パエ-リャ

木製カトラリ-

ボホ-ル紀行 (34)

2016-07-10 06:30:47 | Weblog

Fly Davao  Cebu->Davao 5J 597 Cebu Pacific (already paid for by VISA in full)
   (15:55 -17:00) 


冒頭でも触れたように、釣竿を手荷物で持ち込めなかったことが残念だったが、空港の一角にある荷造りお任せ的な店でダンボ-ル箱を作ってもらって切り抜けた。画像がそれで、中はほとんど空気でしかない。成田では、70cm以下ということで、持ち込みが出来たが、マクタン空港では弾かれた訳だ。帰りのダバオ国際空港では無理やりにバックパックに押し込んだのでクレ-ムは出なかった。

マクタン国際空港では日本で印刷したセブパシフィックのA4サイズの支払い済み証明を印刷したものしか持っていなかったので、多少の不安はあった。ボルネオから以前にマニラ経由でダバオに飛んだ時にもパラペラの紙だけ渡されたが、その時のエアアジアは自分で選んだわけではなく、旅行代理店のお姉さんが勝手に決めた事ので、疑いもしなかった。

今回は、自分で意識的にネットでLCCを選んだので心配は心配だったが、基本的にはエアアジアの時と同じだったのでLCCのやり方だろうと思っていた。結局、何事もなくフライトのチェックインは出来た。事前にネットでフライトコンファ-メ-ションすら行わなかった(と言うか、そもそもネットにつなげなかった)ので、成田でセブパシフィックの日本人係員が言っていたことは正しい情報だった。

つまり、一番最初の成田でA4サイズの航空券もどき(航空券の支払い済予約書があれば、多分それすら必要ないかも)を印刷したものを提出した後は、同じA4サイズの航空券の予約分の支払いをしたと書いてある紙切れを見せればよいということだ。確か、マクタンでは搭乗口で本物の航空券を渡されたが、ダバオの空港ではそれすら渡されないままで成田まで戻ってしまった。

だから、逆に言うと、ただのA4の紙でなく、本物の航空券だと思って大切に保管しないといけない貴重な文書になる。


ダバオへのフライトは今回で2回目だったので、特に感想もなく、淡々と釣竿を受け取って、タクシ-でフェリ-ポ-トに移動して、ネットで見かけた記事に、空港から歩けると書いてあるし、その積りでもいたが実際には4km位はあるので暑い中を歩くのは無理だろう。

 歩けるといわれている抜け道を行くにはトライシクルがよいと思う。タクシ-も同じ道を走るが、渋滞がひどいので。

フェリ-にはぎりぎりで飛び乗った。そのため、前回乗ったときには急な階段を上って2階の部分の座席に行ったが、今回は目の前に車とかがある状態で、立ったまま渡ってしまった。

                たかが5分程度だし、依然として釣り竿の入った大きなダンボ-ル箱を持っていたので正解だった。

このフェリ-は搭乗場所に入る時に確か10ペソとかの少額を払うのでポ-トタックスか何かの支払いで、その先でちゃんとしたフェリ-代を払うものと思ってしまうが、他には何も払わないで向こう岸に着いてしまうので簡単だ。


この日のホテルの選択も同じように正解だった。前回来た時には、バイクの後部座席に乗って、30分ほど離れたリゾ-トに移動したが、今回はフェリ-を降りたら目の前にホテルがあるわけで、

既に6時近くだったし、 大正解だった。

 

但し、チェックインの時に問題が発覚した。こちらは予約成立票を印刷して持参していたが、ホテル側がバウチャ-を失くしてしまっていて、希望していた独立ロッジでなく、集合アパ-トみたい

な部屋にあてがわれてしまって、 そこはインタ-ネットがつながらない区画だったためだ。確か、テザリングも繋がらなかった記憶がある。

ネットの接続に関していえば、今回、まともにつながったのは初日のセブ市内のちゃちいホテルの有線LANだけだった。後は全滅で、特に、ロボックでつながらなかったのは大打撃で、必要のない換金までする羽目になったのだから。

で、このホテルの名前にキャンプの文字が入っているので、値段的にはそこそこ高いのに不思議に思っていたが、未だによく理解できていない。別にテントが張ってあったわけでもないし、独立バンガロ-の建物がキャンプ的だと言われれば、その通りかもしれないが、集合棟より値段的には高いわけだし、唯一思いつくのは、客が食料の持ち込みと自炊をやっていたことだ。

      これが自炊の様子

つまり、画像にあるような場所で大きな釜とかで煮炊きしていたので、それがキャンプ的な要素な

のかもしれない。

実は、前回、同じサマ-ル島の反対側の、港から遠いところにあるリゾ-トで出会ったフィリピン人の一家は、鹿児島で働いていて、福岡経由でダバオに休暇に戻り、サマ-ルへ親せきを連れて来ていた。彼らも実は、明らかに持ち込みの自炊を盛大にやっていたので、ダバオでは流行の遊びなのかもしれない。

もうひとつトラブルがあったのは、レストランでのオ-ダ-で、ビーフの何かを注文して、なかなか出てこなかった。ビールを飲みながらリラックスしている時だし、最初はあまり気にならなかったが、40分ほど経って、聞いてみると、その晩はビーフのストックがないので出来ないとの答えが返ってきた。

