世界が静止しているのであればヴィットゲンシュタイン見解は正しいが、動いている世界は可能性から始まる。事実はその実証に過ぎない。
論理空間の中の諸事実こそが世界
{事柄 事態}可能性=論理空間> 事実の成立
{像と事実の一致 写像}写像形式 論理形式のバリエーションの写し取り 抽象化 数学 論理像 可能なものは思考できる。
{像の中の命題} 思考は有意味命題 日常言語では思考できない。要素命題からなる言語体系だけが明晰な語りうる世界。
記号化された命題p,a 真偽分岐 真偽函数 論理定項は代理(語り)できるものではない。
沈黙の淵に何かぶくぶくと湧きだすものが見えたとしても、見えたと語るべきだろうか。見えるという重大な一言の中に、わかるという有限の一言が含まれている時にそのシャボン玉は消えてしまいそうになる。もはや最初のぶくぶくではない。
わかるという薄皮が世界を包むかのような錯覚(写像形式)がこの世のすべてに思う。その上に立てば語り得ないのはほとんど生きて目にすること全体(を写しとる作用自体)を指している。
以下は物理学上の写像形式’を外胞する超写像形式(空間)の例。
回転によって自乗の和が保たれる空間はユークリッド空間と呼ばれるが、
(ct′)2 − x′2 = (ct)2 − x2 (112)
差が保たれる空間はミンコフスキー空間 (Minkowski space) と呼ばれる。
ゆえに沈黙せざる得ない。しかし見えると言う単純な感性にも変化が含まれている。可能性が潜在するゆえに変化が顕れて脳裏に残ることで見えるとなる。事実の成立のみから人間の認識は始まってはいない。むしろ事実の変化である差分を見て見えるとなる。動物感性は天然の差分アナライザーである。故に写像形式は未だ見えざるものに向けて拡張すべきなのである。