羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

巡礼……八月十五日を前に……

2016年07月24日 11時30分05秒 | Weblog
 野口三千三のクロニクルを書くつもりではなかった。
 が、いつの間にか、時代をさかのぼって巡礼をはじめている。
 
 なぜ、あのような体操に育っていったのか。
 なぜ、体操に「ゆり・ふり(揺・振)」といった在り方が入っているのか。
 なぜ、力を抜く、ゆらゆら体操になっていったのか。

 戦時中は日本が戦争で負けないために、小学生に対して強い兵隊になるために、どのような体操を、どのように教えていったらよいのか、を徹底して考え抜いて、指導をしていた野口である。

 終戦直前には官立・東京体育専門学校で、銃後の国民を守るための体育の研究と実践を行っていた。
 敗戦後はGHQが要望する「民主主義にふさわしい人間を育てるための体育」を研究した。
 その流れの中で、江口隆哉・宮操子舞踊研究所に入って、モダンダンスの研究をおこなった。
 
 調べれば調べるほど、複雑に絡み合った歴史の重さを実感する。

 野口の人生は終戦を境に、180度の転換をみせる。
 戦前と戦後、二つの時代を生き抜いた体操指導者として、社会的な背景のなかで野口体操を新しく捉え直してみたい、と思ったのが巡礼のはじまりである。

 さて、連日、時間を見つけては、手元に集まった本を読んでいる。
 昨日の朝日カルチャー土曜クラスでは、『兵士のアイドル 幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争』押田信子著 旬報社を紹介した。皆さんにはご迷惑と思いつつも、土曜日にはこの路線を変えないでいる。
 さて、本のテーマは『戰線文庫』を中心に展開されている。1938(昭和13)年9月に創刊され、終戦間際まで7年間継続して出版・配布された海軍兵のための雑誌である。

 実は、先ほど、『戦線文庫』の復刻版が届いた。復刻版の紹介がAmazonにあるので、その文章をそのままここに載せることをお許しいただこう。

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「戰線文庫」は、旧日本海軍省の監修による戦地の将兵を慰め、かつ戦意の高揚をめざして発行された月刊誌である。編集を民間に委託し、昭和13年から昭和20年の終戦間際にかけて7年ほど、海軍の将兵一人ひとりに無償で配布していた。報道班員の戦況報告など戦時下ならではの記事もあるが、ごく大衆的な娯楽読み物を中心とした雑誌である。当時の人気女優が巻頭のグラビアを飾り、菊池寛・長谷川伸・吉屋信子などの一流作家や漫画家が、世相や風俗をそれぞれの筆致で表現している。合本保存されていた58冊の中から、第3号(昭和13年発行、B6判)と第53号(昭和18年発行、A5判)の2冊を紙の様式、版型等を含め完全復刻した。また『「戰線文庫」解説』として、巻頭にノンフィクション作家・橋本健午氏による解説、残る56冊すべての表紙と目次を掲載、年ごとに年表を表示し、その時代および雑誌として特長ある記事等を復刻した。これによって時局の対比、戦時下、国民が味わった空気感を今日の読者に知ってもらうことができるだろう。復刻版解説
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 戦争を生きた世代の話として「慰問袋」のことは、何となく聞いている。
 このように戦地に送られた慰問袋や、戦地への慰問団派遣、そして海軍の『戦線文庫』、陸軍の『陣中倶楽部』等々は、国民の献金や寄付からつくられたことを『兵士のアイドル』で知った。
 陸軍にも海軍にも「恤兵部」という部署がおかれていた。
 そこで集められた「恤兵金」(じゅつぺいきん)という言葉もはじめて目にした。
『「恤兵)」とは、シュチ、ジュツ、あわれむ、情をめぐらす、うれえる、気を配る。人の難儀を気の毒がって、金品を恵む。「血」は全身くまなく巡る「ち」のこと。心+血。心のすみずみまで、思いめぐらすこと。』藤堂明保 学研『漢和大字典』にある。

『軍隊や軍人に対する献金や寄付、またそれらを送ること。戦地に直接届けられるものとしては慰問袋が有名で、故郷を離れて生活する兵士たちにとって数少ない楽しみであった。雪の進軍に詠われた「恤兵真綿」は日露戦争当時の代表的な慰問品である。旧日本軍それぞれに恤兵部がもうけられ、国民からの寄付を取りまとめて、軍需品の購入や設備の更新、慰問団や兵士の福利厚生などに充当した。』 Webにも解説がある。

