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大和川付け替え工事。昔の本流がどこにあったか知ってますか。

2012-04-12 00:36:29 | 日記
私は地図を見るのが大好きなのですが
これは先日のウオーキングでリーダーから頂いたもの。
先日は東高野街道の一部を歩いたのですが
驚いたのは、ほぼまっすぐに大阪の東を縦断してるんですね。
地図では四天王寺の上の四角が大阪城ですね。
その西に東西奉行所で区割りされたところが見えます。
中心である大阪城を経由せずに京都から高野にズドンと。



その高野道に向って放射線状に大阪の中心部と
堺の中心部から道が造られています。
これって、今の道路行政に活かしていれば
渋滞の少ない街作りが出来たのではと思うのです

大阪から中高野、下高野。
堺から西高野街道と道が河内長野に収束して、
高野山に向っていたのですね。

この地図は僕が初めて見るもので
見た瞬間すごく驚いた事があります。

大和川の付け替え工事が終わったすぐの頃のものですね。
1704年~数年ごろ? 
と言うのはまだ新開池が残っています。
大和川が付け替えられて新開池が干上がったところを
鴻池が干拓して、今の鴻池新田として残っているのです。
(もちろん、湾岸部分ははっきりしないのか今のものですね)

この地図の今の柏原辺りから2本新開池に向っている川の
西側が本来の大和川の本流でもっと太かったのですね。
付け替えられてだいぶ細っているのです。
もう1本の東側の川が、今の第二寝屋川になったのです。
本流の方は今は細い水路のようになっています。

僕の実家が東大阪に引っ越してきた頃、僕は中学生で、
家の周りの大きなお家の塀に和船の船板が
使われていたところが沢山ありました。

中学生の歴史の教師が昔はこの辺りまで海で
その証拠に塀に船板が使われているところがあるんだ
と言っていましたが、僕はどうも納得がいかなかった。
江戸時代にはこの辺は海じゃなかったんだから、
海だったのはもっともっと昔の筈。
そんな昔の船板が江戸時代を超えて残っている筈がない。
ひとのせいにするようだけど、僕はこの教師の授業が退屈で
おまけにこんなでたらめ言ってたんだから。
良い教師に巡り会ってたら歴史が好きになったのに。

これは大和川の本流が側を通っていたからなんだ。
川船だったんだ。
最近やっと知って、歴史も楽しくなった。
こんな授業があれば良かったのに。

今まで街道をあまり知る事がなかったので
こんな地図と出会えなかったけれど、
色んな事をするとさまざまな知識が増えるものだ。