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羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

紀伊國屋書店

2006年07月31日 19時56分09秒 | Weblog
 先日のブログで、書店に行って本を求めると書いた。
 ある方がインターネットで買い物をしている人のように思っていたので、意外だったといわれた。

 アマゾンはお気に入りに入っていて、重宝に情報をいただいている。それを見てから、紀伊國屋書店のホームページで在庫を確認して、本店か南口店かを調べて、出かけることにしている。ない場合には電話注文をしておく。
 時間があるときには、本店のエレベーターで最上階まで昇って、そこから一階ずつ階段で降りながら各階をまわってみる。一階までたどり着くまでに、相当な時間を要するし、本も重くなっている。

 先日は、そこまでできなかったが、必ず行くところは新書コーナーである。
 ここは社会の傾向が見えるので面白い。
 養老孟司先生の本が、このコーナーのいちばん目立つところを席捲している時間は長かった。例の『バカの壁』以来、最近まで続いていた。
 ところが先週の21日木曜日に行ったときには、このコーナーから養老先生の顔写真が消えて、安倍普三官房長官の顔が、所狭しと並んでいた。政治家の顔写真が表紙になる本がここにあふれるのは、近年なかったことだ。とにかく養老先生のご尊顔ばかりを拝していたのだから。

 目的の本をインターネットで注文して、近くのコンビニに取りに行くのも忙しいときにはいい。しかし、書店の中の雰囲気で、時代の流れや人々の関心、今の売れ筋を、「○○」に作ろうとしているのか、といった書店側の意識は、現場に行ってみなければわからない。言語化できない、暗黙知・身体知で本を味わう楽しさってあるわけで。
 書店ごとに、力を入れる傾向が微妙に違っているから、それもウォッチングすることは楽しい。

 そうは言っても、いちばん近い紀伊國屋書店・本店にでかけることが多い。
 とりわけ本店に出かける理由がある。それは子供のころから愛着があるからだ。昭和30年代はじめ、今のビルになる前の紀伊國屋は、正確な記憶ではないが、石造りのような建物で、正面入り口が道路から奥まっていた。そこまでにブロマイド屋や化粧品店や雑貨屋などがあったように思うのだが。
 で、店の商品を眺めながら、書店の中に入ると、幅の広い階段があって、吹き抜け天井の高さが気に入っていた。そこに重々しく本が並んでいたのだった。
 
 理由はわからないが、当時の私は、本の匂いを嗅ぐのが好きだった。本の背表紙を見ながら、本のにおいを嗅ぐと、とても落ち着く。そういった空間だったことだけは、間違いのない記憶だ。
 
 紀伊國屋書店は、子供のころの遊び場のひとつだった。

持続可能・サステナブルということ

2006年07月30日 20時18分48秒 | Weblog
 今朝、片づけをしているとき、テレビの音声が耳に入ってきた。
「世界一のシェアを誇る、日本のハウスメーカーで、トップ営業マンの方にインタビューします」
 なんとなく聞き流しつつ、そこからもっと離れていった。
 すると次に聞こえてきた言葉にハッとしたのだった。
「むにゃ、むにゃ、つまりサステナブル、むにゃ、むにゃ、むにゃ、むにゃ」
 サステナブルという言葉だけが、やけに大きく聞こえたのだ。

 住宅の建築にも持続可能というコンセプトがあるらしい。
 手が離せなかったので、テレビのところまで引き返すことができなかったが、なんとなく聞こえてくる内容から察するところはこういうことらしい。
 なんでも阪神大震災の経験から生まれたコンセプトらしい。
 家は壊れなくても、家の中のものが倒れて使い物にならない状態に陥ったということから、「免震構造」を真剣に考えたという。
 それが持続可能・サステナブル住宅(←この命名は羽鳥)ということ。耐震構造+免震構造を兼ね備えることで、それまでの生活を持続可能にする住宅建設という視点は、目から鱗だ。

 すでに企業が「サステナブル・ライフ」を実現するための研究を始めていて、実際に市場に出回っていることに、驚きを覚えた。
「たしかに、持続すること・継続することは、むずかしいよね~」
 
 ところで、折りよく近藤早利弁護士からいただいた本は『人にはどれだけの物が必要か』鈴木孝夫著作集8 岩波書店。昨日、朝日カルチャーの土曜日クラス・野口体操講座でテーマにした問題と一致していた。
 ここまで徹底した暮らしができるというのも、才能だと思いながら読んでいる。
 
