野口三千三のクロニクルを書くつもりではなかった。
が、いつの間にか、時代をさかのぼって巡礼をはじめている。
なぜ、あのような体操に育っていったのか。
なぜ、体操に「ゆり・ふり(揺・振)」といった在り方が入っているのか。
なぜ、力を抜く、ゆらゆら体操になっていったのか。
戦時中は日本が戦争で負けないために、小学生に対して強い兵隊になるために、どのような体操を、どのように教えていったらよいのか、を徹底して考え抜いて、指導をしていた野口である。
終戦直前には官立・東京体育専門学校で、銃後の国民を守るための体育の研究と実践を行っていた。
敗戦後はGHQが要望する「民主主義にふさわしい人間を育てるための体育」を研究した。
その流れの中で、江口隆哉・宮操子舞踊研究所に入って、モダンダンスの研究をおこなった。
調べれば調べるほど、複雑に絡み合った歴史の重さを実感する。
野口の人生は終戦を境に、180度の転換をみせる。
戦前と戦後、二つの時代を生き抜いた体操指導者として、社会的な背景のなかで野口体操を新しく捉え直してみたい、と思ったのが巡礼のはじまりである。
さて、連日、時間を見つけては、手元に集まった本を読んでいる。
昨日の朝日カルチャー土曜クラスでは、『兵士のアイドル 幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争』押田信子著 旬報社を紹介した。皆さんにはご迷惑と思いつつも、土曜日にはこの路線を変えないでいる。
さて、本のテーマは『戰線文庫』を中心に展開されている。1938(昭和13)年9月に創刊され、終戦間際まで7年間継続して出版・配布された海軍兵のための雑誌である。
実は、先ほど、『戦線文庫』の復刻版が届いた。復刻版の紹介がAmazonにあるので、その文章をそのままここに載せることをお許しいただこう。
********
「戰線文庫」は、旧日本海軍省の監修による戦地の将兵を慰め、かつ戦意の高揚をめざして発行された月刊誌である。編集を民間に委託し、昭和13年から昭和20年の終戦間際にかけて7年ほど、海軍の将兵一人ひとりに無償で配布していた。報道班員の戦況報告など戦時下ならではの記事もあるが、ごく大衆的な娯楽読み物を中心とした雑誌である。当時の人気女優が巻頭のグラビアを飾り、菊池寛・長谷川伸・吉屋信子などの一流作家や漫画家が、世相や風俗をそれぞれの筆致で表現している。合本保存されていた58冊の中から、第3号(昭和13年発行、B6判)と第53号(昭和18年発行、A5判)の2冊を紙の様式、版型等を含め完全復刻した。また『「戰線文庫」解説』として、巻頭にノンフィクション作家・橋本健午氏による解説、残る56冊すべての表紙と目次を掲載、年ごとに年表を表示し、その時代および雑誌として特長ある記事等を復刻した。これによって時局の対比、戦時下、国民が味わった空気感を今日の読者に知ってもらうことができるだろう。復刻版解説
********
戦争を生きた世代の話として「慰問袋」のことは、何となく聞いている。
このように戦地に送られた慰問袋や、戦地への慰問団派遣、そして海軍の『戦線文庫』、陸軍の『陣中倶楽部』等々は、国民の献金や寄付からつくられたことを『兵士のアイドル』で知った。
陸軍にも海軍にも「恤兵部」という部署がおかれていた。
そこで集められた「恤兵金」(じゅつぺいきん)という言葉もはじめて目にした。
『「恤兵)」とは、シュチ、ジュツ、あわれむ、情をめぐらす、うれえる、気を配る。人の難儀を気の毒がって、金品を恵む。「血」は全身くまなく巡る「ち」のこと。心+血。心のすみずみまで、思いめぐらすこと。』藤堂明保 学研『漢和大字典』にある。
『軍隊や軍人に対する献金や寄付、またそれらを送ること。戦地に直接届けられるものとしては慰問袋が有名で、故郷を離れて生活する兵士たちにとって数少ない楽しみであった。雪の進軍に詠われた「恤兵真綿」は日露戦争当時の代表的な慰問品である。旧日本軍それぞれに恤兵部がもうけられ、国民からの寄付を取りまとめて、軍需品の購入や設備の更新、慰問団や兵士の福利厚生などに充当した。』 Webにも解説がある。
現在では死語となっている言葉で、殆どの日本人は見たこともない「恤」という文字だろう。
なんと恤兵金は、1933年には陸軍に700万円、海軍に100万円が集まって、陸軍愛国機75機、海軍報国機28機に当てられたらしい。
押田さんは書く。
《7年間もの間、発行維持の根っこには軍部の親心というか、ヒューマンなものがあると感じてならない。軍隊はよくもあしいくも大家族のようだったとは、戦争体験者によく聞く言葉である》
実質的に最終号か、と思われる77号は、1945(昭和20)年3月発行である。
「どこがヒューマンなのだろう?」
読みながら「?」マークが私の目の前に現れた。
もう少し続けたい。
さっき手に入ったばかりの1943(昭和18)年3月発行の『戰線文庫』第五十三號の復刻版を見ている。
『帝國海軍と新戰略態勢』海軍大臣 嶋田繁太郎寄稿から始まって、川口松太郎、菊池寛、長谷川伸、等々の小説、『大東亜戰争戰線・銃後ニュース』『戰線慰問讀物』漫談・浪曲・新作落語・明朗漫才、そして陣中将棋までも掲載されている。
