☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

金剛不壊(こんごうふえ)眞身(しんしん)観

2020-03-03 17:20:00 | 神想観
金剛不壊眞身観 谷口雅春 先生
『 理想世界 』 誌 昭和33年5月号

金剛不壊(こんごうふえ)眞身(しんしん)観

( 静かに息を吸いながら、神が自分に流れ入ると観じて )

神われを全領(ぜんりょう)したまえり
寸分(すんぶん)の隙間(すきま)もなく、神われを全領したまえり
されば われ金剛不壊(こんごうふえ)の眞身(しんしん)を得(え)たり


( と念ずる。眼の裏に自分の全身に神氣が充満して、光明燦然と輝いている全身の
有様を瞑視する。次に静かに息を下腹部におとして、神光輝く自身を凝視しながら、)

四百兆(ひゃくちょう)の細胞、寸分(すんぶん)の隙間(すきま)もなく
神が全領したまえるゆえ、どんな病菌もヴィールスも、どんな病気、迷(まよ)いの
霊(れい)も自分の全身の何(なに)ものにも存在の余地(よち)はないのである


( と念ずる。また静かに息を吸いて 前の思念を繰返す。 )

神われを全領(ぜんりょう)したまえり
寸分(すんぶん)の隙間(すきま)もなく、神われを全領したまえり
されば われ金剛不壊(こんごうふえ)の眞身(しんしん)を得(え)たり


四百兆(ひゃくちょう)の細胞、寸分(すんぶん)の隙間(すきま)もなく
神が全領したまえるゆえ、どんな病菌もヴィールスも、どんな病気、迷(まよ)い
の霊(れい)も自分の全身の何(なに)ものにも存在の余地(よち)はないのである


( 最後に次の如く念じて思念を終る。 )

あゝ われは健(すこ)やかなるかな、霊々(れいれ)妙々(みょうみょう)たり、
煌々(こうこう)たり、皎々(こうこう)たり、われ金剛不壊の眞身を得(え)、
一切の病脳(びょうのう)を超(こ)えたり


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【 四六時中 唱える言葉 】

吾(わ)が本体(ほんたい)は、金色(こんじき)に輝く神にして、
今(いま)現(げん)に絶対健康、完全円満なのである。

三尺(さんじゃく)四方(しほう)金色(こんじき)に輝くオーラに取りまかれているので、
如何(いか)なる病念波(びょうねんぱ)も悪念波(あくねんぱ)も、
如何なる 病菌もヴィールスも 我(わ)れを害(がい)する事は出来ないのである。


( ※ 私は神の子であり、常に神の光に包まれているのである。)




浄円月観

2017-02-24 11:23:28 | 神想観

まず正坐 瞑目 合掌し、普通の神想観の如く、無限の智慧、愛、生命、供給、悦び、
調和の世界を観じたる後、( あるいは 最初から直接 )次のごとく繰返 し祈ります。

天地一切の創造主(つくりぬし)にましまして、
吾が生みの御親(みおや)にまします神よ、
あなたの無限の愛を 吾れに流れ入(い)らしめ給いて、
吾れに於いて愛の霊光 燦然と輝き給いて、
すべての人々の罪を赦 し、すべての人々を愛 したまえ。

( この祈りを 数回 繰返す )

神の無限の愛 吾れに流れ入りたまいて
吾れにおいて愛の霊光 燦然と輝きたまう。
吾れに浄円月(じょうえんげつ)の雰囲気 ただよう。吾れに浄円月の雰囲気ただよう。
吾が雰囲気は、やわらかく、あたたかく、清く、うるわし。

すべての人々に平和と喜びとを与え
すべての人々の罪を赦 し、
すべての人々を愛するのである。


( 「 神の無限の愛 ・・・・・・ 」 より繰返 す )


世界平和の祈り

神の無限の愛、
吾(われ)に流れ入(い)り給(たま)いて、
愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給う

その光 いよいよ輝きを増(ま)して 全地上を覆(おお)い給(たま)い、
すべての人類の心に
愛と平和と秩序と中心帰一の
真理を満(み)たし給う。


「 浄円月観 (じょうえんげつかん)」 を行なった後、

神の無限の愛、吾れに流れ入り給いて
愛の霊光 燦然と輝き給い
吾れに 浄円月の雰囲気 漂う。

浄円月の雰囲気 いよいよその輝きを益(ま)して全地上を蔽( おお )い、
全人類をして 愛と平和の想 いを満たし給う。


( 繰返 し念ずる )

