新年の3日に書いた「日記」というタイトルの日記
昭和47年9月、浪人生活の途中
弟が亡くなったその一部始終を涙で汚しながら書き終えて
それだけ残して
一切合財、破り捨てた
残してあった悲しみもいつの間にかどこかへ消えてしまったなぁ
まだ探してみたらこの家のどこかに眠ってるのかもしれないが・・・
その残してあったはずの日記の端くれが出てきた
成人の日の写真探した折に、そのアルバムに挟んであったのを見つけた
いやぁ 読みにくい乱暴な字。
8月12日に白血病の宣告を受け、あちこちたらい回しにされて、14日に入院が出来た
名古屋第二日赤病院の先生に「助かるかもしれない」という一言をもらって
心が軽くなって15日にいろいろあったことを書き綴ったわけだ
見開き2ページで4日分、そこを13日分使って書いてあった
18歳の僕がいた・・
入院前、弟とナイターを見た
応援してた中日が勝って喜んだ二人・・・
僕は部屋に帰った
一人で部屋に入るとまた思わず祈りたくなった。
僕は正座をして、何回も空に向かってつぶやいた。
「あいつがどんな悪いことをやったんですか? 何も罪なんかない。
あいつを殺したら、僕は・・僕は・・・」
次の言葉が出なかった。僕には何もできない。そのことはよくわかっていた。
でも、もしできるなら僕の命、縮めてもあいつにやって欲しいと。
もう一度、祈り直した
僕の命縮めてもいいからあいつを60歳くらいまでは生きさせてやってください。
でも、僕の命、最低でも親より遅い年月に消して欲しい。
親に子供の死に接する姿はもう絶対に見せたくはない。
もう絶対に感じさせたくはない。
今まで自殺がどうのこうのと言っていた気持ちはどこかに飛んで行ってしまい心から反省した。
ふふふって思うけど、今でもあんまり成長はしていない
自殺にちょっとした憧れを持っていたのか
そんなことも忘れてしまっていた
でも、この時ほど泣いた時期はないし、その後どんなに苦しい日々を経験してきても、これほど悲しい年はなかったなぁ
心の底が抜け落ちてた
よく頑張った って18の自分に言ってやりたいそんな気持ち
昭和47年9月、浪人生活の途中
弟が亡くなったその一部始終を涙で汚しながら書き終えて
それだけ残して
一切合財、破り捨てた
残してあった悲しみもいつの間にかどこかへ消えてしまったなぁ
まだ探してみたらこの家のどこかに眠ってるのかもしれないが・・・
その残してあったはずの日記の端くれが出てきた
成人の日の写真探した折に、そのアルバムに挟んであったのを見つけた
いやぁ 読みにくい乱暴な字。
8月12日に白血病の宣告を受け、あちこちたらい回しにされて、14日に入院が出来た
名古屋第二日赤病院の先生に「助かるかもしれない」という一言をもらって
心が軽くなって15日にいろいろあったことを書き綴ったわけだ
見開き2ページで4日分、そこを13日分使って書いてあった
18歳の僕がいた・・
入院前、弟とナイターを見た
応援してた中日が勝って喜んだ二人・・・
僕は部屋に帰った
一人で部屋に入るとまた思わず祈りたくなった。
僕は正座をして、何回も空に向かってつぶやいた。
「あいつがどんな悪いことをやったんですか? 何も罪なんかない。
あいつを殺したら、僕は・・僕は・・・」
次の言葉が出なかった。僕には何もできない。そのことはよくわかっていた。
でも、もしできるなら僕の命、縮めてもあいつにやって欲しいと。
もう一度、祈り直した
僕の命縮めてもいいからあいつを60歳くらいまでは生きさせてやってください。
でも、僕の命、最低でも親より遅い年月に消して欲しい。
親に子供の死に接する姿はもう絶対に見せたくはない。
もう絶対に感じさせたくはない。
今まで自殺がどうのこうのと言っていた気持ちはどこかに飛んで行ってしまい心から反省した。