明らかに、組織として機能していないわけで、10人程の従業員に対して、客は実質上私一人しかいなかったのに、全員がスマホで遊んでいる状態で、文句言っても無駄だろうし、別のものを注文したが、それも10分以上かかって出てきたので、そういうことには慣れないといけないのだろうとの感想をもった。


ボホ-ル紀行 (33)

2016-07-09 06:38:51 | Weblog

29 (Fri)  Bohol->Cebu by Ocean Jet (Check out/return  to Cebu International Airport)
   (8:30->10:20)


朝はこんな感じだ。4月末、この1週間ほど一度も雨に降られていないので、この時期の中部フィリピンは良いのかも知れない。海は超浅い。

 

この日はホテルで寂しい朝食 (トーストにジャムもバタ-もついてこなかったし、塩コショウもなし)。

その後、通りに出てトライシクルを捕まえてフェリ-ポートまで移動した。前日、バイクを返した後でホテルに戻るときの料金が20ペソだったので、特に料金を聞かずに乗って、降りるときに20ペソを払い、特に問題はなかった。


予定では9時20分のフェリ-に乗る積りでいたが、少し早いのがあったので、それに乗ることにして、乗り方案内のために写真を撮った。問題点は以前に指摘した通りで、屋根はあるけどエアコンのない2階席に乗るのが正解だったが、一番高いビジネスクラス(同じ2階席)を選んでしまったので、非常に後悔することになった。

エアコンのない2階の屋根付き部分にはビジネスクラス後部のドアから出られるようになっているが、実際にはカギがかかっている。そのため、船外に出る唯一の方法は階段を下りて、1階部分のエアコンのある一番大きな船室(150人くらいの座席指定)に下りて、中を通り、後部のドアを使うことだが、そのドアも航海中はカギは掛かっていなくても、外側に山のように荷物が積み上げてあり出られないようになっている。

なので、もし転覆事故などがあれば、一番助かりやすいのは一番安い、2階のエアコンのない区画の乗客だろう。ビジネスクラスの乗客は転覆すれば天井側にある一番大きな地下席を通らないと外に出られないので、まず助からないと思う。ビジネスクラスの後部ドアが事故時に解放されるなどと考えないほうが良い。

後述するマクタン島のフェリ-乗り場の記述に、転覆の危険に関して以下のようなのものがある。

「料金を支払って先に進むと、長机に紙が置かれていて、皆そこに何やら書いています。見ればすぐわかりますが、名前・年齢・居住地域を書くようです。知り合いの現地人に聞いたら、フェリーが転覆したとき乗客がわかるようにとのことです」

で、セブまで戻る2時間の航海中に気が付いたことが三つある。最大の発見は途中の海が超浅いことで、マクタン島のそばではそれが特に激しいように思えた。 何しろ、海の底から木みたいな物がが突き出しているくらいだ。

二番目は、望見するボホ-ル島も、マクタン島も、あるいは左側に見えてくるセブ島本体も非常に山が低いことだ。セブの場合は、まあ、ある程度の高さの山は見えるが、その他は山とは呼べない高さでしかない。

三番目は、トビウオがやたらに多いことで、2時間の間絶えずトビウオの群れが見られた。

切符を買う時に、タグビラランからネグロスのデュマグエ-テまでの直通フェリ-があること気が付いた。マクタン空港からネグロスに行くには、デュマグエ-テまでの直通のフェリ-か、あるいはセブ島内をバスで移動して、短いフェリ-に乗り換えてネグロスにわたるか、どちらかだと思うが、ボホ-ル経由でも移動できるのは有り難いことだ。

                  

セブの港の#1ピアに戻るとタクシ-でマクタン空港まで向かったが、大渋滞もさることながら、片道400ペソもかかるし、絶対にマクタンまで行けるフェリ-があるはずだし、探してみた。実際にあるし、断片的ではあるが、それに関する記述のいくつかが下記のものになる。

この記事で一番重要な部分だ。セブ島旅行には必ず意味のある記述だと思う。時間とお金の節約になるからだ。

 空港はこの地図の右はずれにある。


「Cebu-Mactan間のフェリ-は6:00から22:00まで満室になりしだい出発、頻繁に行き来しているとのこと」(つまり、時刻表はないけど、気にならない)


「Cebu-Mactan Ferry Terminal 乗り場はマクタン側ではラプラプマーケットの先にあります。料金は14pesoでした。(2015年現在で30円後半ぐらい)」

「自由席です。海が見える席に座りたいところですが、最初に乗った時は乗車時にはすでに満席近くで、地下席にしかありませんでした。良い席とそうでない席の差がすごい。もちろん地下席には窓もないし暑い」


(マクタン側フェリ-ポ-トの様子が以下の画像になる) 

「20分くらいで到着。セブではピア3という乗り場につきますが、ボホール島行きのフェリーはピア1から出るので歩いて向かいましょう」

(1から3へは5分ほどで歩けるので、海を右手に見ながら行けばよい)


「セブ マクタン メトロ フェリー セブ島とマクタン島は2本の橋で結ばれている他に、このフェリーでも渡ることができます。営業時間: 午前6時~午後10時まで/料金: 大人 P14 ポート・タックス P1」


