羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

もらわなかった年賀状

2007年11月30日 16時00分56秒 | Weblog
 明日は師走。
 今日までで昨年の喪中の葉書の枚数を、今年はすでに越えてしまった。
 ご高齢の親御さんをなくされた方が多い。
 85歳、90歳という年齢の方もおられる。
 私の世代は、ほとんどの方が介護を経験しているか、もしくはその真っ最中である。

 年老いた親が自分で立って歩いて、身の回りのことだけでも一人で出来るのは、すごく恵まれているのだ。
 おかげさまで春に‘脊椎骨粗鬆症椎体圧迫骨折’で、二ヶ月間患った母は、普通に暮らせるようにまで回復した。一度はどうなることかと心配したが、今のところ少しほっとしている。

 さて、12月と言えば年賀状書きだ。
 野口三千三先生のやり方に習って、私もいただいた年賀状を「あかさたな……」といった行で分けて束ねている。つまり住所録を持っていない。直接先方からいただいた賀状を見ながら、住所と名前を手書きにしている。

 最近ではほとんどがパソコンの住所録からの印刷が多い。
 でも、宛名と住所だけでも自分で書きたいと思って実行している。
 なかに一言添えることとこれだけは譲れない。

 12月も半ばになると野口先生はこつこつと年賀状書きをなさっておられた。
「今、さ行まで書き終えたところ」
 そんな電話を生前は毎年いただいた。電話をかけることで気分転換をはかっておられたのだ。
 確か80歳になられたところで、年賀状を出さなくなっただろうか。
 すっかり記憶が薄れてしまった。

 実は、高齢になってたくさんの枚数をこなすのは大事だった。
「待っていてくれる人がいるからね」 
 ふーふ~おっしゃりながら、3・4日かけて書かれておられた。
 宛名と住所だけでも野口先生手書きの賀状は、受け取った方にとっては嬉しかったに違いない。

 大晦日には、毎年、我が家で作ったおせち料理を取りにいらした。はじめのうちはお届けしていた。そのうちに先生から、取りに行きたいという申し出を受けてそうするようになった。しかし、亡くなる前の5・6年は、先生のご自宅まで、私がお届けするようになっていた。
 すると元日には、「今、いただきました」と、野口先生から早朝に電話がかかる。そのとき新年の挨拶を両親にもしてくださった。
 というわけで私は先生から賀状をいただくことがなかったのだ。
 
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お婆さんとキムタク、そして思い出したこと……

2007年11月29日 09時02分36秒 | Weblog
 おそらく最近はじまったコマーシャルだと思うけれど、バス停で待つ人の最後尾にキムタクが立っている。そこに気のよさそうな和服のお婆さんがやってきて住所を書いた紙切れをキムタクに見せる。彼はおもむろに携帯に入力して、地図を出し、親切に道順を教える。その間に到着したバスは出発してしまう。

「泣いちゃ、ダメ」
 あっけらかんとして話しかけるお婆さんに
「泣いてませんッ」
 ちょっとムッとするようなしないようなキムタクの表情が、それらしい雰囲気を出している。

 テレビ画面に向かって
「あるよね、こういうことって」
 口にしたとたん思い出したことがある。
 
 まず、ブックマークでも紹介しているブログ「健康誌デスク、ときどきギタリスト」に、‘道をきかれるオーラ’がある人とない人がいる話が載っていた。道を聞かれる人は、道を聞きやすい人というのは、どこか弛んでいるところがある人らしい。ガチガチに固まっている人には声をかけにくいということだろう。
 確かにそれはいえる。
 
 で、30代半ばの頃だったと思うが、道を聞かれたのではないがこんな経験をした。
 新宿駅のホームで電車を待っていたときのこと。
 初老の女性がつかつかと近づいて、私の顔をまじまじと覗き込んだ。
 そこで一言。
「あなた、この寒いのに、なんであったかそうな顔をしてるの?」
 咄嗟のことで、呆気にとられた。
 超オバサンだと思いながらも、そこは正直でポジティブな私。
 にっこり笑って
「。。。。。。。。。。。。(体操してましたから←たぶん言葉にできなかったと思う)」
「ふんっ」て感じを漂わせて、南口の階段の方へ去っていった。

