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羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

新月の夜

2008年08月31日 18時34分46秒 | Weblog
 2008年8月31日、新月の夜をもって、このブログを一応終息することを思い立って、何人かにそのことを伝えた。
 皆さん、眉を少しあげて「エッ、止められるんですか」語尾があがる。
 言葉の裏には「書きたくなるって……」が隠されている。

 今朝までそのつもりでいた。
 そして今、編集画面に入るためログインしたところ、昨日の来客がもの凄く多かった。

「いけませんね。数に揺れちゃ」
 自動検索が入ってきたとしても、でも読んでくださる方がいるのは嬉しい気持ちで、揺れました。
 そこで気持ちが決まりました。

 やっぱり、これからも、気ままに書かせていただきましょう。
 日ごろのご購読、ありがとうございます。

虎にひかれて善光寺まいり

2008年08月30日 07時56分54秒 | Weblog
 くどいようですが、ずっと書いていることの繰り返しです。
 コンピューターやインターネットの本を読むうちに、野口三千三先生とのやり取りを思い出したお話、一席。

 私が、初めてワープロを使いだしたのは1986年ごろだった。
 ある日、試みに打ち出した1枚のコピーを先生に恐る恐るお渡しした。
「この前の授業の板書を打ち込んできました」
「えっ、立派な印刷物じゃない」
 目を通された先生は
「読みやすくていいね~」(先生ニコニコ)
 
 その時の嬉しかったこと。 
 しかし、その嬉しさも束の間
「あなたの字は、お世辞にも上手いとはいえないから、ワープロとやらを使いこなした方がいいと思うよ。それにぼくは活字が大好きなんだ」
 一瞬、ムッときたものの「活字が大好き」の言葉に勇気をいただいた。
 
 毎回、打ち込んでお渡しするうちに
「推敲がしやすくなった」
 喜ばれることがなにより嬉しかった私。
 
 1988年に「野口三千三授業記録の会」をはじめて、ワープロはますますありがたい道具となっていった。
 しばらくはワープロを使い続けていた。
 最後、3代目のワープロは‘キャノワード’だった。
 それにおさらばを告げた後、やってきたのは、‘Mac’だった。
 
 いよいよパソコンの時代到来である。
 思い返せば、初期のころのインターネットで、メールを始めたころが懐かしい。 当時はメールを使う人はごく少なく、もちろん〔meiwaku〕とつくメールなんて陰も形も見られなかった。よき時代である。
 
 最初は電話回線1本でやっていたから、インターネットを使っていると電話はお話中になっていた。料金もかかるので、書き込み作業中は、接続を切っていた。
 そのうちに‘ISDN’方式になって、インターネットをしながら電話が使えた。そのうえ、2本の電話回線をもらえたのでこれは重宝した。
 ところがこの‘ISDN’の命は短くて、‘ADSL’の高速ブロードバンドに変更した。画像のダウンロードは、いちだんと早くなった。
 で、これも命が短くて、今は3年前から‘光’になった。
 
 どれほど感動するかと思いきや、‘ADSL’の経験があったので、このスピード変化には、それほどの驚きと感動はあまり感じることはなかった。
「思います。よくぞ変化についていったもの」

 話は前後するが、そんなこんなで1998年に「野口体操公式ホームページ」を公開して10年が過ぎた。
 今週末まで、まとめてインターネット関連の本を読んで
《 今や、この世界について、ちょっと知ったかぶりも出来ますわよ 》って感じ!
 
 ワープロ時代はともかく、パソコンやインターネットを使いこなすために、マニュアル・ブックは分厚すぎて役立たない。
 とにもかくにも多くの人の世話になってきた。
 この世界は、人から人に、じかに伝わっていくことで、使えるようになるのだ。 そして教える行為は‘無償’が原則。

「野口体操に出会ってなければ、ここまでやらなかったと思うのよ」
 今朝、一晩中の雷で、寝不足気味の母に、朝食の片付けをしながら話しかけた。
「牛に引かれて善光寺まいりね」
「私の場合、牛じゃなくて虎だけど」
「えっ?」
「ほら、野口先生は寅年生まれだから」
「ほほほっ。。。。。。。」(←母、意味ありげな笑い)
 母の機嫌が、すこしよくなった。
 
 

体操、入浴、睡眠、朝食 ……

2008年08月29日 07時57分31秒 | Weblog
「ミラノの人、書いた、恋した、生きた」
 こう墓碑銘にあるのは、スタンダールだそうだ。

 今週の私。
「東京の人、読んだ、読んだ、生きた」
 なんちゃって!

