ベリーダンススタジオ★☆★ぱわふるマドンナ★☆★ 主宰・坂口せつ子 

ベリーダンスにヨガ、深層美容術、トータルであなたの人生をサポートします。新しい自分を再発見してみませんか。

すてきな命 vol.23

2007-04-10 23:52:54 | すてきな命
 父親は銀行の管理職、両親は新藤洋一を、エリートコースに進ませるため、進学校の近くに引っ越しをした。「今まであなた方の言うこと聞いてきた。今後は自分の後からついてきて下さい」。彼は大学に行かずに働いた。通信会社に就職して十年、東京での空気、水にはじまる環境の悪さと、未来への夢を見いだせなかった彼は退職し、石川県の有機無農薬農場で研修を受けた。石川県では、農場直営のレストランで料理長として修行をし、独特の料理人魂を身につけた。その後、祖母の住んでいる群馬の吉井町に「百姓」のできる土地があったため、そこに住み、「作農料理人」としてエネルギーと食の自給をめざし、活動してきた。太陽パネルによる電気はもちろんのこと、ニワトリ百五十羽を平飼いし、毎日産む七十個のタマゴの加工販売からスタートした。そしてそのフンを活かすため、バイオガスの研修に行き、群馬県で第一号、全国でもまだ十機しか稼働していないバイオガスプラントを造った。現在、土日曜営業のレストランと、家のガスに活用している。試行錯誤のうちにはっきりしてきた「自給」。これを危機に瀕している全国に広げていくことを使命と感じている。理想を実行していく男はカッコイイ。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞 2001年10月4日)

食の安全と環境は「すてきな命」の基本です!
せっちゃんの明るい「かきくけこ」

すてきな命 vol.22

2007-04-10 23:51:04 | すてきな命
 片岡町にある私のスタジオの地主である八十四歳の山田貴美造さん。五十数年前、中国での警備隊長をしていた。二十二歳だった。山田さんは中国人の人たちに話した。「中国は兄、日本は弟、ケイテイだ。中国から日本にいろんな文化が流れてきた。その兄弟が戦わなければならないのは、嘆かわしい」と。そんな山田さんに、彼らはおまんじゅうや食べ物を持ってきてくれ、親しんでくれた。その部隊を離れる時、の自衛団、警察、村人の三団体から感謝状を受けた。日本兵のどんな軍職の人も受けられない、山田さんの人格ならではの感謝状だ。

 山田さんは、その後何万人という人が死んだニューギニア行きを命ぜられた。死を覚悟して、一晩中泣いた。八万人近くの日本兵の食糧は現地調達だった。現地人の人たちが登って大切に食べていたココヤシの木を、日本人は登れないため、根本から切ってしまい、その、芯まで食べりもした。豪州兵が来ると、武器が何もないため、山へ逃げた。皆、死んだ。日本に帰って来られたのは数十人だった。

 いつの世も、権力ある人たちに、人々は翻弄される。テロ行動や戦争のない世界を造るのは、暴力ではなく、山田さんのような、相対する人々や国、文化への敬意ではないだろうか。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞 2001年9月20日)

せつ子は日本の文化も諸外国の文化も愛しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」

すてきな命 vol.21

2007-04-10 23:48:59 | すてきな命
 インドの青年映画監督が会わせてくれると言っていたプーラン・デヴィが、この七月に暗殺されてしまった。カースト制度の最下層にうまれ、正義感と生命力で不条理に屈しなかったプーランの命は輝いていた。わずか十一歳で身勝手な中年男性と結婚させられ、虐待を受け、何日も警察で、二十二人の男達に人間としての尊厳をズタズタにされた。そして盗賊団を率いて、復讐のため殺人をし、弱きを助け、権力で乱暴を働いている人々を戒めた。プーランは盗賊の女王として生きた。十一年間の投獄生活中も多くの人々がプーランを訪ね、感謝と祈りを捧げた。

 その後、プーランは国会議員になった。いつだったか、初来日した時、夜のニュース番組のインタビューに応じていた。「もう一度政治家になれたら、下層階級のために、女性のために何かしたい。女性の社会進出を支援したい。女性の心は慈悲と愛情に満ち溢れていて、機会が与えられれば良い仕事が出来ると思います。生まれ変わるとしても女性として生まれたい。なぜならば女性達に自信を持たせてあげ、どんな女性も虐待を受けたら、自分のように立ち向かうことの出来るように」と。プーランは諦めずに、最後まで多くの人の心の平和を祈っていたに違いない。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞 2001年9月6日)

せつ子は「すてきな命が輝くまち」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」