記事の書き出しは『哲学への関心が高まっている』
鷲田氏は、朝日新聞「折々のことば」で、野口三千三の言葉を2度ほど取り上げてくれた。
鷲田清一氏のインタビュー記事
日経新聞へのご登場は珍しい
『違和感のセンスを磨く』ー哲学には世の中が変だぞと感じる感受性、おかしな兆候に敏感に反応するアンテナが欠かせないー
内容・・・・人文系の学部が縮小されてから久しい。
しかし、今こそ人文系の重要性がみなをされている・・・・・
この記事から角川書店『高校生の現代文』の ーⅠ 自己・身体ーに野口三千三の『原初生命体としての人間』から「生き方と息方」呼吸について 考察の一部が掲載されていることを思い出した。
目次
鷲田清一 野口三千三 真木悠介(見田宗介)
『高校生の現代文』1998年検定済み 2001年発行
この年から使用され始めたこの教科書に竹内敏晴はいないけれど、1970年 80年代に、一つの系をなした思想をもう一度再考する意味は深いと思う。
教育で思い出したのは、竹内敏晴著『ことばが劈かれるとき』最終章「からだそだて」(241ページ〜)であった。
竹内さんが小学校教育で「からだの哲学」を中心に据えて考えられる「教え」と「そだて」の全教科のパースペクティブ・素描である。
体育過程・・・・からだそだて 具体的に考えを実行する時間
社会過程・・・・
対人関係の能力の開発を出発点とし社会の仕組みを理解してゆく時間
技術過程・・・・
人間として近代社会を構成し維持し発展させていくために必要な基本的な技 術を身につける時間
鷲田氏の日経記事に戻ることとしよう。
最後に氏はこう指摘する
《「誰もが良いものだと思っている『正義』が人びとを分断し、戦争の根拠に使われてはいないか。例えば、そう問い直す感覚を大学教育の現場では養ってほしい」》
大学だけでなく、すべての教育過程で、「からだ」で感じ、「からだ」で考え、「からだ」捉え直す姿勢を第一義とする教育が今こそ求められていると、草葉の陰で野口が語る声が聞こえてくる。
この記事がきっかけで、私は、「からだ」とは意識に使われる肉体ではなく、”存在としての自己そのもの” 丸ごと全体としての人間存在であり、意識はからだの働きの一部にすぎない、と捉える野口三千三の野口体操の基本のあり方だと、改めて「三千三伝」の基本テーマを確認させてもらった。