「マクタンの港は市場の近くにあります。港近くにはトライシクルが待機していますが、タクシーやジプニーは、少し離れた幹線通りまで歩いて行った方がいいでしょう」


これらの記述を総合して考えると、安い、早いわけだから次回以降、空港からセブ市内にタクシ-で移動するのは極めてばかげていることが分かる。


Fly to Davao  Cebu->Davao 5J 597 Cebu Pacific (already paid for by VISA in full)


ボホ-ル紀行 (32)

2016-07-07 06:15:17 | Weblog

バイクを返した時点で右側通行の問題からは解放され、エンジン付きのトライシクルに乗ってホテルまで戻ったが(20ペソ、約50円)、既にのどはカラカラ、汗だくの状態で、なんとしてもビ-ルが必要だった。

宿の女将に聞くと、それらしい場所が近くにあるということで、探しに出たが、結局見つからなかった。

                             

この、トライシクルについて、あるブログでは、フィリピンの肥満の原因の一つだとの指摘を見かけたが、そうかもしれない。なにしろ、安いし、細い路地でも大通りでも、どこでも通るので便利だし、ダバオの町の小学校の近くでは、小学生の女の子が一人でトライシクルに乗っているのをたくさん見かけた程だ。

最初にダバオを訪れた時には大部分の原動力が人間だったので、利用する気にはならなかったが、考えてみれば比較的少ない投資でお金を稼げるわけだから、失業率の高いフィリピンではむしろ、積極的に使うべきなのかも知れない。

で、肝心のビ-ルは、なかなか見つからなくて、漸くショッピングモ-ルの最上階の小さな店にあ

ることが判明した。    

この地図の真ん中あたりの丸印の場所だ。大学のそばにも大きなモ-ルがあったが、ここも間口は狭かったが、中に入るとそこそこに大きな建物だった。屋上駐車場を見下ろす通路沿いに小さな、でも確かにビ-ルを 出す店があったのはうれしかった。モ-ルがあれば必ずビ-ルがあるとは限らないからだ。

この画像の部分は通路にゴミもないし、日本のどこにでもある光景だが、下に降りて外に出れば、そこは汚れた通りばかりなので、落差は矢張り激しいものがある

    。 

ビールの後、する事と言えば、スマホなどのブラウズと、夜の海鮮しか思いつかなかったので、店の女の子に相談すると、海鮮レストランはこのモ-ルの中にもあるし、町中にもあると言われて、結局モ-ルの中に留まることにして、最初はスマホのお店を覗いてみた。


売られているスマホには大きく2種類あって、中国製と地元フィリピンの国産品で韓国製は勢いがなかったのが目につく。実は、フィリピンのスマホマ-ケットは半分以上が国産品で占められていて、実際に中国ではなく、フィリピン国内で組み立てられている質の高いものも多かった。ネットで調べた結果だ。


3千円から1万円位で非常に魅力的なフィリピン産スマホがたくさん売られていて、すべてがSIMフリ-だし、中にはデュアルSIMもあるし英語のメニュ-が使えるので素晴らしい印象を受けた。最新のクアッドだし、デザイン的にも素晴らしいと思った。タブレットも同じような価格帯で十分に魅力的なので地元の需要は大きいと思われる。

もちろん、スマホを買ったわけではなく、夕方近くには、少し早いものの海鮮のお店に行くと、

        数人しか客がいなかったが、諦めて着席して、メニュ-を見て、あらためて判断できたのは、いわゆる本来の中華風の海鮮ではなく、あくまでもフィリピン風にアレンジされた、海鮮もどきだということだった。

なので、一番無難なイカ焼きを頼んでみたら、

これが最悪で、タイヤのゴムのように硬かったので半分以上食べ残してしまった。このイカ焼きの注文はウエブ上の東南アジア旅行記に頻出する。大方の人が醤油の味と結びつけるのだろう。次に日にもダバオの屋上レストランで頼んでしまったが、それは最高だった。

      で、今、改めて付近の地図を見ると、海沿いに海鮮レストランがあることが分かる。 ビ-ルを飲んだところの女の子たちが教えてくれた海沿いの海鮮とは、恐らくこのレストランのことで、この地図の左上の部分だ。比較的近いので、そこまで足を延ばすべきだったのかも知れない。次の機会があれば行ってみたいと思う。

考えてみれば、フィリピンではまともな海鮮は2月のメトロマニラ以来、出会っていないのだから。

町は選挙運動の最中でもあり、また何らかのフスティバルも近いらしく、道路はかなりの部分と規模で飾られていて、逆に、そういったことが無ければ、大学などもあるけれど、かなり寂れた町だ

との印象は強く持った。 歩いている人の数は多い。でも、町中の店がすべて古くて、手入れはおろか、壊れても修理されていないために、寂れ

て見えるのだと思う。

台北の繁華街のことを思い浮かべる。台北の繁華街にもところどころに寂れた店は多い。

ところが台北の場合には、汚い店構えのペンキ屋の隣がキンキラ金に輝くルイビトンの基幹店だったりすることがとても多い。つまり、遅かれ早かれ、そのペンキ店は取り壊されて消えてしまうことが観光客の目には一目瞭然なので、通り自体がなんとなく生き生きとして見える。