 現在では死語となっている言葉で、殆どの日本人は見たこともない「恤」という文字だろう。
 なんと恤兵金は、1933年には陸軍に700万円、海軍に100万円が集まって、陸軍愛国機75機、海軍報国機28機に当てられたらしい。

 押田さんは書く。
《7年間もの間、発行維持の根っこには軍部の親心というか、ヒューマンなものがあると感じてならない。軍隊はよくもあしいくも大家族のようだったとは、戦争体験者によく聞く言葉である》
 実質的に最終号か、と思われる77号は、1945(昭和20)年3月発行である。
「どこがヒューマンなのだろう?」
 読みながら「?」マークが私の目の前に現れた。

 もう少し続けたい。
 さっき手に入ったばかりの1943(昭和18)年3月発行の『戰線文庫』第五十三號の復刻版を見ている。
『帝國海軍と新戰略態勢』海軍大臣 嶋田繁太郎寄稿から始まって、川口松太郎、菊池寛、長谷川伸、等々の小説、『大東亜戰争戰線・銃後ニュース』『戰線慰問讀物』漫談・浪曲・新作落語・明朗漫才、そして陣中将棋までも掲載されている。
 グラビア、挿絵、漫画、漢字にはルビがふられ、難しい文字も楽に読めるように配慮された200ページの雑誌である。
 軍が監修していた。しかし、内地で行われていたさまざまな統制とは裏腹に、この雑誌に関しては、自由な表現が許されたことが見て取れる。

 実は、ずっと気にかかっていたことがある。
 今、復刻版のページをめくりながら、気がかりを超えて、複雑な思いへと変貌していくのを感じる。

 1938年(昭和13)年、ちょうどこの『戦線文庫』が創刊された年の士官学校予科の英語の入試問題は、軍人の心構えに関する和文英訳問題が出題されている。『英語と日本軍』江利川春雄著NHK出版より  
《From old days the Japanese(people)have considered its a disgrace to surrender to the enemy.They would rather die for their country than be captured ,and they think this the glory of Bushido. 》

 一ヶ月ほど前に、1941(昭和16)年1月、東條英機が示達した「戦陣訓」、『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ』の先駆けになるような内容が入試問題となっている、という指摘を読んでいた。
 このことと、『戰線文庫』から受ける、内容もさることながら、全体から醸し出される明るくユーモアに溢れる印象とのギャップである。
「戦陣訓」を胸に、戦いの場にある兵士が、まずこの雑誌の表紙を飾る若い女性の絵を見たらどのような思いを抱いたのだろう。
 戦況が厳しくなって負け戦が重なって来るときになっても、雑誌のトーンをおとすことなく、継続して200ページをつくり続けたその真意は、なんだろうか。
 私のなかで「?」マークが、さらに大きくなっていく。

 アメリカは太平洋戦争開戦から僅か1年後には、日本の敗戦を予測して、占領政策を具体的に検討しはじめていたという。それに引き換え日本の軍部は、何を見、何を聞、どんな戦略を立てていたのか。
 ますます「?」マークが巨大化する。
 
 終戦と同時に消えてしまった幻の雑誌『戰線文庫』と『恤兵』という言葉。
 復刻版を見ながら、戦時を生きた日本人の暮らしが、以前よりは具体的に感じられるようになってきた。

 まだ、考え続けよう。
 考え続けるためにも、野口三千三が生きた戦時の日本をもっと知りたいと思う。
 
 
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一本の鉛筆 一枚のザラ紙

2016年07月10日 10時40分06秒 | Weblog
 7月10日、選挙の朝、FBで見つけました。
 美空ひばりが歌う「一本の鉛筆」
 終戦後の物資不足、戦争によって愛する人を失った女性の思い。
 
「一本の鉛筆」に「一枚のザラ紙」に託した思いをそっと胸に抱きました。
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いよいよ女性のための雑誌をつくる……とと姉ちゃん、そしてアメリカ「兵隊文庫」のこと

2016年07月07日 08時18分13秒 | Weblog
 本日の朝ドラは、闇市で印刷所に持ち込む紙を買ったお話。
「500円だ!」
 10倍にふっかけられた紙を40円で手に入れた三姉妹が、意気揚々と引き上げるラストだった。

 さて、三島由紀夫も小説を出版したいために、祖父の手づるで紙を用意していた。
 というように、本を出すにも紙不足は深刻な戦中、戦後である。

 実は、一昨年ころから、Amazonで終戦直後の雑誌や本が手に入るようになっ。
 どれもわら半紙のようなザラザラの紙である。
 それでも出版できる、というだけで運がいい、というわけだ。

