僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

小松左京 逝く

2011年07月30日 | 読書

小松左京が亡くなった。

最近は名前を聞かなくなったなぁと思っていたら、先日、作家の誰かが、談話の中で、小松左京はこのごろすっかり覇気が衰えたのか、うつ病のように引きこもりの生活を送っている…と語っていた。

真偽のほどは定かではないが、僕はそれを聞いて、
あの小松左京が引きこもりだって…?
そんなバカなことがあるもんか、と信じなかった。
小松左京は、エネルギーのかたまりのような人だったもの。

僕の読書遍歴の中で、小松左京の存在はとても大きい。

20代後半から30代にかけて、小松左京は、僕にとって開高健とともに、大きな精神的支柱となっていた。2人とも大阪の人で、ともに作品の登場人物が繰り出す大阪弁がなんとも言えず流暢でユーモラスで、読む度にコロコロ~っとした心地よい官能が全身を駆け巡ったことが、今でも懐かしく思い出される。

一度、この2人がテレビで対談したのを見たことがある。
開高のボケと小松のツッコミという上方漫才風の絶妙なコンビであった。
小松が開高のことを「ケン坊」と呼んでいたのも印象深かった。

ところで…
僕はその頃、小説を書く真似ごとをしていたのだが、仲間と同人誌を発行したときに書いた小説は、100パーセント小松左京の影響を受けたものであった。

どこの星からやって来たのかわからない超能力を持つ男が地球に降り立ち、主人公の「ぼく」に接触して次から次と奇妙な出来事を巻き起こす…
そんなストーリーから文体まで、すべて小松左京の「物真似」であった。
 


 

同人誌に載せた小説「招かざる客」。
題名は米映画の名作「招かれざる客」をもじったものだが、
中身は、最初から最後まで小松左京の影響を受けたものだった。
1981年。ちょうど30年前、32歳のときに書いた小説でしたね~



SF小説といえば、当時は星新一や筒井康隆、かんべむさしなどもよく読んだけれど、何を読んでも小松左京ほど面白い小説は見当たらなかった。

報道では、代表作として「日本沈没」が挙げられているが、僕から見れば、それは数多くの作品群のひとつに過ぎない。

ただ、「日本沈没」の映画にはものすごい思い出がある。
いや「ものすごい」というのは映画の内容ではない。

僕はこの映画を、公開された初日に見に行ったのだが、映画が終わって席を立ったとき、後ろに次の観客がびっしりとひしめき、人の数があまりに多すぎ、入れ替わるのがほぼ不可能な状況になっていた。
そこへ館内放送が流れた。
「恐れ入ります。混雑しておりますのでお客様方は前に移動してください」
ということだった。
「前へ移動…」というのは、見終えた観客が前から出るという意味だ。その「前」というのは、どう考えても映画のスクリーンのある舞台しかない。
「へぇ~~。えらいこっちゃなぁ」
と思いながら、僕は人の群にまざって舞台に上がり、舞台の袖からぞろぞろと、非常口のような薄暗い通路を歩きながら外へ出た。今見た映画より、こっちの風景のほうがよほど怖いじゃないか、と思った。

小松左京のことを書き出すとキリがなくなる。
初めて読んだのが「日本アパッチ族」であった。
大阪の京橋界隈を舞台とする大爆笑小説である。
こんなとんでもない小説があっていいのかと思ったよ、ほんと。

その他、いろいろな小説を読んだ。
短編小説の中にも、ギョギョッと目をむく作品が目白押しだ。
作品に流れる大阪人の漫才的ユーモアは、僕の血となり肉となった。

そのうち、最も面白かったものをひとつ挙げよ、と言われたら…
むろん、そんな無茶な質問はしないでくれ~、と言いたいのだが、
いやいや、どうしてもここに紹介したいひとつの作品がある。

昨日の朝日新聞に「小松左京さんの主な作品」として、20冊の本が紹介されていたが、その中には入っていなかったけれど、僕のお勧めは、「明日泥棒」という小説である。僕はこの小説に、最も大きな影響を受けたのである。

ゴエモンという得体の知れぬ人物が地球へやってきて、世界中の音という音をすべて消してしまう。世界は一瞬にして音が存在しない空間と化する。しかしゴエモンは、別に地球を滅ぼそうとかいう大仰な意図はなく、単に昼寝をするのにうるさいので、一時的に世界中の音を消しただけだった…。

と、まあ、こんなことから始まるドタバタ小説だから、小松作品の中では評価が小さいのかも知れないけれど、僕はなぜかこの小説が好きで好きでたまらない。

ゴエモンと知り合う主人公は、平凡なサラリーマンである。
ゴエモンの超能力に何度もびっくり仰天する様子がおもしろい。
このゴエモンは、妙な日本語を覚えて、
「ほな、行きまっさ」という大阪弁から、
「ありおりハベり」なんていう怪しげな古語まで、
ハチャメチャな言葉を使うくだりも、爆笑せずにいられない。

この正体不明のゴエモンと主人公のサラリーマンとの掛け合い、
そして、ありゃ~これからどうなるの…? というラスト。
こんなのを全部、僕は自分の書いた「招かれざる客」で真似をした。

小松左京は、僕の偉大なるお師匠さんであった。

大事な人が、またひとり、亡くなった。

 

 

 

 

 

 

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東野圭吾 「手紙」 のこと

2011年06月17日 | 読書

いい本を読み終えると、ふつう、感動する。
「感動」とは便利な言葉だ。
「いやぁ、サイコーに感動しました」
「もう感動、感動の連続でしたね~」
「感動で胸がいっぱいになりました」
などなど。

でも、あまり感動ばかり連発してたら、あかんど~。
…な~んちゃって。

と、ダシャレを言っているような場合ではない厳粛で深刻な一冊の本を読んだ。

先日のブログ 「初めての東野圭吾」にコメントをくださった見知らぬ方が、
東野圭吾の「手紙」を、次のような簡潔な文章で勧めてくださった。

「これもとても考えさせられる良い作品です。他の東野ミステリとは毛色の違う
 ヒューマンな人間ドラマですが、印象に残る言葉がたくさんあり一読の価値ありです」

僕はさっそく「手紙」の文庫本を買い求め、その小説に没頭した。

かなり以前に、映画の「手紙」は見ていた。
テレビドラマの「白夜行」で主演をした山田孝之が、ここでも主人公だった。
それこそ「感動」の涙を流さずにはいられない、心が熱くなる映画だった。

しかし、今回原作を読み、映画は原作とかなり違っていることを知った。
筋書きだけ追えば映画とほぼ変わらないのだが、受ける印象がまったく違う。

映画は原作を元にして独自に仕上げられているのだから、当然だけど、
映画と小説はそもそも別ものであるということを、改めて知らされたのである。

いまさらストーリーの解説でもないが、書かなければ後が続かないので書きます(笑)。
ちょっと長いですけど…。

ご承知のように、これは両親のいない兄と弟の物語である。
…というか、大半は弟のほうの物語なんだけれども。

勉強好きな高校生の弟を大学に進学させたい一心で、兄はある裕福な家に空き巣に入る。
仏壇から分厚い1万円札の束の入った封筒を見つけ、ポケットに入れた彼は、
それだけでさっさと逃げればよかったのに、台所で天津甘栗を見つけ、
弟の大好物だったことを思い出し、「いいお土産になる」とポケットに入れる。
グズグズしているうちに、別の部屋で寝ていた老婆が起きて、ふすまを開ける。
警察へ電話しようとする老婆ともみ合い、持っていたドライバーで彼女の喉を刺す。
そして、強盗殺人、という途方もない重罪を背負って、兄は刑に服するのである。

以後、弟は「強盗殺人を犯した男の弟」というレッテルを貼られる。
ここから、この小説は弟の直貴(なおき)に次々起こる辛い出来事に密着する。

アルバイト先で、「そのこと」がわかると辞めさせられる。
次にアルバイトをしたエスニック料理店には人の良い店長がいたけれど、
兄が人を殺して服役中であることを知ると、「辞めろ」とは言わないものの、
それとなく重い雰囲気になり、やがて周囲の皆が知って、変な雰囲気になる。
仕方なく、そこも辞めざるを得なくなる。

大人とは不思議な生き物だ。
ある時は差別なんかいけないといい、ある時は巧妙に差別を推奨する。

直貴はそれを痛感する。

大学の通信教育のスクーリングで出会ったミュージシャンの寺尾から仲間入りを勧められ、
直貴はバンドのボーカルとしてライブの舞台に立ち、初めて生きる喜びに浸る。

寺尾は、直貴を誘ってカラオケに行ったとき、
ジョン・レノンの「イマジン」を歌った直貴の非凡さを見抜いたのだ。
この「イマジン」も、本作のキーワードのひとつである。