ところが、タグビラランの町は通りのすべての店が同じ寂しさで、

 そこには今のところ、繁栄の兆しは見られない。その違いがあるのだろうと思う。

Matig-A Seaside Pensione (Tagbilaran) (Pay in peso on arrival) Ref# ******** PIN# ***** 


ボホ-ル紀行 (31)

2016-07-06 12:59:13 | Weblog

セビリヤ探索の後、ロボックのホテルに戻り、預けてあったバックパックを回収してタグビラランに戻った。


実はその日の朝、カ-ドでチェックアウトしようとした際にインタ-ネットが繋がらないためカ-ド決済ができないと言われて、泣く泣くバイクで橋の近くの両替屋に走り、3万円ほどの決済をすることができたが、ボホ-ル島の滞在中のすべての期間インタ-ネットが使えない状態は続いていた。


ホテルには光ファイバ-によるインタ-ネットへの有線接続はなく、受付のパソコンが何らかの方法でSIM的にインタ-ネットへ無線接続していて、その信号を更に各部屋にWIFIで分配接続していると推測された。一種の大がかりなテザリングと同じことだ。


と言うのはホテルのテザリングに頼らず、自分のスマホで直接テザリングを試みても、近くの基地局からの電波が正常に届かないために極めて不安定で、瞬間的につながってもすぐ切れてしまう事で明らかだった。

つまり、この滞在期間中、ボホ-ルの、場所にもよるだろうが、スマホでの信号直接受信そのものも不安定だったことになるので、チョコレ-トヒルの後の時間帯にGPSの信号が非常に不安定だったことの説明にもなっていた。


受付の女の子にタグビラランで泊まる予定のホテルの話をしたら場所を知っていたので、簡単な地図を描いてもらってロアイの分岐点から海岸沿いの道を市内に向かって走った。前日も走ったコ-スなので、ある程度の目途はついていたが、大きな教会だけが目印で、結局何人かの人に確認して到着することが出来たのはとてもうれしかった。


この日はその後すぐにフェリ-ターミナルの付け根にあるレンタルバイク屋にバイクの返却に向かったが、地図で判断した市内の繁華街の最適な交差点を恐怖のため左折できなくて、交通量が少なくなる交差点まで直進する他はなかった。そのため、覚悟を決めて他のバイクや車のように、めちゃくちゃな運転でがむしゃらに進んだ。そうしないと、逆に危険だったからだ。

ホテルに向かう時にはそれ程の恐怖を感じなかった。

                        

地図にあるように、教会方面へは一方通行がある十字路を左折しないと行けないが、その時には反対方向からくる車とは交差しなくて済むので、信号がなくても何とか右方向から来る流れに乗って左折することは可能だった。青色の線に沿って進めば良いだけだった。

ところが、バイクを返すフェリ-タ-ミナルに行くには、その一つ先の交差点を左折するのが一番

最短距離で、望ましかった。  でも、そこは信号のない普通の十字路で、すべての方向に一斉にバイクや車が動くので、とても怖くて左折は出来なかった。バイクの場合は首を頻繁に左右に振れば、周りの状況は掴めるが、それでも怖かった。

車を運転していたら、単純に不可能だったろう。視界が限られているからだ。なので、右側通行の国では、特に発展途上国では車での左折はよほどのことがない限り、しないのが無難だと思う。多少時間の無駄でも、交通量の少ない場所まで直進してから左折する必要がある。

思えば、インドネシアのタラカンの町にも信号はなかった。十字路もさることながら、通常の対面交通を任意の場所で横切る度胸と技術は信じがたかった。日本であれば確実に衝突するタイミングで、何故か奇跡的にお互いが理解しあえる状況が瞬間的に作り出されてしまうからだ。

曲がりたい場所が、モーゼにより海が裂けるかのように開いて通れるようになるのだから。奇跡としか言いようのない、感動的な場面ですらあった。


ボホ-ル紀行 (30)

2016-07-05 06:02:40 | Weblog

のどかな川岸沿いに進むと、この画像の橋の直前部分に対して、右側から来る部分はとんでもない急斜面で、凸凹していた。つまり、この橋は川よりもかなり高い場所に作られている。

         

手前側が未舗装なのに、橋を渡り切ると完全な舗装道路だった。この橋の意義は、ロアイ-カルメン(チョコレ-トヒル)線に出て、大回りしないで村人がタグビラランに行けるようにするためのものだということが分かる。

この橋から見える川の様子が以下の画像だ。

 ロボック川の上流部分の大きさが分かる画像だ。画像ではわかりにくいが、実物を見ると何故、この川が「River verde」と呼ばれているか、よくわかる。Verde はスペイン語で緑色のことだ。

               この画像はグ-グルマップから取得したもので、右側が先ほど通ってきた道は、この川岸沿いにある。      

鉄橋を渡ると道は直ぐに川沿いに左折、急な上り勾配で完全舗装されていて、数分もすると私のセビリヤ村は予想よりかなり大きい事がわかってきた。

せいぜい、海岸沿いの村で見かけたような、かやぶき屋根の家が何軒かあるだけで、農耕用の牛、ヤギ、鶏、犬のいる小さな村で、雑貨屋的なものさえないかも知れないと、勝手に思っていたが、それはとんでもない間違いだったし、首狩り族も勿論見かけなかった。