 そこで、鈴木氏の右に倣って、どのくらい自分の身近に古いものや親譲りのものがあるのか、記憶を辿ってみた。
 まず、座っている周辺に目を向ける。 
 目の前にあるのは、プリンター。これはキャノンのレーザーショットでモノクロを未だに使っている。パソコンになってからずっとだから、もう10年は優に超えている代物だ。文字印刷だけしかない私には、これで十分なのである。
 そして、このパソコンコーナー環境を作っているものは、いちばん古いもので大正15年の机。パソコン台にしている板は戦前のもの。その足にしているものは、30年前のステレオスピーカーの木製台。キーボードの台も戦前の真四角い座卓だ。

「結構、あるある!」(と、内心、結構、負けてないじゃない、と思うのだが、甘い、甘い、のである)

 特筆すべきは、特別なお出かけのときにはめる時計だ。これは母からもらったオメガの手巻き時計。希少価値がでているので、滅多にはめないことにしているお宝だ。お出かけの前にネジを巻くと、何日間かは、正確に時を刻んでくれる。現役である。

 鈴木孝夫氏と張り合ったら、戦う前から負けは明白だが、使えるものは多い。

 
 さぁ、ググッと下腹に力を入れて、いただいた本の続きを読むとしよう。
 半端じゃないのよ、鈴木家の暮らしは!

サステナブルな身体への道程

2006年07月29日 20時35分16秒 | Weblog
 今日は、新しい発想を得ることができた。
 レッスンをしながら、はじめはなんとなく感じていたのが、最後のころには、かなり明確な発想に膨らみ始めていた。

 それは何か。
「身体のサステナブル(持続可能)ライフスタイル」という発想だ。
 たとえば脊柱は、美しいS字形を描くことで「直立」と「二足歩行」という能力をを、ヒトという種に与えてくれた。ところが年を重ねるごとに、体形はからだの後ろ側、背中側から崩れていく。
 また膝が曲がった状態が、常態となることで、余分に力を入れないと、立つことも歩くこともできなくなる。そのことが股関節周辺を、一層、硬くしていく。
 ネガティブな相乗効果が働いて、からだ全体は崩れていくことになる。

 野口体操では、「ヒトのからだ」は骨が重さを受けてくれる状態・骨に近いところで姿勢を保つ「姿勢維持筋」が程よく働き、あとは余分な筋力を使わずに姿勢が維持され、ぶらさげられているところが出来るだけ多いときに、すっきりとまっすぐ(S字形を維持する)な姿勢が可能だと考える。
 考えるだけでなく、具体的な動き方をそういった価値観で探っていく「探り方」まであって、「野口体操」なのだ。

 ヒトのからだに、自然が与えた「立つことの基準」を、できるだけ長く持続可能な状態に置く「身体のサステナブル・ライフ」への提案をしているということもできそうだ。
 
 老いを避けることは誰にもできない。老いに抵抗することぐらい無駄なことはない。老いを認めつつ、自然から与えられた理想形を、無理をせずに維持する体操として野口体操があるのもいいかもしれないと、朝日カルチャーでの土曜日クラスのレッスンをしながら感じていた。
 
 なぜ、ヒトという種は立つことが可能になったのか。
 歩くことが可能になったのか。
 ヒトに与えられたからだの構造が大きくかかわっていることを図で説明した。
 ヒトのような構造をもたないかぎり、どんなに訓練して、どんなに人から愛されても、ゴリラの構造では直立は不可能なのだ。ゴリラを貶めていっているのではなく、そうではなくて、ゴリラにはゴリラの、ヒトにはヒトの限界があるということを明らかにみるということだ。
 つまり、自然の掟は厳粛に引き受けるしか、生きものにとって生きる道はないという自覚を持つこと。それが「サステなブル・ライフ」をはじめる最初の一歩だと思う。そこを押さえておかないと、どこかで破綻するだろう。

「サステナブル・ライフ・スタイル」を求める基本は、生活の価値観を変えること、それ以前に身体観を変えることが求められるだろう。
 身体のサステナブル感を持たないかぎり、どんなにライフスタイルを変えてみても、それは表面的なことに過ぎない。身体のサステナブルを無理なく実現するヒントを野口体操は与えてくれる体操なのだということを、レッスン中、皆さんの動きに対する対し方を見ながら、新しい野口体操のベクトルを感じとっていた。
 しかし、自分のなかで、はっきりとした言葉にならなかった。そのことがなんとなく心残りのまま住友ビルを後にしたのだが。

