水郷日田へ。
平野五岳ゆかりの真宗大谷派専念寺を訪れたいと、思い立ちました。
日田で頭に浮かぶのは、
「進撃の巨人」ではなく
(ファンの方にはごめんなさい)
広瀬淡窓の咸宜園、亀山公園、三隈川の屋形船、日田下駄等々…
道路の案内板を頼りにまず
咸宜園(かんぎえん)跡を訪ねました。
「咸宜園」は江戸時代
天領として栄えた日田の豪商の息子 広瀬淡窓(ひろせたんそう)が開いた私塾です。
淡窓は入塾してくる門下生を
咸宜=みんなよろし とし一人ひとりの個性や意志を尊重する教育理念を塾名に込めたそうです。
…みんな違ってみんな良い…ですねぇ。
素晴らしいなあ‼︎
初代の淡窓から十名の塾主により明治三十年の閉塾までに、全国からなんと五千名を超える門下生が育ち活躍した分野も多岐に渡ります。
咸宜園は
当時の日本を代表する私塾の一つで
備前の閑谷(しずたに)学校、水戸の弘道館、栃木の足利学校、と共に日本遺産に登録されています。
閑谷学校、弘道館、足利学校はそれぞれ
建物が保存されているそうですが、
咸宜園では、塾主の住まい秋風庵と、淡窓の書斎であった遠思楼の二つの建物が復元されただけの広い跡地でした(予算が無いそうです💧)。
秋風庵
丸窓もこじんまりした建物の容姿に好感♡
遠思楼
これが、二階の丸窓の部屋。
一階には蔵書を保管する棚がたくさん設てありました(照明がなく暗かったです)
咸宜園跡地で係の方の丁寧な説明を聞いた後、豆田町に向かいました。
金曜日の昼下がり、
豆田町はまだ大勢の人が帰って来てるとは言えません。
静かです。
混んでいるのは苦手だけれど
少なすぎるのは、旅の気分の盛り上がりも少なくて…。
などと言いながら
静かな豆田町の写真を撮ってなくて🙇♀️
街の一角「草八」さんで草八ランチを頂きました。棒ダラがついていましたが、
日田ならではの保存食なのかな? と勝手に考えたりしました。
今の世の中そんな事はない?…
暑かったのでざる蕎麦にしたかったけれど、ランチに惹かれて汗かきかき頂きました😊。
豆田町をすこし歩いて
さて、五岳上人ゆかりの専念寺へ。
日田はお寺さんの多い町です。
三隈川近くの亀山町にありました。
五岳が、画を描いて渡すこともあったと、聞いた気がしますお豆腐屋さんも近くに見かけました。
境内、
高すぎて俄には目に入らないほど高い
五岳上人の銅像がありました。
大切にお祀りされ地域の方に敬われていた事が感じられます。
五岳上人の書による碑が多く建てられています。
ところで五岳上人、江戸時代文化6年3月26日に生まれました。
八才でこのお寺の養子となりのちに住職となった方なのですが、五岳も実は咸宜園で学んでいました。
お寺境内のお墓
平野五岳は
「三絶僧」と言われ、詩 書 画 に優れた才能を発揮しました。
当時の詩と言えば漢詩、画は南宗画、書は文字どおり書道です。
境内、枯山水(?)の八つ橋
話は飛びますが、
五岳の画は、日田県の初代県知事松方正義を通して大久保利通や木戸孝允にも
珍重されました。
明治6年のウィーン万博に要請され出品。画はもちろん、功名心のない高潔な五岳の人柄は明治天皇も好意を持たれたと言います。明治9年には画が献上されました。
作者の人柄、人生観などが色濃く反映された詩、書、画には、志しや強さ、高潔な人柄が感じられ
幕末の武士、明治の高官からも好まれました。富豪からは高額で要請されることもありましたが、それには応じず、困った人たちには快く画を描き渡したと言います。
五岳が生きた江戸の60年と明治の25年は天と地がひっくり返るほどの激動期。
僧籍に身を置きながら名利に奔走する時流に背き、詩 書 画の世界に遊んで、
「いざ西にお先に出かけます そろそろござれあとの連中」
と、辞世の句を詠み
満足しきって筆を置き、襟を正し、手にお数珠を修めお静かに眠るように往生を遂げられたということです。
「人生貴無事」の生き方を全うされた五岳上人。
今日においても「五岳さん」と皆に親しまれています。
(一部「平成23年度 日田市先哲展」の資料を抜粋した箇所があります。)
・
夕方近く、
亀山公園に向かいました。
大木が何本も大切に育てられ
ゆっくり満喫したい場所です♡
ところが、遠くで雷の音が聞こえて来て
「雷鳴が聞こえたら頑丈な建物に避難!」
…急いで退散しました。残念‼︎
筑後川支流 日田三隈川
2年前の豪雨で、こんな屋形船が無惨に流された映像が思い出されました。
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表紙画像は、
夕方小雨に煙る三隈川河岸。
日田市!
行ってみれば、まだまだ観て廻りたいところが残りました。
それは又次の機会に^ ^。
ブログは長くなってしまいましたが。
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