先日、「内田樹自邸兼道場」が、どのような思想で、そのような過程で、どのように建てられ、どのようにつかわれはじめた、のかを記録した本をいただいた。
道場、稽古場、スタジオ、呼び名はそれぞれに、そうした空間を造り上げるのは、なかなか難しい。
挑戦されたことに、拍手を贈りたい。
やりたい事が具体的にいくつかあって、そのための中間共同体としての「家」の建築は、繊細な思考と大胆な行動が必要と知った。
これから3年、5年、10年と年月がたつうちに、次第に建物としての存在が意義と意味を深めていくのだろう。
読みながら思ったこと。
60代前半は、壮年期のまっただ中。まだまだ元気なうちに残す、哲学と技芸(文化)を体現したよき遺言よき遺産なのかもしれない。お見事です。
《いずれ、多くの人々が全国で同時多発的に「私塾」を立てて、そこで学校では教えない、成熟のために必要な知識や技芸を講じるようになるだろうと予測しています。凱風館がそのような大きな潮目の変化のひとつの兆候として何人かの記憶に久しくとどまること、それがとりあえずのぼくの願いです》
そうですか。
はい、やります、とはにわかに行動には移せないが……。かといって記憶にとどめておきます、では何事もはじまらない。形はどうあれ、個々人がそれぞれに出来る事をやるしかないのかな?
本をいただきありがとうございます。近藤さん!!
道場、稽古場、スタジオ、呼び名はそれぞれに、そうした空間を造り上げるのは、なかなか難しい。
挑戦されたことに、拍手を贈りたい。
やりたい事が具体的にいくつかあって、そのための中間共同体としての「家」の建築は、繊細な思考と大胆な行動が必要と知った。
これから3年、5年、10年と年月がたつうちに、次第に建物としての存在が意義と意味を深めていくのだろう。
読みながら思ったこと。
60代前半は、壮年期のまっただ中。まだまだ元気なうちに残す、哲学と技芸(文化)を体現したよき遺言よき遺産なのかもしれない。お見事です。
《いずれ、多くの人々が全国で同時多発的に「私塾」を立てて、そこで学校では教えない、成熟のために必要な知識や技芸を講じるようになるだろうと予測しています。凱風館がそのような大きな潮目の変化のひとつの兆候として何人かの記憶に久しくとどまること、それがとりあえずのぼくの願いです》
そうですか。
はい、やります、とはにわかに行動には移せないが……。かといって記憶にとどめておきます、では何事もはじまらない。形はどうあれ、個々人がそれぞれに出来る事をやるしかないのかな?
本をいただきありがとうございます。近藤さん!!
一週間のお盆休みも昨日でおわった。
今日から、いろいろが始まって来る。
といっても休み中に、難しい課題にどう対処すればよいのか、考えたりKeynoteをいくつか作ったりし、企画案を練ったり、お籠り状態だった。時間はたっぷりあるので、詰めてやらずにすんだことが幸い。
で、最後の金曜日は、ヘッド・スパ+ハンドマッサージを受けてのんびり過ごしたら、よーく眠れたこと。今朝はお寝坊しました。
本日から通常のリズムに戻れそう。
朝日カルチャーの土曜日クラスから始まり。蛍光現象を見てもらいましょう。今、準備中。
今日から、いろいろが始まって来る。
といっても休み中に、難しい課題にどう対処すればよいのか、考えたりKeynoteをいくつか作ったりし、企画案を練ったり、お籠り状態だった。時間はたっぷりあるので、詰めてやらずにすんだことが幸い。
で、最後の金曜日は、ヘッド・スパ+ハンドマッサージを受けてのんびり過ごしたら、よーく眠れたこと。今朝はお寝坊しました。
本日から通常のリズムに戻れそう。
朝日カルチャーの土曜日クラスから始まり。蛍光現象を見てもらいましょう。今、準備中。
今朝は、3時に目が覚めた。
二階の雨戸を開けて、外を見る。
近隣のマンションの部屋から灯りが漏れている。数えると相当な数になる。
ふと、東の空を見上げた。