観衆たちは直貴の美声に拍手を送り、バンドはやがてプロダクションの勧誘を受ける。
しかしプロダクションの身上調査で兄のことが発覚し、直貴はメンバーから外される。

何で兄貴のために俺がこんな目に、と直貴は兄を恨み、絶望の渕に沈む。

やがて、通信教育から昼の大学へ通うようになった直貴に最も大きな転機が訪れる。
資産家の令嬢である朝美と知り合い、朝美は積極的に直貴を愛するようになる。
兄のことをどうしても打ち明けられないまま、直貴は朝美と愛を交し合う。
そして、朝美に請われるまま、彼女の両親に会うことになる。

「(家柄が)釣り合わないんだよ」と、朝美の両親や親戚が、直貴を疎んじる。
そこへ兄のことが発覚し、これが致命的になったことは言うまでもない。

朝美は「兄さんは兄さん、あなたはあなたでしょ。でも、なんで隠していたの?」
その問いに、直貴はうまく答えられない。もう、何がどうなってもいいと思う。
「あたしは親と絶縁して家を出るわ」と言い放つ朝美に、顔を曇らせる直貴。
「どうしたの? あたしがあの家から離れたら、あたしには関心がなくなるの?」
「まあ、そういうこと」
と、自暴自棄になった直貴は、そう言ってしまい、すべてが終わる。

そんな時にも、獄中の兄からせっせと毎月手紙が来る。
「お袋と食べたあのときのレンコン、おいしかったね」
などと書いてくる兄の手紙を見て、
「何を呑気なことを言ってやがる。こっちの苦労も知らないで」
と、兄への憎悪感がいよいよ膨れ上がってくる。
兄は厚い壁に守られている。しかし、こっちは…
毎日のように世間の厳しい風にさらされ、次々と人生を踏みにじられていくのだ。

直貴は兄の手紙を破り捨て、住所を移り、一切の連絡を絶つ。

そんな直貴の事情を知りながら、純粋に接してくれる由美子という女性がいた。
彼女は、刑務所にいる兄に、直貴になりすましてワープロで手紙を書いていた。

直貴は新たに電気店に就職し、ようやく人並みの生活を送り始めた。
しかしそれも、ある事件がもとで、兄のことが明るみに出て、左遷される。

これでもか、というほどに、直貴の行く道は差別と偏見に満ち溢れていた。

直貴のあまりにも過酷な境遇に、読んでいるうち、暗澹たる気持になってくる。
読めば読むほど、辛くなり、時々本を閉じて、ためいきを漏らす。

直貴が人並みの幸せをつかみかけていくシーンでも、読んでいるほうは、
このあと、必ず兄のことが原因で、奈落の底に突き落とされる…
それが百パーセント予測できるので、その展開が喜べない。
常に、絶望的な気持ちでこの本と向き合っていかなければならない。

小説の終わりの方で、直貴は由美子と結婚し、子どもができる。
しかし、その子どもも、まわりから後ろ指をさされ、差別されるのだ。

そんな救いようのない物語に、僕たちはひとつのヒントを与えられる。

電気店の職場を左遷されたとき、そこへ社長がやってきたのである。

映画でも、このシーンは話題になっていたが、社長は直貴に、
「会社にとって重要なのは、その人物の人間性ではなく社会性なんだ」と言う。
そして、「差別は当然なんだよ」と付け加える。
「犯罪者やそれに近い人間を排除するというのは、しごくまっとうな行為なんだ」
「君がいま受けている苦難もひっくるめて、君の兄さんが犯した罪の刑なんだ」

直貴は思う。
自分の現在の苦境は、兄が犯した罪に対する刑の一部なのだ。
犯罪者は自分の家族も社会性をも殺す覚悟を持たねばならない。
そのことを示すためにも差別は必要なのだ。
これまで自分が白い目で見られるのは、
周りの人間が未熟なせいだと決めてかかっていた。
これは理不尽なことなのだと運命を呪い続けていた。
それは甘えだったかもしれない。
差別はなくならない。問題はそこからなのだ。
そこからの努力を自分はしてきただろうかと考え、直貴は心の中で首を振った。
いつも自分は諦めてきた。諦め、悲劇の主人公を気取っていただけだ。 

このくだりは、何とも重い。

小説のラストは…
バンド仲間だった寺尾からもう一度歌わないかと誘われ、
2人で、千葉の刑務所へ慰問コンサートに行くことになった。
そこには、直貴の兄が服役していた。

寺尾と2人で舞台に立った直貴は、後ろの方で合掌している兄を見つけた。
直貴はマイクの前で立ち尽くし、曲が始まっても、声が出なかった。

 …………………………………………………………………………

読みながら、沈没していく船のように、どんどん気持ちが沈んでいく…
と言っていいかもしれない。

差別はいけないことだ、と考えている僕たちではあるが、
本当に、心の底からそう思っているのか…? 
と、この作品に問いかけられているようである。

読後、一口で「感動した」とは言えない重いものが残った。

結局あらすじだけの紹介に終わってしまったけれど、
この本に関する感想は、簡単に書き表せないということを、
いま、この文章を綴りながら徐々に感じて始めている。

もう少し、自分の中で熟成させてから、またここに書こうと思う。

きょうはこれで筆を置きます。

コメント欄でこの小説をお勧めくださった方に、心からお礼を申し上げます。

 

 

 

 

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初めての東野圭吾 

2011年06月11日 | 読書

は~い、皆さん 「幸せのレシピ」は、いかがでしたか…?
キャサリン・ゼタ・ジョーンズの魅力が満載でしたね~
相手役のアーロン・エッカートも、やさしくてカッコよかったですね~。
それでは皆さん、さよなら、さよなら、さよなら。
(まだ始まったばっかりやがな)

ところで、昨日(10日)の午後9時からの新聞のテレビ欄を見ると、
金曜ロードショー「幸せのレシピ」と同時刻に、隣のチャンネルで、
「東野圭吾・3週連続スペシャル第一弾『11文字の殺人』」というのがあった。 

昨日は見なかったけれど、面白そうなので録画をしておいた。

東野圭吾といえば、今年の新春ドラマで「赤い指」というのがあったのを思い出す。
阿部寛が主人公の刑事役を演じ、なかなか見ごたえのあるドラマだった。

僕はその時、まだ東野圭吾という人の作品を読んだことがなかった。
「とうの」と読んでいたが、実は「ひがしの」だったことも最近に知った。

書店へ行くと、彼の作品群が目立った場所にズラ~っと並んでいる。
多くの作品が映画化・テレビドラマ化され、いま人気絶頂の感がある。

きっと人をひきつけるものがあるのだろう。 何冊か読んでみよう。
…と、最初に手に取ったのが「容疑者Xの献身」だった。

天才数学者がひそかに慕う女性が、執拗につきまとう元夫を、娘と2人で殺してしまう。
彼は、自首しようとするその母子を思いとどまらせ、自分の指示通りに動くように言う。
そうすることによって、彼はその女性に寄せる恋慕の情を
成就させたいと考えたのだ。

そして、母子のアリバイ工作をし、得意の緻密な思考で完全犯罪を企てる…。

久しぶりに密度の濃いミステリを読みながら、ハラハラドキドキの感覚を味わった。
小説は犯人の側から描かれているので、妙に共感し、つい犯人を応援したくなった。

しかし、途中から湯川という物理学者が登場し、事件の謎を解明していく。
彼が、テレビで福山雅治演じた探偵ガリレオであることは、妻から聞いた。
僕はテレビのガリレオ・シリーズを見ていないので、それを知らなかった。

小説は、天才数学者が完全犯罪まであと一歩というところで頓挫し、終わる。

こういうことを言ってはなんだけど、この本を読む前に、
山村美紗 の「百人一首殺人事件」というのを読んだのだが、
小説の醍醐味や、スリル・緊迫感など、まったく比較にならなかった。
直木賞や本格ミステリ大賞を受賞し、年間ミステリベスト1に選ばれたのも頷ける。
僕はこの一作で、すっかり東野圭吾のファンになった。

続けて「トキオ」、「レイクサイド」の2作を読んだ。
でも「容疑者Xの献身」からすると、いずれも読後感は「いまいち」だった。
期待が大きすぎたのであろう。 それでも、楽しんで読むことはできた。

「トキオ」は、トキオという名の息子が過去の世界にタイムスリップして、
若き日の自分の父親と出会い、いろいろアドバイスをしてやるという話だ。
なんだか「バック・トゥ・ザ・フューチャー」みたいだ。

それに「トキオ」といえば、沢田研二に同名のヒット曲がある。
「トキオが空を飛ぶ~」という歌だ。
その曲とこの小説と何か関係があるのかな? と思いながら読んでいたが、
結局そこに触れられないまま終わりかけたので、あぁ、関係なかったのか~
と思ったとたん、小説の最後の最後の一行に、ひょこっと沢田研二が登場し、
テレビの中で「トキオ」を歌っているところで、この物語は終わった。

また筋とは無関係だが、トキオが若き日の父とこんな会話をかわす場面がある。

父の偏った食生活を心配したトキオが「コレステロールが増えるよ」と忠告する。
トキオはさらに続けて「コレステロールって、知ってるだろ?」と訊く。
父は「知ってるさ。 電話代を受けた側が支払うアレだろ」
「それはコレクトコールやがな」

