |
昭和16年3月 | 専門部倫理学国漢科卒業 | |
昭和19年3月25日 | ボーゲンビル島名キナ(ママ) | |
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高瀬登 | | |
昭和15年1月 | 第21回箱根駅伝 | 2区6位:1時間14分12秒 |
昭和15年5月 | 第22回関東学生対抗選手権第三部 | 800m4位 |
昭和15年7月 | 宮崎、橿原、明治神宮間奉祝繼走 | |
昭和16年1月 | 第1回東京・青梅間大学専門学校鍛錬競争 | 4区6位:35分26秒(6哩=9.66㎞) |
昭和16年5月 | 第23回関東学生対抗選手権第二部 | 800m6位 |
昭和16年11月 | 第2回東京・青梅間大学専門学校鍛錬競争 | 2区(記録不明) |
昭和16年12月 | 専門部拓殖科卒業 | |
昭和19年6月15日 | ブーゲンビル島・ママガタ | |
昭和15年の“奉祝継走”は東洋大の学生が独自に取り組んだもので、当時の新聞記事は下記のように伝えています。
宮崎-橿原-東京間
東洋大學陸上競技部では紀元二千六百年奉祝記念事業として夏季休暇を利用し宮崎-柏原-東京間約二千五百キロの駅傳走破を決行、期日は廿五日から八月七日に至る二週間で参加十走者が毎日一區間づつリレーする。(『讀賣新聞』昭和十五年七月十四日付朝刊)
東洋大學奉祝繼走終る
東洋大學陸上競技部主催の宮崎、橿原、明治神宮間奉祝繼走は七日朝平塚から東京に向けて最後の走者が出發、午後一時二十八分無事品川神社前に到着したが、此處で汽車によって先着した池中、武智、石本、高岡、安城、高瀬、金光、渥美、小川、原の全選手が打ち揃ひ、共に走って日枝神社に参拝した後午後四時明治神宮に到着大繼走を無事終了した。(『朝日新聞』昭和十五年八月八日付朝刊)
昭和9年の第15回箱根駅伝の7区に出場した田中栄次氏(昭和11年専門部倫理学東洋文学科卒)は、平成元年発行の『箱根駅伝70年史』の中で次のように当時を振り返っています。
若き日の箱根駅伝
箱根駅伝、はるか遠い日の記憶である。50数年の時が過ぎ一緒に走った仲間も、戦争という時もあって殆ど生きていない。消息のわかっているのが私を含めて4名、その3人も健康をそこね、一緒に盃を傾ける日も既に望めない。
元来私なども中学時代はフィールドであった。ひやかし半分に出た学内マラソンで入賞したという事で長距離に引っぱりこまれた。私の大学が昭和8年、はじめて参加が認められその年が2回目であり選手を揃えるのに難渋していた。全く、今の学内選考会で出場者を選ぶのとは雲泥の違いである。
12月に入ると小田原での合宿。当時砂利道、雪どけの道、寒風肌を刺すという言葉がぴったりの中で毎日きびしい練習が繰り返された。しかし、この地に来て驚いたのは駅伝熱の盛り上がり、大人も子供も各大学の有名選手の名前、記録などを本当によく知っていた。私達はある部員の縁で御幸神社に近く、ここは小田原の花街の一角に一軒の空家を借りて合宿生活を始めた。料亭が並ぶはなやかな雰囲気の漂う街であった。
その頃日本中が皇太子誕生で喜びに沸き返っていた。思いがけなくも新春の駅伝は、補欠のつもりが7区小田原・平塚を走る事になった。山下りの河野さんが予想より早く中継所に現れ準備運動も十分でない私が無我夢中で駆けつづけた。襷を受取り平塚で手渡した事以外は全く何も覚えていない。
記録は勿論自慢出来るようなものでない。合宿所は花街の中であり、試合当日は正月でもあって多くの着飾った半玉や芸妓がたくさん応援に駆け付けた風景は異彩であった。今になれば苦しかったことすべて忘れ楽しい思い出だけが生きている。
後年軍隊生活に入り、陸軍の学校できびしく鍛えられたが、箱根駅伝の練習に耐えた私の人生では、他の人がいう程つらい感じは全くしなかった。その意味では肉体のみならず精神的にも駅伝によって随分育てられた。その時もらった参加章は、15周年記念であり随分立派であった。これだけは大切にしている。
学友会・護国会などの戦没者
大野隆輝 | |
昭和9年度 | 学友会唐手部幹事 |
昭和10年3月 | 専門部倫理学東洋文学科卒業 |
昭和14年2月24日 | 安徽省蔡家河付近 |
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星忠夫 | |
