冬、乾燥する日々が続き、もうそろそろお湿りが欲しい、と思う頃。
新宿駅のホームにあがると、鼻の奥に湿り気を感じたことがあった。
その日から、雨の予報は、鼻腔の粘膜が100%に近く当ててくれるようになった。
降り始める半日くらい前から、鼻から吸い込む空気のなかに微量の湿気が捉えられる。
決してよい空気とは言えない東京の町なかで、そのときばかりは緊張が解ける。
そのことをはっきりと感じ取るようになったのは、正月気分もすっかり抜けたこの冬の出来事だった。
それまでは空気の中の重さの質の違いなど感じ取ることは出来なかったように思う。
早朝、雨音は激しかった。
冬にしては気温が高い。
ぬくぬくとした布団のなかで、目覚めるような、まだ眠りのなかにいるような、中途半端な意識模様に、ゆらゆら現れた文字があった。
「革」
‘ひらく’と読みたい。いや、‘あらためる’の方が素直かな。
やっぱり「ひらく」にしておきたい。
半分、夢のなかで思案している。
道元を見た。
CHEを見た。
利休を読んでいる。
そうか。
一見、バラバラのようだ。しかし、三人を結ぶ文字は「革」である。
あらため、ひらく……そうなのだ。
ひとり合点がいったところで、覚醒した。
『利休にたずねよ』 ひょうげもの也の章
《 あの男の茶は、しょせん、商人の茶だ。どうにもせせこましく、いじましゅうていかん 》
利休に代わって命乞いをする織部に秀吉は云う。
なるほど、どっかの宰相が言ったとか言わなかったとか、「いじましい」はこういうときに使われてこそ本来の意味となる、と思ったのは、一昨日のことだった。
利休切腹の二十四日前ー天正十九年(一五九一)二月四日 夜 京 古田織部屋敷 燕庵 の章のなかの言葉である。
再度、このページを開いた。
気づくと雨の音が静かになっていた。
晴耕雨読とはよく言ったものだ。
もうしばらく今日のところ「うたかた」の章を読ませてもらおう。
新宿駅のホームにあがると、鼻の奥に湿り気を感じたことがあった。
その日から、雨の予報は、鼻腔の粘膜が100%に近く当ててくれるようになった。
降り始める半日くらい前から、鼻から吸い込む空気のなかに微量の湿気が捉えられる。
決してよい空気とは言えない東京の町なかで、そのときばかりは緊張が解ける。
そのことをはっきりと感じ取るようになったのは、正月気分もすっかり抜けたこの冬の出来事だった。
それまでは空気の中の重さの質の違いなど感じ取ることは出来なかったように思う。
早朝、雨音は激しかった。
冬にしては気温が高い。
ぬくぬくとした布団のなかで、目覚めるような、まだ眠りのなかにいるような、中途半端な意識模様に、ゆらゆら現れた文字があった。
「革」
‘ひらく’と読みたい。いや、‘あらためる’の方が素直かな。
やっぱり「ひらく」にしておきたい。
半分、夢のなかで思案している。
道元を見た。
CHEを見た。
利休を読んでいる。
そうか。
一見、バラバラのようだ。しかし、三人を結ぶ文字は「革」である。
あらため、ひらく……そうなのだ。
ひとり合点がいったところで、覚醒した。
『利休にたずねよ』 ひょうげもの也の章
《 あの男の茶は、しょせん、商人の茶だ。どうにもせせこましく、いじましゅうていかん 》
利休に代わって命乞いをする織部に秀吉は云う。
なるほど、どっかの宰相が言ったとか言わなかったとか、「いじましい」はこういうときに使われてこそ本来の意味となる、と思ったのは、一昨日のことだった。
利休切腹の二十四日前ー天正十九年(一五九一)二月四日 夜 京 古田織部屋敷 燕庵 の章のなかの言葉である。
再度、このページを開いた。
気づくと雨の音が静かになっていた。
晴耕雨読とはよく言ったものだ。
もうしばらく今日のところ「うたかた」の章を読ませてもらおう。