グラビア、挿絵、漫画、漢字にはルビがふられ、難しい文字も楽に読めるように配慮された200ページの雑誌である。
軍が監修していた。しかし、内地で行われていたさまざまな統制とは裏腹に、この雑誌に関しては、自由な表現が許されたことが見て取れる。
実は、ずっと気にかかっていたことがある。
今、復刻版のページをめくりながら、気がかりを超えて、複雑な思いへと変貌していくのを感じる。
1938年(昭和13)年、ちょうどこの『戦線文庫』が創刊された年の士官学校予科の英語の入試問題は、軍人の心構えに関する和文英訳問題が出題されている。『英語と日本軍』江利川春雄著NHK出版より
《From old days the Japanese(people)have considered its a disgrace to surrender to the enemy.They would rather die for their country than be captured ,and they think this the glory of Bushido. 》
一ヶ月ほど前に、1941(昭和16)年1月、東條英機が示達した「戦陣訓」、『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ』の先駆けになるような内容が入試問題となっている、という指摘を読んでいた。
このことと、『戰線文庫』から受ける、内容もさることながら、全体から醸し出される明るくユーモアに溢れる印象とのギャップである。
「戦陣訓」を胸に、戦いの場にある兵士が、まずこの雑誌の表紙を飾る若い女性の絵を見たらどのような思いを抱いたのだろう。
戦況が厳しくなって負け戦が重なって来るときになっても、雑誌のトーンをおとすことなく、継続して200ページをつくり続けたその真意は、なんだろうか。
私のなかで「?」マークが、さらに大きくなっていく。
アメリカは太平洋戦争開戦から僅か1年後には、日本の敗戦を予測して、占領政策を具体的に検討しはじめていたという。それに引き換え日本の軍部は、何を見、何を聞、どんな戦略を立てていたのか。
ますます「?」マークが巨大化する。
終戦と同時に消えてしまった幻の雑誌『戰線文庫』と『恤兵』という言葉。
復刻版を見ながら、戦時を生きた日本人の暮らしが、以前よりは具体的に感じられるようになってきた。
まだ、考え続けよう。
考え続けるためにも、野口三千三が生きた戦時の日本をもっと知りたいと思う。
が、いつの間にか、時代をさかのぼって巡礼をはじめている。
なぜ、あのような体操に育っていったのか。
なぜ、体操に「ゆり・ふり(揺・振)」といった在り方が入っているのか。
なぜ、力を抜く、ゆらゆら体操になっていったのか。
戦時中は日本が戦争で負けないために、小学生に対して強い兵隊になるために、どのような体操を、どのように教えていったらよいのか、を徹底して考え抜いて、指導をしていた野口である。
終戦直前には官立・東京体育専門学校で、銃後の国民を守るための体育の研究と実践を行っていた。
敗戦後はGHQが要望する「民主主義にふさわしい人間を育てるための体育」を研究した。
その流れの中で、江口隆哉・宮操子舞踊研究所に入って、モダンダンスの研究をおこなった。
調べれば調べるほど、複雑に絡み合った歴史の重さを実感する。
野口の人生は終戦を境に、180度の転換をみせる。
戦前と戦後、二つの時代を生き抜いた体操指導者として、社会的な背景のなかで野口体操を新しく捉え直してみたい、と思ったのが巡礼のはじまりである。
さて、連日、時間を見つけては、手元に集まった本を読んでいる。
昨日の朝日カルチャー土曜クラスでは、『兵士のアイドル 幻の慰問雑誌に見るもうひとつの戦争』押田信子著 旬報社を紹介した。皆さんにはご迷惑と思いつつも、土曜日にはこの路線を変えないでいる。
さて、本のテーマは『戰線文庫』を中心に展開されている。1938(昭和13)年9月に創刊され、終戦間際まで7年間継続して出版・配布された海軍兵のための雑誌である。
実は、先ほど、『戦線文庫』の復刻版が届いた。復刻版の紹介がAmazonにあるので、その文章をそのままここに載せることをお許しいただこう。
********
「戰線文庫」は、旧日本海軍省の監修による戦地の将兵を慰め、かつ戦意の高揚をめざして発行された月刊誌である。編集を民間に委託し、昭和13年から昭和20年の終戦間際にかけて7年ほど、海軍の将兵一人ひとりに無償で配布していた。報道班員の戦況報告など戦時下ならではの記事もあるが、ごく大衆的な娯楽読み物を中心とした雑誌である。当時の人気女優が巻頭のグラビアを飾り、菊池寛・長谷川伸・吉屋信子などの一流作家や漫画家が、世相や風俗をそれぞれの筆致で表現している。合本保存されていた58冊の中から、第3号(昭和13年発行、B6判)と第53号(昭和18年発行、A5判)の2冊を紙の様式、版型等を含め完全復刻した。また『「戰線文庫」解説』として、巻頭にノンフィクション作家・橋本健午氏による解説、残る56冊すべての表紙と目次を掲載、年ごとに年表を表示し、その時代および雑誌として特長ある記事等を復刻した。これによって時局の対比、戦時下、国民が味わった空気感を今日の読者に知ってもらうことができるだろう。復刻版解説