それどころか、前方に明らかな商店街が見えた時にはとても驚いた。この画像だ。

                               ここまで登ってきたた道を振り返った画像が以下になる。

この建築資材の石と看板があるところを曲がって先に進むのだが、ここでバイクを停めて、看板の後ろにある小さな売店でコ-ラもどきを買って、小休止してみた。周りの人が変な外人がいると思っていたのは間違いない。じろじろと見られていたからだ。

     この建物は取り壊し中のもので、看板は、その場所にス-パ-が建設されると言っている。然も、英語で書いてある。この看板のすぐ後ろにある売店では英語が通じないのに、誰が読むのだろうか。

            左に見えるのが乗ってきたバイクだ。

看板を見ると新築されるのは2階建てのかなり大きなス-パ-で、海岸沿いの大きなバランガイでもめったにないと思う。だから、セビリヤ村は、セビリヤ町と呼んでもおかしくないほどの規模だった。

このス-パ-建設予定地には、以前にも大きな市場があったことは容易に想像できた。道路沿いには通行人の数も多かったし、物売りのスト-ルが並んでいたからだ。でも、海からわずか20kmほどの場所なのに、スト-ルの上に直接青物の魚を並べ、時折水をかけながら売っていたのには、再び驚いてしまった。軽い衝撃を受けたほどだった。「違うだろう」と思いながら。。。

この商店街を抜けて、先に進むと静かな住宅地の先に教会が見えてきた。

        以下の画像がそれで、 少しだけ敷地内に入って問った画像が以下になる。同じ車が映っている。

         内部の画像は、 この教会は曲がり角に建っているので、この後、次の画像のように左折してロボック方面に進んでいく。

 赤い屋根の建物が確か消防署か何かで、その前に次のような看板が出ていた。 要は、2013年秋のマグニチュ-ド7.3の大地震の被害対策で、補助金が出ているらしい。        

この看板で、セビリヤが独立したバランガイだとわかる。

           

              

この近くには学校も当然あるので、画像で示しておく。

                      ただ、街の周りは農村地帯に変わりなく、

      このような谷戸で農業が営まれているし、鉄橋ができる前は以下の画像のような吊り橋も使われていたのだろう。

                  

マリア像は至る所にある。  少し下流にはダムさえある。  

でも、一番驚いたのは、辺りの民家の立派さだった。単なる民家の範疇を超えていて、

     別荘風の建物も多く、海岸沿いの村で見かけたような、板葺き壁の家はなかったからだ。

                    

一度、町中の分岐点で、ロボック方向が分からないため、角の民家で道を聞いたら、

(赤線のように進んできて、ここを曲がるべきかの判断ができなかったので)

       なんと日本語で返事が返ってきたのには更に驚いてしまった。 結果的に赤線の道を行けと日本語で教えられた。

一言でセビリヤの街を表現しろと言われたら、別荘村と答えるだろう。それほど瀟洒な民家が連なっているからだ。ただ、下流のロボック側のように、外国人が住んでいるような印象は受けなかった。

更に先に進んで、街中を抜けて、 気持ちの良い舗装道路に出ても、そこからロアイ-カルメン線までは、かなりの距離があったし、 別荘風の民家が並んで川を見下ろすような場所にあったわけでもないし、何故この場所にそのような瀟洒な街並みがあるのか、

             皆目分からない。

確かに、この町は高い場所にはあった。そもそも、距離的にはタ-シャの森の非常に近くだし、でも、涼しさには手の届かない標高だった。川は確かに近くにあるけれど、少し離れている。

もしかしたら、川を見下ろすような場所が街中のどこかに別途あって、そこには更に瀟洒な民家

        があったのかもしれない。 

確実に言えることは、この場所に、橋のない時代には川を容易には超えられなかった村人たちが共同で教会を建てたことだろう。丁度、メキシコの寒村の教会のように、貧しいが故に立派すぎる教会を。


ボホ-ル紀行 (29)

2016-07-04 06:10:52 | Weblog

唐突に終わってしまった「輝く道」の眼下に見える熱帯の川は、濃い緑色に輝いて私を誘っていた。

今話をしているのは以下の地図の場所だ。そして、ボホ-ル紀行の次は、更に南に下りて、ヘネラルサントスからジャバ海への航海日誌につながって行くだろう。

 

ペットボトルの水も持たずに体感温度は40度以上あったであろう灼熱の白い道を、コンポステ-ラに行く道も, そのようなものに違いないと信じて辿ってきた身には、西遊記で夏目雅子が出会った川も、このようなものであったろうと思わせる程、魅力的だった。

                                            

この地図が川を見た場所を示している。そして、見えていた川が次の画像になる。

           

川に向かわない選択肢は、矢張り、なかった。この画像の下にわずかに見える、危険な程の急傾斜の砂利道を降りきると、右側に穏やかに川が流れる

     土手沿いの白い砂利道に出て、鉄橋が先の方にわずかに見えているだけだった。

ほんの5分前までは途中で干物になっても不思議ではない程過酷な環境にいたのに、

          そこには大量の水があり、安らぎと安心感で満ち溢れていたので、とても不思議な気持ちでいた。その土手沿いの道は

 日本の田舎では普通に見られる光景とそっくりだったのだから。

でも、よく見ていると、小さな違いがあった。日本では当たり前にみられる生物を見かけなかった。

蛇も見かけなければ、トンボや蝶も見かけない。トカゲ位はいたのかも知れない。ボルネオ島では、コタキナバルからサンダカンに向かう道路沿いに蝶が乱舞していて、運転に危険な程だったので、フィリピンに蝶がいないとはとても思えなかった。でも、蝶やトンボも見えないしセミの鳴き

声すら聞こえなかった。

普通、日本の田舎だったら、昆虫がいるのは当たり前なのに、何もいない、虫の鳴き声も聞こえない。水が溢れ、緑が滴る典型的な田舎道に、昆虫がいないことがあるのだろうか?

