半七捕物帳で有名な岡本綺堂。有名と言っても、現代では岡本綺堂ではなく、名を残すのは作品のテレビシリーズの方かもしれない。彼もまた失われた言葉の達人である。この「三浦老人昔話」は川口松太郎に口説かれて、半七モノを再度書き始めるきっかけとなった。江戸の治安は町衆に任されて、小さな揉め事は町名主をしている大家が連座することになっていた。公式には庶民の事件記録のない時代、すでに明治のはじめである。江戸時代の話は老人から聞き取るか、その世代の一世代前が語った話を聞き写しするか江戸の世間の有り様を知る術がなかった。三浦老人とは十手持ちと親しかった、十ばかり年上の知人で下谷で名主をしていたご老人のことである。
半七捕物帳【一】 お文の魂 の冒頭より
女犯の僧などがまだ反道徳的だったころの
世間の話
わたしの叔父は江戸の末期に生まれたので、その時代に最も多く行なわれた化け物屋敷の不入いらずの間や、嫉ねたみ深い女の生霊いきりょうや、執念深い男の死霊や、そうしたたぐいの陰惨な幽怪な伝説をたくさんに知っていた。しかも叔父は「武士たるものが妖怪ようかいなどを信ずべきものでない」という武士的教育の感化から、一切これを否認しようと努めていたらしい。その気風は明治以後になっても失うせなかった。わたし達が子供のときに何か取り留めのない化け物話などを始めると、叔父はいつでも苦にがい顔をして碌々ろくろく相手にもなってくれなかった。
その叔父がただ一度こんなことを云いった。
「しかし世の中には解わからないことがある。あのおふみの一件なぞは……」
おふみの一件が何であるかは誰も知らなかった。叔父も自己の主張を裏切るような、この不可解の事実を発表するのが如何にも残念であったらしく、その以上には何も秘密を洩もらさなかった。父に訊きいても話してくれなかった。併しその事件の蔭にはKのおじさんが潜んでいるらしいことは、叔父の口ぶりに因よってほぼ想像されたので、わたしの稚おさない好奇心はとうとう私を促うながしてKのおじさんのところへ奔はしらせた。わたしはその時まだ十二であった。Kのおじさんは、肉縁の叔父ではない。父が明治以前から交際しているので、わたしは稚い時からこの人をおじさんと呼び慣ならわしていたのである。
わたしの質問に対して、Kのおじさんも満足な返答をあたえてくれなかった。
「まあ、そんなことはどうでもいい。つまらない化け物の話なんぞすると、お父さんや叔父さんに叱られる」
ふだんから話し好きのおじさんも、この問題については堅く口を結んでいるので、わたしも押し返して詮索せんさくする手がかりが無かった。学校で毎日のように物理学や数学をどしどし詰め込まれるのに忙がしい私の頭からは、おふみという女の名も次第に煙りのように消えてしまった。それから二年ほど経たって、なんでも十一月の末であったと記憶している。わたしが学校から帰る頃から寒い雨がそぼそぼと降り出して、日が暮れる頃には可なり強い降りになった。Kのおばさんは近所の人に誘われて、きょうは午前ひるまえから新富座見物に出かけた筈はずである。
「わたしは留守番だから、あしたの晩は遊びにおいでよ」と前の日にKのおじさんが云った。わたしはその約束を守って、夕飯を済ますとすぐにKのおじさんをたずねた。Kの家はわたしの家から直径にして四町ほどしか距はなれていなかったが、場所は番町で、その頃には江戸時代の形見という武家屋敷の古い建物がまだ取払われずに残っていて、晴れた日にも何だか陰かげったような薄暗い町の影を作っていた。雨のゆうぐれは殊にわびしかった。Kのおじさんも或ある大名屋敷の門内に住んでいたが、おそらくその昔は家老とか用人とかいう身分の人の住居であったろう。ともかくも一軒建てになっていて、小さい庭には粗あらい竹垣が結いまわしてあった。
Kのおじさんは役所から帰って、もう夕飯をしまって、湯から帰っていた。おじさんは私を相手にして、ランプの前で一時間ほども他愛もない話などをしていた。時々に雨戸をなでる庭の八つ手の大きい葉に、雨音がぴしゃぴしゃときこえるのも、外の暗さを想わせるような夜であった。柱にかけてある時計が七時を打つと、おじさんはふと話をやめて外の雨に耳を傾けた。
「だいぶ降って来たな」
「おばさんは帰りに困るでしょう」
「なに、人力車くるまを迎いにやったからいい」
こう云っておじさんは又黙って茶を喫のんでいたが、やがて少しまじめになった。
「おい、いつかお前が訊いたおふみの話を今夜聞かしてやろうか。化け物の話はこういう晩がいいもんだ。しかしお前は臆病だからなあ」
岡本綺堂賞もあったようだが、そういう本物が失われて、直木三十五のようなものが賞に残っているというのは、なんという皮肉だろう。武士道がかっている作品はこてんぱんに破壊されたんだろうね。作家として世間の重石がどんなに苦しかったろうと思う。青空文庫にたっぷり公開されているので楽しみ。ただしこれらの作品は横書きで読むもんじゃない。
三浦老人昔話 より
怪談のようでも在り
由来がたりにのよう
でもあり、
新五郎は聴かない振りをして、黙って兄を抱きすくめているので、阿部さんは振り放そうとして身を藻掻きました。
「えゝ、放せ、放せ。早く刀を持って来いというのに……。刀がみえなければ、槍を持って来い。」