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戦争を生きた世代の話として「慰問袋」のことは、何となく聞いている。
このように戦地に送られた慰問袋や、戦地への慰問団派遣、そして海軍の『戦線文庫』、陸軍の『陣中倶楽部』等々は、国民の献金や寄付からつくられたことを『兵士のアイドル』で知った。
陸軍にも海軍にも「恤兵部」という部署がおかれていた。
そこで集められた「恤兵金」(じゅつぺいきん)という言葉もはじめて目にした。
『「恤兵)」とは、シュチ、ジュツ、あわれむ、情をめぐらす、うれえる、気を配る。人の難儀を気の毒がって、金品を恵む。「血」は全身くまなく巡る「ち」のこと。心+血。心のすみずみまで、思いめぐらすこと。』藤堂明保 学研『漢和大字典』にある。
『軍隊や軍人に対する献金や寄付、またそれらを送ること。戦地に直接届けられるものとしては慰問袋が有名で、故郷を離れて生活する兵士たちにとって数少ない楽しみであった。雪の進軍に詠われた「恤兵真綿」は日露戦争当時の代表的な慰問品である。旧日本軍それぞれに恤兵部がもうけられ、国民からの寄付を取りまとめて、軍需品の購入や設備の更新、慰問団や兵士の福利厚生などに充当した。』 Webにも解説がある。
現在では死語となっている言葉で、殆どの日本人は見たこともない「恤」という文字だろう。
なんと恤兵金は、1933年には陸軍に700万円、海軍に100万円が集まって、陸軍愛国機75機、海軍報国機28機に当てられたらしい。
押田さんは書く。
《7年間もの間、発行維持の根っこには軍部の親心というか、ヒューマンなものがあると感じてならない。軍隊はよくもあしいくも大家族のようだったとは、戦争体験者によく聞く言葉である》
実質的に最終号か、と思われる77号は、1945(昭和20)年3月発行である。
「どこがヒューマンなのだろう?」
読みながら「?」マークが私の目の前に現れた。
もう少し続けたい。
さっき手に入ったばかりの1943(昭和18)年3月発行の『戰線文庫』第五十三號の復刻版を見ている。
『帝國海軍と新戰略態勢』海軍大臣 嶋田繁太郎寄稿から始まって、川口松太郎、菊池寛、長谷川伸、等々の小説、『大東亜戰争戰線・銃後ニュース』『戰線慰問讀物』漫談・浪曲・新作落語・明朗漫才、そして陣中将棋までも掲載されている。
グラビア、挿絵、漫画、漢字にはルビがふられ、難しい文字も楽に読めるように配慮された200ページの雑誌である。
軍が監修していた。しかし、内地で行われていたさまざまな統制とは裏腹に、この雑誌に関しては、自由な表現が許されたことが見て取れる。
実は、ずっと気にかかっていたことがある。
今、復刻版のページをめくりながら、気がかりを超えて、複雑な思いへと変貌していくのを感じる。
1938年(昭和13)年、ちょうどこの『戦線文庫』が創刊された年の士官学校予科の英語の入試問題は、軍人の心構えに関する和文英訳問題が出題されている。『英語と日本軍』江利川春雄著NHK出版より
《From old days the Japanese(people)have considered its a disgrace to surrender to the enemy.They would rather die for their country than be captured ,and they think this the glory of Bushido. 》
一ヶ月ほど前に、1941(昭和16)年1月、東條英機が示達した「戦陣訓」、『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ』の先駆けになるような内容が入試問題となっている、という指摘を読んでいた。
このことと、『戰線文庫』から受ける、内容もさることながら、全体から醸し出される明るくユーモアに溢れる印象とのギャップである。
「戦陣訓」を胸に、戦いの場にある兵士が、まずこの雑誌の表紙を飾る若い女性の絵を見たらどのような思いを抱いたのだろう。
戦況が厳しくなって負け戦が重なって来るときになっても、雑誌のトーンをおとすことなく、継続して200ページをつくり続けたその真意は、なんだろうか。
私のなかで「?」マークが、さらに大きくなっていく。
アメリカは太平洋戦争開戦から僅か1年後には、日本の敗戦を予測して、占領政策を具体的に検討しはじめていたという。それに引き換え日本の軍部は、何を見、何を聞、どんな戦略を立てていたのか。
ますます「?」マークが巨大化する。
終戦と同時に消えてしまった幻の雑誌『戰線文庫』と『恤兵』という言葉。
復刻版を見ながら、戦時を生きた日本人の暮らしが、以前よりは具体的に感じられるようになってきた。
まだ、考え続けよう。
考え続けるためにも、野口三千三が生きた戦時の日本をもっと知りたいと思う。