若い時の時間はあっという間に過ぎて行く。
一時を惜しんで勉強していた
後ろの席の学友は道に迷うことなく
に進み
その道のトップの大学教授となった。
自分には大学後の将来については、目標は憧れと区別のつかないサケの遡上フィールドワーク研究者だった。
そのためにはやはり大学院に行かなければだったが、その道の選択は最初から家庭の稼ぎでは無理だった。
それでも地元釧路に帰ったら水産業の仕事があるだろうぐらいの曖昧な覚悟だった。しかし人生というものはわからない
親が相談なく住居を茨城県に移してしまい、「親孝行」プランは二年で大きく崩れた。そこまで期待した大学だったが、学術的には学部丸ごと無気力な時代だった。
私が出会った大学の教授たちは、アルコール中毒や精神病の愛嬌はあった。だが大変失礼だが、この写真に写る高校生徒たちよりもずっとレベルの低い志の人々だった。
私は大学に授業料を払ってまでスターリンの考えた嘘を教えられていることに我慢できず、授業中に手をあげて教授の間違いを糺して気晴らしをしている嫌な学生になることにした。
自然派サークル活動でも気の紛れない無目標な暇人の苦役。
よほどこの大学をやめようかと、あるいは仮面浪人を選ぶかなどと思いつめていた。あの事件が起こるまでは。
47年経った今でもその頃の悪夢を見るのだ。
今にして思えば大学を
やめずに救われたのは
寮の同室の明るい仲間達(写真)のおかげだった。
しかし大学を去った後輩(中央後ろ?)の告白には、自分の忘れていた痛みで胸がつかえ、未熟な自分には結局かける言葉もなかった。