日々Change。今日の怒りも、恐れも、悲しみも、明日は夢と希望と喜びに。

少々高くても、日本の商品を買いましょう。力を合わせて日本の復興のために。

60代の弁当男子、ってクールちゃう?

2011-09-06 20:27:40 | 日記
自分の弁当を朝作るようになって、どれぐらい経つだろう。5、6年、それ以上か。

料理を作る男性ってちょっと理性派の人が多くてかっこいいなと昔から思っていた。
芸能人、文化人その中でも、そう言う人が多いですよね。
ただ、僕は料理が全くできないって思いがあってずっと敬遠していた。

きっかけは娘が中学生の時、
僕の妻が朝早い番組が決まり、早朝出かけなければならなくなった。
NHKで人気の朝8時から放送の連続ドラマ(今は「おひさま」を放送しているかな)、
その後に放送していた「経済セミナー」だったか、堅そうなテーマを
主婦にも解りやすく解説するような番組だったと思う。
東京制作と大阪制作、大阪制作は週二回、朝8時15分放送だ。
朝の忙しい時間帯そして連続ドラマを見た後、用事を始めるので見る人は少なかったのでは。

生放送で、放送2時間前入りだから、通勤時間を入れて家を5時過ぎには出て行く、
女性なので朝の準備もする事が多いので、4時頃起きていたと思う。
(朝のニュース番組に出ているアナの人達、6時半頃の生放送だから
2時半から3時頃起きてるはずだ。あーねむいねむい)
それで、娘の弁当が作れないので週二回僕が作る事になった。
えっ~、そんなのよう作らんよ。といったが、サンドイッチなので簡単だからと
妻のレクチャーを受けた、う~ん、これならできそうだ。ついでに僕の分も作る。

これが僕の弁当を作り出した最初。
ただ、番組が終わって、作る必要が無くなり永く作る事はなかった。

今の会社に入ってから、今までの自営業の様にはいかないぞっと、
おこずかいだって限られるのだから、弁当を持って行こうと。

ところが妻は、主婦をやりながら昼間は司会やアナの仕事で忙しく、
前日ブログに書いたように
夜はFM局のDJの仕事の為に夜遅くまで、毎日毎日CDを聞きまくっている。
朝早くとても頼めない、よし自分で作ろうと作り始めて現在に至る。
しばらくして、
年齢的に妻もDJを辞めたものの、僕は相変わらず自分で弁当を作っている。


玄米ご飯、黒ごま、白ごま、
カボチャコロッケ、こ芋、お多福豆、ブロッコリー、プチトマト、野菜炒め(下)、鮭(上)


しばらく前、高学歴の若者の中に弁当男子と言って、
自分でお弁当を作って持って行く人が増えているとニュースが伝えた。
なぜか、やっぱり料理をするのは高学歴とか理性派なのである。
調べたのか?ほんとに高学歴か、マスコミは適当なもんだ。
まあいいや、僕も理性派とのせられて気分よく作るんだから。僕が理性派ね?ははは(泣)。

というものの最近疲れてきたんだよね、作るの。面倒くさくなったというか。
ただ弁当辞めると、太るんですよ。だから頑張って野菜中心弁当を作ってるんやけど。
揚げ物の入っていない、野菜中心の弁当売り出してくれへんかな。コンビニさん。
安くね。

JAZZの事、小曽根真さんのこと。

2011-09-05 19:36:33 | 有名人ネタ
この前、たまたま覗いたブログのコメントで女性同士が『小曽根真の音楽っていいよね」
って話していたのでつい首を突っ込んでしまいました。

僕も大好きなJAZZピアニストの一人です。
20年近く前、FM局のデザインの仕事をしていたのですが、その時のプロデューサーが
小曽根さんの番組担当で、仕事の打合わせはその番組の後でいつもしていました。
4、5曲かかっている合間にスタジオから出て、良くおしゃべりをしました。

当時、一般にはあまり知られていませんが、JAZZファンには知られたすごい人で
バークリー音楽院をを首席で出られ、あの若さで日本人ではじめて
カーネギーホールでソロ演奏した人です。



