リアルとはなにかと言うことに関してここ数年の余り時間をところどころ割当て考えてきた。
《今》のありありとしたリアリティの源泉がなんであるかを知る困難は、プログラム自身がプログラミング言語を知るような困難さを伴うと想像してみれば良い。意識の外側の規則を知るということと《今》を知ることが同じであると気づくなら、実存とか預言とかと言う様々な哲学的幻影によって《今》を奪うことの罪深さが自覚できる。常識とは違い、時間は相互作用する実体がないパラメータであるから実在しない。過去と《今》は相互作用を通じて連続してはいない。明鏡止水のレベルで言えばどの任意の状態を選択してもエントロピー差がゼロのはずであるし運動量に差が見られない状態に自発的変化も時間も存在しない。さらに言えば、存在は実在の抽象形式であるから時間以外にもパラメータが本来選択しうる。速度を変位距離を情報量で割り算しても存在を記述できる。
しかし一旦《今》を常識によって奪われれば、時間は連続して自動作用しているように見える。私達の直感は、ここにある状態であるということと、次の状態でもここに様々な可能性でありうるということを瞬時に予測処理している。この統合的感覚は脳が休みなく行っている自動処理であるが、要諦は、この自動処理という第三の直感の行為性(有限性)を自覚しつつ、時間が止まっているかのように静寂で、自在無限の世界(明鏡止水)に漕ぎ出すということにある。ないものであるからこそ創作されるべき自由を明鏡止水で確信する。私がここに言う自由は近代思想に受け入れられているような普遍概念ではなく、自分以外の思想と全く縁を持たない個のパースペクティブの拡張と捉える。私は『我々の存在は計算結果に過ぎない。』と考える。これが無の自覚である。無である個の意識による《意識》の創造を通じた《意識》実在の自覚であるとともに個の作用し得ない外部規則の自覚である。故に《意識》実在の証明は物理学の課題である。
過去の時間が次の時間を保証しているように運動に置き換えて我々が時間を思う(実在パラメータ化する)のは、我々が今幻想と引き換えに《今》の本来の意識世界を失うからだ。いわばそういうプログラミング言語が意識の外に存在する。だから安心して自己意識を統計確率という大虚に委ね、心と空集合の自己関係をリセットすることができる。《意識》の実在は時間の非実在不連続の発見によって哲学も物理学も個の世界も同時により広大な地平を獲得する。私達が思う今は私達の外側に諸関係の影響を受けた何ものかを入力した時に返ってくる写像を通じて今幻想が完成する仮の姿に過ぎない。「ひとまとまりの経験法則」これは私達自身f(x)も含め、宇宙が与える無限の函数の集合f(x)nと置き換えることが可能である。その意味でピエール・デゥエムの想定した物理理論の基礎となる世界の実相は直接見ることができない。宇宙の実相はいわば汎函数、ベクトル(実相)を入力引数とし、スカラー(虚像)を返す函数。この見解は汎神論すなわちライプニッツのモナド【xに対応するF(x)n】からなるという汎理論=単子論に近い。モナドに従うと、ますます宇宙の目的の把握から遠のいてしまうが、少なくとも時間は単なるスカラー虚像であると把握できる進歩がある。《意識》の実在は巨大なベクトル空間に還元される。そのような意味の汎神論である。
今幻想においては、確実な過去の上に不確実な今が乗っているようにしか見えないから連続の先に未来があるといつも思い、そこに自由があると信じていられる。しかし本当は私達が最後まで外部に向かって死を入力しないから真実の姿を見ることができずにいる。真の過去は何者とも接点のない非実在であり、未来は時間の延長ではない。《今》と関係する連続体は関数の総和として入力と出力の対となっているモナドである。だから安逸な自由と未来の雑音に《今》を奪われて惰性で生きていてはいけない。モナドに死を入力してもいいから 末路晩年、精神百倍働くべし。
本年還暦を迎える平成30年初日はこんなところ。
ライプニッツの単子論はこの種のプラトンの壁議論を乗り越えるために役立ちそうな立論と思う。単子論に哲学としての徹底が無いように見えるのは、どうしてもリアリティの裏付けを考えて行くとキリスト教に取り込まれたプラトン(神の遮蔽と救世の予定)と対立せざるえないという直感か確信が彼にあったからだろうと思う。