 どうぞコメントをください。

ウェブ進化論

2006年07月28日 12時58分15秒 | Weblog
 今朝、延び延びになっていた植物の手入れがほぼ終わりに近づいたとき、本が来た。
 特に読みたかったのは、『ウェブ進化論』梅田望夫(もちお)著・ちくま新書、『Web2・0でビジネスが変わる』神田敏晶著・ソフトバンク新書である。(ソフトバンクが新書を持ったなんて、昨日まで知らなかった! 私は、何をしていたのだろう?)
 丁度、今日の朝日新聞に、「ネット新時代 何をもたらす ウェブが変える」西垣通氏+梅田望夫対論が載っていた。

 これから本を読みつつ、この世界を少し知っておきたいとおもっている。
 インターネットで買い物をすることはしないことにしているが、インターネットを重宝に使わせてもらってはいる。
 
 たとえばこの記事にもある「ウィキペディア」のデータは、百科事典にもないような情報もあって、面白いし、参考になる。自己責任で使うには、問題は少ないと思う。そういう意味では、以前のように新しい知識の体系がほしいときに頼りにしていた古本屋のご主人(すでに亡くなってしまって、あれほどの本の知識を持った人はいなくなっている)や、書店の棚をざっと見て何冊か集めてくるということが少なくなった。
 パソコンの前に座って、電源をいれ、検索すれば居ながらにして、第一段階の情報は得られる。その上、この記事でも言われているように、辞典や百科事典などにはないローカルな情報も知ることが可能になった。

 以前、五木寛之さんが『思想の科学』で、「辞典」の話をなさっておられた。
 70年代の「思想の科学」だが、当時の五木さんは辞書や辞典をあまり使わないということだった。つまり彼が描く小説の世界では、業界用語・流行の若者言葉や隠語や仲間内だけで通じる符丁といった、辞書に載りにくい言葉を大切にするから、という理由だった。
「記録は消える、記憶は残る」ということおっしゃる五木さんだと、そのインタビュー記事に、ナットクしたはつい数年前のことだった。

 で、新聞記事に戻ると、「世界中がワールドカップのスターの情報なら詳しいのに、自分の町のサッカーチームのヒーローを知らない」というのは、異常なことだと西垣氏は語っておられる。
 大きな力をもつようになったマスコミにのるのは、有名人や有名商品だけという時間は結構長かった。その意味では、ブログ情報は、個人情報でありローカル情報なのだから、よりきめ細かい情報を私たちは得やすくなっている。

 野口体操公式ホームページを最初に公開したのは、1998年初夏のことだった。野口三千三先生を失った年、四十九日を終えたところで、追悼からはじめた。
 実は、先生がご存命中の前年、1997年にはすでにホームページの準備を始めていて、いつでも公開できる条件は揃っていたのだ。ところが先生のご病気と亡くなられたことによって、公開を見合わせていた。
 当時は、まだまだ大企業でもホームページを公開しているところは数えるほどだった。
 そうした経緯の中で、インターネットとは早い時期から付き合ってきた私にとって、このウェブ進化論は非常に興味深いテーマである。

 西垣氏が指摘しておられるように「グーグルで検索できるものは、記述的、分析的な知識に過ぎない。これらはむろん大切だが、人間は言語化できない暗黙知や身体知、直感という能力を持つ」
 まさに、今、私が、「これからの野口体操」を考えるときの問題点がここにある。
 
 暗黙知・身体知・直感・からだで覚えるといった世界について、立教大学で3年間、「身体知を探る」という講義に参加させていただいてそれなりに考える機会を得た。言語化・記号化できない領域をテーマにしてきたのだが、数ある技芸のなかにあって、野口体操は「自分の身体」に立脚したテーマを提示することができて、いつも講座のトリをつとめてきたことの意味を考えると、ひとつの答えが見えてくる。
 それは、実に、現代のテーマだ。

 さっそく2冊の新書を、読むとしよう。

宅配サービス

2006年07月27日 19時17分57秒 | Weblog
 今日は、新宿紀伊国屋本店で、本を買った。
 五木寛之さんが出された『新・風に吹かれて』というエッセーが、どのようなものかを見に行きかたがた何冊か選んだ。
 やはり書店に行くと、ほしい本が目に入って、ついつい買ってしまう。今日は、他にも買い物があったので、少なめに選んだ。
 で、カウンターにもっていくと計算をしてくれた店員さんが
「5千円以上お買い上げの方には、無料宅配サービスがございます」
「エッ」
 以前は1万円以上だった。それで、本はまとめ買いをして、そのサービスを利用させていただいていた。
 それが5千円でサービスが受けられるとは、思ってもいなかった。ぎりぎり選んだようだった。
 