谷 口 雅 春 先 生
『 詳説 神想観 』「 浄円月観 」 130~133頁 、「 世界平和の祈り 」 228~229頁

( 各種の神想観の後に、「 世界平和の祈り 」 を 光明思念しますが )
  浄円月観の場合、浄円月観 後 の祈りを繰返 し念ずるのが好いのであります。
※ 昭和30年に録音した浄円月観のCDでは、通常の 「 世界平和の祈り 」 で
  実修されております。



観普賢菩薩行法

2017-02-23 17:33:15 | 神想観

最初、基本的神想観 の 「 もはや吾れ生くるにあらず、神のいのち ここにありて
生くるなり 」 というところまで念じ、この心境が深まった続きとして
次の言葉を念じて下さい。
 
  吾れ普(あまね)く我が全身を観ずるに
  此身(このみ)このまま普賢(ふげん)の身(しん)なり。

  六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)に乗り、花片(はなびら)が悉(ことごと)く
   如意宝珠なる
蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(ざ)し、

  合掌の内に一大如意宝珠を持し、
  全身の細胞 悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
  合掌の如意宝珠 またまた大光明を放つ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  一々の如意宝珠に 三千の御仏(みほとけ)坐(ざ)し給う。
   各々(おのおの)六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)に乗り、
  花片(はなびら)が悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、

   合掌の内に如意宝珠を持し、
   全身の細胞 悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
  合掌の如意宝珠 またまた大光明を放つ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ※ < 一々の如意宝珠に またまた三千の御仏(みほとけ)坐(ざ)し給う。
六牙の白象に乗り、花片(はなびら)が悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、

合掌の内に如意宝珠を持し、
全身の細胞悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
合掌の如意宝珠 またまた大光明を放つ。
> ( ※ 繰返し 念ずる )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
 
全身の細胞の中に三千の御仏、すなわち普賢菩薩が坐って光明燦然と輝いておられる有様を
繰返し観ずるのでありますが、その時、今坐っている自分自身が白い象に乗って合掌して
光明燦然と輝いている普賢菩薩であるとして、その姿をじっと見つめ、それを繰返し念ずる、

細胞の中の三千の御仏と一体に重なっているようにじっと心で見つめ繰返し念ずるのであります。
普賢菩薩を自分と別ではなく、自分の中にある、自分の姿として観ずるのであります。

繰返し繰返し念じておりますと、もう自分が肉体ではなく、普賢菩薩そのものであるという
実感が湧いて来るのでありまして、これは非常に精神統一のしやすい所の神想観であります。
これを繰返して精神統一の極に入りまして、最後に 神想観をやめる直前に、

  吾れ普 ( あまね ) く我が全身を観ずるに
  此身(このみ)このまま普賢(ふげん)の身(しん)なり。
  身量無量(しんりょうむりょう)、色像無辺(しきぞうむへん)、
   音声(おんじょう)無限にして
虚空(こくう)に満ち、

  六神通(ろくじんずう)自在にして 無限智、無限愛、無限生命なり。
  よく一切衆生の苦厄(くやく)を度(ど)し、一切衆生の病悩を癒すのである。


これを繰返し念じて、やがて終るわけであります。



大日本神国観

2017-02-23 12:36:05 | 神想観

   正坐、瞑目、合掌して、招神歌四首を唱え、次の如く念ずる 。

吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入 ( 居 )( い ) る。

    と念じて、“ ここが実相の世界、神の世界、神霊(しんれい)満ちみつる世界である ” と
    観ずるのである。次に

遥々( はるばる ) と目路 ( めじ ) の限り眺むるに十方世界 悉 ( ことごと ) く 神なり。
吾れ 十方世界を礼拝す。


     と念じ、十方世界の一切のものが 悉(ことごと)く神霊(しんれい)の示現(じげん)で
    あると観じ、

天よ、ありがとう。地よ、ありがとう。空気よ、有難う。
火よ、水よ、温(あたたか)みよ、冷たさよ、天地一切のもの
神の顕(あらわ)れであります。ありがとうございます。


