元日の朝10時からNHKラジオ第一放送「高橋源一郎 平成文学論」を聞いた。
聞きながら、ハッとさせられた。
恥ずかしながら、平成になってから、文学と名のつく作品をほとんど読んでこなかったことに愕然としたのだった。
文学論の俎上に乗る作品はもとより作家の名前も知らなかった・・・・・
唯一と言ってもいいかも、平野啓一郎作品 擬古文で書かれた『日蝕』、ショパンにちなむ『葬送』、赤坂真理作品『東京プリズン』と『箱の中の天皇』を読んだことがあるくらい、まさに文学貧困状態であった。
しかし、まったく知らない作品の文学論でも、それを聴くことで平成という時代を再認識させていただいたことは恩恵である。
弁解に過ぎないが、あえて言ってしまう。
平成10年に野口三千三を喪ってから、次々と父の闘病や母の介護と繋がって、文学に遊ぶ時間はとれなかった。
さらに、没後に引き受けた野口体操の授業や講座では、文学とは異なった分野の本、最近では「野口三千三伝」のためになる本を必須にしていたらしい。
というわけで、話を聞きながら、失われた30年が恨めしくなった。
さて、二時間の文学論では、文学者の皆さんが紡ぎ出す濃密な言語(日本語)に触れて、とても豊かな気持ちになれた。
三部構成の中身は次のようであった。
1、「戦後の終わり・成長の終わり」ゲスト・平野啓一郎
2、「ジェンダー・性的役割の変化」ゲスト・赤坂真理
3、「3・11」古川日出男
高橋源一郎さんが赤坂真理さんをお相手に、ゲストの作家さんとのやりとりを交えて平成を、そして次の時代を描き出すという番組。
なかでも作家自らの朗読が三人三様で、俳優さんとはまた違った味わいがあったことは特筆しておきたい。
番組を通してテーマとなったのは、インターネットやSNSの普及、9・11のテロ、東日本大震災、大きな事件や事故が起こる。
つまり自然災害や事件が重なるにしたがって、平成の文学が舵を切りなおして大きく変容していく過程が、明確にあぶり出されていった。
細かい内容は省くけれど、示唆に富んだ話の連続の中なら、いくつか備忘録として書き残しておきたい。
夭逝の作家・伊藤計劃のSF作品『虐殺器官』を取り上げて語られたことは衝撃だ。
そこから導き出された一般論にも通じることは、野口の戦前・戦中を考えるにあたって、示唆に富んでいた。
母や妹、家族のの命を守るため、あるいはお国のために、戦場に散ることを厭わない心情(強制的に近代国家によって植え付けられた愛国心)は、近代以前の利益集団・専門集団の戦争とは一線を画したものである、という話には刮目させられた。
国家のために、一般市民が戦争に行くということは、歴史の中では最近のことなのだった、と。なるほど、そうか!
近年は、国家の民営化、軍隊の民営化、民間軍事請負業者も出現しているおぞましさである。
いや、それ以外でも、ドンパチの戦争でなくても、経済戦争によって社会を構成する全体が軍隊になり戦場と化した。
若者が、学生が、黒づくめの就活服に身を包んで、企業に適応し、会社に出征し、そのことをよしとする社会現象には、以前から異議申し立てをしたかった、が、いざ、そうするとなると自分の中でも足を引っ張る自分がいたのが現実だった。
さらに、平成以前の文学が描き出さなかった作品群が、紹介されたことは私にとってありがたかった。
文学論を通しして平成を振り返るよすがとさせてもらえるから。
そこで、赤坂さんが作品でも描き、番組でも発言されていた。
「先の戦争で負けて、プライドを失い、(心身)に深い傷をおった男たちを、慰めてこなかったのではないか」
確かに、敗戦後も生き残った男たち、敗戦後の生まれた男たちは、企業戦士として没個性を生きざるを得なかった。
傷が癒されないままに、である。
裏を返せば、正常な日本社会が醸成されるはずがない、という指摘であろう。
ごく最近のこと。そうした中高年が築き上げた男社会の閉塞感を避けて、海外に出て行き、起業を試みる若者が現れていることに、人間として希望を感じるのは私だけではなさそうだ。その行為が危険を伴うものであっても、そうする若者が出現しない限り、いつまでも閉塞感の穴に落ちていくことに甘んじるなんて、勿体ないと思う人間に救われるのである。
それでも、社会の歪み、堪え難い暴力・戦争、マニュアル通りに行動し企業社会の一員となることで安息を覚える逆説が語られる平成の文学は、明らかにそれ以前の文学とは異なった時代の産物である。
同時にそれ以前の社会の負の側面を引きずったところも描き出していること知らされた。
殊に、「3・11」では、原発事故と水俣に流れている通奏低音として、石牟礼道子作『苦海浄土』について触れていらしたことに、ドキドキ感を覚えた。
石牟礼道子作品については、別の機会に、お話を聞きたいと思う。
何ともまぁー、だらだらと、まとまりなく書いてしまったが、最後に希望をもらったことを書いておきたい。
昨年末、私はユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス』上下巻を読んだ。
情報工学と生命工学といったテクノロジー進歩の先に、“常なるアップグレードができない無能人間集団”が生まれる悪しき可能性の記述に、暗澹たる思いに駆られていた。
打つ手はないのか?
いや、そんなことはない。
打つ手を、この二時間の「平成文学論」でいただいた。
「文学だけが文学ではない」という赤坂真理さんの言葉だ。
政治も社会も言葉・文字を持つことで、政治文学も社会文学もありうる。
普通の言葉で語っていくこと。
一人一人の中に切実に思うものが必ずやあるはずだから、苦しくても表現していく。
あらゆるところに言葉があることを自覚して「文学だけが文学ではない」、そうした思いの言葉を持つ人間を増やしていこうではないか、といった趣旨。
作家の役割は、個々人が身体のうちに宿している様々な思い、焦燥、悲しみや喜びや・・・・そうした全てをひっくるめて「文学以外のところでも言葉にするサポート」をすることで協働することができるはず、とおっしゃる。
そうすることが、ビッグデータの一データでしかない自分という存在をが超多数に埋没してしまう恐れから、自分(個人)を救い出す唯一の方法かもしれない、と高橋源一郎さんと赤坂真理さんの最後の話を受け取らせていただいた。
人は捨てたものではない。
視覚や聴覚以外にも、味覚・嗅覚・触覚、つまり直接触れる身体の感覚に気づき・育て・磨き育てる場をもっと大切にすることが、「文学だけが文学ではない」実現の一歩なのだと、我田引水の私であった。
そこにテクノロジー進歩に押しつぶされない人間の希望があるのではないだろうか。
今日のところは、これくらいで・・・・未完成ブログ。