ちょっとお休みしていましたが・・
実は10日前、母が他界したの。
何だかまだ夢を見ているみたい・・
この半年間の闘病生活は厳しいものでした。
といっても、私は離れて住んでいるので、
いまだにすべての事実を知らないでいるのかもしれません。
胆嚢癌だったんです。
膵臓がんと同じで、見つかりにくいんですよね。
私を産んだ頃から胆石を持っていたので、
地元の病院で定期検診をこまめに受けていたのに癌は発見されず、
この5月、他の病気でかかっていた東大病院で偶然発見され、
その時はもうかなり進行していたんだそうです。
血栓もあったため手術そのものが受けられるかどうかわからない状態でしたが、
10時間の大手術は成功、胆嚢、胆管、転移していた肝臓も一部摘出しました。
胆嚢癌って、進行も早いんだそうですね、7月には転移が見つかりました。
抗がん剤治療が始まりましたが、
副作用でひどい吐き気や何とも言えない脱力感でまったく外出できなくなってしまうの。
他の抗がん剤を試したりもしたんだけどほとんど効果がなく、
逆にどんどん体力が奪われていきました。
どちらがいいかですよね。
抗がん剤で寝たきりになってもとにかく延命するか、
それとも、たとえ命が短くなっても、動ける間は好きなことをして日々を送るか・・
母本人の希望で思い切って抗がん剤を中止し、
西洋医学に代わる代替医療を中心としながら、
父と畑へ出かけたり、ドライブに行ったり、
趣味の詩吟や謡、茶道にも少しずつ顔を出したり、
穏やかな日々が続きました。
残念ながら癌は着実に進行していきました。
10月には東大病院まで通院できなくなり、
地元の病院の在宅看護を受けていましたが、
食事がとれなくなっていたので貧血と脱水症状が激しく、地元の病院に入院しました。
もうここへ生きて戻ってくることはない・・そう覚悟していたことでしょう・・。
それから息をひきとるまでの1ヶ月間の母の苦しみは相当なものだったようです。
私は週末ごとに実家と病院へ通っていたのですが、母はどんどん衰弱していました。
いつも明るく前向きで、昔から逆境にも痛みにも強い母が、
私たちが想像し得ない辛さだったんでしょうね・・
「早く死にたい」と口にするようになったの。
よほどのことですよね。
毎日そんな母を見ていた父もどんなに辛かったでしょう・・
痛み止めにモルヒネを使い始め、副作用でときどき幻覚を見るようにもなってきました。
実際に目に見えているものと、幻覚との間をさまよい、
自分の体も感情もどうにもコントロールできなくて、
何をどうしても、見るもの聞くもの感じるもの、とにかくすべてがストレスでした。
そして何も食べられなくなってしまい、
消化器官からの出血もあったせいか貧血もひどく、
でも輸血や点滴は体が浮腫み、よけい苦しませるだけになってしまうということで、
あえて治療はおこなわれませんでした。
人がそばにいることすら辛いんです。
母に会いに行っても、
手を握ることも、体をさすることも、話しかけることもできませんでした。
娘として辛かったナ・・
「残念ながら年は越せないと思ってください」
主治医からそう言われました。
でもね、神様から素晴らしいプレゼントが・・!
11月23日(月)、相変わらず何も食べられず何も飲めず、
夢と現実をさまよっていた母が、
その日は1日中、朝からしっかり目を開けていたんです。
「これまでもしっかり目を開けていなきゃいけなかった」って。
何か少しでも口にできるといいなと思い、みかんをむいてあげると、
なんとほとんど1個全部食べたんです。
その上、コーヒー牛乳を飲んだり、ヨーグルトを食べたり。
昼間ずっと目を覚ましていて、ずっと話しかけてくれるの。
別人のようでした。
しっかり母の手を握りながらいろいろな話をしました。
不思議でしょう?