 いやいや、読ませてもらいました。インターネット、ウェブ関連の本をかたっぱしからね。
 最初は‘カタカナ語’が、チンプンカンプンで頭が痛かった。
 しかしですね、数をこなせば、何となくの意味がわかってくるから不思議だ。
「へぇ~、ふ~ん、そうだったの」
 そのうちに
「ついてけないわ、あぁ~、どうしたらいいの」
 打ちひしがれて、元気を失いそうになった。
 
 そこで、体操。
 その後、半身浴ではなく、たっぷりの風呂の湯に浸る。
 からだが温まれば、後ろ向きの気分が中心に戻ってくる。
 しばらく涼んで、そして眠る。
 
 目覚めは5時。
 朝日と日経新聞を読んで、6時に、新さつま芋と若布の味噌汁に焚きたてご飯、納豆に信州土産の野沢菜、茄子の煮びたし、プラス桃に日本茶の朝食をいただく。
 結構でした。

 さぁ~、始まる。
「今日の予定をこなしましょう~っと」
 
 一日、無事に過ごせますように、仏壇に手を合わせた。

 
 

涼しさ

2008年08月27日 18時55分09秒 | Weblog
 8月中に読んでおきたいと思った本のほとんどに目を通した。
 お盆過ぎからの涼しさが、はかどった最大の理由だ。
 私の場合、気温と頭の回転は関係がありそうだ。

 あと数冊、春からの宿題本が残っている。
 これが手ごわい。
 まぁ、ゆっくりいきましょうぞ!
 

『ネットいじめ』 荻上チキ著

2008年08月26日 10時24分00秒 | Weblog
‘https’というプラス‘s’のWebサービスに気づきはじめたのは、かれこれ数年まえ、いや、もう少し前からだろうか。
 最初に気づいたのは、大学のシラバス書き換えをWeb上で行えるようになったときだった。

 それからホームページ運営に関して、サーバー管理をしてくれている会社のホームページに、一歩深く入っていくとき、やはり‘s’がついているアドレスだった。(注:いろいろな手続きをするとき)
 最近では、パスワードが必要な‘ログイン’を行う‘s’付きが増えたのだ。
 知らないうちに、私の暮らしもネットに席巻されつつある。

 ところで、連日、ネット関連の本を読んでいる。
 すごく不思議だったことが「な~んだ、そんなわけだったの」と、胸のつかえが落ちたりすることもある。
 
 たとえば:
 ブログを書き終えて‘投稿’をクリックすると、「タイトルが未記入」と指摘され、投稿を受け付けてくれない、ことがしばしばある。
「なんで、タイトル(必須)なの?」
 プレ還暦のあたしとしては、「どっちでもいいじゃん」って思っていた。
 それには理由があるのだ。
 原稿を頼まれて、タイトルから浮かぶものもあれば、書き上げてメール送信するときになってもまだ浮かばないときもある。そんなとき「どうぞそちらでつけてください」、いやいや実際は、もっと丁寧語で編集者にお願いしている。
 つまり、その延長線上で「タイトル」を捉えていた。(馬鹿としか言いようがない、なんていわないで、と自分にいってます)

 つまり、答えは、「タイトルは単に検索用の‘タグ’(荷札、商品の値段・材料製造会社名などを記した札・データプログラムの一部分につける目印)をつける行為に過ぎなかった」と言うことだった。
 そうとは知らず、ステキなタイトルにしたい、と神経を使ったことがある。
 もしかすると原稿だって商品なら、タグも必要か?
(商品になるほどの原稿じゃないんじゃない、といわれそう)
 余談だが、有名ブランド品のタグを、後生大事にためている人もいるくらいだから、‘タグ’は、すごく大事なものというわけだ。
 
 で、その件はそれとして、今のところはまず付箋をつける段階だが、オススメの本がある。
 
 ユビキタス、ハッカー、Web2・0、モバゲータウン、SNS、不安業界、学校勝手サイト、ネットリテラシー、アバター、裏化、スクールカースト、プロフ、エロフ、デジタルデバイト、キャラアピール、サイバーリバタリアン、ネチケット、コンパイル、キャッシュ、コミュニティのゾーニング、挙げたら切がない。

 この言葉の羅列で「やめとこ」と、思わないで!
 この本は、意味不明の言葉の意味が自然にわかるように書かれている。
 わからない言葉を言葉だけで覚えても、わかったことにならない経験はどなたもお持ちだとおもう。
 実は、文脈として理解すると‘言葉(単語)のキャラが立つ’のである!