 その頃、野口体操の極楽トンボの一人(実はもう一人いたのです)と言われていた。
 でも、ですョ、実はその当時から、私、密かに、恋する野口体操の社会化を如何にしたら実現できるのかを考えていたんです。
 それだけでもあったかいわけですよ(笑い)。

 ところで昔を思い出させてもらった‘お婆さん+キムタク’コンビのコマーシャル、いったいどこの携帯を宣伝してたのだろう?????????
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サバイバル

2007年11月28日 13時01分39秒 | Weblog
 朝、五時はまだ暗い。
 しかし、新聞はすでにポストに投げ込まれている。
 今朝(11月28日)、日経新聞をひらいて驚いた。
「エッ、ヤマハが?」

 記事はこんな見出しで書かれている。

ーピアノ世界御三家「ベーゼンドルファー」 ヤマハが買収合意 25億円ー

 よく読んでみると、《ヤマハグループのブランド力を高めて、課題だった超高級市場の攻略にのりだす。……ベーゼンドルファーは国立歌劇場(オペラ座)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に代表される世界最高峰のクラシック音楽界が誇る「ウィーンの宝」と呼ばれている。》

 年間の生産台数は約三百台という数字が、多いか少ないかは見解が分かれるところだろう。一台のピアノをつくり上げるのに、1年半かけるというのだから。
 オーストリアでは、外資への身売りに対して批判的な声もあるというが、日本人の私だって複雑な思いが去来する。ここまで世界のグローバル化の波が押し寄せてきたのか! ウィーンの文化がヤマハ文明に飲み込まれると言うのは、穏やかではいられない。

 銀座の街を歩いていても、いわゆる伝統ある老舗が立ち行かなくなっている様子を目にし始めて久しく、海外からのブランドが軒を連ねる街を見ると、内心面白くないと思うのは偏狭なのだろうか。
 地価ばかりが高くなって、相続税や固定資産税を払うために余力の財産や多角経営や高額商品を扱わなければならない。日本伝統の老舗ではそれが難しく、結局のところ綻んでいくのは悲しい。

 この買収の話、ひとつ救いがあるとすれば、現存する最古のピアノメーカー工場と百八十人の従業員を存続させてブランドと品質の維持にこだわると買収案を提示したとある。当然であろう。

 でも、トヨタは世界のトヨタなのよね。でも、自動車は文化と文明の狭間にあるものだから、そこには時代に合わせた進化が必要になる。今ならさしあたって環境問題だ。
 ピアノと自動車は同じ土俵で比較できるものではない。
 ヤマハはピアノだけでなく音響やスポーツや発動機に進出したから残ることが出来た。文化から文明へとシフトできる会社の体質があったからだが、その点も微妙だ。
 いやはや、私の頭ではもうお手上げ!
 世界に起こっている現実は厳しいということだけは理解できる。
 国際的に生き残れなければ、明日への存続は難しいということだけは理解できる。
 考えてみればクラシック音楽は、いちはやく国際化を行った文化だったのだ。
 旧オーストリア・ハンガリー二重帝國は、日本との国交樹立した際に、明治天皇に同社のピアノを献上したという。
 近代日本の学校音楽教育は、西洋クラシック音楽のみを最近まで教えてきた。
 生き残るって世界制覇しかないの? 時代が下って支配下においたところから逆襲にあいながらも、存続するものはすると言うことなのだろうか。
 極東の日本に買収されても、ウィーン・ピアノ文化は残るってこと?
 実は、ヤマハピアノだって真剣に生き残りをかけているのよね。
 うぅーむ。。。。。。。。
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秋色

2007年11月27日 19時43分44秒 | Weblog
 晩秋の色を見た。
 新宿の高層ビル街である。
 欅も公孫樹も色づき、なかに常緑樹の濃い緑が見え隠れして、いっそう紅葉を引き立てている。

 今日あたりがいちばんの見頃だろうか。
 教室から望む中央公園も、燃える秋だった。

 あぁ~、哀しみが心のひだの間から染み出てくる。
 この秋の色がいけない……と言いながら心模様をいたわっている私。

    **** 裏を見せ 表を見せて 散るもみじ ****

 死ぬ前にもう一度会いたい人がいる幸せを噛みしめる秋……このとき。
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言葉の実感

2007年11月26日 14時15分27秒 | Weblog
 来年度の仕事の関係上、履歴書と業績書を書かなければならなくなった。
 今は、手書きではなくパソコンで書くことも可となった。
 