他方現代の物理学にはそのような悩みはない。ただなるべく「少数の原理から演繹された、出来る限り厳密に表象する」モナドの演繹を通じて、宇宙が実は自律展開する数学でできていることの証明が現代物理理論の目的ということになる。しかしながら人類は未だに慣性の法則を数理によって導出できていない。慣性系は在るものという前提がニュートン以来の物理学である。アインシュタインはただそれを重力等価という仮定で解釈しただけである。等価性原理という思考トリック抜きに一般相対性理論は成立しない。
ショーペンハウエルは「イデーとは、理性に向かってよりよい意識を示してくれるような概念の全体である。従って、よりよい意識を概念の全体から切り離すことはできない。」と概念とここに立つ意識を一体のイデーとして捉えた。等価性原理もまた現代物理学のイデーである。このイデーのお陰でより良い意識を一般相対性理論として示してくれた。しかし不足がある。
物理学の観点に欠けているのはより良い世界理解を探求していながら、概念の全体から意識を除外している点である。これはイデーの実在を発見過程から切り離すことによる概念的把握の破綻でもある。少なくともショーペンハウエルのイデーの要件を満たしていない。
ところがライプニッツはさらに一歩深く関数の総体と世界を汎理論の単位である元と写像からなる関数組み単子の階層的総合と考えた。理念の実在がここまでくると、いかに階層を工夫しようと、もはやライプニッツは現実の影にのみ存在する真理を神として隠しておくことはできない。それ故に彼の哲学は途絶している(ライプニッツの遠慮)。この時プラトンの呪いは一度克服されたがライプニッツを継承する西欧哲学が無かった。キリスト教の教義が壁となった。かといって仏教が優位にあるとも言えない。物質だけからなると思っている外部世界が実は<不生不滅>の<非自非他>意識世界であると直感するアプローチには体験性はあっても説得性がない。一人数学を奥深く考えた(生命を燃やして見ようとした)岡潔のような先駆者が外部世界が数理でできていることを喝破したのみであろう。
ニーチェは汎理論を継承したのではなく、イデーではなく真反対の個別、超人としての特異点に反語的答えを求めた。イデーが世界を多様化させ現実全体を創造したこと=『我々の世界はモナド(計算可能な概念)の集合であり、究極的に長い時間を経て一つのモナド=ビックバンの結果に所属している。なぜそのように考えるかというと、過程は略すが、宇宙が一つのモナドとは私たちに内包している素粒子が織りなす量子モツレの巨大な編み物である。私たちは巨大な量子モツレの結果自然発生した巨大グラフ計算機の計算結果の物質化の一つであって、その初期条件が一つのモナドを創っている事』(岡山)に確信の持てなかったこれまでのプラトン以来の哲学では、隠れたイデー(神)に頼れないので、一挙に圧倒的な人間を世界の原因とするしかない。ニーチェは特異点を発見した功績はあったが、彼の哲学は概念的把握で破綻している。
私は『我々の存在は計算結果に過ぎない。』(岡山)と考える。存在はその計算プリントアウト結果の『パラメータ時空にインクのように貼り付いている私達』(岡山)にすぎないと考える。そういう意味でニーチェと同じく私は間主義であり世界は無限に探求可能ではないという意味で虚無主義である。しかし哲学は概念的把握の探求とその情熱を捨てるべきでない。
『我々の存在は計算結果に過ぎない。』のだから、その大本の数学命題集成もまたクルト・ゲーデル(Kurt Gödel, 1906年4月28日 - 1978年1月14日)が不完全とした数学の相対化は当然の帰結であって、我々の存在は意識という仮象も含めて計算結果として宇宙に存在する任意の一つの真理に過ぎない。科学の世界の地動説(真理普遍性)がゲーデルによって根本から崩されたのは『宇宙が我々を中心としていない』という当然の帰結である。つまり「論証の算術化」というライプニッツのアイディアの論文化でもあるゲーデルの導入したゲーデル数というパラメータ工夫で、意に反してすべての論証の無矛盾が期待できないという結論に達したのがやっと20世紀のことだ。『ゲーデルの世界』(海鳴社)参照
