私も人並みの男性で若いお姉さんが好きなのですが、さすがに
最近は20代の女性とはお話しても辛く感じるようになりました。
(遅い?50代でもう無理?、いえいえ、60代でやっとですよ)
20代と書いたのは30代はまだ何とかという意味ですよ。
いやいやほんとに30代大丈夫ですよ。
(自分が勝手に思ってるだけ?相手は至極迷惑?かもわかりません)
つまり加藤茶(20代の女性と結婚)は無理だけど、
堺正章(40代の女性と結婚)は受け入れられるということです。
何の話だか。
そんな若い女性好きの僕でも好きになる、それなりの年齢の女性に
時々出会います。そんな中に70代の女性がお二人。
と言ってもお一人は2年前に突然亡くなりました。
その亡くなられた方は僕が20代初めに勤めたデザイン会社の社長でした。
当時、女性社長はこの業界でも珍しく友達にもうらやましがられたものです。
デザインの制作面のことは解らず、経営だけをされていました。
女性のかわいい魅力持った方でそれでいて自立の強い姿勢を持った
当時30代半ばのかっこいい人。
当時でも若い人さえ一部の人が、はいていたミニスカートを誰よりも早くはき、
行動的で新しいものは何でもいち早く取り入れ体験する。
現在の女性のようにわがままを表に出す人で、それでいて一方では
倫理観に厳しい、明るくてかわいい頭のいい女性でした。
大阪で女性で2番目に自動車運転免許証を取ったという話です。
1番目はお友達の有名な料亭の女将です。一緒に行ったものの、
彼女が年上だったから1番らしいです。
彼女の口癖は「昔の男性は優しかった、怖くて右折出来ないで
梅田の交差点の真ん中で渋滞を起こしていると、誰も文句も言わず、
誰かが代わって運転して右折してくれた」そうです。
のんびりした時代か、女性ドライバーが珍しかったのでしょう。
もちろん社員はみんな憧れで、飲み会に誘われることを
いつも心待ちにしていたものです。外にもファンは多く、
近所で買うタバコ屋のおじいさんさえ、タバコを渡す時に
しっかり手をにぎって手を離さないのだと笑っていました。
不愉快に拒否せず、自分の魅力を知っていて、自惚れではない自己主張、
そんなある意味優しい、都会的な一面が僕は好きでした。
僕のその頃は、一番新入りで、もちろん社長は雲の上の人で、
仕事を身につけるのが必死のころで、先輩にこき使われていた時代です。
今でも思い出すのは給料アップの直談判をしたことです。
僕は一番下っ端で、毎朝絵具皿を200枚近く洗い、それから先輩の使い走り、
やっと仕事をさせてもらうのは先輩のお手伝い。
自分でデザインできるのはそんな仕事をすべて終わらせて時間ができた時。
仕事を早く終わらせる方法を身につけて、頼まれもしないのに
先輩の仕事のデザインをして「これも1案一緒に持って行ってください」
とお願して、僕のデザインが決まったりして、徐々に実績を積み、
先輩と同じ仕事を任されるようになった時。
相変わらず雑用はすべてせねばならず。給料があまり違うので、
2年目に社長に直談判したのです。同じレベルの仕事をして、
雑用を一切しているとだからもっと上げてくれと。今思うと生意気ですね。
制作のトップの方と話したらしく、給料が2.5倍近く上がりました。
社長を退いてから、年賀状の返書にデートのお誘いが書いてあり、
それから色々お友達のようにお会いするようになりました。
梅田の裏にテナント数件持っておられ、その関係の仕事で
月に1度梅田に出るたびに、夕方からは色々連れて行ってもらったものです。
真っ赤なフェアレディZを新車が出るたびに乗り換えられ、
人通りの多い梅田の待ち合わせ場所に立つ僕の横に急停車して停まると、
周りはいつも大注目でした。
派手な服装のお姉さんが真っ赤なゼットから顔をだし、はしゃいだ声で
迎えに来てくれるのはちょっと周りの目が恥ずかしかったものです。
一度、僕が30代半ばのころ、広告代理店の電通の顔見知りの社員に見られ、
興味しんしんに桃旗君はツバメか、なんて冷やかされたものです。
その、お迎えは70代になっても続き、おばあちゃんになっただけに
真っ赤なゼットと余計に目立つようになりました。
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相手がお金持ちでもあり、どこに行っても、
何をしてもずっとごちそうになりっぱなしで、お金は払ったことはないけれど、
社会勉強をさせてもらったとともに考え方、価値観が非常に合って、
72歳のお年まで気の合うガールフレンドでした。時々プラダのカバンを
もらったりして帰ると家族は大喜び、デートをけしかけられる有様。
昔の医療技術のせいで内臓を悪くされており、本人はあまり食べれず、
いつも僕がおいしそうに食べるのを見ていたようなデートでしたが、
梅田のかくれ家に行くのもまれになり、南の自宅の豪邸を建て替えられて、
カラオケとお家の往復デートになったころ。突然亡くなられました。
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どの部屋も可愛い装飾でいっぱいでした。
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種子島の鉄砲まで飾られていました。
たった2人の年上の生涯のガールフレンドでした。