「産んでくれて本当にありがとう。お母さんの娘であることを心から誇りに思ってるよ」
母にきちんと言うことができました。
母も「ありがとう、ありがとう」と言ってくれました。
そして夕方、母の病室に父と弟と私、家族全員が揃いました。
起き上がれるはずのなかった母が「起き上がりたい」と言ったの。
父が抱えるように母を座らせ、後ろから弟、両脇を父と私で支え、
私は「ずっとずっと一緒だよ」なんて言いながら、
窓の外を彩る秋景色を家族4人水入らずで静かに眺めていました。
素晴らしいひと時でした。
「みんな揃ったね。大好きなみかんも食べたし、これで3日目に死ぬからね」
窓の外を眺めたまま、母はそう言いました。
私は「何を言ってるの~」なんて茶化してしまったんだけど、
母はまじめな顔で、「笑い話にしないで」って。
私はその後、母と父に促され浜松に戻りましたが、
母の言葉がずっと胸にあり、3日目にあたる11月26日(木)朝、病院にかけつけました。
母はほぼ昏睡状態でした。
反応する力はもうありませんでしたが、
こちらの話すことはすべて聞こえていたようだったので、
たくさんたくさん話しかけました。
夜になり、でもやはり母の言葉が耳から離れず、
私は浜松には戻らずそのまま実家に泊まりました。
日付が変わって午前3時半頃だったかな、
「心拍が下がってきたのですぐ来てください」と病院から電話が。
母の言葉は本当だったんだ・・
父と一緒に病院に駆けつけ、母の温かく柔らかい手をずっと握っていて、
でもふと気づくと、あれ?呼吸してない・・?
看護師さんに聞くと、もう呼吸も心臓も止まっていますって・・
間に合ったのか間に合わなかったのかわからないけれど、
ついに覚悟していたその瞬間がきてしまいました。
助けてあげられなくてごめんね・・
母が息をひきとる瞬間はそばにいてあげられなかったかもしれないけど、
父のそばにいてあげられてよかったです。
父が一人で夜中に知らせを受け、
ドキドキしながら病院にかけつけるなんてかわいそすぎるもの。
母は5月に癌であることを知り、余命も自分なりにわかっていたんでしょうね、
「エンディングノート」なるものを作っていました。
自分の生い立ちから病歴、父をはじめ、私と弟、孫たち、姉妹へのメッセージ、
そして宗派のこと、形見分けのことなど、すべて事細かに書かれていました。
自分のお通夜や葬儀のことも。
祭壇はこれ、骨壷はこれ、霊柩車はこれ、会葬者への料理まで選んでくれてあって、
葬儀社のパンフレットに○がつけてありました。
お棺に入るときに着せてほしい着物、お棺に一緒に入れてほしいもの、
骨壷に入れてほしいものも・・
「エンディングノート」を初めて見せてもらったのは夏の終わりくらいだったかな、
なのでそれからは、私も父も悲しんでいる暇はありませんでした。
母の苦しみを少しでも緩和してあげること、
母の日々のストレスを少しでも取り除いてあげることに加え、
母の心残りのないようにしっかり送り出してあげようと必死でした。
でも母がどんな想いでこれを書いていたのかと思うとさすがに胸がしめつけられます。
入院生活が長かったせいか、今、実家に母の姿がないことにまだ違和感を感じないの。
何だかまだ夢の中にいるようです。
やることがたくさんあって忙しいというのもあるんですけど、
まだ実感がわかないような・・
もう遠い昔のような・・
寂しくなるのはまだまだこれからなんだろうナ・・
今、母に申し訳ないと思っていることがあります。
息をひきとる数日前だったかな、母が私に夢うつつで、
「夜、○○(弟)にいてほしい。お父さんじゃ無理だから、○○に」って言ったのね。
実は夜間にナースコールが壊れていたり、
痛みを訴えたくても訴えられない状況が何度かあったそうで、
母はきっと一人になってしまう夜が怖かったんでしょうね・・
それなのにいつも私をすぐ浜松に追い返すの。
せっかく行っても3時になると決まって帰されました。
でも本当はずっとずっと家族にそばにいてほしかったんだろうナ・・
母が訴えてくれたとき、私はそれを叶えてあげることができませんでした。
たった一人の娘なのに・・
母が息をひきとった朝、すぐ母を連れて一緒に実家に帰ってきました。
その夜、母が寝ている部屋の隣で、少し開けた扉から母の顔を見ながら横になり、
時折母の枕元に座り、一晩過ごしました。
翌日のお通夜、
病院でそばにいてあげることができなかったので、
最後の夜は片時も離れず朝までずっとそばにいたいと思い、
義妹と一緒に母のそばにいました。
ところが、ろうそくを換えに立ち上がった義妹が突然倒れちゃったの!
