三雲成持(みくも しげもち)( 天文9年(1540年)ー慶長8年(1603年))は、戦国時代の武将。三雲城城主。
当初は六角氏に属し、「六角義賢六宿老」の一人(蒲生賢秀、後藤秀勝、進藤貞治、平井定武、三雲成持、目賀田綱清)で、父の三雲定持(さだもち)は六角定頼から、兄の三雲賢持(かたもち)は六角義賢からそれぞれ偏諱の授与を受けている。
三雲成持のヒストリー
近江国の戦国大名・六角氏(観音寺城主)に仕えていた。
永禄9年(1566年)、浅井長政との戦いで兄の「賢持」が討死したため家督を継ぐ。
翌年には家中の「六角六宿老」の一人として六角氏の分国法である「六角氏式目」(*箇条書き形式の制定法)に署名している。
「成持」は六角氏の家臣ではなく同盟者に近い立場にあったが、六角家中に影響力を与えるほどの有力な存在であった。領内の寺社を独自に統制し、恩賞の決裁を独自に行なうなど、その権力は相当なものであったと言われている。
永禄11年(1568年)、織田信長が近江国に侵攻。六角氏は観音寺城の戦いに敗れ、本拠を失い衰退した。その後の「定持」は独立勢力として六角氏の再起を支援するなどしたが、
天正3年(1575年)には佐久間信盛を通じて織田氏に降伏した。程なく浪人となったが、
天正12年(1584年)頃に織田信雄に仕え、旧領復帰の約束を受けて、小牧・長久手の戦いでは信雄方として参戦、兵約700人を率いて伊勢松ヶ島城に滝川雄利らとともに籠城した。しかし、信雄と羽柴秀吉が和睦した為に旧領復帰は果たせず、和睦後は織田氏を離れ、蒲生氏郷に4000石で仕えた。
後、蒲生氏が没落すると徳川氏に仕え、子の成長は徳川氏の旗本として旧領復帰を果たしている。
因みに成持の兄・三雲賢持の子「三雲賢持」が真田十勇士で有名な忍者、「猿飛佐助」のモデルであるとする説もある。
三雲賢持のヒストリー
六角氏の宿老・「三雲定持」の嫡男として誕生。
永禄9年(1566年)、観音寺騒動の影響で六角義治に不信を抱き浅井長政に通じて、謀反を起こした布施公雄が籠城する布施山城を攻める。
同年、佐和山城周辺における浅井氏との戦で討ち死を遂げた。
家督は、弟・成持が継いだ。
子・賢春は、真田十勇士の「猿飛佐助」だとする俗説がある。
三雲 定持(みくも さだもち)、(生誕不明ー元亀元年(1570年))、は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。
三雲 定持のヒストリー
三雲氏は「甲賀五十三家」の一つで、「定持」は父・「行定」と同様、「六角定頼」に仕え重臣として盛り立てた。
また、単独で明と貿易を行い室町幕府に寄付をするなど、高い経済力を有していた。
永禄6年(1563年)10月の観音寺騒動では蒲生定秀らと共に奔走し、騒動を収束させた。
永禄9年(1567年)、佐和山付近における浅井長政軍との合戦で嫡男・賢持が討死したため、家督は次男・成持に継がせる。
同10年(1567年)に制定された六角氏式目には嫡男となった成持と連署している。
永禄11年(1568年)、六角義賢・義治父子は上洛を開始した織田信長の侵攻に敗れて観音寺城を放棄した。
定持は義賢親子を三雲城に迎え入れて、織田軍をゲリラ戦で悩ませた。
しかし、元亀元年(1570年)の野洲河原の戦いで、柴田勝家・佐久間信盛らが率いる織田軍と戦い、討死した。
所用の愛刀『備前長船光忠』は、「定持」死後に「三好実休」の手に渡る。
「実休」死後は畠山高政が所有し、最終的には織田信長に献上され、信長が最も好んだ佩刀の一つとなった。本能寺の変では織田信長が自害する直前まで使用されて炎上。
後に羽柴秀吉が回収して修復。豊臣家滅亡後は徳川家康に献上された。