父がボケでトキオが突っ込みの、大阪漫才みたいだ。

そういえば、東野圭吾は大阪の人である。

父とトキオの2人は、犯罪がらみのいざこざに巻き込まれていくのだが、
クライマックスでは、「松原市の古いパン工場」で乱闘が繰り広げられる。
僕が長年勤めてきた松原市が、この小説の最後に出てきたのでびっくりした。
こういうのって、作者が大阪の出身の人でなければ出てこないだろうと思う。

もう1冊の「レイクサイド」も、読んでいて退屈はしなかったが、
ラストで明かされるあまりにも意外な犯人に、少し違和感を覚えた。
な~んとなく、無理があるような、そんな感じだ。
それでも、上質のミステリーとしての鑑賞には堪えうると思われる。

最近また、東野圭吾の文庫本を2冊買った。 「白夜行」と「秘密」だ。
2作ともかなり以前の作品だが、読んでいなければ古いも新しいもない。

そのうち、「白夜行」は、文庫で850ページもあるチョー分厚い本だった。
(本が重過ぎて、夜、ベッドに寝転んで読むには不向きですけど)

その850ページを、3日ほどで読み終えた。
実は、一昨日にこれを読み終えたばかりで、今も余韻が抜けきらない。

これは読み始めたら、ほんと、もうやめられない、止まらない。
読めども読めども、厚い残りページはなかなか薄くなってくれず、
いつ終わるのかと読み急ぐのだけれど、やがて残り少なくなると、
今度は一気に読み終えるのがもったいない気がしてくるのである。

なにせ850ページである。
最初の殺人事件が起こって、それが結末を迎えるまで、19年の歳月が流れる。
そこにはさまざまな人物が登場し、多くの事件が起こる。

物語の中心は大阪で、僕に馴染み深い地名もわんさと出てきて楽しい。

しかし歳とともに記憶力が減退する僕には、この小説はちょっと厳しくもあった。

主人公というものが存在しないので、誰に感情移入していいのかわからない。
章が変わるたびに新しい人物が登場し、新しい事件が起こる。
それぞれ別個の短編小説を読んでいるような気分になるが、
それがまた、過去の人物、事件などと密接に関係しており、
なかなか精緻にして複雑多岐をきわめる。
登場人物を書きとめながら読めばよかったな~と途中で思った。

それでも、一昨日はラストまでの400ページほどを一気に読み終え、
久しぶりにミステリ小説から伝わってくる快い感覚に酔った。

圧倒された…という言葉が、この本の感想に最もふさわしいかも知れない。

本作は、1999年の夏に刊行された作品だというから、ずいぶん時が経つ。
なのに、今年に入ってからこの単行本が書店でやたらに目に付いたのは、
今年の1月に映画化され、大々的な宣伝が行き届いていたからだろう。
本のオビに、ヒロイン雪穂の役を演じる堀北真希が写っていたもんね。

僕が「白夜行」を読み終えたとき、
「それ、だいぶ前にテレビドラマで見たじゃない」 と妻が言った。

話を聞いて記憶をたぐると、思い当たった。
へぇ…?。あっ、あれか…? あれが「白夜行」だったんだ。

そのドラマは、言われてみれば僕も見たことがある。5~6年前だ。
妻が主役の山田孝之の大ファンで、僕も妻の横でテレビを見ていた。
雪穂役の綾瀬はるかを見たのは、それが初めてだったような気がする。

あのドラマのオープニングはあまりに衝撃的だったので、それは覚えている。
でも、毎週見ていたようだけど、次回以降のストーリーはよく覚えていない。
たぶん、それ以降、ビールを飲みながら、ぼんやり眺めていたのに違いない。
だから小説を読んでいても、それがあのドラマの原作とは気がつかなかった。

小説の最後に、ドラマの冒頭と同じ場面が出てきて、初めて2つが重なった。
つまり、テレビドラマのオープニングシーンは、小説のラストシーンだった。

「あぁ、忘れていてよかった~」と心から思った。
ドラマをしっかり覚えていたら、この本の興味は半減していただろう。
まったくストーリーがわからないまま読んでこそ、夢中になれる。

ドラマや映画を見てから小説を読むと、かえって支障が生じるものだ。
第一、犯人や結末がわかっていて読むミステリなんて、面白くもない。

東野圭吾は、これからもいろんな作品を読んでみたい。 
それから言えば、テレビの「東野圭吾・3週連続スペシャル」っていうのも、
うかつには見ないほうがいいかもな~、なんて、今、思ったりしている。

昨晩から東野作品5冊目の「秘密」 を読み始めている。

浅田次郎さんが言ったとおり、酒を飲まないと、本が沢山読める。

 

 

 

 

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開高健 生と死

2011年02月24日 | 読書

東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)の末から翌年始めにかけて、開高健は週刊朝日の臨時特派員としてベトナム戦争の前線へ取材に行った。 カメラマンの秋元啓一が同行した。 その臨場感あふれるルポルタージュが、世に名高い  「ヴェトナム戦記」  である。

このルポの中に、開高と秋元の2人が南ベトナム政府軍に従軍して最前線に出たとき、ジャングルの中でベトコンに包囲され、一斉砲撃を受けて絶体絶命の危機に陥る場面がある。 その描写は実にリアルで、読んでいても戦慄を覚えるほど壮絶な迫力に満ちていた。

開高たちを含む200人の政府軍の第一大隊は、ジャングルの陰にひしめく  「姿なき狙撃者」   たちの突然の銃撃で、散り散りばらばらになり、気がつくと17人になっていた。 マシン・ガンと、ライフル銃と、カービン銃の銃音が森の中に響きわたった。

「ドドドドッというすさまじい連発音にまじって、ビシッ、パチッ、チュンッ!… という単発音が響いた」
「鉄兜をおさえ、右に左に枯葉の上をころげまわった。 短い、乾いた無数の弾音が肉薄してきた。 頭上数センチをかすめられる瞬間があった」

                                   ( 「ヴェトナム戦記」 より )

生死をさまよう開高と秋元。
カメラマンの秋元は、後の手記で 「もうダメだと思った」 と書いていた。

「私たちはたがいの写真をとりあった。 シャッターを押したあと、ふたたび枯葉に体をよこたえた」 と開高は書いた。 秋元はその時のことを、 「写真をとり合ったというより、疲れ果てた開高氏を見たとき、職業意識がめざめてシャッターをきったのだった。 そして、僕もとってくれませんか、とカメラを開高氏に渡した」 と手記で述べている。

そのときの開高の写真がこれである (有名な写真ですが)。


   


スタイリストで、写されるときは、いつもレンズを意識していたという開高。
その人が、こんな抜け殻のような表情を見せるのは、よほどの状況だったのだろう。

その後2人は、離れ離れになりながら敗走し、生きて戻れたのは奇跡に近かった。

僕はこれまで何度もこのくだりを読んだ。
当然のことながら、自分自身にこんな恐怖体験はない。 
しかし、これがもし自分であればどう思い、どう行動していただろうか、と考える。
ジャングルで、敵から無数の銃撃を受け、弾丸が頭上数センチを通過する…。
チラッと想像しただけでも、心臓が凍りつく。

無我夢中で 「死にたくない、神様、助けてぇ」 と叫ぶのでしょうね。
極限の恐怖と緊張で、不整脈も出て、おしっこも漏らすのでしょうね。
しかも、そういうことにもまるで気がつかず、ただあたふたするだけ。
人一倍怖がりの僕なので、たぶん、そんなところだろうなぁと思う。

九死に一生を得る、ということは、今後の人生にどんな影響をもたらすのだろうか。

  ………………………………………………………………………………………………

なんとか危地を脱して一命をとりとめ、ホテルのベッドに転がり込んだときの喜びはどれほどのものだったろう。 

じゃいさんに教えてもらった 「NHK映像ファイル ・ あの人に会いたい ・ 開高健」 の中で、
開高はこのときの状況について、こういうふうなことを言った。

「おれは生きている、という実感が全身にあふれ、ベッドにしがみつき、ベッドをたたいた。 
 なんとも言いようのない生の充実感に浸った」

そりゃそうだ。 誰しも同様の体験をしたとすれば、やはりベッドをたたいて喜び、九死に一生を得たことを神様に感謝したことであろう。 いま生きていることに感謝し、これからはあらゆるものに感謝して生きていこう、と思うはずである。 開高も、ベッドに転がったときは、そう思ったという。 しかし、彼はこのあと、予想もしなかった言葉を放ったのである。

3時間ほどうたた寝をして、目がさめると、ベッドはもう普通のベッドであった。
生きのびたことを感謝する気が起こらない…
生きている人間は絶え間なしに意識が動く。
今日の私は昨日の私ではない、というような…。
人間というのは永遠に不満な動物ですけど。
傲慢なんでしょうか、生きている人間は。