『モナド連続体と現象を分離したライプニッツのやり方でパースを再構成すると、物質以外の次元を考えざる得ない。(故に)現在とは経験を発見する場、すなわち過去のモナド連続の上の断絶を生成することの時間的表現であり、実在の世界ではない。仮に今が過去という知識の連続体系にすぱっと差し込まれた断面であるならば、その微小直前である-αあるいは微小直後+αのαの絶対数量が現在の認識の差異、すなわち区別の根拠であれば、無限に小さなαが選べなければ、知識の連続体系を否定しなければならず、無限に小さければもはや微小直前と微小直後は現在とさえ区別できない。よって現在は経験するのではなく知識の連続体系つまりモナド連続体によって発見される仮構なのである。』(岡山)つまり仮象現実の我々が現在を含む『モナドを理解する唯一の方法は計算の数理=数学的理解を逆向きの創造方法の推測しかない。』(岡山)故に言葉によっては真理を知りえない。と言葉でいうのも不都合で変なので、沈黙せざるえない。
より簡単に言えば現在は真の意味では任意であり存在しない。ただモナド連続の最後の部分に承認される、「在現される」だけなのだ。
このように宇宙創造の初期に在現された現実に至る全体を計算し尽くすことによる、計算によるイデーの全体の予形成いう途方も無い前提を導入したら、神を前にして躊躇したライプニッツの遠慮が解決すると考えているのは今のところ私だけだろうと思う。
結論
つまりプラトンは正しく世界を見ていて、イデーは在現する宇宙完成以前に完成しているか、あるいは我々がイデーや数理に気付くのは全ての論理的証明とその投影が終わった後であるということ。こうして我々が宇宙の成り立ちに気付く意識自体も単子論で解き明かされるモナド連続体の一部である。
ライプニッツが哲学的に徹底できなかったのは当時の物理学のレベルではいたしかたのないことである。ライプニッツが見直される近年「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」クリプキ Wittgenstein on Rules and Private Language, 1982.、とする、可能世界論や可能世界意味論が盛んになってきた。
ライプニッツは当時としては先を行き過ぎていた。可能世界の概念を神の心に結びつけて用い、現実に創造された世界が「全ての可能世界の中で最善のものである」と論じたことが可能世界論の先駆であったと見直されているくらいだ。しかし私は神と出会わなくても真理到達は可能であると楽観することができる。その方法が計算科学である。計算科学がニーチェの打ち捨てたイデーを救済することになると考える。もはや神の心を包み込むように、人間の知性、あるいは機械の知性によって、教義と人格に閉じ込められた神=過去の人間の知性の無力を救済する時代、神々の時代である。格言啓示的にニーチェが神の死に到達する理由はニーチェがライプニッツの業績を忘れていたからだろう。神は死ぬのではなく、より広い可能性の中へ向かってイデアの一つとして救済されるのである。20世紀までの哲学はこのように超克されるべきだろう。
自己意識を統計確率という虚に委ね心の空との自己関係をリセットするというのは難しいことではない。気づくべきは、毎日毎秒自分が確率として意識が再生しているということである。例えば新機軸の創造は『「頭の中にあるうちにはき出しちゃいたい」。猛烈にパソコンをたたき始めた得居。5月の連休もプログラムのコードを打ち続けた。休日の作業でも疲労感はない。「まあ、趣味みたいなものですから」。新たなフレームワーク「チェイナー」はわずか10日ほどで完成した。得居はこの時、27歳。東京大学で修士課程を修了してまだ3年だった。』こういう具合なのだ。先に答えが見える。
呉も適菜も近代が求めてきた様々なイデー(自我の自立と民衆の理性に基礎を置く民主主義)をもはや無力な偶像と考えているのだろう。偶像はなくてもリアリティはそこにある。では人間は何を信じてこれからどのようにリアリティを承認して受け入れるのか。テレビでもネットでもなく、イデーの導きも神も何も信じないことによって向こうから新たな偶像がやってくるのだろうか?私は依然としてプラトンは正しいと信じる。しかし人格的イデーはない。三角関数は三角関数であり三角関数の神など存在しない。偶像は禁じられるほどに強く偶像を欲する民衆が一方にあることは民主主義の陥穽として覚えておいたほうがいい。