 それらの本は明日午前中にも届く。
 アマゾンやその他、インターネットで買う人がふえたのかな~、紀伊国屋さんも大変だなどと思いながら、次なる買い物に移動したのだが。

 なぜ、書店に行くのか。
 本は手にとって選びたいから。装丁や表紙の手触り、紙の色や文字の大きさ、もちろん内容も含めて、自分の感覚で選びたい。確かに積読に終わる本もあるが、実際にたくさんの本を目にしながら、選ぶことが好きなのだ。小さな町に暮らしているのでない。大都会に住んでいるのだから、出かけていかなくちゃいけない。何事も足を使わなくちゃ。歩けば思いもよらないものまで出会うことができるのだから。

 とにかく宅配サービスが受けられるのだから、本はまとめ買いに限る。
 これで夏休みの本の半分はそろったのかな?!

サステナブル・ライフ

2006年07月26日 09時26分56秒 | Weblog
「サステナブル・ライフ」という言葉をご存知だろうか。
 私がこの言葉を知ったのは、先日、インタビューを受けた『月刊・省エネルギー』(財・省エネルギーセンター)だった。
 この冊子に環境企画・松村眞氏が「サステナブル・ライフ 2020年、過程と社会のすがた」という連載をされている。
 エネルギーを大量消費する「現代の恐竜」となった人間の暮らしを考える連載である。
 地球と自然環境と調和したサステナブル(持続可能)で、快適なライフスタイルの未来像を描くものだ。

 地球環境と人々の暮らしに関して、もうひとつ『原子力文化』(日本原子力文化振興財団)「エントロピー 現代と江戸」石川英輔氏の連載も毎月興味深く読んでいる。
 江戸時代の暮らしが、理想的な循環型社会をつくり、エネルギーを無駄使いせず、いかにサステネブル・ライフを実現していたかがわかる。
 徳川300年・江戸の暮らしに戻ることはできないのだが、「なるほど」と納得はいく。

 サステナブル、つまり持続可能というテーマは、何事においても共通するものがある。
 野口体操を支える考え方や価値観を、日常の暮らしに生かすことが出来たら、地球生物としてのサステナブル・ライフが実現されることは間違いない。

 毎月送られる「原子力文化」と、最近何冊かまとめていただいた「省エネルギー」、2つの月刊誌に目を通しながら、エネルギーを食いつぶしエントロピーを増大させる一方の人類に、自然から鉄槌が下される日を想像する「イマジネーション力」をいただいている。

 とはいえブログの文章を書くにも、電力を消費しなければならない現状をどうのように考えるのか? 
 しかし、あまり禁欲的になってしまうと、生きることも難しくなってしまう。
 ほどほどのところで、まずは、「サステナブル・ライフ」をキーワードに、「野口体操のこれから」について、未来像を描いてみることにしよう。

本音トーク

2006年07月25日 19時30分48秒 | Weblog
 朝日カルチャーセンター・火曜日の講座で、『原初生命体としての人間』を読みながら行うレッスンの二回目が終わった。
 現代に生きる人間にとって「死の判定基準」と医療の問題を、突っ込んで話すことができた。人生経験が豊かというだけでなく、深く物事をお考えになる方々のお集まりだけに、聞いてくださるまなざしの真剣さに、本音トークが引き出された。

 野口先生がなぜ野口体操のような考えと体操を生み出されたのかといった問題を、先生をご存知ない方々にお話できた。
 朝の時間はからだも疲れていないこともあり、日常の仕事の前でもあり、充実感が皆さんにあふれておられるようにお見受けした。
 
 もともとこのクラスは、今年の1月からはじまった若いクラスだ。はじめは拙著『ことばに貞く』を私のテキストとしてレッスンを続けたこともあり、自然な形で本を読みながらの在り方に移行できた。
しばらくこの方法で続けてみたいと思っている。

 野口体操は、いろいろな幅のある奥行きのあるレッスンの在り方が可能だということを、昨今、経験しているが、まさかこのような在り方が可能だとは、思ってもいなかった。
 
 来週が待ち遠しいと思うのは、私だけなのかしら?

