熱海のセッションをしたのは、10月21日でした。
画像は、富岡八幡宮の御神木とその横にある、鶴石と亀石ですが、神社でどのように言われているかは、わかりません。
記事にするのは、2ヶ月後の感じですね。
前回、ノモトの神が話してきて、私はその時に少し調べたのですが、イマイチよくわからなくてこの記事のために、改めて調べていました。
まず、ノモト=野本氏が該当するようです。
🌟野本氏の始祖である基員(もとかず)は藤原鎌足の末裔である。
中臣(藤原)鎌足 - 不比等 - 房前(藤原北家の始祖)- 魚名 - 鷲取 - 藤嗣 - 高房 - 時長 - 利仁 - (斎藤)叙用 - 吉信 - 伊博 - 為延 - 為頼 - (竹田)頼基 - (片田)基親 - (野本斎藤左衛門)基員と続いた。
基員は、源頼朝から厚い信頼を受けた鎌倉幕府の御家人で、武蔵国比企郡野本、現在の埼玉県東松山市下野本の地に住し、野本左衛門尉(さえもんのじょう)を称していた。
この左衛門尉(さえもんのじょう)とは、律令制下の官職のひとつで、左衛門府の判官であり、六位相当の官職である。
平家の追討で功績をあげた源義経も任ぜられた官職である。
基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子の時員(ときかず)を養子とした。
時員は六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年 - 1230年)にも就任している。
鎌倉幕府の事績を記した、わが国最初の武家の史書『吾妻鏡』に基員の子が建久4年(1193年)に元服したことが残されている。
鎌倉幕府の実権を代々執権職を継いだ北条氏が握った後、野本家は神奈川県横浜市金沢区富岡地域の武家として政権中枢と特別な関係を持っていた。
『吾妻鏡』の原本が存在した鎌倉時代中期に北条実時が設けた武家の文庫である金沢文庫(現在の神奈川県横浜市金沢区)から、北に3㎞ほど離れたところにある野本家の菩提寺、持明院には、持明院開祖の墓地の近くに野本家の先祖代々の墓石が多数存在している。
明治期に富岡の野本作左衛門は伊藤博文との親交を深くしていた。
伊藤博文が大日本帝国憲法(明治憲法)の草案を起草する際、神奈川県横須賀市にある伊藤博文の別荘で、伊藤博文、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らと検討を重ていたが、伊藤博文が首相であったことから時間を割くために伊藤博文らは神奈川県横浜市金沢区富岡の野本作左衛門の家を借りて憲法の草案を起草した。
前回にミクネの神(天之常立之神)が言っていた、藤原の末裔というのは、合っているようですね。
四国のミミさんとの話の中に出てきた、藤原不比等から藤原房前(ふささき)の流れというのも、驚きました。
源義経とも深い関係だったということもわかりました。
伊藤博文が、話に出てくるとは思いませんでしたが、野本氏は富岡辺りにいたことは確かなようです。
この下書きを作っている12月27日に、ノモトの神が話してきました。
ノモトの神だ。
富岡八幡宮にいる。
私は、源頼朝様の家来だった。
頼朝様は、まだ神にはなっていないだろう。
私は、義経様の方がわかっていたと思う。
富岡八幡宮が、波除(なみよけ)八幡宮と言われるようになったのは、私がいたからだよ。
富岡の民達を守りたかったからな。
だから、神の階層も上げてもらえたのだ。
亀石と鶴石は、私の家にあった物だ。
あの石があったから、波分けは起こったのだよ。
亀石は私で、鶴石は妻のだよ。
妻は神ではないけどな。
「宝の石」と言ってくれて、嬉しいよ。
ほかすことにならなくて、良かったよ。
みーららは、私のかけらが入っているので来てくれと言ってほしい。
正確に聞いてくれて、ありがとう。
私も就いていいか?
はい。
利他の心で、頼んだよ。
と、いうことで、ノモトの神は私の245番目の神様となりました。
約6年前に、ミクネの神に「宝の石のところに行ってくれ」と言われて行った富岡八幡宮が、今回まさかの繋がりになるとは思いませんでした。
富岡の人達は、富岡八幡宮のお陰様で波が避けられ、それが深川の富岡八幡宮を勧請する話になったのですね。
画像は、富岡八幡宮の御神木とその横にある、鶴石と亀石ですが、神社でどのように言われているかは、わかりません。
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