もう一人のガールフレンドは次回。
最近は20代の女性とはお話しても辛く感じるようになりました。
(遅い?50代でもう無理?、いえいえ、60代でやっとですよ)
20代と書いたのは30代はまだ何とかという意味ですよ。
いやいやほんとに30代大丈夫ですよ。
(自分が勝手に思ってるだけ?相手は至極迷惑?かもわかりません)
つまり加藤茶(20代の女性と結婚)は無理だけど、
堺正章(40代の女性と結婚)は受け入れられるということです。
何の話だか。
そんな若い女性好きの僕でも好きになる、それなりの年齢の女性に
時々出会います。そんな中に70代の女性がお二人。
と言ってもお一人は2年前に突然亡くなりました。
その亡くなられた方は僕が20代初めに勤めたデザイン会社の社長でした。
当時、女性社長はこの業界でも珍しく友達にもうらやましがられたものです。
デザインの制作面のことは解らず、経営だけをされていました。
女性のかわいい魅力持った方でそれでいて自立の強い姿勢を持った
当時30代半ばのかっこいい人。
当時でも若い人さえ一部の人が、はいていたミニスカートを誰よりも早くはき、
行動的で新しいものは何でもいち早く取り入れ体験する。
現在の女性のようにわがままを表に出す人で、それでいて一方では
倫理観に厳しい、明るくてかわいい頭のいい女性でした。
大阪で女性で2番目に自動車運転免許証を取ったという話です。
1番目はお友達の有名な料亭の女将です。一緒に行ったものの、
彼女が年上だったから1番らしいです。
彼女の口癖は「昔の男性は優しかった、怖くて右折出来ないで
梅田の交差点の真ん中で渋滞を起こしていると、誰も文句も言わず、
誰かが代わって運転して右折してくれた」そうです。
のんびりした時代か、女性ドライバーが珍しかったのでしょう。
もちろん社員はみんな憧れで、飲み会に誘われることを
いつも心待ちにしていたものです。外にもファンは多く、
近所で買うタバコ屋のおじいさんさえ、タバコを渡す時に
しっかり手をにぎって手を離さないのだと笑っていました。
不愉快に拒否せず、自分の魅力を知っていて、自惚れではない自己主張、
そんなある意味優しい、都会的な一面が僕は好きでした。
僕のその頃は、一番新入りで、もちろん社長は雲の上の人で、
仕事を身につけるのが必死のころで、先輩にこき使われていた時代です。
今でも思い出すのは給料アップの直談判をしたことです。
僕は一番下っ端で、毎朝絵具皿を200枚近く洗い、それから先輩の使い走り、
やっと仕事をさせてもらうのは先輩のお手伝い。
自分でデザインできるのはそんな仕事をすべて終わらせて時間ができた時。
仕事を早く終わらせる方法を身につけて、頼まれもしないのに
先輩の仕事のデザインをして「これも1案一緒に持って行ってください」
とお願して、僕のデザインが決まったりして、徐々に実績を積み、
先輩と同じ仕事を任されるようになった時。
相変わらず雑用はすべてせねばならず。給料があまり違うので、
2年目に社長に直談判したのです。同じレベルの仕事をして、
雑用を一切しているとだからもっと上げてくれと。今思うと生意気ですね。
制作のトップの方と話したらしく、給料が2.5倍近く上がりました。
社長を退いてから、年賀状の返書にデートのお誘いが書いてあり、
それから色々お友達のようにお会いするようになりました。
梅田の裏にテナント数件持っておられ、その関係の仕事で
月に1度梅田に出るたびに、夕方からは色々連れて行ってもらったものです。
真っ赤なフェアレディZを新車が出るたびに乗り換えられ、
人通りの多い梅田の待ち合わせ場所に立つ僕の横に急停車して停まると、
周りはいつも大注目でした。
派手な服装のお姉さんが真っ赤なゼットから顔をだし、はしゃいだ声で
迎えに来てくれるのはちょっと周りの目が恥ずかしかったものです。
一度、僕が30代半ばのころ、広告代理店の電通の顔見知りの社員に見られ、
興味しんしんに桃旗君はツバメか、なんて冷やかされたものです。
その、お迎えは70代になっても続き、おばあちゃんになっただけに
真っ赤なゼットと余計に目立つようになりました。
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相手がお金持ちでもあり、どこに行っても、
何をしてもずっとごちそうになりっぱなしで、お金は払ったことはないけれど、
社会勉強をさせてもらったとともに考え方、価値観が非常に合って、
72歳のお年まで気の合うガールフレンドでした。時々プラダのカバンを
もらったりして帰ると家族は大喜び、デートをけしかけられる有様。
昔の医療技術のせいで内臓を悪くされており、本人はあまり食べれず、
いつも僕がおいしそうに食べるのを見ていたようなデートでしたが、
梅田のかくれ家に行くのもまれになり、南の自宅の豪邸を建て替えられて、
カラオケとお家の往復デートになったころ。突然亡くなられました。
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どの部屋も可愛い装飾でいっぱいでした。
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種子島の鉄砲まで飾られていました。
たった2人の年上の生涯のガールフレンドでした。
もう一人のガールフレンドは次回。