 先日も朝日カルチャー「野口体操講座」土曜日クラスに、昭和22年12月30日発行の本を持参した。
 グレーがかったダークブルーの地にフレアスカートがくるぶしまであるドレスを身にまとった女性が、ダンスするイラストの上方に、赤の文字で『舞踊』と書名がある。その脇には女性の色と同じ色で『學校に於ける』とあり、著者名も同色で『江口隆哉』と書かれている。

 教室で手に取った方々は、それぞれに感慨深気な様子でページをめくっておられた。
「おー、やっぱこの時代かー」
 317頁の本である。
 ちょうど本日の「とと姉ちゃん」が独立して雑誌をつくりはじめる時代なのだ。

 野口三千三が江口・宮舞踊研究所に入ったのが、昭和21年末のこと。
 宮さんは
「いつまで二人で議論してるの!」
 叱責しにくるほど、夜を徹して熱く語った結果が、この一冊にこめられている。
 稽古場の二階が、二人の激論の場であったらしい。なんと階下におきっぱなしになっていた野口の鞄が泥棒に持っていかれたと伺った。
 当時は玄関にぬいである靴までも盗まれた超物不足の時代である。

 この本の内容については、別の機会に譲るとして、最初の持ち主は表紙に蔵書印を残している。
『富山駅前 田中久雄蔵』
 出版社は明星出版。住所は神田鎌倉町13番地。
 現在は内神田という地名にかえられている。この町名は豊臣秀吉によって江戸を託された徳川家康が江戸城普請のために材木を運び入れた場所の名だと千代田区のホームページに書かれている。

 いずれにしても昭和21年、22年の終戦後に、本や雑誌の活字に“日本人の心の踊り”を、追体験する心地でページをめくっている。
 書店が町から消えて久しい。
 出版が危うい今の時代に、「とと姉ちゃん」が描く時代の本が狂おしいほどに愛おしい。

 今週は、一冊の本に出会っていることを最後に記しておきたい。
『戦地の図書館』モリー・グプティル・マニング著 松尾恭子訳 東京創元社である。
 ナチスによって1億冊の本が焚書された。アメリカはナチスの心理戦に対抗するため文芸書、ミステリ、娯楽本まで戦地の兵士に送り届けた話である。「兵隊文庫」として1億2300万冊が出版されたという。
 ついさっき読んだところは、日本軍が迫って来る敗色の濃いフィリピンで戦った4人の兵士の物語であった。
 アメリカの兵士も「捨て駒」として消耗されていく様を、戦争を美化することなく描いている本まで戦場におくったのだ!『They Were Expendable(彼らは使い捨て)』1942年11月」最初の必須図書として選定された。
《兵士には世界でおきていることを知る権利がある》ということで推薦図書になったという。

 ルーズベルトの言葉がある。
《私たちは皆、本が燃えることを知っているーしかし、燃えても本の命は絶えないということも良く知っている。人間の命は絶えるが、本は永久に生き続ける。いかなる人間もいかなる力も、記憶を消すことはできない》
 メモリサイド(記憶の虐殺)に対抗したのが、兵隊文庫だった、と書評にあった。
 勝戦運動の一環としてであったとしても、戦地におくる文庫は検閲を行わず、自由に兵士に読ませた。
 もちろん敵国の作品も含まれていた。

 戦争の向き合い方の違いに思いを馳せながら、野口三千三の戦中・戦後を、今、私は、調べている。
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二人瞑想……二人坐禅……やわらかな背骨を取り戻す

2016年07月05日 14時49分38秒 | Weblog
 このところ興味深い本が次々と手に入って、時間があくとページをめくる日々が続いている。
 ブログ更新が出来ないまま、7月の声を聞いてしまった。

 さて、2014年9月に全国大学体育連合主催の「大学体育指導者全国講習会」で、先生方に紹介した「背中の対話ー股関節周辺の柔軟性を求めて」という動きが、最近になって新しい展開をみたことを報告したい。
 背中の柔軟性をもとめて二人で行う運動は、人は他者のぬくもりであたためられ、背骨を中心に背中全体からからだの中心部までほぐれ、結果として「やすらぎの動き」が気持ちよくなる、という動きである。

 まず、最初に行うことは、背中合わせになって骨盤を立て、背中が触れる姿勢をとる。
 この時、一人では骨盤を立てることができなくても、二人になると不思議なくらい骨盤がたってくれる。仙骨の在処が自分自身の仙骨も相手の仙骨も、共にはっきり自覚できる。
 その時の姿勢は両足を揃えて伸ばしておく。その姿勢で、相手の重さを受けたり、相手に重さをゆだねたりすることを何回か繰り返す。