 で、業績書には著書について書いている。
「書名・単著or共著・年月日・出版社名総ページ数・概略」までつけるのだ。
 これが結構大事だった。やっと先ほど書き上げた。
 そこで履歴書・業績書を読み直してみると、野口三千三先生没後の10年間の記録であることに気づかされた。
 野口体操一色に染め上げられた10年だった。
 いや、26歳から数えれば30数年の歳月だ。
 しかし、ここ5・6年は、結果として野口体操を相対化しながら社会化してきたと思う。
 
 とにもかくにも皆様に支えられて、ここまでやってこられたことに、感謝の気持ちが沸々と湧いてきた。

 ひたすら野口三千三の価値観や身体哲学、そして野口体操を残したい一心で歩いてきた。野口先生が亡くなる10年前に始め、佐治嘉隆さんの献身的な協力を得て活動しつづけた「野口三千三授業記録の会」の記録を活かすためにも、野口体操の理論や哲学・実技を社会化するにはどうしたらよいかと、手探りしながら活動した没後の10年間だった。
 
 新しい価値を社会的に認知してもらうのは、並大抵のことではない。そのことをいちばんご存知だったのは、野口三千三先生ご自身に他ならない。私はその跡を引き継いだだけなのだが、それでもなかなかに大変だった。それだけに遣り甲斐のある10年間だったともいえる。
 
 まったく一人では何も出来ない。身近にいて支えてくださる人は勿論のこと、会ったこともない人々の存在があってこそ、価値が価値として活かされていく。そして時代の移り変わりのなかで「流れ」の方向性というものもかかわってくる。
 目に見える人や現象だけでなく、目に見えない「何か」の力に引き寄せられてここまでこられたと思っている。

 そこで思い出すことがある。
 野口先生が大病をされて生還し、再び教える場に戻られた翌年の年賀状には「お蔭さま」と記されていた。本心から衷心から、いや先生の場合は‘丸ごと全体のからだ’から発せられた「お蔭さま」だった。

 その年から佐治さんが、先生の原稿をもとに年賀状を作ってくれるようになったと記憶している。

 すでに12月まで一週間をきった。
 2007年最後に、思いがけず来し方を振り返る書類を書いているのも、何かの導きかもしれない。
 書き終わって思うことは、個として自立することも大切だが、人は人との関係のなかで活かされていくものだ、と。
‘お蔭さま・ありがとう’という言葉の重さは、年を重ねるごとにはっきりとした実感となって膨らんでいく。
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暖かな一日

2007年11月25日 20時01分41秒 | Weblog
 今朝は、体操を丁寧にしたあと、「おっかさんランニング」を十数年ぶりにやってみた。
 小手調べに一っ走り近くの公園まで。公園内の一部は歩いたりして、20分弱で帰宅。家の前数メーターだけダッシュして、軽く歩いて自室に戻ったら、うっすらと汗をかいていた。
 呼吸を整えるために軽く体操をし、着替えをし、昼食。
 その後、何ヶ月ぶりかにピアノを弾いた。
 まず、基本から。
 
 ツェルニー50番の1番。
 バッハ・インベンション2声の1番。
 ショパン・幻想ポロネーズ。
 リスト・ノクターン愛の夢。
 チャイコフスキー・四季から10月:秋の歌。
 ドビュッシー・ベルガマスク組曲から月の光。

 指はみごとに動かなかったが、結構気分はよかった。

 隣室で聞いていた母が言った。
「弾いてたものは、弾けるものね」
 そんなこと言っていいの?
 お楽しみが家のなかであるっていいわ! と思ったが、言葉にしなかった。

 夕方、昔、すすめられて読んだ本を蔵から持ち出して何気なくページをめくっていた。
 胸に疼くものを幽かに感じた。

「今、空港にいます」 
 アメリカに向かう飛行機の搭乗手続きが終わったと言う。
 一言、二言、交わして電話を切った。携帯なんてものはなかった時代だ。
 見送ることをしなかった別れ。
 
 いつしか時は流れ、人は疎遠になる。

 今日は、暖かな一日だった。
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温・冷・柔・固・溶・香・苦・酸・塩・甘・酒・色・艶、そして今からの季節は湯気!

