今年こそ、と思い立った片付けは、できないまま夏は終わりそうだ。
今週の三日間は、時間があくと父母の写真を整理した。
昭和初期から現在まで、ネガと捨ててもよさそうな写真を仕分けした。
昔の写真は、とにかく小さい。
そこで選び出した写真を、近くの富士フィルムに持っていくことにした。
デジタル処理して、2L版に引き伸ばしてもらう。
父の家族写真は昭和2年頃だろうか。
母の家族写真は昭和14年頃だろうか。
この2枚は2L よりも大きな版に引き延ばした。
母の写真は16枚、父の写真は13枚、二人揃った写真は1枚合計30枚+2枚になった。
施設に持っていき、母に見せた。
母の家族写真を見るなり「この人、おばさんよ!」中心に座っている初老の女性を指した。
それから何度も繰り返して、Digio Phto Stockerに挟んだ写真を見続けていた。
ものすごい興奮。
認知症には過去を思い出させるといい、と聞いていた。
まさにその通り。
古い写真を見た母の様子は、一気に脳に血が流れ込むと同時に、丸ごとのからだに大きな渦が巻き起こった。
若い頃の自分の写真を見て、若い頃の父の写真を見て、これほど深く関心を持つとは思ってもいなかった反応だった。
そばにいた当番の介護士さんも振り返って、一緒に覗き込んだ。
彼女も興奮して話に加わってくれた。
「なんだか歴史の話を聞いているみたいですねー」
ちょうど散歩から戻ってきた、入所者さんのご主人も、興奮に巻き込まれていた。
母の遺影に、と思った写真は見せることにためらいがあったが、そのまま差し込んでおいた。
それを見て
「随分立派ね」
気に入ったようだ。
「見たいでしょうね。みんな」母はいう。
写っている人は、彼女の中で生きているのだ、と気づく。
持って行かなかった父のアルバムの中には、昭和14年に中国への修学旅行で撮った写真が何枚も貼られていた。
盧溝橋、北京萬壽山、支那事変発端地、天津大和公園、何頭もの豚と中国の男性、ハルピン郊外3頭の馬がひく農作業用の車と人、南嶺戦跡、ハルピンの教会、奉天驛舎、奉天戦跡、北京紫禁城内、京城、ラマ寺、駅舎、ラクダ、民衆、・・・・・
おそらく16歳くらいの父が撮影した数々の写真が、色褪せてはいるものの生々しく残されている。
以前手にいれた大正から終戦までの「時刻表」には、朝鮮・台湾・満州の鉄道路線図や旅行をすすめる広告など掲載されていたことを思い出した。
まさか修学旅行地でもあったことに、驚かされた。
当時の日本人の感覚は?
戦後生まれの私とは、良くも悪くも全く違うだろう、と想像できるようになった。
野口三千三先生も、結局諦めたのだが、真剣に悩んで満州に渡ることを考えたこともある、と言っておられたことも思い出した。
そういうことなのだー!
歴史が単なる歴史ではなくなってきた。
写真の整理で捨てるものも多かったが、残すものが増えてしまった。
両親の写真なのに、私にとって大事な記録として、新たな命が吹き込まれたような気がしている。
昨日、最後に見つけた写真は、大島田に結い上げて斜め後ろから俯き加減で座る母・満18歳の記念写真だった。
2月生まれだから、この頃までは写真館も開いていたのだろう。
すっかり仲良くなった富士フィルムの女性店員さんは、この写真を見てひとこと。
「今の18歳より、大人ですね!」
兎にも角にも、片付けはいっこうに捗らない。