なんとまあ、 「生きのびたことを感謝する気が起こらない…」 とは…。
生きている実感があふれ、ベッドをたたいてから、わずか3時間後のことである。

人生最大の危機を切り抜けても、1回うたた寝をしたら、その喜びは消えている。
そういうものなのか…と、僕はこれを見て、自分の人生観が変わった気がした。

今でも、その言葉は耳から離れない。

永遠に不満で傲慢。 それが人間なのでしょうか…
…とつぶやいた開高健の言葉が。 

 ……………………………………………………………………………………………

  
3年ほど前から、また開高健の本が売れ始めているそうだ。

「太るなんてまるで気にせず、どんどん食って飲む。 見ていて気持ちのいい人だった」 
と開高を知る編集者が述懐する。

「開高が描き出した昭和の熱気を知る中高年世代が、タイムトンネルをくぐるような思いで改めて彼の作品に手を伸ばしているのではないでしょうか」

何も気にせず、どんどん食って飲んだ開高健は、1989年12月9日、58歳のときに食道腫瘍に肺炎を併発して地上から消えた。 

まさに疾風怒濤の人生だった。 


  

 

 

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開高健 邂逅編

2011年02月22日 | 読書

2007年 (平成19年) 2月下旬、といえば今からちょうど4年前のことになる。

近鉄南大阪線の北田辺という駅の前を歩いていたら、偶然に開高健の文学碑を見つけた。
開高ファンを自認する僕だけど、不覚にも、まったく知らなかった。
ウォーキングの途中で、たまたま通りがかったところにこんなものがあるとは…。


  
    近鉄南大阪線・北田辺駅前で、この文学碑とめぐりあった。


僕が勤めていた松原も、住んでいる藤井寺も、近鉄南大阪線の沿線駅である。
その沿線のひとつに、30代の頃大きな影響を受けた開高健の文学碑があった。
彼が、この界隈で育ったことは知っていたが、まさか碑が建っていたとは…。
なんだか足元がふわりと浮き立ちそうな、不思議な感覚に支配された。

ふと我に返り、あわててカメラを取り出して、撮影した。


  


    

 

その場を離れ、再び歩き出したら、今度は街角の掲示板にこれが貼ってあった。


  

 

これを見て、文学碑は2005年11月、つまり1年余り前に建立されたものと知った。

犬も歩けば何とやら…
ウォーキングは時に衝撃的な出会いを演出する。
まさに、開高に邂逅…したわけで。

このことを 「はこだけの女 (ひと)」 ・ じゃいさんにお知らせしたら、
「NHK映像ファイル あの人に会いたい 開高健」
という You Tube の映像を送っていただいた。

それを見て、また衝撃が走った。

 

 

 

 

 

 

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開高健をしのぶ

2011年02月20日 | 読書

僕の好きな作家の一人である開高健の足跡をしのぶ 「生誕80年 大阪が生んだ開高健展」 が、2月11日から、大阪・難波のなんばパークスで開かれていた。 行こう行こうと思いながら雑事に追われているうち、最終日の20日が近づいてきたので、こらあかん、と思い、昨日の19日、モミィのスイミングが終わった午後、一人いそいそと会場のなんばパークスへ出かけた。

開高健は1930年(昭和5年)に大阪で生まれ、89年(平成元年)に食道がんで亡くなった。 まだ58歳だった。 今年は生誕80周年ということで、今年創立130周年を迎えた彼の出身校・大阪市立大が、記念行事の一環としてこの展覧会を催した。 

旧制天王寺中学、大阪市立大、そしてサントリー (当時は寿屋) に就職して絶妙の宣伝コピーで才能を開花させた開高さんの大阪時代を中心に、出版社宛の手紙や 「裸の王様」 の草稿や数々の手書きの原稿、学生時代の文芸誌、取材メモ、ライター・パイプ・釣竿などの愛用の品々、ベトナム従軍時のヘルメットなどが狭い会場にびっしりと展示されてあった。 原稿を見るたびに思うのだが、この作家の書く文字は、本当に可愛くて、読みやすい。

明日が最終日でこの日は土曜日ということもあってなのか、それとも連日こうだったのか、どっちか知らないけれど、なんばパークス7階のパークスホールは、入口こそひっそりした空気に包まれていたが、中に入ると人、人、人で混雑し、ガラスケースに展示されている生原稿をじっと読む人がひしめきあい、なかなか次へ進めない。 また逆に、僕が原稿を食い入るように見つめていると、ふと気がついたら、隣の人が 「早く動いてくれないかなぁ~」 という顔をして立っていたりする。 

会場内には、ずっと開高さんの講演のテープ音声が流れていた。 
あの声、あの言い回し、あのユーモア…。 なつかしい。

一度だけ、開高さんの講演会を聴きに行ったことがある。 壇上でウィスキーをちびりちびりやりながら、講演するのである。 あの時は、南・北アメリカ大陸縦断の旅に関する話題が主だったように憶えている。 スライドを解説しながら、開高さんは、「こういう旅をしていると、世間のヤツらがバカに見えますわ」 わはは~と笑っていた。 そんなことを思い浮かべながら狭い会場内をゆっくり移動し、開高さんをしのんだ。

30年以上も前、「開高健全作品」 を購入し、夢中になって読み耽ったこともなつかしい。 小説が9巻、エッセイが3巻の全12巻で、ここ数日、本棚からその中の適当な1冊を手に取り、パラパラとめくりながら、死ぬまでにもう一度、この12冊を読まなきゃな~ などと思ったりした。

繰り返すが、開高さんは大阪で生まれ、大阪で育った。

どんなことでも自分のことに結びつけるのが好きな僕なので、つい書いてしまうが、開高さんは7歳の時に、誕生地の天王寺区から東住吉区に転居し、そこで育った。 ちなみに僕も同じく7歳の時から東住吉区に住み始め、高校1年までの10年近くの少年時代をそこで過ごした。

開高さんは、1974年 (昭和49年) に神奈川県の茅ヶ崎市に引っ越した。 
「すなむわ~じりのぅぉ ちがすわぁ~きぃ」 
…とサザンの桑田サンが歌ったあの茅ヶ崎だ。 関係ない話ですみません。

ちなみに僕がいまの藤井寺市に引っ越して来たのも、同じ1974年である。 
それがどうしたん…? と言われたらそれまでですけど。 たびたびすみません。

開高健のことを書き始めたらキリがなくなるので、読んでくださっている方が退屈しないうちにやめておきますが、次回また書こうと思います。 えっ、もうすでに退屈してるって…? 重ね重ねすみません。

今日はこれくらいにしといたる (笑) 。

では、皆さま、よい日曜日を。




 
 
   19日、パークスホールで。 入り口はひっそりしているが、中は満員だった。 

 

 

 

 

 

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人生が楽になる女たちの名文句

2011年01月27日 | 読書

マリリン・モンローやフランソワーズ・サガン、ライザ・ミネリ、ソフィア・ローレンなど、200人近い女優や作家など、いろいろな分野で活躍してきた女性たちの 「名文句」 がまとめられた1冊の本がある。 これがやたらと面白いのである。

「私だって言ってみたい! 人生が楽になる女たちの名文句」 (講談社、タニア シュリー・編集、フーベルトゥス ラーベ・編集、平野 卿子・翻訳) という本である。

この中の名文句から、特に面白いと感じたものをいくつか抜粋してみる。

まず男より女のほうがはるかに賢い、という現実を知らされる文句。

男と喧嘩したってしかたない。
いつだって向こうの言うことが変なんだから。

女性の分別がわかるほど分別ある男なんかいない。
だから女は無分別だということにされちゃう。

女はばかじゃないの。 ただ、いつもばかをみているだけ。

女がおしゃれをするのは、男の頭が目ほどよくないから。

男はなにをやらせてもできる。そのくせ、なんの役にも立たない
  
な~るほど。 男でありながら、思わず膝をたたいてしまう。
では、女にとって、男とは何なのか…?

男は懐中電灯のようなもの。 明るくはないのに、目をくらます。  

ケチな男のプレゼントは口紅。 だって少しずつ取り戻せるじゃない。

男にとって女は永遠の謎。 だから次の女でその謎を解こうってわけ。

ひとめぼれ? せっかちな男のいいわけに決まってるじゃない。

プレイボーイって、女と遊びたがるだけで、決して共に成長しようとしない男のこと。

女にとっての男? 魚に足がいるかしら。

「魚に足が…」なんて言われたら、男はヘコむだろな~。
女の冷静な眼に、男はハッとしてから、カクンとなる。

結婚によって失うもの。 大勢の男の関心。
手に入れるもの。 たったひとりの男の無関心。

恋とは彼なしでいるより、彼と一緒に不幸でいたいと願うこと。

考古学者こそ理想の夫。 だって、妻が古くなればなるほど興味を持つでしょう?