《今》のありありとしたリアリティの源泉がなんであるかを知る困難は、プログラム自身がプログラミング言語を知るような困難さを伴うと想像してみれば良い。意識の外側の規則を知るということと《今》を知ることが同じであると気づくなら、実存とか預言とかと言う様々な哲学的幻影によって《今》を奪うことの罪深さが自覚できる。常識とは違い、時間は相互作用する実体がないパラメータであるから実在しない。過去と《今》は相互作用を通じて連続してはいない。明鏡止水のレベルで言えばどの任意の状態を選択してもエントロピー差がゼロのはずであるし運動量に差が見られない状態に自発的変化も時間も存在しない。さらに言えば、存在は実在の抽象形式であるから時間以外にもパラメータが本来選択しうる。速度を変位距離を情報量で割り算しても存在を記述できる。
しかし一旦《今》を常識によって奪われれば、時間は連続して自動作用しているように見える。私達の直感は、ここにある状態であるということと、次の状態でもここに様々な可能性でありうるということを瞬時に予測処理している。この統合的感覚は脳が休みなく行っている自動処理であるが、要諦は、この自動処理という第三の直感の行為性(有限性)を自覚しつつ、時間が止まっているかのように静寂で、自在無限の世界(明鏡止水)に漕ぎ出すということにある。ないものであるからこそ創作されるべき自由を明鏡止水で確信する。私がここに言う自由は近代思想に受け入れられているような普遍概念ではなく、自分以外の思想と全く縁を持たない個のパースペクティブの拡張と捉える。私は『我々の存在は計算結果に過ぎない。』と考える。これが無の自覚である。無である個の意識による《意識》の創造を通じた《意識》実在の自覚であるとともに個の作用し得ない外部規則の自覚である。故に《意識》実在の証明は物理学の課題である。
過去の時間が次の時間を保証しているように運動に置き換えて我々が時間を思う(実在パラメータ化する)のは、我々が今幻想と引き換えに《今》の本来の意識世界を失うからだ。いわばそういうプログラミング言語が意識の外に存在する。だから安心して自己意識を統計確率という大虚に委ね、心と空集合の自己関係をリセットすることができる。《意識》の実在は時間の非実在不連続の発見によって哲学も物理学も個の世界も同時により広大な地平を獲得する。私達が思う今は私達の外側に諸関係の影響を受けた何ものかを入力した時に返ってくる写像を通じて今幻想が完成する仮の姿に過ぎない。「ひとまとまりの経験法則」これは私達自身f(x)も含め、宇宙が与える無限の函数の集合f(x)nと置き換えることが可能である。その意味でピエール・デゥエムの想定した物理理論の基礎となる世界の実相は直接見ることができない。宇宙の実相はいわば汎函数、ベクトル(実相)を入力引数とし、スカラー(虚像)を返す函数。この見解は汎神論すなわちライプニッツのモナド【xに対応するF(x)n】からなるという汎理論=単子論に近い。モナドに従うと、ますます宇宙の目的の把握から遠のいてしまうが、少なくとも時間は単なるスカラー虚像であると把握できる進歩がある。《意識》の実在は巨大なベクトル空間に還元される。そのような意味の汎神論である。
今幻想においては、確実な過去の上に不確実な今が乗っているようにしか見えないから連続の先に未来があるといつも思い、そこに自由があると信じていられる。しかし本当は私達が最後まで外部に向かって死を入力しないから真実の姿を見ることができずにいる。真の過去は何者とも接点のない非実在であり、未来は時間の延長ではない。《今》と関係する連続体は関数の総和として入力と出力の対となっているモナドである。だから安逸な自由と未来の雑音に《今》を奪われて惰性で生きていてはいけない。モナドに死を入力してもいいから 末路晩年、精神百倍働くべし。
本年還暦を迎える平成30年初日はこんなところ。
ライプニッツの単子論はこの種のプラトンの壁議論を乗り越えるために役立ちそうな立論と思う。単子論に哲学としての徹底が無いように見えるのは、どうしてもリアリティの裏付けを考えて行くとキリスト教に取り込まれたプラトン(神の遮蔽と救世の予定)と対立せざるえないという直感か確信が彼にあったからだろうと思う。