珍しく星が輝いている。盆と正月は、東京の空気が少しは綺麗になって、こうして星がみられるのだ。といっても片手で数えられるほどでしかない。
満天の星空を久しく見ない。何十年も見ていない暮らしに埋没している。
病院との縁が切れているのも、最近の十年、といったところだろうか。
野口先生が20年、父も15年。入院の度に、病院通いをしていた。
今は、母が元気でいてくれるのだが、さすがに一人にしておけない。
満天の星を見られるのは、いつのことだろう。
想像するとちょっと怖くなる。
ちっぽけな自分が宇宙の渚にいて、一粒の砂よりも微細な存在であることを実感させられるに違いない。
まだ、死ぬのは怖いかな。死を思うのはやっぱり恐い。
そんなことを思いながら東の空を見つめていた。
なかなか夜があけない。
ごろんと仰向けになって、「真の動き」に身を任せた。
上下、左右、斜め、東西南北、天も地もない。方向感覚は失われる。
からだを丸めているうちに、不思議な落ち着き感をもらう。
しばらく体操をして、白みかけた空を再び見る。
雲間から、朝焼けの柔らかな光線がさしはじめていた。
そういえば、病人に付き添って病室の片隅に眠れぬ夜を過ごし、気分転換にロビーにでる。
闇から朝の光が、病院全体を包む頃が、いちばん哀しい。
人は、文字を書く。思いを紙に書き付ける。それでも近いうちに失われる命の行方をたずねる。
答えが出ないことを知りながらも、感覚を研ぎすませてたずねる。何度も何度も繰り返して。
夜があけてしまえば、日常に戻る。意識は「私」を取り戻す。それが錯覚であってもいい。とりあえず「私」の自覚が生まれる。
暁の心模様は、非日常をさまよっているのだなぁ~、と思った。
満天の星は、しばらくお預けで、よし!
二階の雨戸を開けて、外を見る。
近隣のマンションの部屋から灯りが漏れている。数えると相当な数になる。
ふと、東の空を見上げた。
珍しく星が輝いている。盆と正月は、東京の空気が少しは綺麗になって、こうして星がみられるのだ。といっても片手で数えられるほどでしかない。
満天の星空を久しく見ない。何十年も見ていない暮らしに埋没している。
病院との縁が切れているのも、最近の十年、といったところだろうか。
野口先生が20年、父も15年。入院の度に、病院通いをしていた。
今は、母が元気でいてくれるのだが、さすがに一人にしておけない。
満天の星を見られるのは、いつのことだろう。
想像するとちょっと怖くなる。
ちっぽけな自分が宇宙の渚にいて、一粒の砂よりも微細な存在であることを実感させられるに違いない。
まだ、死ぬのは怖いかな。死を思うのはやっぱり恐い。
そんなことを思いながら東の空を見つめていた。
なかなか夜があけない。
ごろんと仰向けになって、「真の動き」に身を任せた。
上下、左右、斜め、東西南北、天も地もない。方向感覚は失われる。
からだを丸めているうちに、不思議な落ち着き感をもらう。
しばらく体操をして、白みかけた空を再び見る。
雲間から、朝焼けの柔らかな光線がさしはじめていた。
そういえば、病人に付き添って病室の片隅に眠れぬ夜を過ごし、気分転換にロビーにでる。
闇から朝の光が、病院全体を包む頃が、いちばん哀しい。
人は、文字を書く。思いを紙に書き付ける。それでも近いうちに失われる命の行方をたずねる。
答えが出ないことを知りながらも、感覚を研ぎすませてたずねる。何度も何度も繰り返して。
夜があけてしまえば、日常に戻る。意識は「私」を取り戻す。それが錯覚であってもいい。とりあえず「私」の自覚が生まれる。
暁の心模様は、非日常をさまよっているのだなぁ~、と思った。
満天の星は、しばらくお預けで、よし!
今週もブログの書き込みをしないまま、土曜日を迎えた。
はじめてのことだけれど、朝日カルチャーセンターのレッスンが、お盆休みにかからなかった。
で、本日は午後から通常通り、とあいなりました。珍しいことだ。
原稿は無事に渡せて、17日に再開するまで、私の手元から離れた。ホッ!