     と念じつつ、神の恵みの満ちたりて、光り輝く実相の世界を静かに観じて、
     その円満完全光明遍照の大宇宙が、十六花弁の金色(こんじき)の蓮華の花の姿にて、
     その中央座( ちゅうおうざ )に スメラミコト の玉座( ぎょくざ )ありと観じ、
    ( 眼の内に描 いて、それを諦視する )

中央に すめらみことの 御座(ぎょざ)あり、すめらみこと 高御座(たかみくら)に坐し給う。
皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の御神霊(ごしんれい)ともなり。


    と念じ、玉座の背後 ( はいご ) 上方 ( じょうほう ) に、
    天主( てんしゅ )・天之御中主大神( あめのみなかぬしのかみ ) ・・・・・・  
    天祖( てんそ )・天照大御神( あまてらす おおみかみ ) ・・・・・・
    天孫( てんそん )・邇々芸命( ににぎのみこと ) ・・・・・・ を始め
    神武天皇より百二十四代の聖天子を中心とし、皇祖皇宗の御神霊が、秩序整然 、
    威儀 ( いぎ ) 端然 ( たんぜん ) と( 千光仏の如く ) 大光明を放ちて 顕現し給う
    荘厳 ( そうごん ) 無比 ( むひ ) の光景を観ずる。次いで

これをめぐりて百官もろもろの司(つかさ)あり。
すめらみこと に向いて礼拝し奉行(ぶぎょう)し奉(たてまつ)る。


    と念じ、その有様を観じ、眼の裡(うち)に百官綺羅星(ひゃっかんきらぼし)の如く、
    玉座を中心に至誠をもって職域に奉行しつつある実情実相を心に描いて観ずる。次に

十方に八百万 ( やおよろず ) の神々あり、護国の英霊あり、
十方 ( じっぽう ) の諸仏 ( しょぶつ ) あり、諸天 ( しょてん ) あり、

すめらみこと に向いて礼拝し守護し奉る。
 

     と念じ、大宇宙の地平線の彼方(かなた)稍々(やや)やや高きところに、
    光明燦然と輝く星の如き神々と十方諸仏、諸天、恭(うやうや)しく 
    すめらみこと に礼拝 し守護 し給える荘厳なるありさまを心に描きて、次いで

すめらみこと の御座 ( ぎょざ ) より御光 ( みひかり ) さし出(い)でて
洽(あまね)く六合(りくごう)に照り徹(とお)らせり。


    と念じて、天皇(すめらみこと)の御座より、金色(こんじき)の光まばゆきばかり
    さし出(い)でて、光華明彩(ひかりうるわしく)、六合に照徹せる相(すがた)を観じ、

六合照徹(りくごうしょうてつ)光明遍照(こうみょうへんじょう)、六合照徹光明遍照 ―――― 

    と幾回も繰返し念じつつ、すめらみこと の御光が恰(あたか)も、太陽の光が全宇宙に
    光被(こうひ)するが如 ( ごと ) く照り徹り、一切に いのちをふり濺(そそ)ぎ、
    之(これ)を生かし之を愛護し給う光明遍照なる実相の世界を心をもって諦視する。

    而(しか)して、すめらみこと の大御生命(おおみいのち)に生かされたる
    一切の生物に心を転じて、

すべての生きとし生けるもの、すべての青人草(あおひとぐさ)、
すめらみこと を仰ぎ見て 礼拝し讃嘆し感謝し奉る。


    と、地上にみちみちているすべての人々が、天皇の御徳(おんとく)を讃嘆し
    感謝し奉る有様(ありさま)を心に見つめつつ、自己もそのうちの一人として
    感謝の念を深く起して、次の如く念ずる。

天皇陛下 ありがとうございます。ありがとうございます。
皇祖皇宗の御神霊 ありがとうございます、ありがとうございます。
百官もろもろの司 ( つかさ ) 様 ありがとうございます。
十方 八百万(やおよろず)の神々様、護国の英霊様 ありがとうございます、ありがとうございます。
十方の諸仏・諸天様 ありがとうございます。


    かく念じつつ、光明遍照の調和せる荘厳なる実相世界を心に描きつつ、

既に大宇宙の救済は成就せり。
金波羅華(こんぱらげ)実相の完全円満の相(すがた)、地上に隈(くま)なく反映し実現して
中心帰一、万物調和の永久平和の世界 今 現ず。


