公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「読書について 知力と精神力を高める本の読み方」 ショウペンハウエル ・著 渡部昇一 ・編訳

2015-10-04 08:06:50 | 今読んでる本
『カント 、ヘ ーゲル 、ショウペンハウエルという流れは 、ドイツの運命とも関係があるといえるかもしれない 。プロイセンを隆盛に導いたフリ ードリッヒ大王の時代はカント哲学が主流だった 。フリ ードリッヒ大王は自軍の将校たちにカントの講義に出るよう薦めたほど好きだったらしい 。カントもまた 、フリ ードリッヒ大王を啓蒙の君主として非常に重んじた 。そして 、プロイセンが栄えに栄える時期になると 、今度はヘーゲルの世界精神が合っていた 。しかし 、フランス革命の影響もあり 、ドイツで革命が起きたりしてプロイセンの体制がやや崩れた 。帝国として発展する力強さが薄れると 、ヘ ーゲル哲学が流行らなくなる 。こうして世の中の雰囲気が変わり 、ペシミスティックなショウペンハウエルの哲学が受け入れられる土壌ができたのである 。』

渡部昇一はこう捉えるが、私はショウペンハウエルがペシミスティックな哲学だとは思わない。まっすぐにこの世を見ればこの世に善も悪も相対的事象であり、真実の姿は地獄である。地上の善悪にいつまでも同じ生存条件は続かない。人生の良い時の喜びも、失う時の悲しみを深くするだけの罪である。だからと言って人間は虚無に落とし込まれて何もしないのではない。われわれには生への執着を断ち切ることはできない。それが人生の痛みだ。だから妄想と妄執によってこの世の痛みを和らげようと努力する。哲学の役割はこの世の痛みを根底から和らげることにある。確かにショウペンハウエルには仏教との親和性がある。それがデカンショ節をもじったデカルト、カント、ショウペンハウエルが旧制高校の戯れ唄になったのだろう。

ドイツ観念論の順番で言えば、カントに続くのはショウペンハウエルではなく、ヘーゲルである。鎮痛剤としてヘーゲルの世界精神が大いなる妄想なら、ショウペンハウエルの哲学は妄執の自覚という究極麻薬である。妄執の自覚と権力構造の肯定は水に油。革命非常時といえども大衆の支持は得られない。唯一究極の痛みを見た預言者ニーチェに理解される経緯の方が道理にあっている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 愛のあるビジネス | トップ | 善の研究 西田幾多郎 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。