2007年11月24日 11時45分26秒 | Weblog
 今日の「食彩の王国」は、江戸の‘はぜ’だった。
 今が旬。
 池波正太郎が通ったという天ぷら屋主人の話し振りが、なんとも味わい深かった。
 思う。
 板さんの腕をあげるのは、味が分かる客人の存在だ。
 その人が店に通ってくることで、磨きがかかる。だから「通」と言うのか?

 今日も、早めにお昼の準備をしていた。
 こちらは「たまねぎ+干しえびのかき揚げうどん」。
 部屋には揚げ物の匂いが漂って、画面上では‘はぜの天ぷら’、尻尾がピンと立って美味しそうだった。
「なんか差があるなぁ」と思いつつ、ついつい画面に気を取られて箸が止まる。

 さて、我が家の近くに食べ物専門のカメラマンが住んでおられた。
 とくに和食を中心に撮影するのだと聞いた。
 その方の家には、相当な和食器のコレクションがあるという。
「撮影でいちばん苦心するのは、タイミングなんです。その料理がいちばんおいしい瞬間にシャッターを切るんです。色艶・香りはもちろん、あたたかいものはほかほか感を、冷たいものはひんやり感を、湯気が立つものは湯気の形のいい瞬間をおさめないといけない」と仰せになった。
 いつも思う。
「お酒が飲めない人は、味をとやかく言う資格がないんじゃないか」って。
 これ、自分のこと。

 冬の季節の昼食には、作りたてのかき揚げうどんがいい。
 なんて、ささやかな喜びに浸りながら、「はぜ」の物語を見てしまった。
 ごちそうさま。
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クリスマスツリー

2007年11月23日 19時48分50秒 | Weblog
 いよいよクリスマス準備があちこちで始まった。
 イルミネーションは、年々、華やかになっていく。
 昨日、授業が終わって、正門前を通りかかると、立教大学の時計台の前庭には二本の大きなツリーに灯りが灯っていた。

 12月に入ると、ますます日没が早くなるので、大学を後にするときには、もっとツリーが美しく見えるようになる。
 レンガづくりの建物に蔦が絡まって、晩秋には赤く色づくものもあり、春とは違った華やかさが醸しだされる。

 さて、今年の締めくくりに向けて、あまり気張りすぎず、でも気を引き締めていきたいと、ツリーを横目に思っていた昨日の暮れ方のこと。
 今日は大切な仕事の打ち合わせで外出し、帰りに銀座に立ち寄った。
 祭日と言うことで、なかなかの賑わいであった。
 
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米屋・駄餅屋、そして豆大福の味わい方

2007年11月22日 19時47分56秒 | Weblog
 5年以上前に、町から最後の米屋が消えた。
 仕方がないので、スーパーマーケットで買うようになった。
 最近、すべての米が‘新米’になって、日常的に食してるものが店頭に置かれなくなった。で、その新米にしたのだが、これがまずい。なぜ? 分からない。我が家の炊飯器が壊れてきたのだろうか。それも分からない。
 遠くても米屋はないかと、近日中に探してみようと思っている。
 
 もう一つ、消えてしまった店に駄餅屋がある。
 和菓子屋ほど高級でないので、手間をかけたくないときの小昼食などに、丁度よかった。
 串団子・豆大福・おはぎ・みつまめ等々のほかに、お赤飯やかんぴょうの海苔巻きやおいなりさん等も置いてあって、助かっていたのだった。
 いちばん近い店が今年の夏前に閉店してしまった。
 不便なことといったらない。

 で、ここからが本題。
 野口三千三先生に教えられた「豆大福」の食べ方をブログ伝授しておきたい。
 
 最近の豆大福は、ビニールに包まれていることが多い。
 そこでそのままの状態で、周りの餅の部分が破けて中の餡が出ない程度に軽く柔らかく、少しずつ力を加えながら全体を押し付ける。すると豆大福の厚さが薄くなって平らになる。そうなったら中身を取り出す。この状態になると大福にふかかっている粉がおちているので、まわりに飛び散ることが少なくなる。
 次に口の中に含んで、一気にガブッとかぶりつかないで、じわじわと噛み締める。その時、餅や餡の柔らかな食感に豆の歯ごたえがアクセントになるのをしっかり味わうのだ。この豆は少し塩気があって、餅や餡にはない噛み応えがある。その食感の違いが、なんともいいと野口先生はおしゃった。
 ここが肝心ですぞ!
 ただむしゃむしゃと食べてしまうのではなく、甘さと塩気の按配を舌の上で味わい、先ほどの噛み応えも楽しんでから飲み込むのである。
 豆大福の味を何十倍も楽しむ食し方である。