一切の生物ところを得て争う者なく、相(あい)食(は)むものなく、病むものなく、
苦しむものなく、乏しきものなし。


実相・現象渾然(こんぜん)一体、実相・現象渾然一体 ・・・・・・ ( 繰返す )

みこころの天に成る世界、既に地に成就せり。
ありがとうございます。ありがとうございます。





蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)

2017-02-23 11:52:15 | 神想観

吾れ、今、五官の世界を去って、普(あまね)く吾が全身を観ずるに
この身このまま観世音菩薩なり。

吾れ 観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)し、
一切の苦厄(くやく)を度(ど)す。

物質 ない、物質はない、物質はない・・・・・
肉体 ない、肉体はない、肉体はない・・・・・
ない、心もない、心もない・・・・・

虚空(こくう)中に 宇宙大の大日輪 (だいにちりん) 浮ぶ。
光明遍照(へんじょう)実相世界 ここなり

ここ 蓮華蔵 (れんげぞう)世界なり。

この 菩薩は 自分自身なり

大日輪の智慧 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・
大日輪の愛 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・
大日輪の生命 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・

吾れ 大日輪の智慧なり。吾れ 大日輪の愛なり。吾れ 大日輪の生命なり。

一切のもの吾れに備わり、意(こころ)に随(したが)って集り来たり用足りて自から去る。




神想観のすすめ

2017-02-23 10:22:06 | 神想観

先日、ある先輩から、19種類の神想観を一日2回実修していることを伺いました。

それで、多くの神想観を覚える一助として、主に念ずるコトバを色分けして
みました。

“ 覚える神想観 ” “ できる神想観 ” が 主眼であるので、
詳細については、 『 新編 聖光録 』 『 詳説 神想観 』 を
熟読してくださるようにお願い申し上げます。

主に、日々行じている神想観は、 「 基本的神想観 」 をはじめとして、
「 自己礼拝の神想観 」 「 蓮華日宝王地観 」 「 浄円月観 」
「 観普賢菩薩行法 」 「 大日本神国観 」 「 如意宝珠観 」
「 四無量心を行ずる神想観 」 「 和解の神想観 」 の9種類が主ですが、

これらの神想観は 暗唱して念じておりますが、神想観の “ 前 後 ” に
『 新編 聖光録 』等 を 黙読して、念ずるコトバ と イメージを 確認するようにしています。
そのほかの神想観も日常生活の中に取り入れております。



神想観 観普賢菩薩行法

2017-02-17 14:13:45 | 神想観
観普賢菩薩行法 - 伝統
2016/02/28 (Sun) 04:29:37

         *『詳説神想観』(P133~138)より

「無量義経」「法華経」「観普賢菩薩行法経」を称して法華の三部経と言います。

釋迦如来が今まで四十年間説いて来た教えはすべて方便の教えで本当のことを説かなかった。
今こそ本当の事を説くぞ、その本当の真理とは、人間は如来のいのちがここに生きている、
無限のいのちそのものであるという事である、とこう説いてあるのが「法華経」でありまして、

それならこの真理を如何にして実現することが出来るかという事が書いてあるのが
「観普賢菩薩行法経」であります。

そしてそれには「大乗の経典を読み、昼夜六時に普賢菩薩を観ぜよ」
という事が書いてあるのであります。

よくお寺などで見ますが、六本の牙のある白い象がおり、
その鞍に蓮華(れんげ)の花のついた宝座(ほうざ)があり、そこに普賢菩薩が坐っておられる。

象というのは「大きい」という事で無限大をあらわし、
白い象の「白い」というのはちょうど太陽光線のようにどんな色もついていず、
どんな色もそこに含んでいる。

あらゆるものが一つにあって、実際はありながらあらゆる相(すがた)が現れていない。
それで、「白い象」というのは無限に大きくして、
一切のものがその中にある虚空(こくう)――全宇宙をあらわす。

六本の牙というものは、仏教で言われている六つの神通力(じんつうりき)を言う。

六神通(ろくじんずう)というのは
天眼通(てんげんつう)・天耳通(てんにつう)・他心通(たしんつう)(他の心を知る神力)・
宿命通(しゅくみょうつう)(この男は前世において何に生れており何の因縁によって今こういうすがたに生れて
こういう経験を受けているのである――というような事が分る)