生卵を立てる

2006年07月24日 20時04分58秒 | Weblog
 社団法人・日本女子体育連盟から「月刊・女子体育」という機関誌がでている。
 野口三千三先生も昔この機関誌に寄稿されていた。私も2度ほど依頼を受けて書かせていただいた。
 東京で記念大会が開催されたときには、シンポジウムにもよばれたことがある。
そのときの基調講演は、『身体の零度』の著者・三浦雅士氏だった。「人間のイメージ力」について語られた。
 シンポジウムには、鴻上尚史氏を誘って出演したことを懐かしく思い出す。それは野口三千三先生没後の出来事だった。

 そんなご縁から、「女子体育」が、毎月送られてくる。
 先日、7・8月合併号が届いた。
 巻頭言「運動のよろこび」日本女子体育連盟理事長・片岡康子先生に続いて、「芸術と身体」布施英利氏の文章が載っていた。美術解剖・舞踊における「立つ」ということ・鈴木忠志のメソッドについて語った上で、彼はいう。
『そこそこのバランス感覚と忍耐さえあれば、誰でも「卵を立てる」ことはできる。しかしこれだけで終わってしまえば、ただの趣味人である。もちろん野口三千三は、これで話を終わらせない』
「卵を立てる」という行為とそのことを行ううちに実感する「身体感覚」をもって、「立つ」ことの本質を、野口三千三は解き明かしていると語る。
 布施氏は、日本の伝統舞踊・現代演劇、そして体操について「立つ」ことをキーワードに、『体は芸術の基本なのだ』と結論づける。

『不安定を創り出す(バランスを崩す)能力は動きのエネルギーを創り出す能力である』
 これは『原初生命体としての人間』の一行であるが、野口先生は、晩年は、次のように言い切った。
『崩れこそ動きの原点である』と。

 ぜひ、『原初生命体としての人間』の「生卵との対話」をお読みいただきたい。
 そして、実際に「生卵を立てる」ことを試みていただきたい。
 野口体操は、動的な可能性を潜めた「立つ」ことを探る体操だとも言える。

 日本女子体育連盟ホームページアドレス:ブックマークからどうぞ

 http://wwwsoc.nii.ac.jp/japew/index.html

8月の「野口三千三を読む」について

2006年07月23日 09時49分34秒 | Weblog
 朝日カルチャーセンターで行っていた「野口三千三を読む」、昨日の講座で、一応内容は一区切りにして、前のブログでも書いたように、8月26日(土)に予定している最後のこの講座では、これまでの話を基に、新しい資料を提示して、今現在私が考え悩んでいる「これからの野口体操」をお話しながら、ご参加くださった方々と意見交換をしてみたいと思っている。

 野口三千三先生没後の道を辿ってみると、着実に歩いてこられたという思いを抱いている。支えてくださった方が、身近にも遠くにもいらしたことが大きい。
この「野口三千三を読む」という講座も、どのような在り方をしたらいいのか、手探り状態ですすめてきた。そうした講座に、我慢強く出席し続けていただき、つたない話を聞いてくださった方に「まるごと全身」で感謝している。

 10ヶ月の間に、見えてくることのなかから、『原初生命体としての人間』にこめられた野口先生の思いの一端が、しっかりとつかめた実感がある。
 第二章までを読み終えて、やっと緒についた感じがする。昨日も、次の講座がなければあのまま2時間くらい話し合う時間を持つことができたら、相当内容を深めることができたに違いない。なんとなく後ろ髪を引かれる思いを、皆さんがお持ちになったような印象を受けている。

 昨日のテーマは、昨年10月22日の第一回目のときに提示した問題に、しっかりかえっていったところに、野口先生の「野口体操探求」の方法論が浮かび上がったと思っている。あの時は、「なぜ、こんなものを見せるのか」と訝しく思われた方も、昨日お配りした資料と照らし合わせ、取り上げた第二章と照応していただくと、意味の深さが増すことと思っている。

 締め切りがなければ文章がかけないのと似ていて、この講座がなければ、資料を整理することも、一歩すすめることもできなかったと感じている。
 いずれ、「野口三千三を読む」講座は、再開したいと考えている。

暮らしは100年前の王侯貴族並!?