 さすがに甘いもの好きの野口先生ならではのご教示に違いない。
 それだけではない。そこにいたるまでの話があるのだ。

「師範学校の生徒の時代に、甘いものを食べたいと思っても、小遣いが少なかったから、そんなにちょいちょい食べることは出来なかったんだ。一年にほんの数えるほど、ごく稀に豆大福が食べられるときがあって、そんなときにあっという間に食べてしまうには勿体なかった。そこで、時間をかけて食べているうちに、こうした食べ方を知ったんだよ」
 この話を伺って、「本当の幸せって、何だろう」って、ジーンときましたね。
 ちなみに昔は紙にはさんでかるくつぶしたそうだ。

 まずは、豆大福を、この食べ方でお試しあれ!
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2007年11月21日 16時44分19秒 | Weblog
 戦後、昭和20年代は、大きな鏡は憧れだった。
 ゆがみの少ない鏡は、なかなか手にはいらない。
 それでもクラシックバレーやモダンダンス等々、西洋の舞踊の世界では、大きな鏡は必需品だった。

 野口先生は、野口体操に鏡と音楽はいらないとおしゃった。
 その理由は、音楽をかけて外からのリズムにあわせるのではなく自分の内側から生まれてくる動きのリズム感を大切にしたいと言うことが一つ、次に体操で大切にしたいことは形ではないということから鏡を見ながら形を確認することは避けたいと考えておられたからだった。

 しかし、ご自宅にはかなり大きな鏡があって、さらに亡くなる4年前に増改築なさった折には180×200の壁面いっぱいの鏡をつけられた。
 それは若き日にモダンダンスの研究所で過ごした経験が、鏡への憧れとして残っておられたからだった。体操は形ではないとおっしゃりながら、時に鏡を見ながら練習されることもあった。
《自然は矛盾することを内包する》なんて、野口先生おしゃってましたよね。

 ところで鏡には、思いがけない効果があった。
 それは部屋全体が明るくなること、広々と見えることなど気づかれて、それはそれは喜ばれた。
「部屋のなかに鏡を運び込んでくるときに、あんなに固いものも、大きくなると波打つのよ。驚いたね。予想はしていたけれど、あれほど波打つなんて!」

 ものの大きさは予想外の動きを見せるものらしい。
 先生のお宅の壁に貼り付けられた鏡は、大きくてもゆがみがなかった。
 同時に壁の補強となるという。
 この点でも思いがけない効果があった。
「鏡よ鏡よ鏡さん、あなたはこころを映す魔法の鏡、なんて台詞がありましたっけ?」
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雑感 ミシュラン・東京

2007年11月20日 15時47分15秒 | Weblog
 昨晩から巷でささやかれているのは、ミシュラン東京の評価だろう。
 なかでも三ツ星に輝いた82歳の鮨職人の方は、手を綺麗に保つために手袋を欠かさないとおっしゃる。
 わかりますね。
《シミだらけの手で鮨を握ったら、美味しくないでしょう》という感性が素晴らしい。

 手の美しさと言えば思い出されるのが「風と共に去りぬ」だ。
 カーテン地でつくった洋服を着て、レッド・バトラーの元を訪ねるシーン。
 握手をしたスカーレットの手を見て、生活に困窮していることを見抜き、援助を申し入れる。
 玄関からロビーに馬で入っていけるほどの南部の邸宅に住んでいた女性が、南北戦争で貧困生活を余儀なくされる。一時は援助を受けるが、結局のところ、スカーレット・オハラは、最後に大地の土を一握りつかんで、力強く立ち上がって生きようとする。そのラストが印象的だった。
 手はまさに生活がそのまま現れるのだ。この場合は荒れた手だっていいわけだ。
 
 で、82歳の鮨職人は、美しい手を維持するために、健康に気遣い節制した暮らしをと、厳しい修業を自分に課しているそうだ。

 そういえば先日、友人を誘って近くに出来たイタリアンレストランに出かけた。ゆっくりランチを食べながら情報交換を行ったのだが、私たち以外の客がいなくなった頃合に、店のシェフが外のベンチでタバコを吸っていた。
 なかなか男前のシェフで、その姿が様になっていた。
 しかし、しかしである。
「少なくとも、仕事の途中でタバコはないでしょ」って、グルメの友人は言った。
 