6日は所用で神経をつかった。これも社会生活を送るためには必要なことと、腹に力をいれてことにあたった。
こちらも半分、片がついた。
その間、週二回、シェークスピアプロジェクトの若者たちと野口体操の時間を共有。
やる気十分で、感覚がよく、伝え甲斐がある。しかし、全体にからだの柔らかさについては、一朝一夕には解消されない、という印象だ。柔軟性は課題が残る。
野口体操が始まる前に、ゲームをしていた。10人ほどの輪が三つあって、8ビートのロックにのせて数を数えていく。人差し指で誰かを指す、「1」。さされた人はすかさず誰かを指す、「2」。どんどん数が増えていくが、時に上手くさせないことがある。するとリズムを崩さないように「はい(♪)、はい(♪)、はいはいはいはい(♬♬)」と、8ビートにのせて、また「1」からやり直す。15回~16回が普通で、一つの輪では、37回と報告していた。これは凄い数だ。
若者の声と上下動、8ビートのミュージックが鳴って、部屋のなかは興奮の渦に巻かれる。
はじめての光景に、驚きを感じたが、そこは何もないかのように表情を変えずに野口体操を指導して帰宅した。
ひっそり、音楽なしでリズムを刻み、数を数えてみた。なんのことはなかった!
結局、あの興奮は音楽がつくりだす世界と知った。そこでYouTubeから曲を探し出し、リズムにのれるのか、一人試してみたが、乗れないことはなさそうだった。
8分音符のなかを、ドラムスがビートを小さく刻むところがミソだ、と知った。
ものすごく単純な繰り返しだが、繰り返しだから、思考を停止してからだの興奮にまかせる動きが生まれる。
野球のリズム感から、サッカーのリズム感へ、さらに高速コンピューターが刻むリズム感につながっていきそうだ。
そういえばロカビリー(ロックンロール)がはやった時、ものすごく速くて、ものすごく激しくて、ものすごくエキセントリックに感じたが、今になって懐かしのメロディーで聞いてみると、それほどでもないことに逆に驚く。
ステージに投げられる色とりどりの紙テープが、スパゲッティー状態になってもギターをかき鳴らし歌い続けた姿が懐かしい。今では怪我を理由に紙テープは禁止されて久しい。
時代は変わるが、若者が音楽で発散する思いは変わらないのかも……。
そして昨日は、一人静かに集中講義の「KeyNote」を作成していた。まだまだ先は長い。
はじめてのことだけれど、朝日カルチャーセンターのレッスンが、お盆休みにかからなかった。
で、本日は午後から通常通り、とあいなりました。珍しいことだ。
原稿は無事に渡せて、17日に再開するまで、私の手元から離れた。ホッ!
6日は所用で神経をつかった。これも社会生活を送るためには必要なことと、腹に力をいれてことにあたった。
こちらも半分、片がついた。
その間、週二回、シェークスピアプロジェクトの若者たちと野口体操の時間を共有。
やる気十分で、感覚がよく、伝え甲斐がある。しかし、全体にからだの柔らかさについては、一朝一夕には解消されない、という印象だ。柔軟性は課題が残る。
野口体操が始まる前に、ゲームをしていた。10人ほどの輪が三つあって、8ビートのロックにのせて数を数えていく。人差し指で誰かを指す、「1」。さされた人はすかさず誰かを指す、「2」。どんどん数が増えていくが、時に上手くさせないことがある。するとリズムを崩さないように「はい(♪)、はい(♪)、はいはいはいはい(♬♬)」と、8ビートにのせて、また「1」からやり直す。15回~16回が普通で、一つの輪では、37回と報告していた。これは凄い数だ。
若者の声と上下動、8ビートのミュージックが鳴って、部屋のなかは興奮の渦に巻かれる。
はじめての光景に、驚きを感じたが、そこは何もないかのように表情を変えずに野口体操を指導して帰宅した。
ひっそり、音楽なしでリズムを刻み、数を数えてみた。なんのことはなかった!