企業戦士の妻って、まだ生きている男の遺族。

「理想の男性」 って白馬の王子さまみたいなもの。
だれもがそれを口にするけれども、見た人はいないもの。

いつも男がひとりいるほうがいい。 ひとりの男がいつもいるより…

次のような気の利いた文句なども、どこかで使いたい誘惑に駆られる。

人生に新しい経験なんかない。 ただ、新たに古い経験をするだけ。

恋は竜巻。 友情はそよ風。

幸せは音もたてずにやってきて、音をたてて去っていく。

ろくでもない女が責任あるポストについてはじめて、男と女は対等になるのよ。

男が女に車のドアをあけてやるときは、車が新しいか、女が新しいかのどっちか。


まだまだ楽しい名文句が沢山詰まっています。

おヒマな折の、いい時間つぶしになりますよ~。

 

 

 

 

 

 

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夏樹静子さんと心身症 2

2010年07月26日 | 読書

6月の初旬に書いた「夏樹静子さんと心身症」の記事が中途半端に終わっていたので、この前、akira さんから続きを「催促」されました(笑)。書こう書こうと気にしながらいろんな事情でついズルズル。今はもう誰も覚えていないだろうしね~と思っていたところへ akira さんから「続き、まだですけど…」と言っていただいたので、へぇ~~と驚くと共に、たいへん感激しました。なんとまあ、ずっと覚えていただいていたんだ、という喜びですよね。

そんなことで、「夏樹静子さんと心身症」の続きを書きます。

これは、夏樹さんの著書「椅子がこわい 私の腰痛放浪記」(1997年刊)の僕の読書感想文でもあります。

前回の記事はこちらですが、簡単に概略を述べますと…

著者の夏樹静子さんは、ご承知のとおり超有名な推理作家です。
その夏樹さんが、1993年1月から約3年間、原因不明の激しい腰痛と、それに伴う奇怪なほどの異様な症状や障害に悩まされたのでした。
夏樹さんは考えられる限り、ありとあらゆる治療を試みます。
MRI検査から先祖の仏壇の祈祷まで、医師や知人に勧められるままに、それこそありとあらゆることに挑戦してみますが、結局何ひとつ効なく、症状はジリジリと不気味に増悪し、心身ともにいよいよ苦しみ、自殺まで考え、複数の医師から睡眠薬400錠を集め、いつでもこれを飲んで死ねる状況を作っていた、というところまで追い詰められていました。

そして、彼女は、どうしても最後まで信じられなかった治療法に身を委ねることになるのです。

その夏樹さんが「最後まで信じられなかった治療法」というのは、心身症患者に対する治療だった。心身症…といえば、夏樹さんにとっては一番「そんなことはない」はずの症状だった。生来のネアカで、小説を書きたくて書きたくて仕方がない自分のどこが心身症なのだ…と、夏樹さんは思う。だから、精神科医の説明に対しても懐疑的である。痛みの原因がわからないので「心身症」だと言ってごまかしているのだろう…と考えたりする。

実際、心の病を抱える人は多いが、精神科医が少ないわが国では、じっくり患者の話を聴くシステムが確立されておらず、したがって「心のストレスから来る心身症でしょう」と診断されて安定剤をもらってハイ終わり…というのが多い。

夏樹さんも、どうせそんなことだろう…と、この治療には気が進まなかった。
だいたい、これだけ体が痛いのである。肉体的な傷病としか考えられない。
心の治療くらいで、これほどの症状が良くなるはずがない…と。

「あらゆる治療への期待を失ったいま、これ以上さらに新しい可能性の扉を叩く意志の力など、一雫(ひとしずく)も残されていない気がした。また見ず知らずの医師に会い、二年半にも及ぶ病歴を一から説明し、どうせ効きっこない治療を受けてみたところで何になろう。心も身体もいっそう疲れて落ち込み、いよいよ悪くなる結果は目に見えているようであった。」

夏樹さんはそう書いている。

そこに登場するのが内科と心療内科の医師で平木英人という人だった。

この本の後半では、夏樹さんと平木医師との、壮絶な心理戦が展開される。

平木先生は「典型的な心身症ですね」と伝える。
それに対して夏樹さんは「先生は心療内科でいらっしゃるから、何でも心因に見えてしまうんじゃありませんか…?」と思わず本音を言ってしまう。
「胃潰瘍とか偏頭痛とか心臓神経症なら心因といわれてもなるほどと納得しますよ。だけどまさか腰痛がねぇ…」
「いや、どこに出てもおかしくないのです。たまたまそれが胃潰瘍になったか腰痛になったか、というだけのことです」

そんな会話やファックスでのやりとりが、延々と続く。

医師は夏樹さんに、まず「夏樹静子」を捨てなさいい、と言う。
高名な作家である自分を捨てて、一主婦に戻るところから出発する。
医師は、夏樹さんが「人気作家夏樹静子」に押しつぶされていると診断する。

もちろん夏樹さん本人は「とんでもない。いくらでも小説の案が浮かんできて、もっともっと書けるのを楽しみにしているのだから、プレッシャーなどない」
そう反論する。

しかし医師は
「人は意識の領域より、無意識の領域のほうが大きいのです」
と言い、夏樹さんに入院を勧め、夏樹さんも渋々入院を受け入れる。

熱海の海の見える病院に入院して、最初に行われたのは、12日間の絶食療法だった。水か番茶だけは一定量以上飲み、ほかの必要な栄養素は点滴で補給。期間中は主治医、看護婦以外との接触は禁止。テレビ、ラジオ、新聞、読書、電話もいっさい禁止。入浴はシャワーのみで、歯ブラシを使うのも出血しやすいので禁止という徹底したものだった。

「必ず治るのだと信じること。頭の中には、自分はもう元気な身体に戻れないのではないかという誤った情報がインプットされている。それを塗り替えるのです」
医師が力強く言う。

絶食療法というから、最初は、空腹と退屈さえ我慢すれば良いだけ…と考えていたところ、激痛で眠れない日が続く。こんなのもうイヤ、家に帰ろう! と夏樹さんは何度も思う。
しかし、そのつど、
「必ず治りますから」
という平木先生の言葉で、何とか思いとどまった。

「あなたは、せっかちな性格ですね」と平木先生。
「この性格は、一方では活発・迅速に仕事ができるなどの良い面もありますが、思うようにいかないとすぐがっかりしたり、焦ったり、苛立ったりするマイナス面も大きいのです」
そう言われると、夏樹さんは思い当たるところがあった。

「そうですね。何でもつい急いでしまいますし、たえず向上していないと気がすまないような…」

「無意識のうちに幻のような病気を作り出して、あなたは作家夏樹静子から逃避した…。それがこの症状の実態です。意識の下には、何十倍もの潜在意識が潜んでいるのです」

絶食期間を終え、また普通の入院生活に戻った。
体が入れ替わったような、奇妙な感覚があった。

夏樹さんは平木先生の助言を取り入れ、1年間、夏樹静子としての活動を完全にストップすることを約束した。つまり休筆である。

そんな医師とのやりとりの中で、夏樹さんの症状は徐々に改善に向かう。

そうして、自分が本当に心身症だったことに気付いていく。
「それだけは、違うだろう」と思っていた心身症だったことに…。

夏樹さんは無事退院し、症状は劇的に快癒した。

「ここまで心と身体が密接に関わっているのかということに気づかされるまでに3年かかった。最も自分として認めにくかった自分を認めた瞬間から、治癒が始まったのではないだろうか」という夏樹さんの言葉が、まだ僕の頭の中を漂っている。

心身症に対する僕自身の考え方も、この本によって大きく塗り替えられた。

 

 

 

 

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いざ、ランニングの世界へ

2010年01月29日 | 読書

今年は国際読書年ということである。
今、この言葉を入力したら、「国際毒初年」と変換された。
相変わらず、おバカなわが家のパソコンである。

さて、最近、ある1冊の本を読んで、どひゃ~んというほど強い刺激を受け、ばし~んっと顔を張り飛ばされたような厳しい気合を入れられた。

その本というのは、黒木亮という人の書いた「冬の喝采」。600ページを超えるぶ厚い本で、著者の若き日の自伝である。つまり、小説ではなく、ドキュメントである。

この本は、僕が自分で買ったのではなく、じゃいさんから送っていただいたものだ。
僕は、そういう本があったことも知らなかったし、黒木亮という作家の存在も知らなかった。したがって、この作家が「え~っ? そういう人だったの?」ということも、まったく知らなかった。この本を読んで、初めて知らされた。

では、どういう人だったのか…?