さっきの云い渡しがあるから、新五郎は決して手を放しません。兄が藻掻けば藻掻くほど、しっかりと押さえ付けている。なにぶんにも兄よりは大柄で力も強いのですから、いくら焦っても仕方がない。阿部さんは無暗に藻がき狂うばかりで、おめ/\と弟に押さえられていました。
「放せ。放さないか。」と、阿部さんは気ちがいのように怒鳴りつゞけている。その耳の端では「置いてけえ。」という声がきこえています。
「これ、お幾。兄さんは蝮の毒で逆上したらしい。水を持って来て飲ませろ。」と、新五郎も堪りかねて云いました。
「はい、はい。」
お幾は阿部さんの手から落ちた茶碗を拾おうとして、蚊帳のなかへからだを半分くゞらせる途端に、その髪の毛が蚊帳に触って、何かぱらりと畳に落ちたものがありました。それは彼の黄楊つげの櫛でした。
「お話は先ずこゝ迄です。」と、三浦老人は一息ついた。「その櫛が落ちると、お幾はもとの顔にみえたそうです。それで、だん/\に阿部さんの気も落ちつく。例の置いてけえも聞えなくなる。先ず何事もなしに済んだということです。お幾は初めに櫛を貰って、一旦は自分の針箱の上にのせて置いたのですが、蝮の療治がすんで、自分の部屋へ戻って来て、その櫛を手に取って再び眺めているところを、急に主人に呼ばれたので、あわてゝその櫛を自分の頭にさして、主人の枕もとへ出て行ったのだそうです。」
「そうすると、その櫛をさしているあいだは美しい女に見えたんですね。」と、わたしは首をかしげながら訊いた。
「まあ、そういうわけです。その櫛をさしているあいだは見ちがえるような美しい女にみえて、それが落ちると元の女になったというのです。」と、老人は答えた。「どうしてもその櫛になにかの因縁話がありそうですよ。しかしそれは誰の物か、とう/\判らずじまいであったということです。
その櫛と、置いてけえと呼ぶ声と、そこにも何かの関係があるのか無いのか、それもわかりません。櫛と、蝮と、置いてけ堀と、とんだ三題話のようですが、そこに何にも纏まりのついていないところが却って本筋の怪談かも知れませんよ。それでも阿部さんが早く気がついて、なんだか自分の気が可怪おかしいようだと思って、前以て弟に取押方をたのんで置いたのは大出来でした。左もなかったら、むやみ矢鱈に刀でも振りまわして、どんな大騒ぎを仕出来しでかしたかも知れないところでした。阿部さんはそれに懲りたとみえて、その後は内職の釣師を廃業したということです。」
岡本 綺堂
作家名読み: おかもと きどう
ローマ字表記: Okamoto, Kido
生年: 1872-11-15
没年: 1939-03-01
人物について: 劇作家、小説家。本名は敬二、別号に狂綺堂。イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、敬之助の長男として、東京高輪に生まれる。幼くして歌舞伎に親しみ、父の影響を受けて英語も能くした。東京府立一中卒業後、1890(明治23)年に東京日日新聞に入社。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、24年間を新聞記者として過ごす。この間、1896(明治29)年には処女戯曲「紫宸殿」を発表。岡鬼太郎と合作した「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」は、1902(明治35)年に歌舞伎座で上演された。江戸から明治にかけて、歌舞伎の台本は劇場付きの台本作家によって書かれてきたが、明治半ばからは、坪内逍遥ら、演劇界革新の担い手に新作をあおいだ〈新歌舞伎〉が台頭する。二世市川左団次に書いた「維新前後」(1908年)、「修禅寺物語」(1911年)の成功によって、綺堂は新歌舞伎を代表する劇作家となった。1913(大正2)年以降は作家活動に専念し、生涯に196篇の戯曲を残す。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物を原著でまとめて読んだのをきっかけに、江戸を舞台とした探偵小説の構想を得、1916(大正5)年からは「半七捕物帳」を書き始めた。
名前がにてる野村胡堂はもっと若いと言っても10歳ほど
野村 胡堂[注釈 1](のむら こどう、1882年(明治15年)10月15日 - 1963年(昭和38年)4月14日)は、日本の小説家・人物評論家[2]。『銭形平次捕物控』の作者として知られる。音楽評論家としての筆名はあらえびす[2][3][4][5][6][注釈 2]、野村あらえびす[8][9][10][11]とも。本名:野村 長一(のむら おさかず)[2]。娘は作家の松田瓊子[12]。
ペンネームの由来
https://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/57221_57404.html
「三十年も前の話、新聞社の給仕が(その頃はコドモと言った、今日は少年社員と言うそうだ)私の卓の前で電話を取り次いでいて、「ナニ、野村コゾウ? そんなコゾウはいませんよ」と、電話をガチリと切ったことがある。」