自明でないことを論証するには例えば背理法を用いるが、自明であると仮定した事が矛盾を導く唯一の誤りであることを論証するには、自明とした問題と答えのセット仮説が必要である。しかしそのセットは疑問が生じる前には自明が支配しているために主格の間の緊張の形成がない、すなわち対象が存在していない。つまりこの論証の発端は、直感的推量が必ず関与している。ゆえに推量計算の資格が我々の何に由来するのかを示さなければならず、これ以上前に進める事ができなくなる。
日本人の巫女的幻視や他界と現世を行き来する伝統は決して原始的な風俗ではない。吉本隆明は現代的な〈他界〉に共同幻想論を展開した。吉本隆明の限界は共同幻想の背景論理を西欧哲学に求めたことにある。現代的な〈他界〉は因果論の軌道には乗せられない。なぜなら死を人間の終わりと考える論理では〈他界〉は捉えきれないからだ。
我無かりせば、想わざりきとならない世界(「我想う故に我あり」が偽である)があることを措かなければこの問題は解けない。その理由は西欧哲学が自明についてショーペンハウウェルより先の学的論究の対象としないことにある。自明という概念は端緒が難しい。これはわたしが見出した事だが、通常人間の精神は疑問のない状態の自明を信ずる感性の摂理によって疑問の台頭を封印している。故に自明でない事を指し示すためには疑問と答えのセットが端緒に必要とされる。唯物論では単純に現実反射で処理するが、実は乗り移りである。それほど簡単ではないのは、答えの無いところに疑問を定立できないという人間の限界があり。凡庸な人間に浮かぶ疑問はどこかで論理を答えとして与えられている場合に限る。非凡な天才でも論理の肉が付いていない答えが先に見える。論理は後からやってくる。洗脳とは前者のことであり、宣伝とは多数に弱い人間の精神に突け込んだ答えの刷り込みである。この日本という国では世間から独立した個人の知識というもは抱えているだけで苦痛なものだから、世間から独立した個人の疑問というものも成立し難い。だから一旦世間が許容した疑問と答えのセット(汚職に汚れた政党政治家は高潔な皇統理想を持つ軍幹部に置き換える、明治以来の旧弊はあたらしい民主主義の形式に置き換える、つい数か月前まで大切だった教科書に墨を入れる)ことが自動化装置を始動したかのように急激にはじめられる。
自明の封印を解くには疑問と答えのセットを端緒に必要とするのはなぜか?ショーペンハウエルも自明の条件を探求したが、それ以上は進めなかった。リアリティの中にはまた別のリアリティが階層的に隠れていて自明が崩壊してしまうことを垣間見たからだ。なかなかに難しい問題である。
日本人の伝統精神は原始的で劣っているのではなく、垣間見る為に、場所的で根源的なのだ。その先の世界の根源的理解を人間に物語譚を通じて設問し幻視の再現を求めている。現代的な〈他界〉とは自己分裂の強制であり戦争でありリンチであり消極的自死である。オウムとて同じ。解脱と言い換えた〈他界〉を事実上の巫女であるアサハラに言わしめているという点で信教集団の非常の利害を実現させた。このように度々先祖返りして同じような〈他界〉を別の形で再生産しているのが日本社会の構造である。
私が失敗と考える吉本隆明の共同幻想論を現在に再構成してみる価値があると考えるのは、彼の失敗の理由を深く掘り下げ《普通の精神の思想家》をうみだすことが今でも可能であるからだろうと思う。