22年前のある日、40代のある神父は、一人お酒を飲みながら、固い決意を文章にしていた。国連がベトナム難民の受入国に日本を選び、それを受けた日本政府は民間にこれを委託した。神父は覚悟を決めて手を上げた。
粕川村に隣接した前橋市のはずれの丘、林の土地を授かった。当時の仲間たちと木を切り、まず小さな手作り教会を建てた。その後、次々と仮住まいの家を皆で作り、そこへ20年間で2万人以上のベトナム難民が、自立するまでの間、通り過ぎていった。一人ひとりが大変な困難を乗り越えて生きてきた人たちだった。もちろん、自立できず、神父のところで長く暮らす人もいた。自殺する人もいた。気候の違う日本で、冬、ストーブの使い方を誤り、火事で亡くなる人もいた。ベトナムに帰りたいと、やっとの思いで帰国すると、十人中十人とも、母国の家族は彼らを受け入れなかった。余りのショックに傷付き、日本に戻ってからは生活が荒れ、ノイローゼになる人も多くいた。
神父は志を立ててから22年、多くの人を励まし続けて生きてきた。今、少々、精神的に疲れ、心をいやしている。他愛に満ちた行動に、その一生を捧げた「あかつきの村」の創始者、石川神父さんである。
(坂口せつ子)
(高崎市民新聞 2001年2月1日)
粕川村に隣接した前橋市のはずれの丘、林の土地を授かった。当時の仲間たちと木を切り、まず小さな手作り教会を建てた。その後、次々と仮住まいの家を皆で作り、そこへ20年間で2万人以上のベトナム難民が、自立するまでの間、通り過ぎていった。一人ひとりが大変な困難を乗り越えて生きてきた人たちだった。もちろん、自立できず、神父のところで長く暮らす人もいた。自殺する人もいた。気候の違う日本で、冬、ストーブの使い方を誤り、火事で亡くなる人もいた。ベトナムに帰りたいと、やっとの思いで帰国すると、十人中十人とも、母国の家族は彼らを受け入れなかった。余りのショックに傷付き、日本に戻ってからは生活が荒れ、ノイローゼになる人も多くいた。
神父は志を立ててから22年、多くの人を励まし続けて生きてきた。今、少々、精神的に疲れ、心をいやしている。他愛に満ちた行動に、その一生を捧げた「あかつきの村」の創始者、石川神父さんである。
(坂口せつ子)
(高崎市民新聞 2001年2月1日)