早くから局に来て、いつも番組でかける曲を長い時間をかけて自分で選曲をされていました。
局任せではなく、あんな大御所でも自分でするのだと、
ヘッドホーンをつけ、スタジオの片隅で、
高く積み上げたCDを聴く背中を見て感心し、好感をもちました。

僕の妻が同じように週一の番組の為に、選曲するのに一週間に100曲聞いていたのを、
大変だなといつも見ていたものの、局の担当者がどうしてしないのか不思議でした。
あれは無名のアナウンサーだから、そんな事までやらされるんだ、と理解していたけれど。
その時の妻が『私がこれだけするから、私の番組の選曲は本当に良いとついてきてくれる
リスナーが沢山いるし、曲についていろいろ話せるの」と言っていたが。

小曽根さんもきっと同じだったのだろう。音楽が好きで自分の聴きたい曲を
リスナーの人にも聞かせてあげたいんだ。本当に根っからこの人は音楽が好きなんだ。
あたりまえだよね、だからこんなすごいピアニストになっているんだ。

プロデューサーが、まこっちゃんはあれだけすごいピアニストなのに、
飲みに行くとどこでもピアノを弾くからね。安もんのピアノでも何でも店にあれば弾くから。
あの、世界の小曽根がそこで弾いてるの、小曽根さん知ってる客やったらびっくりするで。
さらに、彼は僕には3本手があるねん、と。
2本で足りない手がもう一本出ている感じだと。本人が言う所がすごいと思う。

あの、真っ赤なフェラーリはまだ乗っておられるのか。(また、真っ赤な車!?)

偉ぶらない人柄はFM局のイベントでもビンゴコーナーの司会にまで出られていた。
ある夏の須磨の海岸のイベントで、何番目かにビンゴを引き当てた僕の息子に
「あ、桃旗さんの子どもさんがビンゴです、おめでとう」と言われたけど
僕は関係者にならないのか、まずいと局のお偉方を見てしまったことまで思い出す。
ちょっと、子どもを呼ばれてうれしかったな。

今、他局でDJされているのかな。だったら、リクエストしてみようか。

70歳代のガールフレンドその1

2011-09-04 13:50:04 | 日記
私も人並みの男性で若いお姉さんが好きなのですが、さすがに
最近は20代の女性とはお話しても辛く感じるようになりました。
(遅い?50代でもう無理?、いえいえ、60代でやっとですよ)
20代と書いたのは30代はまだ何とかという意味ですよ。
いやいやほんとに30代大丈夫ですよ。
(自分が勝手に思ってるだけ?相手は至極迷惑?かもわかりません)
つまり加藤茶(20代の女性と結婚)は無理だけど、
堺正章(40代の女性と結婚)は受け入れられるということです。
何の話だか。

そんな若い女性好きの僕でも好きになる、それなりの年齢の女性に
時々出会います。そんな中に70代の女性がお二人。
と言ってもお一人は2年前に突然亡くなりました。

その亡くなられた方は僕が20代初めに勤めたデザイン会社の社長でした。
当時、女性社長はこの業界でも珍しく友達にもうらやましがられたものです。
デザインの制作面のことは解らず、経営だけをされていました。
女性のかわいい魅力持った方でそれでいて自立の強い姿勢を持った
当時30代半ばのかっこいい人。
当時でも若い人さえ一部の人が、はいていたミニスカートを誰よりも早くはき、
行動的で新しいものは何でもいち早く取り入れ体験する。
現在の女性のようにわがままを表に出す人で、それでいて一方では
倫理観に厳しい、明るくてかわいい頭のいい女性でした。