昭和12年度 | 学友会総務局委員長 |
昭和13年3月 | 文学部国文学科卒業 |
昭和18年6月30日 | 中華民国湖北省載家場 |
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山田好文 | |
昭和12年度 | 学友会賞罰委員長 |
昭和14年3月 | 文学部仏教学科卒業 |
昭和19年7月16日 | バシー海峡 |
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出海義大 | |
昭和13年 | 『思想と文学』編集室 |
昭和14年3月 | 予科卒業 |
昭和20年4月28日 | フィリピン・ルソン島クラーククエルト西方山地 |
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米北時末 | |
昭和14年度 | 学友会教育研究会幹事 |
昭和15年3月 | 専門部倫理国漢科卒業 |
昭和19年5月30日 | ニューギニア島アルソ |
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冨田健 | |
昭和13年 | 『思想と文学』に「北満移民の展望」掲載 |
昭和15年3月 | 専門部国漢科卒業 |
昭和18年9月30日 | 東シナ海 |
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島田正六 | |
昭和13年 | 『思想と文学』に詩「富士を前にして」掲載 |
昭和16年3月 | 文学部史学科卒業 |
昭和20年1月3日 | フィリピン・レイテ島タリサヤン |
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『思想と文学』第四巻二号掲載、島田正六「富士を前にして」
赤座金納 | |
昭和12年 | 学友会委員(哲学科) |
昭和14年 | 学友会委員(哲学科) |
昭和16年12月 | 文学部哲学科卒業* |
昭和16年9月19日 | 湖北省千古砦(在学中) |
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在学中に応召した赤座金納氏の戦死を伝える『東洋大学護国会報』
山下涌資 | |
昭和16年度 | 護国会射撃部幹事 |
昭和16年12月 | 専門部拓殖科卒業 |
昭和19年5月22日 | 小笠原諸島方面 |
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竹田惣一 | |
昭和16年 | 護国会宣伝部幹事 |
昭和16年12月 | 専門部拓殖科卒業 |
昭和20年8月16日 | 北満州璦琿東崗子 |
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大神俊文 | |
昭和16年度 | 護国会神道部幹事 |
昭和16年12月 | 専門部国漢科卒業 |
昭和19年6月4日 | ニューギニア島ホルランジャ附近 |
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細川博士 | |
昭和16年度 | 護国会講演部幹事 |
昭和16年12月 | 専門部拓殖科卒業 |
昭和20年6月16日 | ニューギニア方面 |
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奥井正一 | |
昭和16年度 | 護国会生活本部補佐幹事 |
昭和16年12月 | 専門部国漢科卒業 |
昭和20年6月2日 | ニューギニア・ピアク島 |
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柴田孝道 | |
昭和17年 | 卒業式・優等賞受領者 |
昭和17年9月 | 予科卒業 |
昭和20年6月20日 | 沖縄県 |
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石田光男 | |
昭和17年 | 昭和17年度特待生 |
昭和17年9月 | 専門部倫理国漢科卒業 |