 その日のパスタの茹で具合だったのか原因は一つではないはずだが、最初の一口に小麦粉の匂いが舌に残った。粉っぽさが舌に残ったと言った方がいいかもしれない。パスタが古かったのか、あるいは茹でる時間が少し短かったのか、いずれにしてもパスタの質と茹で加減に問題があった。(ちょっと通人みたいだけれど、それほどではありません)
 営業途中で、みえるところでタバコを吸うのは、およしなさいと言いたくなったわけだ。
 
 鮨職人の話に戻るが、舌を確保するために、日常の節制が大事だと言う見識と実行が、その店の味を支えているのだろう。

 手といい、舌といい、目といい、鼻といい、五感プラス第六感、丸ごとの感覚を研ぎ澄ませている努力は凄い。それも何十年にも渡って続けている。
 
 自分のからだの状態をベストに保つということは並大抵のことではない。
 そういえば野口三千三先生は、晩年、大きな鏡を壁に据えつけられた。
「朝、起きたときに自分の姿を鏡に映してみるわけよ。お湯が湧くあいだ、鏡の前で四股をやることにしたの」
 70代最後の頃のことだった。
 そうそう、思い出した。野口先生はレッスンの前には、着いた先でお茶は飲んでも食べ物は口になさらなかった。出かける前に歯を磨いてくるので、歯の間に食べ物が残こることを避けておられた。

 ちょとしたことのようだが、この気遣いがあってこそ、質を維持することが出来るのだ。
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Penguin通信……警鐘! 地球温暖化

2007年11月19日 15時40分39秒 | Weblog
 かれこれ20年近くになるだろうか、探検家の舟津圭三さんがアラスカに移住されてから。
 
 犬ぞりで南極横断をしたときに、野口三千三語録を読んで深く感銘を受けたと話されたことが記憶に残っている。

 その後、アラスカに居を移してから、この通信が送られてくるようになった。

 今回の記事の最後は「溶ける北極の氷」についてだった。
 舟津さんが8月に世界最大の原子力砕氷船「ヤマル」に乗り込んで、地球温暖化の影響が現れている現場を見てこられたという。なんでも北極圏への砕氷船クルーズの講師役をつとめたらしい。
《今年で5回目。過去四回のクルーズと比較して、海氷が現れ始める境界がより北に移動しており、氷の厚さも薄くなっていることがはっきりとわかりました》
 世界最強の原子砕氷船といえども、必ず2-3メートルの厚い氷に行く手を阻まれると、一旦はバックし、突進して氷に乗り上げて重みで氷を割ることを繰り返すとかかれている。
「なるほど世界最強の原子力砕氷船の重さってどのくらいなの?」
 
 今年はそうした作業なしにすんなりと北極点に到達したそうだ。
 北極点の海氷の上におりて、極点の周りを一周するセレモニーも、厚い氷が見つからなくて、中止になったとある。
「へー、そんなクルーズがあるのね」
 
 まだ、話は終わらない。
 極点で究極の寒中水泳もやるそうだ。
 舟津さんは‘今年はやるぞー’と気合をいれていたそうですが、こちらも中止で拍子抜けしたとか。

 最後に《地球全体がよき方向へと向かいますよう。人類全体が変わって行かねばなりません》
 手書きのコメントがついていた。

「さまざまなクルーズがあるのでしょうが、北極点クルーズまであるんですね」
 ちなみに世界最大の原子力砕氷船「ヤマル号」はロシア船のようだ。
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スライドショー

2007年11月18日 09時18分08秒 | Weblog
 昨日、朝日カルチャー土曜日クラスのレッスンで新しい発見があった。
 実は先週のこのレッスンで、佐治さんが写真を撮ってくださった。
 週末にCDにコピーしたものを送っていただいた。あまりにも素敵な写真なので皆さんにご覧にいれたい。

 でも、紙焼きしてないので、見せる方法はないかと思案していたら、「あるではありませんか」。
 母のために用意したパナソニックの「DVD/CDポータブルプレーヤー」を充電してもって行けばいい、と佐治さんに教えられた。そういえば元気になった母が見なくなったので、押入れの中で眠っている状態だ。