 書 名:『ネットいじめ ウェブ社会と終わりなき「キャラ戦争」』
 著者名:荻上チキ(1981年生まれ、評論家、ブロガー、メルマガ「αシノドス」編集長(芹沢一也氏と共宰)
 出版社:PHP。PHP新書 537
 発行年月日:2008年7月29日

 大変革の時代、たとえば、「大なり小なり、かなり昔からやられていたであろう教員採用における不正が明るみに出た」が、そんなことをしている時代じゃないってことがよくわかる。児童生徒が蒙ってきた被害はかなりのものだ。 
 ことは教育界だけの問題に留まらない。
 この本は題名こそ『ネットいじめ』だし、内容も‘子どもたちの今’を扱っているが、それに留まるものではない。
 近代、国家、社会、教育、……多様な視点から、それらを読みとくことが出来る。
 おりも折、本日8月26日(火)、朝日新聞「文化欄ー観流」に著者が写真入りで紹介されていた。
 見出しはこうだ。
「ゼロ年代の批評ー待たれる二分法超えた議論」
《 同時多発テロにイラク戦争、小泉改革など、いろいろあった2000年代も終盤。論壇では若手の「ゼロ年代論」が出てきた 》

「いつ切れるか」と心配しながら、ITの尻尾に、やっとの思いで‘ふ~ふ~’しながら(ちょっとオーバーな表現)下がっているあたしとしては、目を覚まされる一冊でした。

 本日、最後までお付き合いありがとう。

ネコと雨水

2008年08月25日 19時07分32秒 | Weblog
 先週の土曜日に 『ネコー無用の雑学知識』 沼田朗著 ワニ文庫をいただいた。
 早速、帰りの電車のなかで読み始めた。
 いやいや「そうなのか」とか「やっぱり」と頷きながら、きっと顔の表情はかなりほころんでいたと思う。

 たとえば、ひとつだけ。
 我が家では盆栽の水遣りのために、バケツに水を汲み置きしている。
 最近になってある事情から、3個のバケツの上に、古くなった簾を半分にたたんで載せている。

 ある朝のこと、その簾が乱れていることに気づいた。
「きっと、ネコが水を飲みにきたのだ」
 バケツの水は時間が経っているし、なにより飲みにくいだろうから、と、手桶にたっぷり上まで新しい水道水を入れて、そばに置いた。
 ところが、やはり簾がずれているのだ。
「なんで、大きなバケツに入っている水のほうがいいのかなぁ~。」

 その答え。
 ネコが好むのは、水溜りの雨水だそうだ。きれいな器に注がれた澄んだ水道水よりも雨水のほうが美味しいからだ。
 その上、水道水は濾過のための硫酸アルミニウムや消毒液のクロールが多量に入っている。ネコにとってはその水の臭さに耐え難いものを感じているのだと言う。

 更に飼い主が清潔好きだったりして、中性洗剤を使って、よくゆすがれていない器の匂いはなおさらのこと。結果として飼い猫でも飲み水は雨水がいいらしいのだ。
 洗剤は皮膚から吸収されると肝臓にダメージを与えるしね。

 どうりで水道水を植物に直接かけるのではなく臭気が抜けるまで溜め置いてあるから、ネコはこちらの水の上澄みを飲むわけがわかった。
 なんでも著者の体験では、活水器をつけたところ、雨水専門だったネコが、器にくんだ水をよく飲むようになった例があるとか。

「野生に近いネコは、からだに悪いものは本能的にみきわめる力に長けているということだ」
 <ネコは水の‘ガイガーカウンター’>という章をまとめている。
 
 古々米さん、本をありがとう。

時代を読むために

2008年08月24日 19時04分10秒 | Weblog
 8月17日付け、日経新聞「世界を読む」では、インターネットに書き込まれる大量にして先鋭的な政府批判に対して、各国政府が新たな対処を始めた記事が載っていた。
 国民への情報提供はもちろんのこと、国内外からの書き込みに反論したり、国民との対話をする。「攻め」の構えを見せ始めたという。