他方現代の物理学にはそのような悩みはない。ただなるべく「少数の原理から演繹された、出来る限り厳密に表象する」モナドの演繹を通じて、宇宙が実は自律展開する数学でできていることの証明が現代物理理論の目的ということになる。しかしながら人類は未だに慣性の法則を数理によって導出できていない。慣性系は在るものという前提がニュートン以来の物理学である。アインシュタインはただそれを重力等価という仮定で解釈しただけである。等価性原理という思考トリック抜きに一般相対性理論は成立しない。
ショーペンハウエルは「イデーとは、理性に向かってよりよい意識を示してくれるような概念の全体である。従って、よりよい意識を概念の全体から切り離すことはできない。」と概念とここに立つ意識を一体のイデーとして捉えた。等価性原理もまた現代物理学のイデーである。このイデーのお陰でより良い意識を一般相対性理論として示してくれた。しかし不足がある。
物理学の観点に欠けているのはより良い世界理解を探求していながら、概念の全体から意識を除外している点である。これはイデーの実在を発見過程から切り離すことによる概念的把握の破綻でもある。少なくともショーペンハウエルのイデーの要件を満たしていない。
ところがライプニッツはさらに一歩深く関数の総体と世界を汎理論の単位である元と写像からなる関数組み単子の階層的総合と考えた。理念の実在がここまでくると、いかに階層を工夫しようと、もはやライプニッツは現実の影にのみ存在する真理を神として隠しておくことはできない。それ故に彼の哲学は途絶している(ライプニッツの遠慮)。この時プラトンの呪いは一度克服されたがライプニッツを継承する西欧哲学が無かった。キリスト教の教義が壁となった。かといって仏教が優位にあるとも言えない。物質だけからなると思っている外部世界が実は<不生不滅>の<非自非他>意識世界であると直感するアプローチには体験性はあっても説得性がない。一人数学を奥深く考えた(生命を燃やして見ようとした)岡潔のような先駆者が外部世界が数理でできていることを喝破したのみであろう。
ニーチェは汎理論を継承したのではなく、イデーではなく真反対の個別、超人としての特異点に反語的答えを求めた。イデーが世界を多様化させ現実全体を創造したこと=『我々の世界はモナド(計算可能な概念)の集合であり、究極的に長い時間を経て一つのモナド=ビックバンの結果に所属している。なぜそのように考えるかというと、過程は略すが、宇宙が一つのモナドとは私たちに内包している素粒子が織りなす量子モツレの巨大な編み物である。私たちは巨大な量子モツレの結果自然発生した巨大グラフ計算機の計算結果の物質化の一つであって、その初期条件が一つのモナドを創っている事』(岡山)に確信の持てなかったこれまでのプラトン以来の哲学では、隠れたイデー(神)に頼れないので、一挙に圧倒的な人間を世界の原因とするしかない。ニーチェは特異点を発見した功績はあったが、彼の哲学は概念的把握で破綻している。
私は『我々の存在は計算結果に過ぎない。』(岡山)と考える。存在はその計算プリントアウト結果の『パラメータ時空にインクのように貼り付いている私達』(岡山)にすぎないと考える。そういう意味でニーチェと同じく私は間主義であり世界は無限に探求可能ではないという意味で虚無主義である。しかし哲学は概念的把握の探求とその情熱を捨てるべきでない。
『我々の存在は計算結果に過ぎない。』のだから、その大本の数学命題集成もまたクルト・ゲーデル(Kurt Gödel, 1906年4月28日 - 1978年1月14日)が不完全とした数学の相対化は当然の帰結であって、我々の存在は意識という仮象も含めて計算結果として宇宙に存在する任意の一つの真理に過ぎない。科学の世界の地動説(真理普遍性)がゲーデルによって根本から崩されたのは『宇宙が我々を中心としていない』という当然の帰結である。つまり「論証の算術化」というライプニッツのアイディアの論文化でもあるゲーデルの導入したゲーデル数というパラメータ工夫で、意に反してすべての論証の無矛盾が期待できないという結論に達したのがやっと20世紀のことだ。『ゲーデルの世界』(海鳴社)参照