・神足通(じんそくつう)(空中歩行する、歩かないでも釈迦牟尼仏は「華厳経」の説法をなさったとき
座を立たずして夜摩天という天人のいる世界に昇って行かれたとあるが、ここに居りながら
何処かに姿を現わす通力)・漏尽通(ろじんつう)(漏というのは煩悩の事、煩悩の尽きて無くなる事)
を言う。

そこでこの観では普賢菩薩は虚空に充ち満ち無色透明で相が無い、しかも一切の相を内に
蔵している虚空に跨って、一つ一つの花片(はなびら)が如意宝珠(にょいほうじゅ)である
ところの蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(すわ)って合掌のうちに如意宝珠を持って
精神統一をしているわけなんです。


そして合掌のうちに如意宝珠があるだけでなく全身四百兆一つ一つの細胞が物質の肉体ではなく
如意宝珠そのもので、光明燦然たる光を放っている。

その全身四百兆の如意宝珠の一つ一つに三千の普賢菩薩が六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)上に乗って
合掌していらっしゃる、そして光明燦然(こうみょうさんぜん)と光を放(はな)っている。

そしてその光を放っている普賢菩薩の身体(からだ)の一つ一つの細胞がまた如意宝珠であって、
その中にまた三千の御仏が坐っておられる、その仏の細胞が如意宝珠で、その如意宝珠にまたまた
三千の普賢菩薩が坐っておられて、それがまた無限に続くのですから素晴らしいですね。

これを華厳の重現無礙(じゅうげんむげ)と言うのです。

子供のオモチャによくあるでしょう。
ちょっと大きい箱を買ってやると、その箱の蓋を開けると小さい箱がその中に入っている、
その蓋を開けるとまた小さい箱がある。その蓋を開けるとまた小さい箱があると
いうようにいくらでも箱が入っておる。

そのように吾々の身体(からだ)の細胞一つ一つが如意宝珠で、
その如意宝珠は蓋を開けないでも そこに三千の普賢菩薩が坐っておられる。

その普賢菩薩一人一人の全細胞がまたまた三千の普賢菩薩に満たされ光明燦然(きょうみょうさんぜん)として輝いておる――こう観ずると「人間は肉体ではない」という事が分るのです。

すばらしい神想観であります。


舞鶴にその人が部屋にいると異臭ぷんぷんするというようなひどい《わきが》の
お嬢さんがおられて、舞鶴の長村(おさむら)婦美子講師に相談された。

人間はそんな臭い匂いのするような肉体にあらず、物質にあらず、それはウソである。
その《ほんもの》でないウソを《ほんもの》であると思っているのが迷いである。

《ほんもの》は何であるかというと、人間は仏のいのちであり、普賢菩薩そのものである。

普賢菩薩を前に述べたお寺にあるような、そういう恰好をした仏で、
釈迦牟尼如来が説法された時代に観世音菩薩などと一緒に出現して説法を聴かれた、
そういう菩薩であるというのは顕教的な、表れている表面的の解釈でありますが、

密教的(密教というのは、お経の表面の意味の奥にかくされた秘密の意義を解する教えの意)
に言うと自分自身が普賢菩薩そのものであるというわけです。

すなわち「普賢」というのは「普(あまね)く賢い」――どこにもかしこにも
充ち満ちている智慧そのものである。その智慧によって一切のものができている。
宇宙のありとしあらゆるものはみんな法則によって支配されている。

それが人間智慧によって解明できるということは、
一切のものが智慧によってできているからである。

それで、人間の身体は肉身にあらず、智慧身である。
それを観ずるのが観普賢菩薩行法です。

真言密教では、普賢菩薩を描いた掛軸を目の前一間位のところに掛けて置いて、
それを《じっと》見詰めて精神統一して、その像がずっと自分の方へ入ってきて、
自分自身が普賢菩薩であるというすがたを観ずるのであります。


さてこの観普賢菩薩行法をやんなさいと長村婦美子さんがお嬢さんにすすめ、
長村さんとお嬢さんが向い合って神想観をしたところ、終るとたちまち
その異臭ぷんぷんたる《わきが》が消えておったというような体験もあるのであります。