昭和20年8月14日 | 沖縄宮古島陸軍病院 |
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木島琢也 | |
昭和17年 | 護国会総務本部企画部幹事 |
昭和17年9月 | 専門部倫理国漢科卒業 |
昭和19年12月8日 | フィリピン |
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龍村弘 | |
昭和17年 | 卒業式・優等賞受領者 |
卒業論文「阿弥陀仏信仰の原理的考察」 | |
昭和17年9月 | 文学部仏教学科卒業 |
昭和19年7月20日 | ビルマ国サガイン州 |
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阿由葉裕 | |
昭和14年度 | 学友会講演部幹事 |
昭和16年6月 | 護国会報第二号俳句研究会作品抄掲載 |
淋しき日 焦燥を春の 室(や)に鎮む | |
昭和16年10月 | 護国会報第三号俳句研究会雑詠抄掲載 |
梅雨の街 空しき路地が 在る悲し | |
昭和17年9月 | 文学部国文学科卒業 |
卒業論文「近世の地理文学に就いて」 | |
昭和20年5月10日 | ビルマ国シャン州モチ鉱山 |
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『護国会報』第三号「雑詠抄」
木本秀樹 | |
昭和16年6月 | 護国会報第二号短歌会詠草掲載 |
竹樋より 出づる水ひじ 飲み居れば | |
楽しみ語る 声近づきぬ | |
昭和17年9月 | 専門部倫理国漢科卒業 |
昭和19年7月18日 | マリヤナ島 |
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上原博 | |
昭和17年 | 護国会総務本部企画部錬成部補佐幹事 |
昭和18年9月 | 予科卒業 |
昭和20年7月5日 | フィリピン・クラークフィールド |
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丸田通男 | |
昭和16年度 | 護国会芸能部幹事 |
昭和17年度 | 護国会総務本部庶務部幹事 |
護国会報第四・五・六・七号カット掲載 | |
昭和18年9月 | 文学部史学科卒業 |
昭和20年2月20日 | マライ半島方面 |
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丸田通男作カット
李(捷)凱 | |
昭和17年7月 | 護国会報第七号 「青蟲は生きてゐた」掲載 |
昭和18年9月 | 文学部支那哲学科卒業 |
昭和19年10月15日 | ソロン |
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『護国会報』第七号「青蟲は生きてゐた」
一宮三郎 | |
昭和17年 | 護国会総務本部宣伝部補佐幹事 |
昭和18年9月 | 予科卒業 |
昭和19年10月23日 | 比島東方海面 |
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吉村修 | |
昭和17年 | 護国会文化本部出版部補佐幹事 |
昭和18年9月 | 予科卒業 |
昭和20年6月16日 | 沖縄本島与座 |
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金城毅 | |
昭和13年 | 『護国会報』映画評「“城隍堂”について」 |
昭和18年9月 | 文学部哲学科卒業 |
昭和20年5月15日 | 沖縄本島首里市東方運玉森 |
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東洋大学の戦没者の卒業年別の人数は下記のようになりました。昭和16年以降は修業年限短縮により卒業月はまちまちになっています
大正 | 13 年 | 3 月 | 1 名 | 0.5% |
大正 | 14 年 | 3 月 | 0 名 | 0.0% |
大正 | 15 年 | 3 月 | 1 名 | 0.5% |