然し、砂利道に沿って緩やかに流れる深緑の川は水量も豊富で、

              時折光る小さな魚の群れも、 川の監視用タワ-も

    子供たちが昇って川に飛び込むための木の足場も

              

その場にいるからこそフィリピンの田舎の光景を見ていられる幸せを素朴に感じさせてくれた。

川向こうの画像が以下になる。

  これも典型的な谷戸地形だ。

そして、何より、そこで川遊びをする子供たちと、彼らを見守る親に初めて出会い、少しずつ落ち

着きを取り戻し、前方に鉄橋が見えることで、ますますセビリヤ村の中心部が近いことを確信し始めていた。

               

コンポステ-ラは徐々に消え去り始めていた。


ボホ-ル紀行 (28)

2016-07-03 05:46:59 | Weblog

 道は、無風、無音、無人、灼熱のまま白く輝きながら、

    ゆったりと続いている。

思えば、今まで、様々な場所に身を置いてきた。シルクロ-ドも実際に足で踏みしめてみて、降りしきる小雪の中を土漠の向こうに黙々と消えていく隊商の姿や、パルティアの軍勢が、武器を煌めかせながら灼熱の大地を西に行軍する様子も見てきた。それはそれで、感動で心を揺さぶられる光景だった。

でも、フィリピンのそこでは、その場にいるだけで、嬉しくて、懐かしくて、泣きたくなるような何かを感じていたと思う。通常の平衡状態からの逸脱とは大幅に異なる何か、それは恐らく、単なる傍観者ではない、周りが極めて近くにあるための、周りとの圧倒的な一体感だったのでないだろうか。

土漠で目撃したものは、雪の残るかぼちゃ畑の眼下、1kmも2kmも先にあって、所詮、自分は傍観者でしかなかったけれど、ここでは進んでも進んでも目の前に見えて、手の届く範囲はすべて無人の白い世界だったからだ。ずっとそのままでいたいと思わせる何かが、そこにはあった。冷静に考えれば、唯の無人の山道でしかないのに、今画像を見ても、少しだけ心の平衡状態が崩れてしまう何かがあったのだと思う。

この道は、かなりの高低差のある坂道が多く、急ブレ-キをかけるとスリップや転倒の恐れがあるので、下り坂は極めて慎重に恐る恐る進むため、幸せな時間はかなり長かったけれども、少しずつ様相が変わり始めたのは気が付いていた。

道端にタキギの束が無造作に置いてあるのも不思議だった。

              誰 が、何の目的でそこにかなり大きな束を置いたのか。見回しても人家はなかったからだ。更に不思議だったのは、道端に搬出を控えた南洋材などもみられる事で、

     この南洋材は自分が時々購入するものと全く同じなのは一目でわかった。

製材されてはいるがプレ-ンがけされてはいない、日本では大きな小売店で立てかけたまま売られている状態のものが、道路際にそのまま放置されている。深く考えなければ不思議ではない。でも、10cmほどの厚みの板材が、周りに製材所があるわけでもないのに、何故積み上げてあるのだろうか。他から運び込まれた訳ではないことは直ぐにわかる。すぐ近くに切り倒した痕跡があるからだ。 この画像がその現場だ。

この画像のような直径を持つ原木は普通は直径が1mもあるような大型の丸鋸で加工することは、義理の父親の工場での経験で知っている。 とんでもない、どでかいドイツ製の機械がうなりをあげながら板に挽いていくのだから。とても通常のチェ-ンソ-で製材できるとは思えない。

バス停らしき小屋もあったし、 その直近の枝道も理解できる。 見える範囲に人家がないことを除けば。でも鄙には稀なとしか形容の仕方がないほどの豪華な一軒家が現れた時にはとても驚いた。

      人がいたからだ。然も、庭木の手入れまでしていて、それらはすべて村の中心部が近いことを明示していた。

マラッカ海峡を見たくて、車をチャ-タ-して半島マレ-シアの田舎を延々と走ったことがある。その時の途中での最大の印象は、庭木を植えて面倒を見るようなことは、熱帯地方ではやらないんだ、ということだったが、フィリピンでは比較的普通に見かけたので、こんな山の中でも変ではなかったが、それでも違和感はあった。

更に先に進むと、もしかしたら首狩り族が住んでいるのかもしれないという僅かな危惧も明確に否定する、とても大きな、そしておそらくこの案内表示の規模から推察して、極めて重要な、分岐点の道案内表示の出現により解消したし、