 
観じ方は次の如くであります。

最初普通の神想観をするのでありますが、
「もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり」
というこの心境が深まった続きとしまして念じて下さい。
 

 『 吾れ普(あまね)く我が全身を観ずるに此身(このみ)このまま普賢(ふげん)の
   身(しん)なり。

  六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)に乗り、花片(はなびら)が悉(ことごと)く
   如意宝珠なる蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(ざ)し、合掌の内に一大如意宝珠を持し、
  全身の細胞悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
  合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。

  一々の如意宝珠に三千の御仏(みほとけ)坐し給う。各々(おのおの)六牙の白象に乗り、
  花片(はなびら)が悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、
  全身の細胞悉く如意宝珠にして光明燦然として十方世界を照らす。
  合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。

 ※< 一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。六牙の白象に乗り、花片(はなびら)が
  悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、全身の細胞悉く
  如意宝珠にして光明燦然として十方世界を照らす。合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。

  一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。 』

 
これ※<>を繰返して下さい。

全身の細胞の中に三千の御仏、すなわち普賢菩薩が坐って光明燦然と輝いておられる有様を
繰返し観ずる
のでありますが、その時、今坐っている自分自身が白い象に乗って合掌して
光明燦然と輝いている普賢菩薩であるとして、その姿をじっと見つめ、それを繰返し念ずる、

細胞の中の三千の御仏と一体に重なっているようにじっと心で見つめ繰返し念ずるのであります。

普賢菩薩を自分と別ではなく、自分の中にある、自分の姿として観ずるのであります。

繰返し繰返し念じておりますと、もう自分が肉体ではなく、普賢菩薩そのものである
という実感が湧いて来るのでありまして、これは非常に精神統一しやすい所の神想観であります。

これを繰返して精神統一の極に入りまして、最後に神想観をやめる直前に、

 『 吾れ普く我が全身を観ずるに此身(このみ)このまま普賢の身なり。
  身量無量、色像無辺、音声無限にして虚空(こくう)に満ち、六神通(ろくじんずう)自在にして
  無限智、無限愛、無限生命なり。
  よく一切衆生の苦厄(くやく)を度(ど)し、一切衆生の病悩を癒すのである。 』


これを繰返し念じて、やがて終るわけであります。

「身量無量(しんりょうむりょう)」というのは自分の身体の分量が無限であって、宇宙に拡がっている。
「色像無辺(しきぞうむへん)」というのは物質または霊体として現れている波の体が無辺であって限りがないという事。
「音声(おんじょう)無限」というと、自分の《いのち》のコトバの響きが無限であって虚空に充ち満ちている

と観ずるのであります。



《自分自身を普賢菩薩と観じよう》 - 伝統

2016/02/28 (Sun) 04:30:51

         *『詳説神想観』(P138~139)より

病気にかかった場合、病気の姿を心に描いて、
それを治そうと考えては却って治らないのであります。
何故なら心で「病気」をつかむからです。

「病気なんて、そんなものは全然無い。神はそんなものを造らないから絶対無い」と、
病気を心から放ち去るのです。

そうして、自分はもう既に、普賢菩薩そのものであり、仏のいのち、神のいのちそのもので
あって光明燦然と輝いている自分だということを《じっと》精神を統一して観ずるのです。

大体、病気というものは「人間は肉体であり、滅ぶべきものである」という人類意識の
あらわれとして出てくるのですから、その人類意識から超出するために、物質でないところの
霊的存在である自分(普賢菩薩)を完全に心の眼で精神を統一して見つめるというわけです。

肉体は心の影にすぎないのであって、 「霊なる自分」だけがあるのですから、
その霊なる光明輝く自分を見つめるのです。
肉体と霊体と二つあるように神想観中に思うと、
「肉体は滅ぶべきもの」という人類意識に引っかかるからいけません。

「肉体なんて無いんだ」とハッキリと断ち切って、神想観をして、
「ここに坐しているのは、霊体そのもの、普賢菩薩そのものがここにこういう姿で現れているのだ」
とその完全な自身の姿だけを心の眼で見つめるのです。