昭和 | 2 年 | 3 月 | 1 名 | 0.5% |
昭和 | 3 年 | 3 月 | 0 名 | 0.0% |
昭和 | 4 年 | 3 月 | 3 名 | 1.5% |
昭和 | 5 年 | 3 月 | 1 名 | 0.5% |
昭和 | 6 年 | 3 月 | 2 名 | 1.0% |
昭和 | 7 年 | 3 月 | 2 名 | 1.0% |
昭和 | 8 年 | 3 月 | 1 名 | 0.5% |
昭和 | 9 年 | 3 月 | 3 名 | 1.5% |
昭和 | 10 年 | 3 月 | 7 名 | 3.4% |
昭和 | 11 年 | 3 月 | 4 名 | 2.0% |
昭和 | 12 年 | 3 月 | 15 名 | 7.4% |
昭和 | 13 年 | 3 月 | 11 名 | 5.4% |
昭和 | 14 年 | 3 月 | 13 名 | 6.4% |
昭和 | 15 年 | 3 月 | 8 名 | 3.9% |
昭和 | 16 年 | 3 月 | 8 名 | 3.9% |
昭和 | 16 年 | 12 月 | 22 名 | 10.8% |
昭和 | 17 年 | 9 月 | 20 名 | 9.9% |
昭和 | 18 年 | 9 月 | 40 名 | 19.7% |
昭和 | 18 年 | 11 月 | 21 名 | 10.3% |
昭和 | 19 年 | 9 月 | 2 名 | 1.0% |
昭和 | 20 年 | 3 月 | 5 名 | 2.5% |
昭和 | 20 年 | 9 月 | 8 名 | 3.9% |
在学 | 1 名 | 0.5% | ||
不明 | 3 名 | 1.5% | ||
203 名 | 100.0% |
*その後、2015年に新たに一名が判明し現在確認されている校友戦没者は204名とのことです。
昭和17年の護国会幹事で昭和18年9月予科卒業、昭和20年7月5日にフィリピンのクラークフィールドで戦死した上原博氏のことが、昭和18年の学徒出陣で同地に出征した京大生・赤松信乗の手記『特攻基地の墓碑銘ー赤松海軍予備学生日記』出ていますので該当箇所を引用いたします。
(昭和19年)十二月七日
S七○一のテントに内地よりの手紙、寄託品を届ける。僅か半月ばかり前に来た今田中尉(今田勝巳、中部ルソン島にて二十年七月戦死・宮崎県延岡市)、田中少尉(田中四郎中尉、S四○二・戦死・大阪市出身)、上原予備学生(上原博中尉、中部ルソン島にて二十年七月戦死・東洋大・豊島区堀ノ内出身)、河村予備学生(川村正三郎中尉、クラーク防衛戦に斬込み隊長として出撃・二十年三月戦死・早大在学・福岡市高畑新町)もすっかり殺気立った眼をしている。
(昭和20年)四月二十八日
二中隊が通過して行った。先頭今田大尉、田中少尉(田中久雄、S七○一・整備・二十年五月戦死・愛知県)、上原少尉の順で十二、三名になっていた。
二中隊はすでに自活態勢に入り、分散したらしい口ぶりだ。元気らしいが、ちょっと話して別れる。
(昭和20年)八月三十日
ほっとひと息つくところへ、陸軍兵六名まぎれ込む。
聞くと撃兵団高山連隊の者らしい。川北伍長を長とし、台湾出身者二名を含む…中略…気がつくと川北伍長が、上原少尉の名入りの雑嚢を所持しており、事情を聴く。
すでに今田大尉、上原少尉以下突破に失敗したらしい。上原少尉は、白重整曹長など部下三名と失敗後、川北伍長の小屋に同居していたらしい。
その後、行動を共にしたが、病死の由。
遺族からの手紙
故元戦闘第七○一飛行隊附
海軍中尉上原博母上原サト
前略 御いそがしい所早速御返事有難う御座いました。
御書面によりますと博がはかない最後を遂げましたとの事考えれば考える程、まことに夢のようで御座います。
なげいたとて帰らぬこととは思いながら親としてありし日の事が、次から次と思い出されてただ涙にくれて居ります。
知らぬ事とはいいながら、昨年七月に死亡して居るにもかかわらず何の不自由もなく過ごしていた事が思えば申訳ない次第です。
博が帰ってくると思えば仕事にも張合いがございましたが、もう帰らぬと思いますと、何もかも手につかず親子三人顔を見合わすごとに話は博の事になり淋しい日々を送って居ります……後略
昭和二十一年三月八日
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