隣にある仮眠室に運び寝かせたんだけど、さすがに一人にはできません。
仮眠していた伯母たちが代わって母のそばにいてくれるというので、
私は仮眠室で横になりながら義妹の様子を見ていました。
幸いにも大事には至らず、義妹はぐっすり眠ると翌朝には元気になりました。
最後の夜なのに、結局また母のそばに一晩中いてあげることができなかった・・
ごめんね、ごめんね、と心の中で母に謝り続けていました。
でも考えてみたら、
ここ数日ほとんど寝ていなかった私を母が休ませてくれたんでしょうね。
母親ってすごいです。
お母さん、ありがとう、最後の最後まで私のことを心配してくれて。
それに母の最後の数日間は、手放せなかったモルヒネを一度も使うことなく、
元気な姿を私たちに見せて素晴らしい思い出を残してくれてから、
眠るように静かに息をひきとりました。
母らしいです。
そして・・
この半年間の父の献身ぶりにはもう言葉がありません。
片道2時間かけて毎日欠かさず東大病院に通い母のそばにいてくれて、
また自宅でも母のために娘でも気付かない細かいことにまで気を配り、
積極的に明るく優しく、きめ細やかな看護をしてくれていました。
病気のことも、治療法のことも、代替医療のことも、本を買い込んで勉強していたし、
ありとあらゆる手を尽くしてくれました。
大きな決断をしなければならないことも度々あったでしょう。
もう若くない父の肉体的・精神的な苦労がどれほどだったか・・
でも愚痴や弱音は一度も聞いたことがありません。
むしろ自分がやってあげたいからやっているという印象でした。
本来なら逃げ出したくなるほど辛い日々だったでしょうに、
「これはお父さんの運命なんだよ。お母さんはお父さんがしっかり見るから大丈夫だよ」って。
お通夜と告別式には母のためにそれはそれはたくさんの方が集まってくださって、
母がどれほど多くの方々に愛されていたのか思い知りました。
また、離れて暮らす私や私の家族のことを母がどれほど想ってくれていたのか、
皆さん話して聞かせてくださいました。
父は夫として喪主として立派に振舞い、
でもね、最後の喪主の挨拶で、父ったら涙をこられきれず、
「最後に言わせてください。私にとって最高の女房であり、最高の友であり、
子供たちにとって最高の母親、孫たちにとって最高の祖母でした」って。
まるでドラマのようだけど、これは父の心からの言葉でした。
私、感動しちゃった!
お父さん、最高に素敵です。
母は病気がちだったけど、愛する人にこんなにも愛されて幸せな人生だったんですね。
「エンディングノート」にもそう書かれていました。
父と母にはいろいろな意味で美しき家庭の姿を見せてもらいました。
「孝行したいときに親はなし」、
これはまったく違うそうですね。
親が霊界での生活を始めてからの孝行が本当の親孝行なんですって。
子孫の行いが霊界にいる親の霊籍と生まれ変わってからの幸せに大いに影響するんですって。
「誰しもいつか早かれ遅かれこの世を去らなければならないけれど、
その先に新たなステージが待っているんだよ。
もうこれですべて終わりじゃない、お母さんの永遠の命は生き続けているからね。
いつかきっとまた会えるから」・・
大好きな人が私にそう話してくれました。
17歳の時、お父さんを癌で亡くしたPatrizio、
父親を亡くした喪失感がどんなものであったか・・
でもその経験がPatrizioをここまで成長させ、
Papaからもらうエナジーで歌い続けているんですものね。
私も母から愛情とエナジーをもらい続けることでしょう。
Patrizioのマンマは私の母と同い年なの。
Patrizioの為にもいつまでも元気でいてもらいたいです。
私の想い、読んでくださってありがとうございました。
気持ちを整理したくて書いてみました。
素晴らしい両親の元に生まれてきたことを誇りに思います。
母にはまだまだ追いつけないけど、
母の魂を受け継ぎ、母のように人のために生きられる素敵な女性になりたいです。、
そして、一人になってしまった父を今まで以上に尊敬し、仲良くし、大切にしたいと思います。
まだまだ元気でいてもらわなきゃネ!
Grazie, Sorridi