紅板締め
11月18日木曜日、早朝に目覚めた。
前日まで原稿書きに集中していた。
それを終えて、次の章を書き始めるのに出だしに、おおいに迷っていた。
からだが腐ってしまいそうな、窮屈感に苛まれていた。
「そうだ、高崎に行こう!」
6時半近くの中央線に飛び乗った。衝動的な行動の開始だった。
大宮で新幹線に乗りかえて、高崎に着いたのは8時を回っていた。
徒歩で市庁舎がある公園に立ち寄り周辺の写真を撮り、その足で野口三千三先生が昭和11年に赴任した「高崎市立中央小学校」へと向かう。
これまでに何度かこの地を訪ねている。
そうしたこともあって、高崎市の西側には、私の中で土地勘というものができつつある。
迷うことなく小学校に到着。
それから野口家の菩提寺を見つけて、お寺の奥さんの案内でお墓まりをすませた。
寺を出て、旧中山道を烏川に向かって坂を下る。
途中に江戸時代から続いている醤油製造販売「岡」の古い店に立ち寄る。
現在はここでは、醤油を作っていないそうだ。
しかし、趣ある店構えと店内にはさまざまな古いご商売道具が展示されていた。
お煎餅と2年ものの醤油をお土産に求める。
さて、開館時間もちょうどよく、真向かいにある「山田文庫」へ。
リニューアルオープンの当日、最初の客となった。
このことはあらためて書きます。
そこで染色家の吉村晴子さんと出会った。
はじめてお目にかかったのに、旧知の仲のような会話が弾んだ。
高崎市染料植物園で彼女が復元した「紅板締めー高崎でよみがえった赤の技法」企画展が開かれていること知った。
早速、植物園がある観音山へタクシーを飛ばす。
展示室に入って最初に目にした「もみ」という文字に驚く。
「懐かしい!」
「もみ(紅花で染めた平絹)」という名前と「紅色」をみて、母と祖母を思い出す。
子どの頃にこの色を見て、忘れられない記憶がよみがえった。
昔の女性は若くして嫁いだために、黒留袖を着ることになる。
若い娘にかわいそうだと、黒留袖の下には紅花染の長襦袢を身につけることが慣例であった。
何よりも紅花染めはからだを温め、魔除けの効果があると信じられている。
嫁ぎ先での娘の幸せを願い親心と言える。
帰りは1時間に一本の循環バスに乗って、高崎駅に。
遅ーい昼食を済ませて、3時少し前の高崎線でゆっくり帰宅。
翌日、蔵に入って「和服ハギレ」と書かれた箱を開けた。
なんと紅板締めの絹布を見つけた!
祖母から母へ、子供の私へと伝えられたものを、部分に解いて保管されていたのだった。
物持ちがいい母が残した布。それがここに貼り付けた写真。
もっと小さなハギレは、ハタキとして最後まで使い切る。
かつての日本には、布を大切に使う習慣があったのだ。
野口先生の高崎愛を再度確かめたく、現地に向かったのだが、思いがけず人と出会い、ものと出会った。
帰りの高崎線の車中では、熊谷あたりでは富士山も望める関東平野の広さを体験しつつ、携えた本も読まずに時間を過ごした。
野口先生が昭和19年、終戦間近に「東京體育専門学校」に赴任するため上京したのだが、高崎⇄上野(おそらく赤羽)間、その車中での先生の心中を慮った。
かくして、たくさんの収穫をいただいた「秋の高崎 小さな旅」でした。