 さてさて、レッスンがはじまったところでスライドショー。
 200枚近い写真を20分ほどかけて、一気にみてしまった。
「カッコいい、ドキュメンタリーを見てるみたい!」
 黒い画面に写真が上から降りてくる。
 一枚一枚、動画とは一味違ったドキドキ感で見ていく間に、それぞれが感想を漏らしてくれた。

 こんな楽しみ方があるんですね。
 今や大画面で運動会や文化祭や結婚式や誕生会など、記念の写真を見る機械が増えていると聞く。昨日は、それに比べれば小さな画面だったかが、ポータブルと言う手軽さで、どこでも自由にみることができる楽しさった。
 この楽しさから浮かび上がる懐かしさは、子供のうちに刷り込まれていたように思う。
 ある年齢より上の人は「紙芝居」感覚が呼び起され、街角紙芝居を知らない若者世代には半動画的写真として新鮮にうつったようだ。
 とにかく皆と一緒に写真を見るという体操のレッスンもまた面白し。

 時代は、どんどん変わるもんですね。
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ドラマのテーマ音楽

2007年11月17日 12時08分25秒 | Weblog
 今日の話は、あるグループでの‘雑談’。
 
 NHKの朝の連続ドラマのテーマ音楽が、好きになれないと言った女性がいた。 他の数名は、誰もそのドラマを見ていなかった。私は、見始めると話が終わるまでの半年間、見続けることになるので、意識的に見ないようにしていると話した。 ほんとにそうなの。BSは今見ていないので、朝と昼のどちらかに、必ず時間を空けてテレビの前に座ってしまう。
 で、見られないときは、なんだかとっても悪いことをしたみたいに思う。わざわざ録画して見たいと思うほど情熱はない。というより、VHSのビデオが壊れたまま、次のDVDレコーダーは、再生専用のもので間に合わせている。そもそも録画しても見ないことのほうが多くなった。いや、最近のテレビは、録画してまで見たいと思うものがなくなった。年をとったせいかなぁ~、とも思っている。

 話を戻すと、そこに居合わせた全員が、今度、会うときまでに音楽を聴いてくる約束を交わした。
 今朝、2分前にテレビの前に陣取って、NHKにチャンネルを合わせて、番組がはじまるのを待った。
 ジャスト、15分にテーマ曲が流れた。
「なるほど」
 彼女の言うことの意味が分かった。
 ピアノの音のミキシングがあまりよろしくない。この手の音楽を聞きすぎていて、新味が感じられないのかもしれない。
 それ以上に、ドラマの内容と、音楽が合っていないように私には感じられた。もっと違う発想の音楽がいいと思う。しかし、人そろぞれに好き嫌いがあるから、けなすのは野暮かもネ。
 
 とにかく難しい。
 テーマ音楽がよすぎても、音楽の一人歩きになってしまう。とはいえ、自分の気に入った曲だとついつい見てしまうと言うことはある。

 ということで、みんながどんな感想を持ったのか、今度会う日が楽しみだ。
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呼吸のレッスン

2007年11月16日 16時30分33秒 | Weblog
 昨日の授業は「呼吸」をテーマに行った。
 ほとんど話に終始して、動きの時間は少なくなってしまう。そのくらい複雑で微妙な話なのだ。時間がかかる大きな要因は、学生の目を見ながら一つひとつ確認を取りながら話をすすめるためでもある。
 しかし、これまでも学生には好評で、12~14回の授業の中で、必ず取り上げることにしている。
「呼吸について、今まで何も知らなかった」
 ほとんどの学生がそう感想を漏らす。

 私自身、野口三千三先生のレッスンで「呼吸」についてはじめて詳しい理論を知ることが出来た。それに基づく呼吸法の実践を体験した。このときの驚きは、感動と言っていいものであった。

 野口没後、ほぼ10年の間にさらに調べがすすみ、私の言葉で伝えられるようになってきた。そのためよりいっそう時間がかかるようになった。

 こうしてブログに書いていると懐かしく思い出される体験がある。
 湯船につかって腹式呼吸の練習をやりすぎて、「湯あたり」したことだ。そのお蔭で、腹式呼吸〔横隔膜式呼吸)を明確に自覚できたのだった。
 野口体操をはじめて間もないころだから、かれこれ30年以上前の出来事だった。
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