2006年07月22日 20時29分11秒 | Weblog
 地球温暖化の影響なのか、ヨーロッパでは猛暑が続き、フランスでは猛暑のために80歳以上の高齢者が、多数亡くなっているということをニュースが報じている。 日本では豪雨によって山崩れや鉄砲水などによる人的被害が拡大している。
 野生動物の世界では、たとえば北極に生息する白熊が減少しているのは、氷河が溶けていくことによる獲物の減少が原因に挙げられている。

 早急に化石燃料を燃やし続けるエネルギーについて、真剣に対策を講じなければならない時期に来ていることは、一般常識になりつつある。
 しかし、実際に足元の暮らし方一つ振り返ってみても、難しい。
 
 ところで、先日いただいた月刊誌に興味深い表現があったのでご紹介したい。
「私たちの毎日の暮らしは、100年前なら、王侯貴族レベルである」という。
 具体的に数字を挙げている。
 先進国に住む人が、自動車や電気冷蔵庫、工場を稼動させて便利で快適な暮らしを得るために、化石燃料を燃やしているが、その量が年間210億トンもの二酸化炭素を排出しているという。

「皆さんも食事をとって一日約1㎏の二酸化炭素を口から吐き出しています」と論者はいう。
 世界中の人数を60億人と計算すると、気が遠くなるほどの二酸化炭素を排出していることになる。

「もちろんこの二酸化炭素は植物起源なので循環する二酸化炭素ですが、ちょうど化石燃料の十分の一を、人間が呼吸によって吐き出していることになります」
 
 さらに続けて
「これは人類が便利な生活をするために、二酸化炭素換算でひとりあたり約10人のエネルギーという「奴隷」を持っていることを示しています。これは世界平均でして、日本では一人当たり25人、米国では55人の奴隷を使っている計算になります」
 この論者の槌屋治紀氏(システム技術研究所所長)。
 
 なんでもこの数字は、100年前の王侯貴族のような生活だという。
 そこで、この状況を変えていくことが非常に大切だとこの話を結んでおられる。
 
 以上の出典は、月刊『省エネルギー』財団法人・省エネルギーセンター、Vol58 №1 2006年1月号「石油依存経済からの脱却;日本の可能性」。

 すでに産業革命以来、0・6度Cの気温上昇がみられる。これから破滅的な変化を引き起こさないために、この上昇を2度C以内にとどめる必要があるといわれている。そのためには、二酸化炭素排出量を現状の20~30%以下に低減する必要があることを説いているのである。

 いやはやとんでもないところまで、人間の文明は歩き進んでしまった。
 果たして江戸時代に生活を戻すことが可能だろうか?!

講座:野口三千三を読む

2006年07月21日 13時22分00秒 | Weblog
 昨年の10月から、月に一度、「野口三千三を読む」という講座を、朝日カルチャーセンターで行っていた。
 この講座は、今期:7月期で一区切りをつけることにした。
『原初生命体としての人間』を第二章まで、読み進んだ。
 開講当初は、どのような在り方をしたらいいのか、迷いながら準備し、第一章に関しては、『原初生命体としての人間』が世の中に出てくる社会的背景と、野口先生個人の思い等々を中心に話をすすめた。

 第二章に入ってからは、現在、一般教養書のレベルではあるが、野口先生が本を書かれた時代では知ることが出来なかった、科学的な成果と照らし合わせて、読むことができた。非常に画期的で、私自身、よく理解できなかった問題を、深めることができたと感じている。

 ある研究が進むには、時間がかかる。それが一般に読める形で出版されてくるまでには、さらに時間がかかる。そのような意味から、今回、この講座を持つことができたことは、貴重なことだったと自分なりに評価している。

 仕切り直しをして、またいつか復活させたいと思っているが、今度はもう少し一般的な社会性を持たせて読むことにしたい。という気持ちになったのは、昨日のインタビューにもかかわりがありそうだ。
 
 さて、今期は、明日の7月分と8月の二回で終わることになっている。
 一応、第二章を読み終えて、8月には「これからの野口体操」というテーマで、今、私が考えているいくつかの問題を、皆さんに提示して、意見交換をさせていただきたいと思っている。
 
 準備に取り掛かる前に、自分の気持ちを整理するためにも、このブログに一言。

だから赤字になるの?