「冬の喝采」は、北海道出身の著者が、中学3年生から陸上競技を始め、高校1年生の時にインターハイに出場するも、その後、足の故障で何度も挫折を繰り返したあと、早稲田大学に入学、1年生の終わりに長かった故障から抜け出して、競争部に入部し、3年生、4年生の2年間、箱根駅伝に出場する、という感動の実話である。

当時の早稲田大学の駅伝は、知る人ぞ知る、あの中村清監督が率いていた。
そして、その早稲田の長距離のエースが、瀬古利彦であった。
もっとも瀬古は、この頃は早稲田というより、すでに日本のエースになっていた。

著者の黒木亮は、本名、金山雅之、1957年(昭和32年)生まれで、瀬古利彦と同年齢であった。昭和54年1月の箱根駅伝で、早稲田の2区の瀬古が先頭に立ち、3区にタスキを渡す。そのタスキを受けたのが、黒木亮→金山選手であった。

「冬の喝采」は、金山が、瀬古から「頼んだぞ、金山!」とタスキを受けるその場面から始まり、やがて金山の中学生からの回想が始まって、陸上競技一色だった高校・大学における彼の日々が綿々と綴られて行くのである。4年生での箱根駅伝を終え、陸上競技に終止符を打つところで、物語は終わるのだが、エピローグで、著者の両親に関わる驚くべき話が挿入され、読後の感動をさらに大きくする。

600ページ以上ある本だけど、短期間で読了してしまった。

僕はかつて瀬古選手の大ファンでもあったことから、その瀬古が、ごく普通の学生として物語の中に随所に出てくるのが余計に興味深かった。そして、奇人変人そのもの、と言ってもいいほど常識はずれの指導者・中村清の狂気に満ちた言動の描写もすさまじい。著者自身が直接体験したことであるだけに、迫力満点である。

この本は、著者の当時の練習日誌に基づいて書かれたものであろう。
数十年前のことだけど、何月何日に何キロを走る…ということが、延々と細かく綴られているのは、練習日誌がなければでき得ないことである。
比較にならないことは百も承知だけれど、僕もせっせと練習日誌を綴っていた。
今もそれが何冊か本棚に並んでいる。
しかし、当然のことだが、それに命を賭けるような人生は送っていない。
あくまでも、余暇、レジャーのマラソンであった。

でも、次に生まれて来た時は、箱根駅伝に出るようなランナーになりたい。そういう夢を見ることはある。苦しいだけのことかも知れないけれど…。

毎日毎日、走ることばかり…
そんな日々を、この本によって疑似体験することのできた僕は、これを読み終えたあと、いや、読んでいる途中から、すでに自分の心の中に、大きな変化が起こりつつあるのを感じ取っていた。

やっぱり自分も、走りたい。今よりも、もっともっと走りたい…
去年の退職後も、時々タラタラと犬の散歩のような超スローペースで、近所の大和川の堤防のコースを走っていたが、それも思いついた時だけである。人から、「好きなことは?」と聞かれて「走ることです」と胸を張って言えるようなものではない。

33歳の時に初めてフルマラソンを走ってから、51歳の時に走った赤穂100キロマラソンまで18年間、マラソンを趣味にしてきたが、考えてみれば、レースに出なくなってから、すでに10年の歳月が経過している。7年前、最初の発作性心房細動(不整脈の一種)が発症してからは、さらに走らなくなった。しんどいジョギングよりも、手軽にできるウオーキングのほうに重点を置きはじめたりした。

でも、やはり歩くことよりも、走ることのほうが自分の性に合っている。

「冬の喝采」から受けた衝撃を大切にしたい。

最近は、走る量をなんとか増やしつつある。
そんな時、アナザービートルさんが、ここのコメント欄で、シティマラソンにエントリーしませんか、と書いていただいたのを、今朝見たところである。嬉しかった。

大会は4月下旬だから、まだ3ヶ月ある。よ~し、がんばるぞ。10年ぶりのマラソン大会への出場をめざして、気合を入れなおそ~。

やはり、日常生活に新鮮な刺激や健全なストレスは必要である。
伸びきったゴムみたいに、手応えのない日々は送りたくないもんね。

走ろう。
記録なんてもちろん望まないし、また望むような歳でもない。
気分だけでも、風のように、軽やかに舞うように、走れるようになればいい。

 

 

 

 

 

 

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なぜか三菱銀行人質事件の話

2009年11月28日 | 読書

昔、アナザービートルさんたちとささやかな同人誌をやっていたことがある。
僕たちは、手書きの小説をコピーして、手作りの同人誌を 「発行」 していた。

メンバーは総勢4名である。 僕たちはいずれも30歳代前半から半ば。
…つまり、1980年代の前半から半ばにかけて、だった。

4人のうち3人は妻子がいたが、1人だけ独身者がいた。
それがFさんであった。 大阪市天王寺区・玉造のアパートに住んでいた。

僕たちは、その狭い部屋にビールや食糧を持ってなだれ込んだ。
そして、お互いの作品を批評しあったり、雑談したりして時間を過ごした。


「テロリストのパラソル」 の作者藤原伊織は、大阪の高津高校出身だそうだ。
高津高校といえば、この玉造のすぐ近くである。

打ち明けてしまうけれど、Fさんは、藤原伊織と同じ苗字である。
う~む。 藤原 … 玉造 …。

そこで、Fさん=藤原伊織…説がにわかに浮上してきた。 (ほんまかいな)

しかし…。 藤原伊織は2年前にガンで亡くなっている。

Fさんは、もちろん今も元気である (怒られるで~)。

一瞬、色めきたったけれど、あえなく幻の説と化してしまった。 (当たり前やがな)


そこでふと思い出したことがある。

Fさんが書いた短編小説に、有名な強盗殺人犯を主人公にしたものがあった。
テロと強盗殺人とは違うが、共に凶悪な犯罪であることには違いない。
しかも、Fさんがモデルにした事件は、犯罪史上に残る衝撃的な凶悪犯罪であった。

その事件は、1979年1月に大阪で起こった。

三菱銀行北畠支店に一人の男が猟銃を持って押し入った。
警官2人と銀行員2人を射殺する。
そして、銀行員たちを人質に取り、女子行員たちを裸にして盾とした。

http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage101.htm

http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=C_Cg-TzP6J8

Fさんは、その犯人である梅川昭美をモデルにして、短編を書いた。

テロリストを主人公にした藤原伊織と、凶悪犯を主人公にしたFさん。
この点でも、なんだか不思議なつながりを覚えてしまう。

実際の梅川は、最後は警察隊に撃ち殺されて死ぬ。

とにかく凄まじい事件で、梅川の名は凶悪犯の代名詞のように語り継がれていった。
僕も、その名前は今でもすぐに浮かんでくる。 (梅川さんって苗字の人、可愛そう)。

今、改めて調べてみると、梅川はその時、30歳だった。
藤原伊織や、僕たちと同年代、つまり団塊の世代ということになる。

2009年の今、毎日のように凶悪な犯罪が、日常茶飯事のように報道されている。
日本はいつからこんなぶっそうな国になったんだ…と言われているが、
その昔も、数は少ないけれど、結構、凶悪な犯罪があったんだ。
いや、むしろ、血の気の引くようなおぞましい事件は、昔のほうが多かった。

今はごく簡単に、なんの理由もなく、チャラチャラっと人を殺す。
こんなことで人を殺すのか…というような事件があまりにも多い。
(もちろん、「理由」 があっても、人殺しは悪いに決まっているが…)

「テロリストのパラソル」 が、高津高校や玉造に進み…
それが F さんに進み、F さんから さらに梅川事件に進み…。

どうも、話は膨れ上がっていく…というより、迷走する一方だ。

土曜日だというのに、朝から陰惨な事件の話を書いてしまいました。

これも団塊世代の、ひとつの屈折した傾向でしょうか…。


追伸 

「テロリストのパラソル」 に、印象深いシーンがありました。
テロの真犯人が 「これがぼくらの世代の宿命だったんだ」 と言うが、
主人公は 「私たちは世代で生きてきたんじゃない」 と否定する。
「私たちは、個人で生きてきたんだ」…と。

団塊の世代、世代と、僕もあまり言わない方がいいかもしれませんね。
世代で一括りしてしまうほど、人間って単純じゃありませんものね。

土曜日だと言うのに、ちょっとマジメ過ぎたお話でした。
これも団塊の世代の…。 お~~っと。 それは言うたら、あかん、あかん。

 

 

 

 

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「テロリストのパラソル」

2009年11月27日 | 読書

藤原伊織の「テロリストのパラソル」を読み終えた。

文庫本で380ページほどある長編だが、ほぼノンストップで読んだというのは、僕にとって最近では珍しい出来事である。耳鳴りが発症して以来、めっきり読書量が減ったが、それでも退職して時間ができたら思いっきり本が読めるだろう…というお楽しみな期待があった。

しかしそれも、何やかやと用に追われてこれまで果たせていなかった。その意味でも、こんなぐあいに、久しぶりに小説に没頭できたことは、とてもうれしい。大げさかもしれないが、退職後の人生の喜びを、改めて発見した思いですらある。

僕が20歳だった1969年のことを、先日のブログで書いたとき、yukari さんが、この小説を再読した、とコメントで書いてこられた。登場人物が団塊の世代で、もう、ずいぶん前に話題になった小説だったけれど、僕はまだ、それを読んでいなかった。「これを機にぜひ読みたい」と思った。

「テロリストのパラソル」は、1995年に江戸川乱歩賞を受賞し、翌年に直木賞も受賞した作品である。

史上初の乱歩賞・直木賞のダブル受賞作、という極めて高い話題性に富んだ小説にもかかわらず、自分が読んでいなかったのは、なんでだろう…? 