大阪で女性で2番目に自動車運転免許証を取ったという話です。
1番目はお友達の有名な料亭の女将です。一緒に行ったものの、
彼女が年上だったから1番らしいです。
彼女の口癖は「昔の男性は優しかった、怖くて右折出来ないで
梅田の交差点の真ん中で渋滞を起こしていると、誰も文句も言わず、
誰かが代わって運転して右折してくれた」そうです。
のんびりした時代か、女性ドライバーが珍しかったのでしょう。
もちろん社員はみんな憧れで、飲み会に誘われることを
いつも心待ちにしていたものです。外にもファンは多く、
近所で買うタバコ屋のおじいさんさえ、タバコを渡す時に
しっかり手をにぎって手を離さないのだと笑っていました。
不愉快に拒否せず、自分の魅力を知っていて、自惚れではない自己主張、
そんなある意味優しい、都会的な一面が僕は好きでした。

僕のその頃は、一番新入りで、もちろん社長は雲の上の人で、
仕事を身につけるのが必死のころで、先輩にこき使われていた時代です。
今でも思い出すのは給料アップの直談判をしたことです。
僕は一番下っ端で、毎朝絵具皿を200枚近く洗い、それから先輩の使い走り、
やっと仕事をさせてもらうのは先輩のお手伝い。
自分でデザインできるのはそんな仕事をすべて終わらせて時間ができた時。
仕事を早く終わらせる方法を身につけて、頼まれもしないのに
先輩の仕事のデザインをして「これも1案一緒に持って行ってください」
とお願して、僕のデザインが決まったりして、徐々に実績を積み、
先輩と同じ仕事を任されるようになった時。
相変わらず雑用はすべてせねばならず。給料があまり違うので、
2年目に社長に直談判したのです。同じレベルの仕事をして、
雑用を一切しているとだからもっと上げてくれと。今思うと生意気ですね。
制作のトップの方と話したらしく、給料が2.5倍近く上がりました。
社長を退いてから、年賀状の返書にデートのお誘いが書いてあり、
それから色々お友達のようにお会いするようになりました。
梅田の裏にテナント数件持っておられ、その関係の仕事で
月に1度梅田に出るたびに、夕方からは色々連れて行ってもらったものです。

真っ赤なフェアレディZを新車が出るたびに乗り換えられ、
人通りの多い梅田の待ち合わせ場所に立つ僕の横に急停車して停まると、
周りはいつも大注目でした。
派手な服装のお姉さんが真っ赤なゼットから顔をだし、はしゃいだ声で
迎えに来てくれるのはちょっと周りの目が恥ずかしかったものです。
一度、僕が30代半ばのころ、広告代理店の電通の顔見知りの社員に見られ、
興味しんしんに桃旗君はツバメか、なんて冷やかされたものです。
その、お迎えは70代になっても続き、おばあちゃんになっただけに
真っ赤なゼットと余計に目立つようになりました。


相手がお金持ちでもあり、どこに行っても、
何をしてもずっとごちそうになりっぱなしで、お金は払ったことはないけれど、
社会勉強をさせてもらったとともに考え方、価値観が非常に合って、
72歳のお年まで気の合うガールフレンドでした。時々プラダのカバンを
もらったりして帰ると家族は大喜び、デートをけしかけられる有様。

昔の医療技術のせいで内臓を悪くされており、本人はあまり食べれず、
いつも僕がおいしそうに食べるのを見ていたようなデートでしたが、
梅田のかくれ家に行くのもまれになり、南の自宅の豪邸を建て替えられて、
カラオケとお家の往復デートになったころ。突然亡くなられました。


どの部屋も可愛い装飾でいっぱいでした。


種子島の鉄砲まで飾られていました。

たった2人の年上の生涯のガールフレンドでした。

もう一人のガールフレンドは次回。

司馬遼太郎と藤沢周平

2011-09-02 23:34:56 | 読書・映画・テレビ
6月のブログで司馬遼太郎のことを書いたけれど、その続き。

中学校の時代にご近所に司馬遼太郎がいるのを知り、
我が家が産經新聞を取っていてその頃「竜馬が行く」が掲載されていた。
でも、歴史が嫌いで世間で大人気になっているものを
敬遠する癖がある僕は20才を過ぎても見向きもしなかった。
司馬遼太郎はこの後数年に渡り、小説家で長者番付1位が続いていた。
すごい人気作家だったのだ。
55才から読み始めた司馬文学は面白く、次々読み始めた。
文庫本で約65冊、最初の20冊ほどは一気だったと思う。
一般の人が1日7里歩いて江戸、長崎に行っていたが
吉田松陰は以外と健脚で12里歩いていたとか。
僕に歴史への興味の扉を開いてくれた。
司馬遼太郎が膨大な資料を元に書くというのも解る気がした。