2006年07月20日 19時38分35秒 | Weblog
 今日は、珍しいものに出会った。
 月刊誌のインタビューを受けた後、会議室からでて、事務所を通って帰ろうとしたときのことだった。あるものに目が釘付けになった。
 入ってくるときには、気がつかなかった。
 さもありんなん。
 これからインタビューがはじまることだし、カメラマンの方もいて、写真も撮るわけだから、多少の緊張感があって、目に入らなくても不思議はない。

 ざっと、2時間。野口体操について語った。
 正確に言うと「からだの省エネ」と「社会の省エネ」について、野口体操の視点から語るものだった。
 とてもいい雰囲気で話がすすみ、カメラマンの方の偶然にも同い年の方だったこともあって、時代の空気が共通していて空気が柔らかかった。

 さて、話し終わってわたしが見たもの。それは自転車である。一輪車ではない。あまり大きなものではない。何段ものギアチェンジができそうなものでもない。サイクリング用? とも違う。スピードがものすごく出そうな感じでもない。しかし、どっしりとした雰囲気は、いい感じなのである。
 乗ってみたい。
 この自転車だったら、乗ってみたい、という思いに即座に駆られた。
 色はネービーブルー。その深い色合いが、落ち着きをかもし出している。 
 ふと見るとローバーと書いてあった。自転車のタイヤはなるほど、ローバー社の四輪駆動車やジープのタイヤを小さくしたような感じである。

 はじめは、正直いって自分の目を疑った。
「あのローバー社が、自転車を作っているのですか」
 そばに立っておられた初老の男性に向かってたずねた。
「日本なら採算の合わないものは、最初に製造中止になるんですが、ローバー社は、この自転車も作っているんです」
「まぁ、赤字続きで、中国の会社に買収されたローバー社が、自転車をね~」
 思わず顔を、見合わせた。
 彼は、だまったまま頷いた。

 父が乗っていた「クーパーミニ」は、ローバー社が作っていた。マニュアルで、若い人にとっては運転は難しい。しかし、ファンがいて根強い人気を保っていた。最近といっても数年はたつだろうか。新しいデザインに変えて「クーパーミニ」が製造されている。
 なんといてもイギリスの色。グリーンに白のツートンカラーが、気に入っていた。友人も新しい機種のクーパーミニに乗っている。色も同じイギリスのグリーンと白のツートンカラーである。

 とにかくクーパーミニを髣髴とさせるその自転車に出会えたことに、幸せ感をもらった。
 初老の男性も私の喜びように、顔をほころばせてくださった。
「このよさ、特別ですよね」
 ことばをお互いに交わすことはなかったが、共通の価値観を一瞬にして感じあっていた。
 
 理屈ではよくわからないが、一台の自転車にこれほど惹かれるなんて思いもよらないことだと苦笑しながら、建物の外に出ると、今にも雨を運んできそうな風が、ヒューと音をたててからだを掠めていった。
 自転車への思いを胸に、八丁堀から地下鉄に乗り込んだのは、5時少し前のことだった。

毎週・火曜日の夜のこと

2006年07月19日 19時43分07秒 | Weblog
 毎週火曜日の夜7時25分から、NHK・ETVで、「スパー・ピアノ・レッスン」という番組が放送されている。
 今、ミシェル・ベロフというフランス人ピアニストが、フランスにある小さなお城で、レッスンをしている。
 ドビュッシーやラベルが終わって、7月に入ってからは、メシアンの曲を取り上げている。

 実に懐かしい。
 高校生のころフランスピアノ音楽の楽譜は、なかなか手に入らなかったことをこのブログでも書いた記憶がある。著作権が生きていて日本の出版社では出すことができなかったからだ。もうひとつ手に入りにくい理由がある。それは日本ではドイツ音楽が、戦前からの主流であったことが影響している。

 ところで、戦後、昭和24年、新制大学になった東京藝術大学に、フランス留学経験があってフランス音楽を学んでこられたピアニスト・安川加寿子先生が着任されて、日本の音楽界にフランスピアノ音楽が導入された。
 野口三千三先生も、同じ年に芸大に赴任され、安川先生と教授会で一緒になられたと伺った。
「ほんとうに若くてきれいな女性だった。その上品な雰囲気に、滅多なことでは話しかけられない感じだったのよ。実際、そのころ、言葉を交わすことはなかったんだけどね」
 安川先生は日本の新制大学のなかで最年少の教授ではなかっただろうか。

 その安川先生が編集されたドビュッシーの楽譜が、音楽の友社から出版されたのが、高校生のころだった。まだ、全曲ではなく、少しずつふやしていかれたから、やはり輸入版も使わざるを得なかった。注文して3ヶ月。船便で到着するまで待つということもあった時代。昭和40年代初めのころのことだった。

