”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

戦国武将・「藤堂高虎」に因んだ 新作能「高虎」WEB配信で上演

2021-02-15 12:00:00 | 滋賀TODAY
 滋賀県甲良町観光協会(藤原新祐会長、甲良町金屋)は、地元ゆかりの戦国武将・「藤堂高虎」を主人公とした新作能「高虎」のWEB配信上映を行う。



新作能「高虎」のWEB配信上映
開催日時: 3月3日(水)10:00~3月14日(日)20:00
同公演の有料配信チケット料金: 2000円
チケット購入: チケットぴあWEBページ((https://t.pia.jp/)か、甲良町観光協会(0749―38―2035)へ連絡

 藤堂高虎(とうどうたかとら)は甲良町出身の大名で、徳川家康などの歴史を語る際には欠かせない人物。
甲良町では、高虎が能楽にも精通していたことから、昨年、新作能「高虎」を製作、今年舞台での公演を予定していたが、新型コロナウイルス感染症の影響で上演中止を余儀なくされた。甲良町観光協会では公演の手法を模索し、WEBでの公開を決定した。

 同作は観世流能楽師の浦部好弘氏が前シテ、浦部幸裕氏が後シテを務める。徳川家康の側近だった天海僧正が、近江国甲良の里で高虎のことを良く知る不思議な老夫婦に出会うという話で、地域の魅力を込めた内容になっている。また、能面「高虎」は滋賀能楽文化を育てる会の伊庭貞一会長(東近江市)が手がけた。

【滋賀・近江の先人第41回】城造りの名人/一土豪から遂に大名に・藤堂高虎(滋賀県甲良町)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/2f762f58973a7f1f34db470d3283e1b9

<滋賀報知新聞より>
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自転車のルーツ「新製陸舟奔車」復元、16日から展示

2021-02-15 10:00:00 | 近江の歴史文化・探訪
 彦根市の彦根総合高校の3年生が卒業制作で、自転車のルーツとされる江戸時代のペダル式三輪車「新製陸舟奔車(りくしゅうほんしゃ)」を復元した。

↑写真:中日新聞より

 発明した彦根藩士・平石久平次(くへいじ)翁(1696〜1771年)の250回忌が営まれた菩提寺である「長松院」(彦根市中央町)に展示された復元品を見た生徒が、2カ月がかりで完成させた。

自転車のルーツ「新製陸舟奔車」復元
展示:2月16日~3月末まで
場所: 長松院(彦根市中央町4-29)
*展示し、試乗もできる。

【滋賀・近江の先人第138回】自転車のルーツとされる三輪車「新製陸舟奔車」を発明・平石久平次(彦根市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/0b877e04ab06d08338d759604bc8f7c8

 制作したのは彦根総合高校総合学科人文自然系列の生徒20人。例年、歴史の授業で地域文化学習として、国宝彦根城や彦根仏壇などを学んでいる。
2020年度はコロナ禍で課外授業ができず、悩んでいたときに平石を知った。
 平石は、ペダルを立ちこぎして後輪を回し、ハンドルで前輪の向きを変える舟形の三輪車を発明。絵図も残されている。平石の偉業を紹介したテレビ番組で復元され、市立図書館に寄贈。250回忌で長松院に展示された。
 復元品を生徒が見学したのは昨年10月。自転車のルーツを考えた人が彦根にいることを初めて知り「作ってみたい」と取り組んだ。
中心になったのは村西晃徳さんで、復元品を観察し、絵図も参考に、ホームセンターで売っている物で木製の三輪車を完成させた。
 村西さんは「ペダルで後輪をどう動かし、ハンドルでかじをどう切るか悩んだ」と話すが、宮大工の祖父の技術を幼少から見てきた体験や溶接を父から習い、制作に生かしたという。
 復元した作品は、長さ2.2m、幅1m、高さ1.2mの木製で「彦総式新製陸舟奔車」と名付けられた。

<中日新聞より> 
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【滋賀・近江の先人第165回】遣唐使・吉士長丹(摂津市・近江八幡市)

2021-02-15 06:00:00 | 滋賀・近江の先人

吉士長丹(きし の ながに/ちょうたん)、生没年不詳。飛鳥時代の豪族。呉 長丹(くれ の ながに)とも表記される。冠位は小花下。遣唐使白雉4年(653年)。

出自
「吉士」は元来、古代朝鮮における「首長」を意味する言葉から生まれた姓であり、転じて氏に変わったものでもある。一族は外交事務で多く活躍している。『新撰姓氏録』では、吉志氏は「摂津国皇別」に分類され、「難波忌寸同祖、大彦命之後也」となっている。
本拠地は摂津嶋下郡吉志部村(現在の大阪府吹田市岸部町)とされている。

記録
白鳳時代の白雉4年(653年)、遣唐使に任命された彼は、遣唐第1船の大使として計121人を率いて唐へと出発する。このときの位は小山上で、副使は吉士駒であった。
同行の学問僧には、道観(のちの粟田真人)、道昭、定恵(中臣鎌足の長男)らがいた。

はるか唐の大陸に渡り、翌年7月、百済・新羅の送使と共に筑紫国に到着する。このときは「西海使」(にしのみちのつかい)と『日本書紀』巻第二十五には記されている。翌年無事に重責を果たして帰国。
 
当時の先進国である唐の学問や制度を学習輸入するため、再び故国の土を踏めぬかもしれない不安のつきまとう中、身を挺して大任を果たした彼は、その功績により宇津呂荘(現在の近江八幡市宇津呂町あたり)に封戸200戸と呉氏の姓を与えられたことが日本書記に記され近江八幡市の歴史上の人物では最も古い存在である。
その後に、 是(こ)の月に、西海使(にしのうみのつかひ)等(ら)が、唐国(もろこし)の天子(みかど)に奏対(まうむか)ひて、多(さは)に文書(ふみ)・宝物(たからもの)得(え)たるを褒美(ほ)めて、小花下の位に昇叙され、封戸200戸を与えられた。
また、氏を賜って、呉氏(くれのうじ)となった。恐らく、「呉」を経由して長安に辿り着いたからであろうと、岸俊男は述べている。このことから、南島路をとったものと推定される。

近江国蒲生郡(近江八幡市)の呉神社はゆかりの神社である。公禮八幡神社(近江八幡市宇津呂町)、公禮=呉で呉姫漢姫を祀る呉八幡だった。遣唐使の吉士長丹が祀られていたともいわれる。

近江出身の通信使
【滋賀・近江の先人第38回】7世紀前半廷臣、第1回遣隋使・小野 妹子(大津市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/m/201906

【滋賀・近江の先人第39回】朝鮮通信使実務に尽くした儒学者・雨森 芳洲(長浜市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/d923c1ccc0f90783e275b34c3ba03328


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