 その記事の最後に「さらに深読みー参考書」と挙げられた本を読んだ。

『グーグル・アマゾン化する社会』森健著 光文社
『ウェブ進化論』梅田望夫 筑摩書房 二度目。
『ウェブ炎上 ネット群衆の暴走と可能性』荻上チキ著 筑摩書房
『ネット・ポリテックス 9・11以降の世界情報戦略』大屋大洋 岩波書店

 まずは大量のカタカナ語になれるのに時間がかかる。
 ネットが世界を変えていることだけは確かだ。
 この手の本は義務的に読んでいるような気がしている。
 自分が生きている時代を読むために……。

‘ながら観戦’

2008年08月23日 08時50分36秒 | Weblog
 陸上で思いがけず、メダルがもらえた。
‘金’間違いなしの国が、バトンを落とすと言うこれまた思いがけないミスがあったから、とは言わせない!
 日本陸上史上の快挙は素直に嬉しい。

 さて、野口三千三先生は、‘陸上’と‘体操’を中心に、満遍なく競技に関心をもたれていた。
 そのなかでとりわけ「女子の走りが美しくなった」と口癖のように話されていた。
 戦前から‘動き’を見つづけるなかで、女子の運動能力の進化に注目されていた。とりわけ戦後になってからの‘女性の動き’に注目されていたのだ。

「ぼくは、十代の頃、陸上と体操をやっていたから、自然にその競技にチャンネルを合わせてしまうのよね」
 そうおっしゃりながら、ご自身がなさっていた時代を振り返って、技術の向上は驚異的だと食入るように見ておられた姿を思い出す。
「昔だったら、なかなか出来なかったような動きは、今じゃみんながなんてことなくこなしてしまう」
‘ウルトラC’とか‘ウルトラD’などという表現がされてた頃だ。
「マラソンは、競技の中心だし、この心理戦がたまらないんだよね」

 他にもこんな話を思い出す。
「女子には無理だ、といわれる事だって、出来るようになっているしね。戦前、戦中の体育で、男子だけに許されていた運動のなかから選んで、女子にもさせることを主張したし、実際にぼくが赴任した小学校では、出来る限り取り入れたんだよ。ただ、女子の場合は、女らしい体つきになってくる前に体験させておいて、感覚を育てておかないといけないという‘身体的なタイミング問題’があって、男子に比べて難しかった。それに始めるのが早ければいいってもんじゃないから……。丁度いい時期ってあるんです。なにごとにも」

 明日で、オリンピックも終わる。
 北京と東京の時差が1時間弱という好条件と、おりしも夏休みということで、数えてみると案外たくさんの競技を、料理をつくりながら・新聞を読みながら・お茶を飲みながら・片づけをしながら、エトセトラ、‘ながら観戦’していたような気がする。
「こんなとき、先生だったら、どんなコメントをするだろう」
 独特の見方をされていた生前の先生を思い出していた。

 かなり古い思い出になってしまったミュンヘン・オリンピックの悲劇を、思い出させられた今回の北京だ。 
 今日と明日で競技が終わり、物議をかもした開会式に負けそうにない閉会式がすんで、みなさんご無事で帰国されることを祈る時期になった。
 

還らぬ知らせ

2008年08月22日 07時56分12秒 | Weblog
 夏の日に、悲しい知らせをいただいた。
 年若い女性の二度と帰らぬ旅立ち。
 
 透明な声だった。
 純粋な歌声だった。
 それでいて何処か寂しげな憂いもあった。
 
 それはこの国の湿気のせいかと思っていた。
 いや、それだけではなかったかも、と、今になって想う。

 若くして彼岸に出向く予感が彼女の身中にあったのだろうか。
 とすれば彼女の歌は、一層透き通って聞こえる。
 気のせいか……。
 気のせいであってほしい。

 野口三千三先生は、こんなことを公言して憚らなかった。
「世の中、不公平。ぼくは藝大の学生は、依怙贔屓します」
 
 教室にいらしたのは、まだ学生の頃だったか、あるいは卒業していてもそれほどの時間は過ぎていなかったような気がしている。
 もちろん、彼女なら、藝大でなくても、そうなさったに違いない。
 魔的な魅力のある女性だった。

「楽譜上で作曲するだけでなく、自分のからだで、声でも創作活動をしていきたいんです」
 言葉の通りだった。

 なぜ、なぜ、こんなにも早く逝かなければならなかったのか。
 神様は不公平だ。
 この不公平さには、異議申し立てをしたい。
 でも、相手が神様だと、なんだか無力で打ちひしがれるばかり。
 
