ベリーダンススタジオ★☆★ぱわふるマドンナ★☆★ 主宰・坂口せつ子 

ベリーダンスにヨガ、深層美容術、トータルであなたの人生をサポートします。新しい自分を再発見してみませんか。

すてきな命 vol.34

2007-04-13 23:46:17 | すてきな命
 私が二十歳、最初の子どもが産まれる月、父が嫁ぎ先の私たちの部屋の外から、まだフトンの中の私に言った。「せつ子、京子がダメみてえだ」。私は飛び起きて、窓を開けた。結婚して二人目の赤ちゃんを妊娠した姉は、お腹が痛くて三つの病院を回されたが、原因がわからず、大きな病院で、やっと子宮外妊娠とわかり、手術したら、もう破裂していて、夫の会社の男性からたくさん輸血を受けているという。その後、姉は、血精肺炎になり、体中がむくみ、顔はふくらんで、同部屋の同じ病名の人が次々亡くなっていくのを見て、不安を感じていた。

 夫の会社の人が「玄米で病気を治す」という本を持ってきた。姉は医者とけんかをして退院し、家族全員が、姉のために模索した。ある時はタニシがいいと聞き、家族総出で川で採った。私はそんな家族が大好きだった。姉は肝機能の数字を気にしないようにするために、小さい時から習いたかったピアノを始めた。一日に必ず七時間以上弾いた。その後、子どもたちに教えるようになり、元気になって三十年以上、弾き続けている。

 姉の衣装部屋には、ピンクと赤、白、フリルのドレスがいっぱいだ。「お姉ちゃん、もうちょっと大人っぽいものにしたら」「いいのこれで。子どもたちが喜ぶんだから」

(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年4月4日)

せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」



すてきな命 vol.33

2007-04-13 23:43:29 | すてきな命
 溺れる者が一枚の板にすがりつくように、裁判に絶望しても必ず真実が通るときがくると。三十四年もの長い間、無実を主張し続け獄に閉じこめられていた。その大部分は死刑確定囚として絞首刑の恐怖におびえる歳月だった。

 昭和五十八年七月十五日、死刑囚免田栄さんは再審判決で無罪になった。死刑が確定した人物に再審の扉が開かれたのは免田さんが初めてで、まさしく歴史的な瞬間だった。再審の門は「ラクダが針の穴をくぐるより難しい」と言われた。人権擁護の世界組織アムネスティに関わっていた私は、免田さんに会うことができた。

 免田さんは自分のえん罪を晴らすために、最初はちり紙に事件の顛末をせっせと書いた。難解な法律書に取り組むだけでなく、広く思想、宗教、歴史、社会科学など、二千冊もの本を獄中で読み学んだ。翻訳した点字本は三百八十冊を超えた。父栄策さんは、息子のえん罪が晴らされる前に他界した。弁護費にも力尽き、老込み、痛々しい様に腸がちぎれる思いだったと免田さんは語る。自分の命もほしいが、真実はもっと欲しい。再審無罪のため手弁当で援助したの日弁連方々等とともに、日本の裁判のゆがんだ体質を問い直す扉を開いた免田栄さん。生きていてくれてありがとう。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年3月22日)

せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」


すてきな命 vol.32

2007-04-13 23:41:53 | すてきな命
 私は十八年前から、精神病院へ週一回、何カ所か行っている。ある精神科の先生と出会い、閉鎖されている病院へあなたのような人に来て欲しいと言われて行き始めた。患者さんの前でレオタードになる私には、勇気が必要だった。

 回を重ねるうちに患者さんたちとも仲良しになり、私のことを指折り待ってくれるようになると、レオタードになることも、皆さんと握手させて頂くことも、喜んでくれるのならばとサービス精神全開で、はりきって楽しんだ。三十三歳のみわちゃん、丸々太っていた。いばった看護婦さんが連れてきて、エアロビクスしないと何々と、脅かしていた。しようがないみわちゃんは泣きそうな顔をして手足を動かしていた。その看護婦は、腕を組んでこわい顔をして見ていた。みわちゃんは座り込んでしまった。私は言った「看護婦さん、この場は私にまかせてください」。その看護婦さんには、会場から退出してもらった。そのあと、手をとって「やろうか」というと、「ウン」と言って笑顔が戻った。みわちゃんの人生のことは私は何も知らない。その後、みわちゃんが他界したことを知った私は、一期一会をかみしめていた。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年3月7日)

せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」


すてきな命 vol.31

2007-04-13 23:40:24 | すてきな命
 糖尿病のため、三十代で失明したイラストレーター「エムナマエ」さん。もう絵は描けないと決めていた。病院通いで、すてきな看護婦さん“コボちゃん”と出会い、結婚した。結婚式の引き出物を考えた結果、コボちゃんのすすめで絵を描いた。とってもユニークな作品になった。