しばらくして、「竜馬伝説を追え」中村彰彦著を読んだ。
あれ、僕の中で絶対的な司馬遼太郎の歴史観が揺らいだ。
龍馬暗殺の首謀者を探る内容だ。
「竜馬がゆく」で語られていたことが断定でないことを知る。
たまたま、次に津本陽の「商人龍馬」、
童門冬二の「龍馬と弥太郎」というのを読んだ。

司馬遼太郎よりもっと深い、歴史の面白さがある。
そして、商人としての龍馬の視点に龍馬の人物像が
かなり鮮明に見えて来たような気がする。

その後、たまに読んでいた藤沢周平の本にはまり出した。
こちらには歴史のワンポイントレッスンはないが
小説としての人物像がすごい。
歴史への解説はないが小説の中の人物にその歴史観んが
生かされているようだ。だから面白いのかもしれない。

そして、先週手にした「司馬遼太郎と藤沢周平」という佐高信の本。
自分が読んできたこの二人の人物のもやもやが何かわからないが、
偶然この本に導かれたような気がする。

しかし、この佐高信という作家よほど司馬遼太郎が嫌いと見える。
ここまで二人の対比の中で司馬遼太郎を憎々しく書くことに
抵抗を感じてしまう。僕が司馬遼太郎を読んでいて、
「竜馬伝説を追え」「商人龍馬」を読み、司馬遼太郎に対する
違和感が湧きあがった意味が少しわかったような気がする。
そして、自然と藤沢周平に流れた僕の読書の姿勢が偶然にも
この「司馬遼太郎と藤沢周平」に当てはまったような気がする。



とはいえ、これほどまでに何から何まで、気に入らないように
司馬遼太郎を批判するこの佐高信という人に違う意味での違和感を感じてしまう。

この自分の不思議な本との出会いに何かに導かれているような予感がして面白い。

ちなみに、2011年9月現在、僕のよく読んだ作家は
坂東真砂子、横山秀夫、藤沢周平、野沢尚、司馬遼太郎、新田次郎、
村上春樹、向田邦子、藤原伊織、東野圭吾、亀山早苗、津本陽、・・・・
こんなことを書いてもしょうがないか。

どなたかおすすめの作家がいたら教えてください。
もし僕がその作家にはまってしまったら、お好み焼きをごちそうしますよ。

車よりウォーキング。でも懐かしいサニークーペ1200GX。

2011-09-01 23:59:27 | 感動・思い出


今若い人に車が売れないという。

今、車が憧れではなく、あって当たり前、用途重視の道具。
車による個人の競争・差異意識の低下。
車を所有・購入する魅力も薄れてしまい、
同時進行で車自体も「エコ」とか便利さで、走りの楽しさやスタイリングなど、
自動車本来の魅力のある車が作られなくなったことも原因のようだ。
もちろん、若者の雇用不安と給与の低下に伴う経済的な問題、
さらに購買順位が下がり、携帯やゲームなど低価格商品に流れたからでもある。

僕の20代の頃、
給料をもらうようになって、真っ先に買った高額商品が車でした。
確か60万円だったかな、サニークーペ1200GX。
サニークーペの中でも最上位機種だったから当時でも高かった。
(スタンダードタイプで45万ぐらいだったか)

サファリラリーで日産が活躍していた時代、
国際的に認められつつあった日本の誇りみたいなものだった。
サファリカラーと言われた、からし色のクーペでした。

当時、デザイナーなんて職業は弟子入りみたいな世界。
他の職業から見ても所得は少なかった。
私の給料が1万5千円から2万円を少し超える時代。
(大企業の初任給4万ぐらいかな)良くこんな給料で買ったもんです。
ただ右肩上がりの経済、1年で3、40%給料が上がった。