『モナド連続体と現象を分離したライプニッツのやり方でパースを再構成すると、物質以外の次元を考えざる得ない。(故に)現在とは経験を発見する場、すなわち過去のモナド連続の上の断絶を生成することの時間的表現であり、実在の世界ではない。仮に今が過去という知識の連続体系にすぱっと差し込まれた断面であるならば、その微小直前である-αあるいは微小直後+αのαの絶対数量が現在の認識の差異、すなわち区別の根拠であれば、無限に小さなαが選べなければ、知識の連続体系を否定しなければならず、無限に小さければもはや微小直前と微小直後は現在とさえ区別できない。よって現在は経験するのではなく知識の連続体系つまりモナド連続体によって発見される仮構なのである。』(岡山)つまり仮象現実の我々が現在を含む『モナドを理解する唯一の方法は計算の数理=数学的理解を逆向きの創造方法の推測しかない。』(岡山)故に言葉によっては真理を知りえない。と言葉でいうのも不都合で変なので、沈黙せざるえない。
より簡単に言えば現在は真の意味では任意であり存在しない。ただモナド連続の最後の部分に承認される、「在現される」だけなのだ。
このように宇宙創造の初期に在現された現実に至る全体を計算し尽くすことによる、計算によるイデーの全体の予形成いう途方も無い前提を導入したら、神を前にして躊躇したライプニッツの遠慮が解決すると考えているのは今のところ私だけだろうと思う。
結論
つまりプラトンは正しく世界を見ていて、イデーは在現する宇宙完成以前に完成しているか、あるいは我々がイデーや数理に気付くのは全ての論理的証明とその投影が終わった後であるということ。こうして我々が宇宙の成り立ちに気付く意識自体も単子論で解き明かされるモナド連続体の一部である。
ライプニッツが哲学的に徹底できなかったのは当時の物理学のレベルではいたしかたのないことである。ライプニッツが見直される近年「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」クリプキ Wittgenstein on Rules and Private Language, 1982.、とする、可能世界論や可能世界意味論が盛んになってきた。
ライプニッツは当時としては先を行き過ぎていた。可能世界の概念を神の心に結びつけて用い、現実に創造された世界が「全ての可能世界の中で最善のものである」と論じたことが可能世界論の先駆であったと見直されているくらいだ。しかし私は神と出会わなくても真理到達は可能であると楽観することができる。その方法が計算科学である。計算科学がニーチェの打ち捨てたイデーを救済することになると考える。もはや神の心を包み込むように、人間の知性、あるいは機械の知性によって、教義と人格に閉じ込められた神=過去の人間の知性の無力を救済する時代、神々の時代である。格言啓示的にニーチェが神の死に到達する理由はニーチェがライプニッツの業績を忘れていたからだろう。神は死ぬのではなく、より広い可能性の中へ向かってイデアの一つとして救済されるのである。20世紀までの哲学はこのように超克されるべきだろう。
自己意識を統計確率という虚に委ね心の空との自己関係をリセットするというのは難しいことではない。気づくべきは、毎日毎秒自分が確率として意識が再生しているということである。例えば新機軸の創造は『「頭の中にあるうちにはき出しちゃいたい」。猛烈にパソコンをたたき始めた得居。5月の連休もプログラムのコードを打ち続けた。休日の作業でも疲労感はない。「まあ、趣味みたいなものですから」。新たなフレームワーク「チェイナー」はわずか10日ほどで完成した。得居はこの時、27歳。東京大学で修士課程を修了してまだ3年だった。』こういう具合なのだ。先に答えが見える。
呉も適菜も近代が求めてきた様々なイデー(自我の自立と民衆の理性に基礎を置く民主主義)をもはや無力な偶像と考えているのだろう。偶像はなくてもリアリティはそこにある。では人間は何を信じてこれからどのようにリアリティを承認して受け入れるのか。テレビでもネットでもなく、イデーの導きも神も何も信じないことによって向こうから新たな偶像がやってくるのだろうか?私は依然としてプラトンは正しいと信じる。しかし人格的イデーはない。三角関数は三角関数であり三角関数の神など存在しない。偶像は禁じられるほどに強く偶像を欲する民衆が一方にあることは民主主義の陥穽として覚えておいたほうがいい。