思い返してみると、この頃は、仕事が広報担当で、比較的充実していた職場生活を送っていた。私生活でも、マラソンや海外旅行に熱を上げていた。さらに映画(といってもテレビのWOWOWですけど)にもハマっていた。そんなことで、読書のほうは、おろそかになっていたようである。当時話題になった本も、ほとんど読んでいない。

そこで一昨日、遅まきながら「テロリストのパラソル」の文庫本を買った。

夜、眠る前に読み始めたが、うっかりいつもの癖で睡眠薬を飲んでしまったので、すぐに眠ってしまった。

昨日の朝、4時に目が覚めたので、枕元でこの本を開いた。
そこからである。ず~っと、ず~っと、読み続けた。
途中で「続きはまた明日」としおりをはさむことができないのだ。
それほどに引き込まれる小説であった。

あいだにモミィをコスパのスイミング教室に連れて行ったりと、何度か中断はしたけれど、午後3時ごろに最後まで読み終えた。

こんなことは、仕事を持っていると、出来ないことである。その気になれば、とことん好きなことができるという現在の環境を、いまさらながら有難く思った。なんだか、学生時代に戻ったような軽やかな気分すら芽生えた。

小説のストーリーは、ネットでいっぱい紹介されているので、ここでは触れない。(これだけ複雑なストーリーを紹介できるような文章力は僕にはない)。

さて、主人公が「プロの酔っ払い」であることは、昨日のブログで買いた。
朝からウイスキーを飲むのが日課の男性である。

それはともかくとして…
とにかく、文章がいい。骨太というか、カチッとしている。
現代小説の文章で、これほど魅了されたのは、村上春樹以来である。
作風は違うけれども、登場人物の描かれ方が、ちょっと似ていなくもない。
特に主人公に絡む21歳の勝気な女性は、言動が多少過激ではあるが、いかにもハルキさんの小説に出てきそうなキャラクターである。

でもまあ、何よりも、小説としての構成が、ものすごく精緻である。
ボンヤリ読んでいたら、また読み返さなければならないほどで、スキがない。これがまた大いなる魅力である。(ボケ防止にぴったり??)。

ミステリーなのか、ハードボイルドなのか…。カテゴリーは、特定しにくいけれども、この小説は、面白さにおいて、文句のつけようがない。

特に団塊の世代の僕らにとっては、宝物のような小説である。
発刊されてから14年の歳月がたつというのに、これまでこの小説を読まなかったことが、なんとも「もったいないことをした」という思いに駆られるほどである。読むきっかけを与えてくださったお嬢様には、ほんと、感謝感激雨アラレ、ですわ。

ところで、この物語も、やはり全共闘世代の中での恋が、話の中核になっている。先日のブログで書いたテレビドラマ「1969年のオヤジと僕」も、 同じような闘う学生たちの男女間の恋が描かれていた。大学闘争の中で、あれだけ男の学生たちが権力に対して熾烈な闘いを続けられたのも、「同志」である女性たちの存在があったからであろう。権力を弾劾しながら、女の子と肩を組み、手をつなぐ、ということが、当時、学生運動に参加した男たちの喜びでもあったのだろう。まあ、そんな見方は不純かも知れないけれども、そういうことって、たぶん、あると思う。

それともうひとつ。知らなかったけれど…
「テロリストのパラソル」は、テレビでドラマ化されていたのだった。
ネットを見て、初めて知った。このころはドラマも見ていなかったなぁ。

主人公は、ショーケンこと萩原健一だった。
うちの妻は「前略おふくろさま」以来の、ショーケンの大ファンである。

昨日の夕方、そのことを妻に伝えると、
「う~っ。見たかったわ~」と、地団太を踏んでいた。
でも、まあ、放映されたのは、10年以上も昔みたいだけどね。
DVDは出ていないのだろうか…?

著者の藤原伊織は、大阪府の出身。
2年前、59歳で他界している。




 

 

 

 

 

 

 

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五木寛之の 「腹八分」 論

2009年06月22日 | 読書

昨日の朝刊に、宮崎県在住の113歳の男性が亡くなったことで、新たに京都府の112歳になる男性が、全国最高齢者になった…という記事が載っていた。

その112歳の男性・木村次郎右衛門さんは、1897(明治30)年生まれで38年間郵便局に勤めたあと定年後は「悠々自適の年金暮らし」をしているという。

この御長老に限らず、昔の公務員は退職金も沢山もらい、年金額も驚くほど高い。まさに退職後は「悠々自適」で、今から思うと隔世の感がある。

僕も38年間公務員をしてきて、この3月に定年を迎えたわけだが、そんな「悠々自適」などと呼べるような生活ではない。退職金は10年ほど前に退職した人に比べると4割近く減っているし、年金額も、そういう人たちに比べると驚くほど低い。

昔へ遡れば遡るほど、公務員というのは結構な身分であった。
(今は厳しい。しかも、これから益々厳しくなっていくだろう)

さて、この木村老人が、6月20日に記者会見を行った。
このときに出る質問は、もう決まりきっている。
「長寿の秘訣はなんですか…?」という質問である。
そして、それに対する答えは、
「腹八分目です」ということであった。
これまた、決まり文句である。
こんなやりとり、面白くもなんともない。

おまけに記事の最後には、最近の政治の感想として、
「麻生首相はすべてにわたって頼りない」とご老人のコメントが載っていた。
こういうのも、お決まりのセリフだが、それを聞くマスコミの側もそう言わせようとしているフシがある(首相が頼りないのは事実だけれど…)。

新聞社も、この手の記事には、もう少し工夫を凝らせないのかと思う。

ところで… 
本当に腹八分目が長寿の秘訣なのだろうか?
僕などはその話を聞くと、100歳を過ぎてもまだ腹八分目も食べるのか~?
と、びっくりしてしまうのである。


五木寛之さんがエッセイの中で「腹八分目」について書いている。
これがとても面白い説なので少し紹介してみたい。

健康の秘訣は「腹八分」とは昔から言われている話だが、「腹八分」でも多すぎる気がする、と五木寛之さんは書く。そして次のような説を展開する。

10代の少年少女は食べるだけ食べて基礎体力を養うべきで「腹十分」。

20代は「腹九分」で大いに運動をする。しかし「腹十分」の時代は過ぎた。

働き盛りの30代こそ「腹八分」が原則。そろそろ体力が落ち始めてくるから。

40代は下腹のせり出すのに要注意だから「腹七分」でコントロールする。

50代は「腹六分」。体はもう出来上がっており、燃料補給もその程度でいい。

60代は「腹五分」。執筆当時五木さんは67歳で、1日1食半を通したという。

以下、70代で「腹四分」。80代で「腹三分」。

90代となれば「腹二分」でどうか。百歳になれば「腹一分」。

それを越えれば、もう食べなくてはいいのでは…。


と、まぁ、こんなふうなエッセイである。そんな無茶な…と言う人もいるだろう。しかし、今回の112歳のご老人の「腹八分目」の話を聞くと、「食細くして命永かれ」の精神からはむしろ遠のいているのではないかと思うのである。
爺ちゃん、そのお年で「腹8分目」は食べすぎ違うか…な~んてね。


五木寛之さんのエッセイには教わるところが多く、よく拾い読みをする。
五木さんは1932(昭和7)年9月30日生まれで、76歳である。

意外に知られていないようだけど、東京都知事の石原慎太郎さんも、
1932(昭和7)年9月30日生まれである。
つまり、五木・石原のご両人は、生年月日がまったくいっしょなのだ。

お互い間もなく77歳のお誕生日を迎える人とは思えないほど元気である。

112歳の最高齢者の方のコメントより、このお2人に、
「それだけの健康と活力を保つ秘訣は何ですか…?」
と聞くほうが、はるかに面白いと僕は思うのだ。

少なくとも「腹八分目です」という紋切り型の返事はされないだろうから。

 

 

 

 

 

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太宰治の生家

2009年06月20日 | 読書

  

  
  太宰治の生家 「斜陽館」。
40年前の自転車旅行の時の写真です。     
   右下の方に、小さく 僕の自転車が写っている。




2日前、腰痛が少しマシになったので朝のジョギングを開始したら、今度は左足首を捻挫してしまい、その日は一日中、満足に歩けない状態だった。ほんとに、泳げタイヤキ君の歌じゃないけれど、いやんなっちゃうよ~ って感じ。
今朝はだいぶ良くなったけれど、まだ少し違和感が残る。
(体、ガタガタですわ。とほほ)

                   


さて、昨日の19日は、太宰治の生誕100年に当たる日だったそうである。

太宰の故郷、金木では、銅像も建ったことが報じられている。

 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/103293


「生まれてごめんなさい」とひたすら含羞の中に生きてきた太宰治が、
地元の街で銅像になる…。
彼は、あの世でどんな感想を持つのだろうか。


1909年6月19日に、太宰治は青森県の津軽・金木で生まれた。
玉川上水に身を投げ、遺体が発見されたのが1948年の、同じ6月19日だった。
僕は1949年生まれだから、その時は、すでに太宰はこの世の人ではなかった。