常に観普賢菩薩行法を行なっているものには、常に金剛不壊のオーラがとりまいていて、
如何なる悪波動も、自分に近づくことができないのである。

黴菌といい、ヴィールスといい、いずれもこれは悪しき想念の具象化であるから
黄金色のオーラをもって全身を完全に保護しているものには、
決して侵入することができないのである。

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世界平和の祈り

2017-02-01 01:12:00 | 神想観
神の無限の愛、
吾(われ)に流れ入(い)り給(たま)いて、
愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給(たま)う(タモー)

その光 いよいよ輝きを増(ま)して
全地上を覆(おお)い給(たま)い、

すべての人々の心に
愛と平和と秩序と中心帰一の
真理を満(み)たし給(たま)う。(タモー)


( 『 新編 聖光録 』 145頁 )
(『 菩薩は何を為すべきか 』 人類光明化運動指針 第十条 63~64頁 )

補注 : 「 給う 」 の現代仮名遣いの ふりがな と 発音について

「 給(たま)う 」 と 現代仮名遣いでは、ふりがなをしますが、
原則として、発音は「 AU 」 の時、 「 OU 」 と発音します。
発音は 「 たもー 」 です。
「 給(たま)いて 」 は 「 たまいて 」 と発音します。

「 こんにちは 」 の 発音は 「 こんにちわ 」
「 私は 」 の 発音は 「 わたしわ 」 の如くです。


以下、某ブログより。

「平和を祈るための言葉」は、谷口雅春先生が嘗て、戦争を抑制する精神的力の結集を訴え、
信徒に実践を求めた祈りです。

『 新版 生活の智慧365章 』 所載( 205~206頁 )。( 追補:旧版 198~200頁 )

原文中の為政者の氏名を、現在の為政者名に私が置き換え、以下の祈りの言葉と
しています。実践の輪を広げましょう。

平和を祈るための言葉 ( 追補:次の如く繰返し黙念する )

われは神と一体である。われのみならず全人類は神と一体である。
それゆえに全人類は神に於て完全に平和であり、争いの心はないのである。

神は全人類の父でありたまい、すべての民族を平和に護りたまうのである。
或る民族が他の民族の領土を侵さなければ、その民族が幸福になれないなどと
云うことはないのである。


この真理をさとるとき、世界に平和は来るのである。
われは全人類にこの真理を放送するのである。
全人類はこの真理の念送を今受信しつつあるのである。

ウラジミール・プーチン氏も習近平氏も蔡英文氏もキム・ジョンウン氏も
パク・クネ氏もドナルド・トランプ氏も安倍晋三氏も、すべての人類が
この真理をさとりつつあるのである。

神の愛がすべての人類に降りそそがれ、神の平和が地上にあまねく臨(のぞ)む。
すでに みこころは天になるが如く地にも実現したのである。
今より後(のち)、人類に戦いあることなく、悲しみあることなく、
地の万民(ばんみん)は天の父を仰ぎみて讃歎するのである。


この祈りは、カードにしてお分けしています。



写仏 と 蓮華日宝王地観

2016-03-18 11:05:52 | 神想観



今、20代の頃に写仏した「 如意輪 観世音菩薩 」を前にして、
蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)に励んでおります。
所々に‘シミ’がついていて、過ぎ去りし年月を感じます。

< 五官の世界を去ることによってのみ、初めて実相の完全さを観(み)ることが
できるのです。この観世音菩薩の「般若(はんにゃ)波羅蜜多(はらみた)の
行(ぎょう)を実行」する方法が 『 聖光録 』 の中に書いてある“ 蓮華(れんげ)
日宝王地(にっぽうおうじ)観 ” という観行(かんぎょう)であります。
これを行じていただくのが 「 五蘊(ごうん)皆空(かいくう) 」 を悟るための
近道であります。>
( 谷 口 雅 春 先 生 )


蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)

吾れ、今、五官の世界を去って、普(あまね)く吾が全身を観ずるに、
この身このまま観世音菩薩なり。

吾れ 観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)し、
一切の苦厄(くやく)を度(ど)す。

物質はない、物質はない、物質はない・・・・・
肉体はない、肉体はない、肉体はない・・・・・
心もない、心もない、心もない・・・・・


( と斯(こ)う繰返し念じて、五蘊上に浮ぶ 迷妄世界すべてを否定し去ります。
物質も、肉体も、心も、そして斯(か)く観ずる心も、悉(ことごと)く
空(くう)じ去って了った心境に到達してから )