 八月初旬。
 じりじりと焼き付ける真夏の太陽が、ひとつの命を連れ去てしまった気がしてならない。
 
 ただ、ただ、ご冥福を祈るのみ。
 河井英理さん、‘歌’をありがとう。

↓サジさんのブログ「芭璃庵」より。
 
 *河井英里さんのHP:http://www.goocompany.co.jp/eri_kawai/

 *YouTubeで「シャ・リオン」を聴くことができます: 
   http://jp.youtube.com/watch?v=9ZozwF57Wjs

‘猫ニャン通り’と相成りました。

2008年08月21日 09時23分56秒 | Weblog
 最近、スタバに代表されるようなチェーン店とは一線を画して、個性的なカフェが繁盛しているそうだ。
 たとえば、教会が経営する悩みを解消してくれる「預言カフェ」、本を読んだ感想を話し合える「読書会カフェ」、犬をつれて毛づくろいができる「愛犬グルーミングカフェ」等々、インターネット検索で見つけて遠方から来る人や、口コミで訪れる人などで、店によっては行列が出来るところまであらわれたらしい。

 その先駆カフェは「猫カフェ」。
 家で猫を飼えない人たちは、ここで猫に癒されるそうだ。
 
 実は、我が家の前の通りは、お茶こそ出ないが「愛猫通り」となりつつある。
 定期的に餌をやっているおばあさんの他に、どこからか餌を持ってくる女性がいた。どうもその人たちは、猫を去勢するために、まず餌をやって慣れさせていくのが目的だったらしい。最近は見かけなくなった。この通りは、諦めたのかしら。
 
 なんといっても通りが狭くて、自動車が頻繁に通らない。
 ところが人通りは多い。
 近所の住民の他に、気まぐれで餌をやる人もいる。
 共通の思いは、‘家では飼えない’でも‘子猫は可愛い’のである。

 とくに雌の赤茶色猫は、もの凄く運動神経がよろしい。
 雄の黒猫は、このお姉ちゃん猫に従って、仲良くじゃれあっている。
 時期がずれて後から生まれたもう一匹のひ弱な猫は、いつの間にか姿を見なくなってしまった。
 そして、飼い猫の子猫も、この2匹の野良子猫と合流して、遊ぶようになった。
 その飼い主の見立てでは、このあたりのボス猫の子猫で、きっと母親違いではないかと。

 さすがに暑い盛りの日中は、どの子猫も姿を見せないが、朝と夕方から夜には、お出ましになって、道路の真ん中で堂々と毛づくろいしたり寝そべったり石を転がしてサッカーに興じたりといかにも愛くるしい。
 どうも人間様にパフォーマンスを見せて、それが喜ばれているのがわかっているかのようにも思える。

 通りかかる人は、ケイタイで写真を撮ったり、そばによってかまったり、無関心に通り過ぎる人の方が少ない。
 すっかり人間になれてしまって、逃げることをしなくなった。

 最近になって、赤茶色の子猫は、咽喉を撫でてもらう快感を知ったらしい。寝そべってお寛ぎの時など、人が近づくとからだを捻ってお腹を見せて、ククッと咽喉を鳴らし、「お願い撫でて」とでも言っているような仕草すら見せるようになってしまった。
「そうか、そうか」
 せがまれるままに撫でてやると、さらに咽喉を鳴らし、身をくねらせる。
 
 それだけではない、車止めの低い2本のポールの間に掛けられているチェーンにぶらさげられている紙の札を見つけてじゃれ付いている。その遊び方がこれまた人の目を惹きつけてしまう。
「この子は、人間が自分たちを可愛いと思っていることを知ってるんだよね」
 隣のレコード屋のお兄さんが目を細めながら、話しかけてきた。

 てなわけで、子猫目当てでわざわざこの通りを抜ける人が増えたのではないかと思っている。

‘猫カフェ’ならぬ‘猫ニャン通り’に相成りました。
 ひとつの商店街からもう一つの商店街に抜ける適度に狭いわき道。立地条件がいいのでござる。
 すでに子猫は‘半野良猫暮らし’ではなく‘半飼い猫暮らし’になった。
「黒猫の雄って、金運をもたらすって知ってます?」
 昨日の夕方には、そんな会話を耳にした。

 その中でも母猫は人になつかず、孤高の野良猫の操を守っているのであります。
 お見事!

