みなさま、ごきげんよう。
もう来週末にはジュリエット通りの東京公演が終わるのですね。
次の大阪までの間にアルバム発売にライブ初日だもの。
章ちゃん、お休みなんて無いですよね?
いつアルバムの収録したの?と思うくらいスケジュールが詰まっていますよね。
身体も神経も酷使していそうだけど、30歳のタイミングで章ちゃんのポテンシャルを活かせる貴重な体験ですね。
これをこなしてしまった安田章大さんは、きっとこれまで以上に魅力的になるんじゃないかと想像しただけで震えてしまいます。
ちょちょちょちょちょ、章大さん。どこまで素敵になっちゃうの(はあと)
さて、ちょこっと書き残した事があるのです。
私なりの。
ジュリエット通りが始まる前。
雑誌のインタビューで章ちゃんが語っていた「誰も見た事の無い新しい安田章大」
その言葉通り、確かに新しい「安田章大」に出会う事が出来ました。
ストレートプレイの難関な内容。
これまでの章ちゃんの舞台とは違いますよね。
ジャニーズファンの為の・・・という要素は一切無いと言っていい。
座長で主演だけど、章ちゃんにとってはもしかすると、ウーンなんだろうアウェイと言ったら言い過ぎだけど、同世代の仲間とお仕事するのとは違う環境。
それは舞台に立つ章ちゃんだけでなくて、その舞台を見ている私達も似たような感覚でした。
こんなに頭を使う舞台は初めてだったから
なかなか無いと思いますよ~50ちょい手前での人生初の出来事って!
新しい物に触れるチャンスを章ちゃんに与えて貰う事が出来て幸せだな~と思います。
トラストいかねぇ以降に章ちゃんを好きになった人にとって、初めてのソロの舞台が「ジュリエット通り」というのは、私が思うに大変だっと思います。
一幕が終わると場内がざわつく。聞こえてくるのは「分からない」という単語。
きっとね、分かりやすい舞台の方が、分かりやすくもっと章ちゃんを好きになったんじゃないかと。
理解する事で好きも深まるかな。
分からなくて、もっと知りたいってなるかな、どちらでしょうか。
「818」も「カゴツルベ」も「トラストいかねぇ」もいい意味で、可愛い章ちゃんとカッコいい章ちゃんと、コロコロと変わる表情も、知り得る章ちゃんが全て詰まっていたように思えます。
その点、ジュリエット通りには全ての章ちゃんではなく、新しい安田章大が存在していたのですから。
そういう点でも難しいのよね。
何度か見てみないと分からない部分もあったりするから。
それから、観劇のマナーについてね。
ライブしか知らないお嬢さんが初めて来たっていう方も多かったと思うんです。
一度でも舞台を体験したら、
「ライブとは違うんだな」
と、気づくはずです。
気付かなかった人は誰かに聞くとか、教えてもらいましょうね♪
そうやって色んな事を知って素敵なレディになる切っ掛けが大好きな章ちゃんの舞台だったら、それは素敵なことじゃない!?
(私がお友達から聞いたびっくり話は、本当にびっくりしましたよ~。)
「ジュリエット通り」で、へえ~と思ったのは『笑いの起こる場面』です。
これが毎回違う。
作者が意図して笑わせようとしているのか否か。
その見極めも難しい。
えーっ、ここで笑う?と思う事がありました。
私の印象に残っているのはボタンがトモの足を掴んで離さない場面。
絵面は確かに面白く笑いを誘うかもしれません。
大人の女性が若い男の足を掴み離さない、いや離せない。
そう、「何かを失う様な気がして」離せないんだと思うんです。
何かの中には娘のキキの事も含まれていて、ひょっとして何かはキキの事を指していたのかもしれません。
同じような年頃の娘を持つ母としては、娘の成長は嬉しいけれど、でも娘が自分の懐から巣立っていくのは寂しい。
ましてや、娼館で働きながら必死で育てて来た娘。娼館で働く母を軽蔑した事は無いと言う娘。
そんな娘がどこかへ行ってしまう。
そんな場面だと私は感じました。
どこかへ行こうとする娘を引きとめたい。
でも、どうしていいのか分からず狼狽している。
そういう切ないシーンだと思ったんです。
だから私は笑えなかった。
滑稽に写るボタンの姿の中に自分を見たような感覚もあったから。
この場面で高らかに笑うお嬢さん達。
客席でも母世代と娘世代の感情の乖離が感じられた場面でした。
どこで笑おうと、どこで泣こうと見る人の自由だと思いますけども。
ジュリエット通りは悲劇だと書きました。
私が思うに幸せになった人がいないから。
後妻のスズと暮らす家に愛人のスイレンを招き入れる田崎。
太一の母も含めて、結局3人とも幸せにはしてあげられていない。お金はあるけど、しょうもないお父さんですよね。
スズさんも後妻に入ったはいいけれど、スイレンが家にやって来て結局は田崎家を出て行く。
後妻のいる家に入って行くスイレンも居ずらいでしょうし。
その状況を離れから見ている太一も複雑ですよね。
そんな4人が「家族ごっこ」をする場面があります。
4人でエアカレーライスを食べる食卓の場面です。
茶の間のテーブルの上には何も無いんだけれど4人は黙々とカレーを食べる「フリ」をする。
家族や家庭の実状が無い事の象徴なのかな?
カレーを食べながら昔話をするという有りがちな家族の姿も、田崎家では机上の空論。
それがエアカレーだとすると、この場面も悲しいですね。
後に太一が一緒にカレーを食べたのも嬉しかったと泣きながら告白するのですが、平凡な家庭のひと時を持つ事が出来なかった4人にとってはエアカレーもまた滑稽ではあるけれど、悲しい場面なのではないかしら、と感じました。
親子3人で観劇した帰りに、パスタを食べながら色々と話した時。
「(舞台に関して話す)こういう場が存在する事も狙いなのかもしれないね。」
と息子が言ってました。
なかなか見応えのある、深い舞台でございました。
章大さん、ありがとう(はあと)