     その更に先に望見できたロボック川の上流部分は、私のセンドロルミノ-ソの終わりを告げるものだった。

今にして思えば、そこで引き返しても良かったのかも知れない。失楽園の最後の場面のように。。。


ボホ-ル紀行 (27)

2016-07-02 07:59:21 | Weblog

この道路沿いには、谷戸がとても多い。 谷戸とは低い山に囲まれ、ハの字形に開いた小さな地形のことだ。

おそらく、ボホ-ル島だけでなく、フィリピン全体の風景を特徴ずけるものは、連続して現れる谷戸だろう。急峻な山岳地帯が少ないことも背景にあると思われる。ボルネオでは見た記憶がない。恐らく、ボルネオにも昔にはあったのかもしれないが、油ヤシの植林で失われてしまったのだろう。

そして、フィリピンの谷戸に今でもバナナと普通のヤシの木、それに畑や田んぼがあり、

 つながれた牛や放し飼いの鶏の群れも見られるので、とても心地よい印象を受ける。前掲の養鶏場にも 

     そのような谷戸が使われている。

ヤシの木やバナナをよく観察して見ると、谷戸と、その背後に迫る山地の境界部分だけに数多くみられるので、恐らく元々は谷戸全体に生えていたものを開墾した結果であることは容易に想像できた。

日本でも、山間のは谷戸に多くみられるので、郷愁をよぶ風景が続く。

山の中をタグビララン方面に走行中、 ここが

セビリヤ村への分岐点かと思われる場所は幾つかあった。そんな場所では大抵、恐らくバスを待っている若い女性達がたむろしていて、屈託なくハロ-と声をかけてくるので、挨拶を返すついでに道を確認するとすべて違っていた。

彼女たちはセビリヤという場所の存在は知っていたが、どのように行くのかや、正しい分岐点までの距離もよく判らないらしく、 セビリヤは遠い場所で普段の行き来がないことがうかがわれた。

結局、正しい分岐点は、その後暫くの間携帯GPSも見ずに進んだので、行き過ぎてしまった。

なので、今度こそと思い、慎重にバイクの距離表示を見ながら戻ると、それらしい場所が漸く見つかり、偶然に道路工事の作業員が数名いた。”Sevilla?" と声をかけてみると頷いてくれたので、ホテルを出てから1時間ほどでセビリヤの村へ向かう1車線のコンクリ-ト舗装の道路を漸く発見

したことになる。 この左側のガ-ドレ-ルに

一か所切れ目が見えるが、そこを左折するのとセビリヤに至るわけだが、ただの生活道路にしか見えなかった。そもそもロボックの方から来るときには表示板はないので、分かるわけがない。タグビラランから戻るときに見かけた案内表示が右側に見えている。

そこで左折すると、すぐに小さな売店があったので、

                              取り敢えず飲み物を

買って椅子に座った。分岐点が見つかったので安心出来たし、飲料水を携行していなかった事もあるし、その先に首狩り族でもいたらどうしようかと、本気で考えていた事もある。

                                             画像が、その小さな売店だ。売り子の小さな男の子は外国人が珍しいらしく、用もないのに頻繁に窓口から顔をのぞかせていた。

            

すると、まもなく数人の男たちが乗ったジ-プ的な車が前に止まり、恐らくタガログ語で早口にセビリヤに行ける道かと、私に聞いてきたので、フィリピン人と間違われたのは間違いない。英語でそうだと答えると軽く挨拶して、そのまま売店の前の道を行ってしまった。

                   

彼らがセビリヤに行くとすれば、ここを曲がるか、あるいは以下の地図にあるように

          大変な大回り

(つまり緑色の道)をしなければならなかったので、この道を明確に意識していたのは間違いない。結局、自分はこの、赤と緑のすべてを通り抜けたことになるのだが。

そして、この後、そこから先の約2時間の行程は忘れがたい経験だった。

それは、ある意味、パンプロ-ナ以来、長い間私の心の隅のどこかにしまってあって、多分潜在的には誰でも持っているかも知れない、菅直人的巡礼の旅を意識させるものだった。と言うのは、そこからセビリヤ村までの山道は、砂利道で坂の多い、猛烈な暑さと無風、無音の、巡礼には多分最適と思われる白い世界だったからだ。

もし、マルタを象徴するものが糖蜜色の崖で、ボルネオを象徴するものが鮮烈なオレンジ色の大地 だとすれば、そこは熱帯の太陽がその強烈な熱エネルギ-を激しく叩きつけている白亜の細道だった。

確かに、道の両側は谷戸なので光輝く緑で溢れてはいた。然し、私の目に見えていたのはコンポステ-ラ に続くかのように白く緩やかに延びる一筋の道だけだった。

大学に入り、初めて読んだスペイン語の本に出てきた白昼夢の世界に入りつつあったのかも知れない。当時、何故昼間に夢を見ることが出来るのか、とても不思議だったが、暑さとか、動かない時間とか、一定の条件下では起こるのだろう。自分の見たいものだけを目の前の光景に被せて見ていたのかも知れない。

「ジャマイカの嵐」、「陽はまた昇る」の延長線上にコンポステ-ラへの道はイメ-ジとしては半世紀近くも私の心の中に絶えずちらついていた。然し、そこに共通する強烈な光と影が、よもやフィリピンの自然の深部との出会いの中に浮かび上がるとは予想もしていなかったので、深い感動に包まれていた。