品格

2008年08月20日 09時42分48秒 | Weblog
 ホリエモンこと堀江貴文ライブドア元社長が、ブログを再開したニュースを読んだ。
 その記事を読んで、係争中の事件を思い出した。
 個人的な感想だけれど、国策捜査が行われて、堀江が検挙された時期を境に、世の中の変化のスピードが速くなったような気がしてならない。
 それにともなって、個人の判断能力を超えるほどに、嫌なこと、悪い方向への傾斜、エトセトラ、あらゆるところで地崩れが起きているとしか思えない。

 問題を若者に限れば、堀江の栄光と転落は、自力で成り上がって行こうとする者のエネルギーを削いだことは間違いない。ダメもとで取り組もうとする意欲を失わせることになったと思っている。不満がくすぶってしまう。
 だからといって堀江がしたことはまったく悪くない、ということではない。
 
 しかし、現実には、ベンチャー企業を立ち上げるなんて、人生にとっていかにも危ない大きな賭けだし、‘命知らず’がやるものと私など思っている。
 しかし、しかしである。
 若いうちの賭けは、たとえ上手くいかなくても取り返しがきく。いや、取り返しがきく社会でなければ若者は元気に育たない。

 話を戻そう。
 ある出版社ではこんな表現がされて、本が出版された。
「堀江には、駐車違反で死刑判決が……」と。
 あのあと村上ファンドも挙げられた。
 それに続いて、同じように違法を行っていると思しき人や会社が罪を問われたかと言うと、それほどでもない。一部上場で伝統ある企業にはお咎めなしのような気がする。あくまでも気がする程度なのだが……。

 このことに呼応するかのように、『○○の品格』というような、‘品格’という文字がついた題名の本が、ベストセラーになっている。
 品格は、本を読んだくらいでは身につくものではない。
 ほとんどの人は、それを知りつつも、‘品格本’を手にとってしまう。そのイジマシイ心理もわからなくもないけれど。
 いみじくも堀江が言ったとささやかれていることがある。真偽のほどは確かめていないので、そのつもりで読んで欲しい。
「金で買えないものは、家柄です」と。
 こうした言葉を本当に吐いたとすれば、‘品格’の何たるかを堀江は知っていることと思う、とまでは言えないにしても、そういわせてしまう今の世のありようをみている。身をもって体験したのだろう。
 
 品格は持ち合わせているほうがいいに決まっている。でもそれは経験と言う時間のなかで、自然に醸しだされてくるもの。そして、品格ある大人が、適切なときに適切なアドバイスをしてくれることによって身についてくる、と思っている。

 それにつれて思い浮かんだことがある。
 私事だが、二十歳の成人のときのお祝いに、父の知人に上品なクラブに連れて行ってもらったことがある。連れて行ってくれた御仁は、人生経験豊かな方だった。
 席についてしばらくしたとき、彼にとっては馴染みの美しい女性が席を立った、その頃合を見計らって、キープしてあるボトルから琥珀色の液体を氷の入っているグラスに注ぎながら
「振袖の仕付け糸は、いちばんあなたを愛してくれている人に抜いてもらうものよ」
 一瞬、キョトンとした私は、次の瞬間その言葉の意味を解した。 
 まだまだ若かった。ポッと頬を染めたと思う。
 これ以上書かなくても、お分かりですよね。
‘品格’って、こんなシーンでも教えられることのよう。

 危ない、危ない。
 話が大きくカーブして二道に立ったところで、今日は御終い。
 
 蛇足:今となっては‘1円でも会社を立ち上げられる’時代が懐かしい。
 十年一昔とは、よく言ったもの。でも、あれからまだ十年は経ってませんよね。
 お上の言うことにゃ、踊らされちゃいけないってことかな?

本に人生を見つける?

2008年08月19日 17時03分24秒 | Weblog
 日曜日の午後のこと。
 書棚から一冊の本を手に取って、頁をめくろうとしたそのとき。
「お客様、その関連の本は、こちらにあるだけです」
 若い女性店員さんの声が涼やかだった。
「ありがとう」
 若い男性の声は低めだった。
「ムムムッ」
 右斜め後ろにからだを捻って、何気ない素振りを取り繕いその様子を伺った。

 男性の年のころは二十歳そこそこといったところだろうか。
 背は一メートル八十センチ近くはあるだろう。
 太ってもいないし痩せてもいない。
 レンガ色のTシャツを着て、ジーンズをはいている。どこにでもいる若者だった。とりわけこの町には。

