先回のエントリー、「一級下のライバルは・・・:北島広行投手」の中でも紹介した日野伸一(一時泰宏と改名)投手は高校三年時の春の選抜大会に出場した際、千葉商大付の平沼、早実の荒木とともに“埼玉の無失点男・日野”として注目を集めていた。
当時の展望記事によれば、
ほかにも -快碗“関東3羽カラス”- ・-ビッグ3甲子園”腕比べ”-といった見出しが目につく。
チーム自体の評価も高く、総合力で“西の箕島 東の上尾、早実”と評価されていたが、皮肉にも初戦でその箕島との対戦となってしまった。
昭和57年3月29日:春の選抜一回戦
箕島100 300 020 6
上尾000 002 000 2
(箕)上野山-住吉
(上)日野-並木
(箕島は次の二回戦で初出場の高知・明徳と対戦、延長十四回の末これを破ったが、明徳のエースは翌年東洋大へ進学する弘田洵投手だった。
続く準々決勝ではPL学園に0-1で敗れてしまったが、PLの捕手はやはり翌年東洋大へ進学した森浩之捕手だった。)
日野投手の上尾は夏の大会でも埼玉の最有力候補に挙げられていたが、三回戦で姿を消してしまった。
東洋大学に進学した日野投手は一年春のリーグ戦から早速マウンドを踏んでいる。初登板は昭和穂十八年四月十三日の対亜大二回戦でリリーフで1イニングのみの登板だったが、五月五日の対日大二回戦では早くも先発に起用されている。
昭和58年5月5日:対日大二回戦
日 大001 000 010 2
東洋大010 000 000 1
(日)石井-宇田川
(東)日野-高津
勝ち星は逃したものの2失点完投、ただし被安打10だった。この試合は仁村徹投手の連続登板を42でストップさせた試合でもある。
この年は勝ち星なしの三敗。翌昭和五十九年も春二勝二敗、秋は二試合のみの登板で勝ち負けなしであった。
このような状況で迎えたのが、「一級下のライバルは・・・:北島広行投手」でも触れた昭和六十年春の優勝であった。この時の優勝を伝える『東都大学野球連盟七十年史』には日野投手について次のように書かれている。
秋のリーグ戦では二勝三敗、翌六十一年春のリーグ優勝、大学日本一も同じ左腕の保坂投手の陰に隠れてしまった。
やはり高校時代に痛めたヒジの影響があったのであろうか。
大学では不本意な成績に終わってしまった日野投手だが、冒頭でも述べたように高校時代の評判は非常に高く、当時は無名だったある左腕投手の進路にも影響を与えていたのである。
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関連エントリー:一級下のライバルは・・・:北島広行投手=東洋大野球部の歴史―人物⑥
当時の展望記事によれば、
・・・(平沼に)次いで左の日野(上尾)。制球力があり、27試合で無四球試合11、与えた四死球は一試合平均1.07個。奪三振は一試合平均8.9個でトップの平沼に続いている。昨年九月以来、公式戦では70回連続無失点。甲子園では「100回連続無失点」に挑む。(『毎日新聞』昭和57年二月十四日付朝刊)
ほかにも -快碗“関東3羽カラス”- ・-ビッグ3甲子園”腕比べ”-といった見出しが目につく。
チーム自体の評価も高く、総合力で“西の箕島 東の上尾、早実”と評価されていたが、皮肉にも初戦でその箕島との対戦となってしまった。
昭和57年3月29日:春の選抜一回戦
箕島100 300 020 6
上尾000 002 000 2
(箕)上野山-住吉
(上)日野-並木
「世間は広かった」-上尾・日野、さわやかに出直し誓う-
○・・被安打8、うち長打5本で6失点。”今大会ナンバーワン”の日野にとっては不本意な内容だったに違いない。初回、いきなり杉山に初球をたたかれ二塁打、送りバントと磐田の左犠飛であっさり先取点を許し、70イニングも続けてきた無失点記録が途切れた。「杉山に打たれたのは直球。つまらせたのでうちとったと思ったのに・・・。だけど点を取られてホッとする気持ちもあった。これで自分のピッチングができると思ったんです」。点を取られて悔しくないはずはないのだが、周囲に騒がれる無失点記録の重みはかなりの圧迫だったのだろう。(『毎日新聞』昭和五十七年三月三十日付朝刊)
(箕島は次の二回戦で初出場の高知・明徳と対戦、延長十四回の末これを破ったが、明徳のエースは翌年東洋大へ進学する弘田洵投手だった。
続く準々決勝ではPL学園に0-1で敗れてしまったが、PLの捕手はやはり翌年東洋大へ進学した森浩之捕手だった。)
日野投手の上尾は夏の大会でも埼玉の最有力候補に挙げられていたが、三回戦で姿を消してしまった。
・・・埼玉の強豪・上尾は土壇場の九回裏、逆転サヨナラ3点本塁打を浴びて鴻巣に屈した。・・・
-頼りの日野はひじ痛-
埼玉の強豪・上尾が、伏兵鴻巣に敗れ、甲子園出場の夢を砕かれたが、エース日野はひじ痛のため、速球に伸びがなく、持ち前の制球力にも欠ける状態だった。
三回、二塁打などで1点を失い、昨年秋から県内で続けていた無失点記録も、百九回三分の一でストップしたわけで、試合後、野本監督は「ひじが痛くても日野に投げさせるしかなかった。こんな調子では、たとえ勝ち抜いたとしても、甲子園では通用しなかっただろう。日野に頼りすぎたようだ」と寂しげだった。(『朝日新聞』昭和五十七年七月二十四日付朝刊」
東洋大学に進学した日野投手は一年春のリーグ戦から早速マウンドを踏んでいる。初登板は昭和穂十八年四月十三日の対亜大二回戦でリリーフで1イニングのみの登板だったが、五月五日の対日大二回戦では早くも先発に起用されている。
昭和58年5月5日:対日大二回戦
日 大001 000 010 2
東洋大010 000 000 1
(日)石井-宇田川
(東)日野-高津
勝ち星は逃したものの2失点完投、ただし被安打10だった。この試合は仁村徹投手の連続登板を42でストップさせた試合でもある。
この年は勝ち星なしの三敗。翌昭和五十九年も春二勝二敗、秋は二試合のみの登板で勝ち負けなしであった。
このような状況で迎えたのが、「一級下のライバルは・・・:北島広行投手」でも触れた昭和六十年春の優勝であった。この時の優勝を伝える『東都大学野球連盟七十年史』には日野投手について次のように書かれている。
・・・不調のエース・北島に代わって投手陣の軸になった左腕の日野も一時は野手転向を言い渡されたが、そこから奮起して一人前になったのが大きかった。
秋のリーグ戦では二勝三敗、翌六十一年春のリーグ優勝、大学日本一も同じ左腕の保坂投手の陰に隠れてしまった。
やはり高校時代に痛めたヒジの影響があったのであろうか。
大学では不本意な成績に終わってしまった日野投手だが、冒頭でも述べたように高校時代の評判は非常に高く、当時は無名だったある左腕投手の進路にも影響を与えていたのである。
「・・・実は、本当は東洋大に行きたかったんです。でも、同期に日野という投手がいて、彼は高校(埼玉・上尾高)時代「関東ナンバーワン左腕」と呼ばれていたんです。同じ左だし、4年間、2番手投手になるのはイヤだった。違うチームで、彼を越えてやろう。そう思って亜大に進みました。日野投手は心のライバルでしたね。」
(『東都大学野球連盟七十年史』所収、「プロで活躍のOBが語る私の東都・現役時代」 阿波野秀幸選手の項より)
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