 一九八六年、失明と同時に人工透析が始まった。その身体で、一九八九年、処女長編童話で児童文芸新人賞を受賞した。全盲のイラストレーターとして活動を始め、自由国民社から「オラ・サヴァ・チェリオの地球冒険の旅パリ祭」、愛育社より「いつか誰でも」「やっぱり今がいちばんいい」「道くる道道いく道」「鍵の心」、アリス館よりシリーズ「盲導犬アリーナ物語」などがある。一九九八年には自由国民社の全面的な協力で、ニューヨークで個展を開いた。全米最大の子供服メーカーから認められ、二〇〇〇年には子どものためのコレクションが発表された。エム・ナマエさんの盲導犬「アリーナ」はいつもいっしょにいる。前橋の喚乎堂で、展覧会が開かれた。エムさんが講演をしている間、アリーナはずっとそばにすわり、会場の私たちを眺めていた。終わった後、私はアリーナと抱き合って遊んだ。病院通いでナンパして結婚したコボちゃんはとても美しい人だった。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年2月21日)

せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」


大好きな言葉

2007-04-13 23:38:38 | (おまけ)
「あなたの中の最良のものを」マザーテレサ

人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行なうと、
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行ないなさい

目的を達しようとするとき
邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい

善い行ないをしても、
おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
けり返されるかもしれません
でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい

すてきな命 vol.30

2007-04-13 07:42:52 | すてきな命
 川原湯温泉、湯かけ祭りに行った。一月二十日朝四時、マイナス五度、道は凍る。はだかになった勇士の足袋はその道に張り付く。紅白に分かれ、湯をかけ合う。温泉とともに長い歴史を生きてきた、川原湯の人たち、温泉への感謝と祈りのお祭りだ。低い声のアナウンスが響く。川原湯館の御主人。七歳でご両親と共にこの地に引っ越してきた。今、七十二歳、竹田博栄さん。

 二十七歳の時にダム宣言を受けたこの土地で、旅館業を維持しながら、急峻な狭い土地で代替造成ができない、険しい地形で犠牲を伴わない再建はありえないと、郷土を守る闘争の渦の中で生きてきた。そして五十年になろうとする今も、宅地造成はできていない。やりばのない憤りも、いつしかあきらめに似た感情に変わり、あらゆる要素が入り乱れ、もつれた糸のように出口の見えない複雑な構図になっていると語る。

 そんな中、竹田さんは、昭和二十七年から、温泉街や年間行事、街の様子など貴重な記録を八ミリの時代から撮り続けている。川原湯温泉湯かけ祭り、人々がひとつになり、この土地を愛し、感謝するこの祭りに、一泊で行ってきた。竹田さんのおいしい料理をいただき、真っ暗な大寒の朝、たくさんの湯をかけてもらい、厄落としができた。竹田さんのビデオ撮影はまだまだ続く。

(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年2月7日)

せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」

すてきな命 vol.29

2007-04-13 07:41:00 | すてきな命
 十年以上前に、私はエアロビクスのコンベンションでアメリカに行った。
 目の見えない黒人女性、耳の聞こえない白人男性、下半身麻痺の白人女性のクラスを受けた。信じられないほど楽しいレッスンだった。それぞれが生き生き伸び伸びと体を使い、すばらしいプレゼンテーターだ。耳の聞こえない白人男性の鍛えられた体の背後でレッスンを受けた。曲はドナ・サマーだった。とても低音が体に響いた。楽しかった。
 三人のレッスン後、下半身麻痺のリザが車椅子から両手を使って降りて、舞台の前まで進み出た。すると両脇にいた二人が同じように両手だけで椅子から降りてリザのところまで「足がないよう」とか言って困った困ったと笑顔で進み出た。三人が舞台で大笑いしていた。百人位いた、彼らのレッスンを受けた私たちも大笑いした。なんて明るい人達。そして中央にいたリザは言った。
 「私たちは、皆さんと違ってハンディがあります。災害が起きたとき、私は両手だけで逃げなければなりません。だから動かない部分の変わりに動く筋肉や機能を精一杯鍛えなければいけないのです」
 リザはボーイフレンドと一緒に、その後いつもコンベンションで活躍していた。私はエアロビクスインストラクターの使命を見つけた。

(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2002年1月24日)

せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」

すてきな命 vol.28

2007-04-13 00:10:06 | すてきな命
 私の十歳年上の兄が、私の長女の結婚式で「川の流れのように」を歌った。プログラムになかったのでジャズバンドの方々にバック演奏をお願いした。低い声の中に、兄の暖かい人柄が溢れていた。昭和十九年生まれ、中学校を卒業後、高校進学を諦め、古河市に住み込みで働きに行った。私は五歳だった。父と母は毎日夕方になると、二人で並んで古河市の方向を向いて手を合わせ、涙をこぼしながら、どうしているかと身を案じていた。

 毎週日曜日には、少ない給料の中から幼い私達妹にチョコレートやおみやげを買って帰ってきた。そして兄がそのためだけに働いているかのように、我が家には電化製品が増えていった。家事労働と家業で一生懸命働いている母へのプレゼントだった。兄は帰ってきて、真夜中まで裸電球の灯りで自動車の底にもぐり、十九歳までに自動車整備士の免許を取得した。

 兄は三十年ほど前から毎年クリスマスになると、サンタクロースの格好をして、お客様や知り合いの子どもの居る家を回っている。子ども達の喜ぶ顔がたまらないという。

 兄は家族と共に、八十四歳になった母を大切にして、周りの人々に喜びを与えることを生きがいにして生きている。「川の流れのように」は、私達の亡き父の大好きな曲だった。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2001年12月20日)
せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」