 女性店員は、本を示すと、ささっとその場を離れていった。
 若者は『仕事道楽ースタジオジブリの現場』を手にしていた。
 先ほど岩波新書コーナーで見つけて、「これは撫明亭のご主人が紹介していたものだ」と気がついたものの、手に取ることはせずにおいた本だった。

 若者は示された本に、一瞥を投げかけたものの、あまり興味はもてなかったのだろうか、その本には手を伸ばさず、その場で『仕事道楽』を読み始めていた。
 横顔の表情から、内容に吸い込まれていくのが見てとれる。
 自分のこれからの生き方を模索している。ある頁でハッとしながら、啓示でも受けたかのようにも見受けられる表情。

 本に啓発される若者?と、思いつつ、私はレジへと選び出した本を手に歩いていった。
 
 ところが、月曜日、一日置いた今朝になって、その若者の表情が思い出されてしかたなかった。
 若さの迷い、戸惑い。可能性を本の中に見つけようとしている横顔。
 久しぶりに垣間見た若者の綺麗な顔だった。
「すすむ道を見つけたのだろうか? 何が書いてあったのだろう」

 午後、朝日カルチャーから帰宅する途中、その本屋に立ち寄った。
 読んでみたいと、朝、出かけるときから思っていたから。

 本屋に入ってまっすぐ、そのコーナーにすすみ、何冊か平積みしてあったところの前に立った。
 が、しかし。。。。。。新書コーナーのどこにも見つけることができなかった。
「売れてしまったのか」
 
 この手の本は、この町では、売れ筋だったに違いない。
 あのA君はじめ、B君、C君、D君、……、数限りなく、そういった若者がいそうだ。
「残念、遅かった!」

IT化社会に生きてるッ、のだ!

2008年08月18日 19時39分43秒 | Weblog
 休み中に半日かけて、インターネット上の手続きを、2・3件済ませた日があった。
 ひとつは父が残してくれた曰くつきの株券を、電子化する手続きをとったことに関連して‘インターネット・トレード’が、出来るように設定することだった。
 
 そんなことは、自分にはまったく関係がないと思い込んでいた。
 その株券の価値はスズメの涙でどれほどのものでもないのに、今のうちに手続きを済ませておくほうがいい、とすすめられて渋々おこなったことだ。
 具体的には、取引銀行系列の証券会社とのやり取りだった。
 手続きをとって、サイトを開くと、そこはまったく金融・証券の世界なのだ。
 今まで見たこともない空間構成と内容だ。
 
 画面を眺めつつ、ちょっと考えて、次の瞬間、恐ろしくなった。
 だって、自宅パソコンで、即座に株の取引が出来てしまうのだから。
 こんな風にして素人さんが「貯蓄から投資へ」などという国策に乗りやすいインフラを作っていくんだなぁ~。
 まぁっ、私には関係ありませんがね。
 でも、こんなことをしてみると、大人の仲間入りをしたような気分になるから不思議だ。
 
 さて、もう一件は、ホームページに関する解約作業だ。
 昨年、旧ホームページを立ち上げたまま、新しいホームページに移行させてあった。そこで、旧ホームページのサイトを解約する手続きをとるのだが、こちらも画面上で行うのだから、なんだかとても心配だった。
 自分がやっていることが間違ってないだろうか。そのことを確かめるすべがない。で、‘決定’をおしてしまって、いま公開しているホームページが消えてしまったらどうしようか、と不安だった。
 ドメイン名は、すでに移行してあったので問題はないとは思っていたが、この点も不安材料だった。
 ちゃんとできたという結果が出るまでは、健康診断検査結果を聞きに行くときに似た感じだ。
 
 そしてもう一件。
 メーリングリストをもっているのだが、いままで使っていた有料メールから無料に切り替えてあったので、有料の方の解約手続きをとることだった。
 こちらもドキドキものだった。
 デジタルは‘1’か‘〇’の世界だから、間違うとすべてが消えてしまう事からくる不安感だ。

 たったこれだけの作業なのに、終わったときの疲労感と言ったらなかった。
 そしてやたらに増えるのは‘パスワード’ばかりだ。
 もう覚えられる数ではない。

 と言うわけで、この夏休みに落着いて行たいと心積もりしていたインターネット上の手続き問題は一気に解決したわけでーす。
 
 それにしても、これから先、どうなっていくんでしょう。
 くわばら くわばら!
 