コンポステ-ラというスペイン語の地名自体はフィリピンでも珍しいわけではない。ネグロス島にもあるし、恐らくその他の島にもあるだろう。ただ、理由もなく同じ名前が付けられるわけでもないだろうから、命名した昔のスペイン人も同じような感想をもったのだろうと、推測している。

最大の理由は、矢張り石灰岩だと思う。イベリア半島からイングランドにかけて、ヨ-ロッパ西部はすべて石灰岩の隆起大地だからだ。

そして、フィリピンにはスペインの地名はすべてあると思って間違いない。

      ミンダナオ南西部のサンボアンガもあれば、ネグロス島にも、ご丁寧にサンボアンギ-タまである土地なのだから。


ボホ-ル紀行 (26)

2016-07-01 07:28:40 | Weblog

何が気になったかと言うと、ヤシの木の形だ。いわゆる油やしの木は、ずんぐりむっくり

していて、ボルネオでは嫌というほど見てきた。 樹高は5mほどで、普

通のヤシの木との違いは、その実の部分の形状にある。 小さな実が多数集まって出来ていて、その中にパ-ムオイルが含まれている。

 これが普通のヤシの実で、中にはポカリスエットが入っている。油やし実の完熟した状態は

                          こんな感じだ。

コタキナバルに住む、アングロフレンチの友人は、この完熟状態を知らせる特殊なセンサ-システムをプランテ-ションに売り込んで儲けている。彼自身もコタキナバタンガンの近くにプランテ-ションを持っているので、一度見せてもらったが、規模に圧倒されてしまった。

完熟か、未熟かに関わらず、油やしの実は上からドロ-ンで観察しても葉っぱに隠れて見えないとのことで、だったら下からロボットの目でみれば良いのではと言ったら、下からでも普通は見えないと言われたので、この画像は特別なのだろう。

ヤシの木は2種類しかないと思っていたが、実際にはニッパやしも含めて5,6種類あるみたいで、コタキナバルのウオ-タ-フロントには、とてもヤシの木とは思えないような大木が生えてい

る。 丁度こんな感じだ。

ボルネオの主要道路脇には、完熟した油やしの実が車にひかれて繊維質の部分だけがパサパサになって沢山落ちているので、慣れないとウサギほどの大きさの小動物の死骸に見える。気になったので、何回か車を止めて見たけれど、すべて油やしの実だった。

いわゆるヤシの木のイラストでは、本物でも同じだが

、頂上付近にだけ葉が茂り、

                  その葉の根元に実がついている。

                         

だから、もしかして、そのような形は今見ているような伐採作業を成長過程で絶えず行なわないと、出来上がらないのでは、と突然不安に思ったのだ。 この上の幾つかの画像を見ていると、あまりにも整然と頂上付近にしか葉っぱがないのが矢張り不思議だ。

仮に、成長過程で葉っぱが自動的に落ちるなら根元に大量の枯れた葉っぱがあるだろうが、見た覚えがない。

なので、他のヤシの木を見回してみると、すべて同じ形をしているし、無数にあるそれらがすべて剪定された結果だとはとても思えなかった。かといって、今見たヤシの木が殊更に車の通行に危険なほど道路に近いわけでもなかった。

同じような位置に、ヤシの木は他にも沢山あったし、結局、何のための作業だったのかは判らないままだ。道路から同じような距離にある他のヤシの木すべてにも同じような作業をするなら、理由はわからなくても、なんとなく納得できるが、その特定のヤシの木だけだった、作業は。

実は、数メートル離れたところでは同じような作業が行われていて、ヤシの木より細い、明らかに南国の広葉樹で、同じように作業員が取りつき、枝葉をナタで切り落としていた。

         
違いは、30mの延長用電源コードを持っていて、最初にてっぺんまで登り、そこの枝にコードを引っ掛けて途中まで降りて来て、その位置で足場用のくさびを幹に刻み始めたのだ。少なくとも最初はそのように見えた。

このようなくさびはヤシの木にも数メ-トル置きに刻まれていて、足休めに使われる。 問題は、その作業員がくさびをどんどん拡大していて、傍から見ていて今にも幹が折れてしまう程、深い切り込みを作っていたので、はらはらしながら見守っていた。よく、認知症の庭師が自分の乗った枝の根元を切ってしまうような、危なっかしさがその作業にはあったからだ。

結局、作業員は降りてきてしまった。そして、その直後に、地上にいた別の作業員が数人でコ-ドを引っ張るので幹は地上から5mほどの所で簡単に折れてしまった。

太さは10cmほどの木だ。高さだってヤシの木ほどでもない。上のほうで切ってしまうなら、何も登らないで根元から倒せばよいだけでは、との思いがあった。何故、その高さで切るのか、切って何が得られるのか、不思議だった。

最初は、近くに何軒か民家があるので、延長コ-ドのこともあり、臨時に村祭り用の照明でも用意しているのだと思っていたが、まったく理由がわからない。

現場監督には理由を聞かなかった。特に車の通行の邪魔になるわけでもないし、幹の途中で切ってしまって何を得られるのか、まったく判らないまま、セビリヤ目指して先に進むことにして現場を離れた。