 いまや、極東日本のテレビで、メシアンのピアノ曲のレッスンまで放送される時代になった。
 一方で、ドイツではクラシック音楽を聴く人口が少なくなって、オーケストラが財政難に陥って、下手をすると閉鎖に追い込まれるところも出始めたという記事を、最近になって新聞で目にした。
 日本では、日本のオペラ協会が立ち行かなくなっている。その代わり本場のオペラが頻繁にやってきて、日本にいながらにして楽しむことができるようになっている。
 いずれにしても西洋クラシック音楽事情が、ここ10数年くらいの間に大きく変わったことだけは間違いない。

 そうしたなかで、ミシェル・ベロフのレッスンをテレビで見られる時代になったことに感慨を覚えながら、毎週、火曜日夜7時25分には、必ずテレビの前にいて、その時間だけは、10代後半から20代の若き日に遡ってしまっている。
 フランス音楽の世界に新鮮な驚きを抱きながら、ひたすらピアノに向かっていたころに。

話題二つ

2006年07月18日 13時56分12秒 | Weblog
 まず、一つ目の話題。
「化粧品の世界では、超微粒子が席捲」
 デパートの一階は、どこでも化粧品売り場が、売り場面積のほとんど占めている。外国の高級化粧品もあって、門外漢には何がなにやらさっぱりわからない。しかし、どの化粧品会社のものでも、共通に超微粒子が使われているらしい。
ところが最近になって、本当のところナノの微粒子が皮膚に与える影響を、懸念する意見もあるそうだ。皮膚に浸透して吸着したときに、一体どうなるのかわからないからだ。
 なにごともほどほどがよさそうだ。

 スメクタイトの微粒子を扱ってみると、「マスク着装のこと」という注意の意味もよくわかす。とにかく細かい。細かい粉が舞ってそれを吸い込むとなかなか取れないからだ。
 ものの大きさと振る舞いの関係は、微妙で複雑なことらしい。
それが判ってきただけでも、粘土鉱物に関心を持った意味はあると思っている。

 二つ目の話題。
 今日、火曜日の午前のクラスでは、初めての在り方でレッスンを行った。
『原初生命体としての人間』野口三千三先生の著書を読みながら、レッスンをするというもの。
 テーマは、「野口体操では動きをどのように捉えているのか」。
 で、どのようにやるのかというと、本をその時間だけひとりずつ貸し出し、本を使ったレクチャーと実技を混ぜ込んだレッスンを試みてみた。
 終わってみたところで意見を聞いてみた。
 すると、難解な『原初生命体としての人間』が、すごくよくわかると好評だった。
 今後は、いかがなものかと問いかけておいたら、続けてほしいという意見をいただいた。

 ということで、朝日カルチャー火曜日のクラスでは、今日のやり方でしばらく続けてみたいと思っています!

石鹸としての粘土鉱物

2006年07月17日 19時22分50秒 | Weblog
 今、スメクタイト水分散液の実験を中心になって行ってくださっている美術家の方から、粘土をいただいた。原産国はモロッコ。成分はモロカン・ラバ・クレイ。
商品名は「ガスール」大地からの贈り物。
 で、何をするものかというと、石鹸・シャンプーである。
 お風呂に入って使ってみた。
 お肌ツルツル・お肌スベスベ!!
 
 実は「スメクタイト」という粘土鉱物は、ギリシャ語で「石鹸」を意味している。「サポナイト」というものもある。これはローマのサポの丘で産出する粘土が、髪や衣服の汚れを取ってくれることを知った人々が、やはり石鹸代わりに使ったところからついた名前だそうだ。

 人は、暮らしの中で粘土鉱物が有機物を包み込んで、水や湯に溶けてはがれることを昔から知っていたらしい。
 
 電車のなかで「二つの黒」と銘打って「泥」と「炭」を混ぜ込んだ、毛穴の黒ずみを落とす製品の広告をこのごろ目にしている。神田うのさんに似た女性が、鼻にこのパックをのせている写真がついている。
 もちろんかなり以前から「泥パック」は、エステの常識になっている。

 粘土鉱物の親水性・膨潤性・揺変性は、人間の生活の中で生かされているものだということが実感になってきた。
「超微粒子の粘土鉱物は、いろいろな物質やイオンを吸着する性質を持つ」と物の本に書かれているが、この性質こそが、生命の起源にかかわっていく重要な鍵になっていることも頷ける。

 もうしばらくスメクタイト実験は、試行錯誤を続けそうだ。
 よろしくお願いします。