僕より40歳年上の太宰治が今年100歳になったのだから、僕が今年60歳であるのもそりゃ当然である。(意味わからん計算やな~。頭もガタガタですわ)。

…で、僕は、高校生の頃から、太宰治にかぶれ始めた。

太宰の小説を読むと、たいていの読者は、
「太宰を理解しているのは自分一人だけだ、自分だけの太宰、あぁ太宰…」
などという症状に陥り、「愛読する」というより「かぶれる」のが常である。

そして僕も、「太宰の苦悩がわかるのは僕だけだ」などと、当時の読書日記などを読み返すと、下手な字で書きなぐってある。

「人間失格」「斜陽」「走れメロス」などはあまりにも有名だが、僕は「津軽」が大好きである。その他では短編集が面白い。特に「お伽草紙」と「晩年」は何度も読み返すが、その度に、何らかの痛烈な衝撃を受ける。

「お伽草紙」は、日本昔話の「瘤取り」や「浦島さん」「カチカチ山」などのお話である。太宰流アイロニーがたっぷりと散りばめられて、実に面白い。

「晩年」は、デビュー当時の短編集だ(晩年に書かれた作品ではない)。
この中に数多くの短編が入っているが、「逆行」とか「ロマネスク」とかは、学生の頃、何度読み返したことだろう。読み終えると、なんとなく心の動きが自己反省に向かっていく。「僕は自意識過剰な人間なのだ」と、太宰の小説の登場人物と自分を重ね合わせ、自分を責めたりする。じわ~りと息苦しくなってくる感じなのだ。その息苦しさがまた快感に変わり、ますますクセになる…というふうな、奇妙な感覚にとらわれる。

まぁ、今は太宰を読んでも
「あぁ、僕は自意識過剰でピエロ人間なんだ~!」なんて思わないけれど。

  ………………………………………………………………………

太宰にかぶれていたころ、太宰の故郷である青森県金木町へ行ってみたいと思っていた。それが実現したのは、20歳の時の自転車旅行だった。

自転車旅行については何度も書いているのでクドイのだが、「芭蕉の『奥の細道』の旅の跡をたどりたい」、「日本最北端の地を踏んでみたい」などといういろんな目的があったが、「ぜひ太宰の生家を訪ねてみたい」というのも、ひとつの大きな目的であった。

その自転車旅行で…

東北に入り、秋田から十和田湖を経ていよいよ青森県に入るとき、十和田湖畔のあるユースホステルに泊まった。翌朝、出発の直前に、そこのオーナーが僕に「今日はどこまで行くのですか?」と聞いたので、
「金木町へ行って太宰治の生家に泊まりたいと思っています」と答えた。
当時、太宰の生家は「斜陽館」という名前の旅館になっていた。

するとそのオーナーさんは、
「おお! 君は太宰のファンなのですか…? それは素晴らしい」と言い、
「斜陽館の主人は私の恩師です。今から電話をしてあげます」
そう言った
かと思うとすぐに電話をしてくれ、さらにご自分の名刺の裏に紹介状も書いてくれたあと、太宰に関する本までもらってしまった。

そして、オーナーさんのご家族に見送られながら十和田湖畔を出発し、弘前市を通り、青森の金木町まで自転車で走って行き、斜陽館に着いた。
1969年6月30日のことである。

この後のことは、以前、ブログに詳しく書いていますので、ご関心とおヒマのある方(笑)は、御笑覧下さい。

  http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070621



 

なお、今は「斜陽館」は、記念館になっていますので、
ここで泊まるということは、もうできなくなりました。

http://www.goshogawara.net.pref.aomori.jp/16_kanko/dazai/syayoukan.html

 

 

 

 

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ノルウェイの森

2009年06月17日 | 読書

いま村上春樹の「1Q84」が爆発的に売れているときに、「ノルウェイの森」について書くというのは、何かズレているようだけれど、このごろなんとなくこの小説のことが気になっており、半年ほど前に久しぶりに「ノルウェイの森」を読み返したときの感想を掲載します。

村上春樹の「ノルウェイの森」は、発表後20年経って、初めて映画化されることになった。もっとも完成はまだずいぶん先の話のようだけど、製作にはフジテレビも加わっているというので、また映画化が近づいてきた頃にはテレビで大々的に宣伝を繰り広げるのだろう。そのブームに乗って、小説「ノルウェイの森」のほうも、再び超ベストセラーになるに違いない。

しかし、あの物語がどんな映画になるのだろうか…。見当もつかない。いま太宰治が生誕100年ということでブームになり、いくつかの作品の映画化もされるようだけど、この太宰の小説の映画化というのも、妙な感じがある。

さて、そのノルウェイの森だけど…
1987年、ドイツのハンブルグ空港に着陸直後の飛行機の中で、ビートルズの「ノルウェイの森」が流れる。主人公は、その曲を耳にすると、頭を抱えこみ、朦朧となる。曲は、18年前の出来事とつながっており、その回想が、そのままこの長編小説のストーリーになっている。

主人公が19歳から20歳になっていく1969年の物語である。

1969年といえば、僕自身にとっても、自転車旅行をした、思い出深い年だ。
小説の背景に、学生運動や新宿の喧騒、それに当時の懐かしい曲のことなどが描かれているので、いっそう感慨が深まる。

あ、そうだ。そういえば、今日6月17日はあの自転車旅行に出発した日だった。ちょうど40年前の今日のことだった…。ま、そんなことはいいけれど。

…脱線ばかりしてすみません。

主人公の「僕」は、自殺したかつての友人の交際相手だった直子という女性と、1968年の初夏に東京の街の中で偶然出会う。1年後の、直子の誕生日に、2人は抱き合う。それから間もなく、直子は精神を病み、京都にある療養所生活に入る。「僕」はその療養所に、1969年の秋と冬の2回、直子を訪ねて行く。

この小説には、もう一人、「僕」と同じ東京の大学に通う緑という女性が登場する。現実社会に適応できない直子とは対照的に、緑は活発で生活実践にたけた逞しさをもっており、常に前向に物を考えようとする女性である。

さらに、この2人とは別の意味合いを持つ存在として、レイコさんという魅力的な中年女性も登場する。彼女は、直子と同じ療養所の同じ部屋で暮らしており、いわば直子の後見人のような存在であるが、とても複雑で特殊な過去を抱えている。ギターが好きで、療養所では「僕」と直子に「ノルウェイの森」などの曲を弾いて聞かせてくれるのだ。

東京に戻ってきた「僕」は、直子に手紙を書く。
そこを出られるようになったら、一緒に暮らそう、と。
一方で「僕」は緑にも電話をし、自分には君が必要なんだ、と言う。
さらに小説のラストでは、レイコさんともセックスをする。

なんだか浮気っぽい男の話みたいだけれど、そういう感覚とはちょっと違う。「僕」は、どの女性にも正直に自分の思いを伝えている。19歳から20歳という若さが、青春の彷徨…という言葉であらゆるものを包み込むことを可能にしているのだろうか、と年取った僕は思うのだ。いや、若くても、年を取っていても、関係なく、男の魂というものは、常に複数の異性を求めてさまよい歩いているものなのかも知れない。

どうも、今回の再読では、直子と緑の2人を愛する主人公の心の動きにばかり、読み方の意識が集中してしまったみたいだ。

「僕」は、緑と何度か会って話すうち、彼女を真剣に好きになる。
京都の療養所で直子と一緒にいるレイコさんに、直子のことは気になるが、実は自分は緑を愛し始めている…という手紙を出す。それに対してレイコさんから来た「しあわせになりなさい」という返事の手紙が、とても素晴らしかったなぁ。

この小説には、ほかにも魅力的な人物がいっぱい登場する。
それも、この小説に惹かれる大きな要素である。

小説の「僕」は、親友の自殺によって、死は生の対極にあるのではなく生の中に存在することを実感する。
 

物語の終盤に、直子も療養所内で自殺する。

「ノルウェイの森」は「死」が重要なテーマとなっている。

自分が20歳だった1969年から40年が経つ。
「死」というものとまじめに向き合ったことのない僕も、そろそろ、そういうことを考えねばならない年になってきた。

人を愛することのはかなさ。
生きることの切なさ。
そして、死ぬ、ということの意味。

この小説が日本で超ベストセラーになっただけではなく、数多くの外国の人たちにも、今でも延々と読み継がれているのは、そんなテーマに惹かれる人々が洋の東西を問わず、いかに大勢いるかを示しているわけで、僕もそんな星の数ほどいる愛読者の一人なのである。

つまり自分は、この地球上にいる人たちと変わらない、普遍的な感性の持ち主なんだな~、と考えると、なんとなく安堵したりする。この本を読んで、そんな感想を持つというのも、ちょっと変なのかも知れませんが。

 

 

 

 

 

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