公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「山上宗二記」 やまのうえそうじき の気骨

2023-03-18 12:21:00 | 今読んでる本

上宗二は信長・秀吉の時代の茶匠、利休から20年も学んだ弟子であった。

一期一会という概念を茶の湯に残した人でもある。山上宗二の時代、珠光旧蔵の捏造道具がもてはやされると、美が富をもたらし、つまり侘び茶の原型村田珠光の茶の湯道具とは関係のないブランドビジネスになる。さしずめ「山上宗二記」は田中康夫の「なんとなく、クリスタル」*の室町戦国の先駆けか。当時は美意識は命を賭ける一仕事だった特殊な時代にあって、最先端の人々には皆桁違いの気骨がある。

曰く、


茶の湯の修行は十五歳から三十歳頃までは万事師に任せて行い、三十歳から四十一歳までは、自分の分別を出す。しかし、その場合は、十のうち五だけにせよ。四十歳から五十歳までの十年間は、師と全て逆にする。


という姿勢だったので、近年は利休の茶の湯と山上宗二記(やまのうえそうじき)は別系統の茶の湯とみなされている。

とはいえ、秀吉の下の両者の運命は共に秀吉の不興をかった処刑で終わっている。

どんな人であったか


天正18年(1590年)の秀吉による北条氏攻め、いわゆる「小田原征伐」の際には当初、小田原城に籠城する北条勢と共にあったが、包囲が始まって数日後の4月8日、茶道を通して交友があった皆川広照が手勢と共に城を抜けて秀吉の包囲軍に投降する際、宗二も同行した。4月10日に利休の仲裁により秀吉との面会が叶った。秀吉は宗二を赦免し再登用しようとしたが、茶席において仕えていた亡き北条幻庵に義理立てしたため秀吉の怒りを買ったとされ、耳と鼻を削がれた上で打ち首にされた。享年46。箱根湯本の早雲寺に追善碑がある。


北条幻庵(北条早雲の末子)はそれほどの人であったようだが、秀吉が異常なのか山上宗二が異常なのか理解を超えている


*1980年一橋大学卒業予定日の直前に停学処分を受け留年し、そのあおりで日本興業銀行からもらっていた内定は取り消された。この停学期間を利用して、『なんとなく、クリスタル』は執筆された。だから1981年1月22日で4年生(1976年入学それまでは駿台予備校生)。100万部のヒット。


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