 次に、軽く開脚しその姿勢で、重さのやり取りを行う。このとき絶対に無理をしないように。人によっては重さのやり取りをはやめにしておくことが大切。足もそれぞれの条件によって伸ばした状態ではなく、膝からかるく曲げられていてもかまわない。

 しばらくやり取りを行ったら、最初の姿勢に戻って背中の状態を味わってみる。
 自己主張をしていた相手の背骨や背中の硬さがとれて、あたたかさに包まれ、相手の境目がなくなって、蕩けだし、浸されて、いつまでのその姿勢を続けていたくなる。
 この時、相手に寄りかかっているのではない。骨盤は立った状態が維持できて、背骨はすっきり伸ばされていて、自立しながら優しく寄り添っている実感が湧いて来る。

 実はこの運動は、2014(平成26)年に、自信をもって紹介しているので、それよりも数年前から、「背中の対話」として、朝日カルチャーセンターのレッスンや大学の授業で、毎回行って好評を得ている。

 ところがこの5月過ぎ、6月にあたらしい要素を組み合わせてみた。
 背中の対話であたたかさを十分に得た後に、そのまま何もしないで別れることを惜しむ方が多く見られたこともあって、そっと触れ合ったまま「片鼻呼吸」をしばらく行い、その後に瞑想あるいは坐禅を試してみた。
「背中が触れ合ったままでなく、少し離れても結構です」
 私の呼びかけに、誰一人として応じたがらず、背中が触れ合ったまま、静かに坐禅の姿勢をとりながら瞑想をしている。
 長い時間ではなく、ごく短い時間だったが、教室内が静寂に包まれて、静謐な空気が流れていった。

 頃合いをみて声かけをする。
「からだを丁寧に揺すって、お互いの揺れのリズムが合ってきたら、液体が流れ出すように右側にからだを傾け、床ににょろにょろと倒れて頭が最後になるようにゆっくり上体をおこし、正座してください」
 その言葉に促されて、そのまま野口体操の「にょろ転」に入る方もおられた。
 実は、この発想には伏線があった。
 5月のある日、91歳の母に付き添って皮膚科に出かけた。
 待合室で母が背もたれのない、80センチ四方の椅子に腰をかけてしまった。
 同じ椅子が4つ固まってあった。母の椅子の後ろ側の椅子に彼女を支えるつもりで背中合わせで私も腰をかけた。
 そのまま待たされていたのである。
 その間、母が時々重さをかけて寄りかかってきたけれど、重くはなかった。自立してくれていた。
「こんなことがあるんだろうか」
 半信半疑ながら背もたれなしで、3、40分穏やかに時がながれ、過ごしていた。
 そのことがあって教室で“背中合わせの瞑想というか坐禅もどき”の発想につながったわけだ。

 本日の青山学院の女子短期大学「子ども学科」二クラスのゲスト授業で、この一連の運動を試してもらった。
「にょろ転」までは出来なかったが、右にからだをたおして頭が最後になるように上体をおこしてもらうところまでつなげられた。
 静寂。静謐。大人の雰囲気が十代後半の学生たちに溢れてきた。これまでにない体験だった。

 繰りかえすが、あたためられた背骨に呼吸が通って、頭の中心から骨盤の中心に柔らかな管が通り、骨盤全体がすっきりと立って、座位のまま瞑想する僅かな時間で、それそれの意識のおきどころが変化していく様子が見えてきた。
 自立しながら触れ合う。
 背骨の柔らかな感触は、ゆったりとした呼吸を導きだしてくれる。

 もちろん一人で坐る意味は深いのだろう。 
 それとは全く別ものとして味わってもらいたい。

 背中合わせで相手のぬくもりを感じながら背骨を解放する瞑想(坐禅)は、邪道だと言われそうだが、あくまでもこれは“野口体操のほぐし”のなかの一つの在り方だといってほしい。
 ただし、背中(背骨周辺)がものすごく固く、骨盤を立てることもできない方もおられる。
 それはそれとして試していると、部分ではあるけれど自然に溶け出す背中もあり得る。
 本当に緩められた背中は自然に真っ直ぐに、というか「美しいS字」を描いている。

ご注意申し上げます!
 これをお読みになって、手順を踏まずに行うと「害あって一利なし」の結果になるかもしれません。
 お気をつけくださいませ。
 できれば朝日カルチャーの教室にお越し下さい。
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