ふふふって思うけど、今でもあんまり成長はしていない
自殺にちょっとした憧れを持っていたのか
そんなことも忘れてしまっていた
でも、この時ほど泣いた時期はないし、その後どんなに苦しい日々を経験してきても、これほど悲しい年はなかったなぁ
心の底が抜け落ちてた
よく頑張った って18の自分に言ってやりたいそんな気持ち
どんなに泣いたことでしょう。
そうだよ、かっつんさん。お母さんを泣かせないでね。
私も長生きはしたいけど、逆縁の辛さだけは味わいたくないわ。
お身体を大切にね。
神様を怨むことも実際ありました。
どんなに努力したって、報われないことは必ずあります
それでもみんな頑張ってるんですよね
今回の人質テロも頑張ってた日本人が大きな被害を受けてどうしても納得できない
頑張ってた受験生が志望校へいけない桜宮
それでも乗り越えなけりゃいかん不条理
それを乗り越えた時、人間として成長のあかしを手にできるのかもしれません
でも今回・・・亡くなった人がいる
その人はどんなに悔しかったことでしょう
それを思うと言葉が出ません
先立つ親不幸だけはしないように頑張ります(笑)
30代半ばで同じような日を感じたけれど、かっつんが書いているのと同じことを思っていました。
私の命を全部あげても良いから助けてほしいけど、
小学校に入ったばかりの息子がいるから半分でお願いします。そう、神社でお願いしました。
そうするとだいたい60歳ぐらいになるのです。
そして、義母は悲しませたくなかったので、夫には、1日でも長く母より生きるように・・・とね。
明日、義母の3回忌です。息子のために長生きをしてくれて、82歳でした。
そして、私は、去年、神社で、再びお願いをしたんです。
当時は推定80歳の寿命を考えていましたが、どうやら、私は長生きのようなので、きっと100歳までだったと思います。
なんと、命の延長願いをしたんです。
人間って、生きていると言うこと自体が欲深いものですね。
一方、今回、アルジェリアで亡くなられた方のひとり、南三陸町のご出身で、
間もなく、還暦祝いの同級会に出席予定だったとか・・・
仮設住宅でお過ごしのお母様を気遣って日帰り出席を希望していたとのこと。
同級会も悲しみの会になりそうだって・・・今朝のこちらの新聞に書いていました。
一生懸命に生きてこられたでしょうに、そして、震災後の同級会へも何とか出席しようとされていた矢先。
悲しいお話しですね。
命を大切に、今できることをしておきたいって思いますね。
いつも長くなってごめんなさい。
30代、そんな頃から?
大切な人が元気を取り戻されて本当によかったですね
そして、母上様を立派に見送られた
こうなったら欲が出ます(笑)
これから楽しい新しい人生を謳歌し直す
ご主人の検査結果もよかったことだし
ルナちゃんの病気が少し心配だけどね
命の分配はどうせうまくいきっこないのは分かってた
神様にお願いしながら、無駄なことだったのかもしれないけどあの時の僕はそうせざるを得ませんでした
そうしないとベッドに入っても寝付けなかった
自分の気持ちを落ち着かせるためにそんな言葉を口にしていました
それでも、今考えることとそう大差はない(笑)
今日は簡単に死ねますように という日記を書いてしまったぁ
人間ってのはなんて欲張りな動物なんでしょう
自分ながらあきれてしまいます
でもそれだからこそ成長があるのかもしれない
そう思ってこっとぉ
その犠牲者の方はお兄さんがインタビューされてたかたかな?
違うかも知れないけど、60代になって兄弟を亡くされた方が「優しい弟だった」と涙を流す
年齢が進むほど冷静になってゆく兄弟の中であれほどの反応をされるのを見てその亡くなった方は本当に優しい人だったんだなぁ としみじみと感じました
日本人が一番多くの犠牲者。
考えることがまたたくさん出てきたように思います