満三年を迎えて

2008年08月08日 08時35分16秒 | Weblog
 2005年にこのブログを開設して、満三年を迎えた。
‘野口体操公式ホームページ’に対して、羽鳥の人柄が読めるようなブログになさったらいかがですか、と若い友人にすすめられて始めたことだった。
 そうなったかどうかはわからないが、一応、毎日書くことを目標として続けてみた。

 開設当初に驚いたことは、ブログを開設する手続きだってそれほど難しくなく、こんなに簡単に世界に発信できるツールであるうえに、無料で使えるということは、昭和生まれの人間にとっては夢のような出来事だった。

 とにかく書き続ける。
 それだけだったように思う。

 これからは、毎日という枠をはずして、不定期に書くことにしたいと思っている。

 まず、明日から10日ほどの夏休みをいただこう。
 

『甘粕正彦 乱心の曠野』 佐野眞一著

2008年08月07日 13時26分19秒 | Weblog
 しんどかった。
 実に、しんどかった。
『甘粕正彦』を読む行為は、とにかく、しんどかった。
 
 今朝、第十章「満映という王国」から終章「八十五年目の真実」そして「あとがき」まで、なんとか文字を追うことができた。
 実は、満州での甘粕が描かれる頃から、人の出入りが激しくなって、誰が誰やらわからなくなり、迷路にはまりそうだった。
 人物相関図を書きながら読めばよかった。
 
 とにかく、一回読んだだけで、やめないことだと思った。
 著者は、読者のことなど考えずに、歴史の闇に葬られた事実と真実を掘り起こすために、克明にドキュメントを続けるのだ。そのしつこさに耐えられなくなっていく。息苦しくなっていく。

「あぁ~、もう、止めたい」
 そう叫びながら、昨日は本の頁をめくりながら、混乱した頭がくらくらと暑さの中で失神しそうな危なさまでも感じていた。
 しかし、この本を書いた著者の真相と真実を伝えること・そして「戦争とは何か、個人を超えた国家の力とは何か」を問うエネルギー源を想うと、やめてしまってはいけないような気持ちに誘われるのだった。
 そして、今朝、まだ暑くなる前に、残されている章を読むことに決めて昨晩は床に就いた。

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「私はこの評伝を、大正、昭和と言う時代に翻弄されたひとりの人間の魂の成長の物語、いわばビルドゥングスロマン(教養小説)を構想しながら執筆した。ただし小説とは違って、この作品に想像は一点も混入させていない」
‘あとがき’にそう記されている。
 取材で得た事実と、歴史資料を精緻に検証し構成したノンフィクション作品なのだ。
 なんとか最終章までたどり着いて、ひとりの人間を描き出すことの難しさと、しかし、そうしなければならないと著者を駆り立てる根本を読ませてもらった時には、書かれたことの百万分の一も理解していないとしても「464ページに書かれた六行を読みたくて、我慢を重ねたことに、ある種の達成感をいだいた」というのが正直な感想だ。

 いつものブログなら、ここにその六行を書き付けた自分だ。
 しかし、今日は、それができない。
 そこだけ書き取ってみたところで、何も伝わらないだろうし、著者に対して失礼な行為だと思うからだ。

 この六行に、「真相」を明かすことも大事なことに違いないが、真相を知ることによってそこに隠されていた真実がもつ普遍的な価値と、歴史の残酷さを知ることによって、不可逆的な歴史の時間を辿る意味を教えてもらった。

 過日、同じ日に2冊の本を手に取った。
 十六年の年の差を持ち、ほぼ同時代を生きた人間を描いた2冊の本だった。
 一冊は『錦』。フィクションとしてひとりの人物を再構成している。
 もう一冊はこの『甘粕正彦』。ノン・フィクションとして生きた軌跡を描いていく。
 二人は、明治、大正、昭和の同じ時代を生きた。
 近い時間に読むことによって、‘フィクション’と‘ノン・フィクション’の違いをまざまざと感じさせてもらった。
 しかし、どちらがいいともいえない。
 フィクションだから細やかに描き出せる芸術が秘める‘ノン・ヴァーバル’な真実があり、方やノン・フィクションでなければ伝えられない強烈なメッセージがある。
 
 共通していえることは、どちらも文字言語の威力をはっきりと見せてくれることだ。
 手にとって読むと言う行為、つまり‘読書’は、人として失ってはならない行為に違いない。

 そうこうするうちに、私の中で眠っていた‘ある思い’が、沸々と湧き上がってくるのを感じている。