今から10年ほど前のデジタルカメラが出る前の中国で。
月給数千円の中国人が年収の3倍程の一眼レフカメラを買っていると、
日本のニュースではキャスターが驚きながら話していた。

まるでその頃の僕と同じ、中国でも同じような時代だったのかな。
貧しいながらも国が右肩上がりで、
自分の将来に不安はなく期待しかなかった時代。

僕はメカには弱いけれどもクルマが大好きだった。
中学生の頃には、ほぼすべてのクルマの車種が言えた。

免許を取り立ての20代はじめの僕がこの高いクルマを買った。
理由は2つあり、
一つは初恋の女性を乗せて走りたいと夢を持った。
僕は車を持てば彼女が振り向くと思っていた。
実際夢は一度だけしか夢は叶わなかったけれど、
彼女を乗せて走った1日は忘れられない。
運転にも女性にも新米の僕は運転に集中出来ず、
自分でも危ないと思って、低速で慎重に運転したのを思い出す。

もう一つは、僕のデザイン学校の教師が、
当時人気の鈴鹿サーキットでレースをしていたチームの一員で、
自分のチームのレースカーをデザインしていた。
その教師の自慢は、規模も成績も話題にもならない下位チームだが、
当時日本人レーサー、人気実力ともNo1の生沢徹に
車のデザインだけは一番良いと誉められたことだ。

その教師は普段仕事で日産のクルマのパーツのデザインをしており、
当時はトヨタよりも技術の日産と言われており、
日産のファンだった僕はこの教師の影響もあり、
車好きが熱狂したサファリラリーのサニークーペを買うことを決めた。


Suny Cupe GX この後姿、今見てもかっこいい。
重低音のエグゾーストノートは今のF1カーよりしびれる音でしたよ。

クルマで走るのが好きだった。目的もなく街を走った。
といっても暴走族でもなく、メカオタクでもなく、ただただ、
クルマのかっこ良さと所有欲の満足感、そして何よりスピード感。

アメリカの有名なコラムニスト、ボブグリーンの17歳という小説の中に、
若者がただただ毎日、車で街を流す一説が出てくる。
若者はどこも同じようだ。

レーサーには福沢幸雄なんてかっこいい若者とかも出て・・・。
育ちは福沢諭吉の孫という超サラブレッド。
おまけに容姿もよく、モデルまでして映画スターのような若者だった。
そして、命知らずのレーサーでもある。かっこよすぎる。
さらに当時の彼の恋人は、人気の歌手の小川知子であり、
彼が自動車事故で亡くなり泣き崩れる小川知子の姿は、
まるでドラマか映画のようだった。

この頃、超話題のグラフィックデザイナー、横尾忠則が
ポスターに小川知子のイラストを使ったりしていたし、
世の中のすべてが僕の生き様とつながっているような気がしたものだ。

僕の20代は車とともにあったような時代だ。

車は日本の躍進のシンボルのようなもので、新しい車が発表されるたびに、
僕も含め若者の一番の関心ごとだったように思う。
今、新しい車が出てわくわくするようなことが少なくなってしまった。

そして何より、僕自身、今は車よりも歩くことに興味を持ってしまっている。
それでも唯一、復活した日産スカイラインGTRが僕をわくわくさせる。


NISSAN SKYLINE 2000GTR

宝栄小で転居してしまった親友の上野直輝くん

2011-09-01 00:08:52 | I love OSAKA 大阪の象徴
ちょっと思いついたんだけど、世界に発信できるブログだから試してみたいことがある。
僕ももう60を超えた、おそらくもう会うこともないだろう人たちに発信してみたい。
それは幼い頃お友達だったご近所の人や小学校などの旧友。お互いにわかる符号で、もしコメントが入ったら奇跡だ。ちょっと楽しみ。
僕の昔の家は中央大通りの拡張で立ち退きしたから、その後あの人達はどうなったのか。
タイトルに入れると検索にかかる可能性があるから期待できる。


たずねびとその2

●宝栄小で転校してしまった親友の上野直輝くん(漢字が違っているかも知れない)