結局、あの興奮は音楽がつくりだす世界と知った。そこでYouTubeから曲を探し出し、リズムにのれるのか、一人試してみたが、乗れないことはなさそうだった。
8分音符のなかを、ドラムスがビートを小さく刻むところがミソだ、と知った。
ものすごく単純な繰り返しだが、繰り返しだから、思考を停止してからだの興奮にまかせる動きが生まれる。
野球のリズム感から、サッカーのリズム感へ、さらに高速コンピューターが刻むリズム感につながっていきそうだ。
そういえばロカビリー(ロックンロール)がはやった時、ものすごく速くて、ものすごく激しくて、ものすごくエキセントリックに感じたが、今になって懐かしのメロディーで聞いてみると、それほどでもないことに逆に驚く。
ステージに投げられる色とりどりの紙テープが、スパゲッティー状態になってもギターをかき鳴らし歌い続けた姿が懐かしい。今では怪我を理由に紙テープは禁止されて久しい。
時代は変わるが、若者が音楽で発散する思いは変わらないのかも……。
そして昨日は、一人静かに集中講義の「KeyNote」を作成していた。まだまだ先は長い。
今週は、大学の前期授業は修了していたが、いろいろと忙しい日々だった。
立川の朝日カルチャーセンターで、「野口体操講座」をひらいたが、冒険をして1時間は野口体操の実技を中心に、次の1時間は『原初生命体としての呼吸』を取り上げた。もちろん三木成夫比較形態学も話に織り込ませてもらった。ほぼ一ヶ月半費やして、10コマほど試行錯誤を繰り返してきただけに、呼吸の実技共々、すんなりとすすめることができた。
呼吸の授業に自信を得たような気がしている。30数年目の気づきだ。
そして明治大学のシェクスピア・プロジェクトの稽古も始まった。週に二回のペースで「野口体操」を指導することになっている。一回目は3時間、「感覚をひらく」をテーマに、“もの”から受けるイメージを動きにつなげていく方法をとった。感受性豊かな学生たちだ。いい雰囲気でまずは“顔見せ”“顔合わせ”としては上々だろう。
これからが大変だ。
そして自宅にいる時には、ちくま文庫に入る本のゲラ校正にいそしんだ。『マッサージから始める野口体操』だが、たくさんあるわけではないが、思いがけない誤植や言葉の表現の悪さを見つけて、赤くなったり青くなったりしていた。6日着で終えなければならないが、まだ読み終わっていない。
さらに解説としてつける会談の原稿が昨日メールで届けられた。
こちらも手をいれなければならない。7日着という要望。
さらに書名を変える案が出ているし、表紙の写真も選びなおしたり、……、とフル回転状態だ。
そんななかで9月早々にお引き受けした集中講義の案を練りはじめている。
というわけで、還暦過ぎの「萌える夏」なのであります。
立川の朝日カルチャーセンターで、「野口体操講座」をひらいたが、冒険をして1時間は野口体操の実技を中心に、次の1時間は『原初生命体としての呼吸』を取り上げた。もちろん三木成夫比較形態学も話に織り込ませてもらった。ほぼ一ヶ月半費やして、10コマほど試行錯誤を繰り返してきただけに、呼吸の実技共々、すんなりとすすめることができた。
呼吸の授業に自信を得たような気がしている。30数年目の気づきだ。
そして明治大学のシェクスピア・プロジェクトの稽古も始まった。週に二回のペースで「野口体操」を指導することになっている。一回目は3時間、「感覚をひらく」をテーマに、“もの”から受けるイメージを動きにつなげていく方法をとった。感受性豊かな学生たちだ。いい雰囲気でまずは“顔見せ”“顔合わせ”としては上々だろう。
これからが大変だ。
そして自宅にいる時には、ちくま文庫に入る本のゲラ校正にいそしんだ。『マッサージから始める野口体操』だが、たくさんあるわけではないが、思いがけない誤植や言葉の表現の悪さを見つけて、赤くなったり青くなったりしていた。6日着で終えなければならないが、まだ読み終わっていない。
さらに解説としてつける会談の原稿が昨日メールで届けられた。
こちらも手をいれなければならない。7日着という要望。
さらに書名を変える案が出ているし、表紙の写真も選びなおしたり、……、とフル回転状態だ。
そんななかで9月早々にお引き受けした集中講義の案を練りはじめている。
というわけで、還暦過ぎの「萌える夏」なのであります。