虚空(こくう)中に 宇宙大の大日輪浮ぶ。光明遍照(へんじょう)実相世界ここなり

( と念じて大日輪(だいにちりん)が宇宙一杯に充満せる有様を観じ 更にその大日輪中に
千葉(せんよう)の蓮華が開花せる姿を観じ )

ここ蓮華蔵世界なり。

( と念じて、その花の中心上に 観世音菩薩の坐っている姿を心に描き )

この菩薩は自分自身なり

( と観じ、静かなる呼吸と共に )

大日輪の智慧 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・
大日輪の愛 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・
大日輪の生命 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・

吾れ大日輪の智慧なり。吾れ大日輪の愛なり。吾れ大日輪の生命なり。

一切のもの吾れに備わり、意(こころ)に随(したが)って集り来たり、用足りて自から去る。


( と繰返し念じつつ、大日輪の無限の智慧、愛、生命、供給、調和と云うものが
自分に流れ入ると観ずるのであります。 )


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

吾れ、今、五官の世界を去って、普(あまね)く吾が全身を観ずるに、
この身このまま観世音菩薩なり。


( と心に誦(とな)え、自己を観世音菩薩だと見立てて神想観をするのであります。
自己を観世音菩薩と何故観じても好いかと言うと、観世音菩薩は一定の形ある菩薩ではない。
世の中の音(おと)を観じて その音の通りに現れ給う観自在の原理であり
その観自在の原理は 各人の腹中に各々豊かに備わっているからである。)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

新編 『 聖光録 』 ( 109頁 ~ 111頁 )





蓮華日宝王地観

2016-02-16 13:00:05 | 神想観

五官の世界を去ることによってのみ、初めて実相の完全さを観(み)ることが
できるのです。この観世音菩薩の「般若(はんにゃ)波羅蜜多(はらみた)の
行(ぎょう)を実行」する方法が 『 聖光録 』 の中に書いてある
“ 蓮華(れんげ)日宝王地(にっぽうおうじ)観 ” という観行(かんぎょう)であります。
これを行じていただくのが 「 五蘊(ごうん)皆空(かいくう) 」 を悟るための近道であります。

先ず 「 観世音菩薩 五蘊皆空と照見(しょうけん)す 」 と心に唱えまして、
「 物質はない、物質はない、物質はない。肉体はない、肉体はない 」 と繰返し
心の中で唱えるのであります。

その中(うち)に、その物質も肉体も何にもない中心に 「 霊妙きわまりなき自己 」 が
目覚めて来るのであります・・・・・ ( 227頁 )


般若の空観(くうかん)と 空観を更に超えて 「 既に 往(ゆ)き往きて
今 此処 実相世界 」 ということを観ずる神想観が 『 聖光録 』 に示されて
いる 「 蓮華日宝王地観 」 という観法であります。
『 聖光録 』 は 常にポケットに携帯して 時々お読みになるといいと思います。

蓮華日宝王地とは、これは 華厳(けごん)経に書いてある言葉でありまして、
釈尊の仰せられるには、この世界 即ち 宇宙は 蓮華蔵世界であって、
内に 蓮華の理念を蔵(ぞう)し、それが展開する世界だというのであります。

蓮華の花を御覧になりますと、花弁があらゆる方角に展開し、その中心座に、
ハチスと言って蜂(はち)の 「 巣(す) 」 のような子房(しぼう)があるのであります。

これは 中心座(ざ)に巣( 統(す)、スの言葉 ― 五十音を統一すれば
スの一音となる ) があって、そこから現象のハナビラが 八方に展開していることを
象徴している。

その中心になるスの世界は 金剛の日の宝地であって、破壊し得ないという意味が
「 蓮華日宝王地 」 であります。これが実相の世界であります。
その実相世界を観ずるのが 「 蓮華日宝王地観 」 であります。( 256頁 ~ 257頁 )



『あなたは自分で治せる』 般若心経講義 ( 227頁、256頁~259頁 ) 谷 口 雅春 先 生


※ やり方は、『 詳説 神想観 』( 117頁 ~ 121頁 )、新編 『 聖光録 』( 109頁 ~111頁 )を
参照して下さい。


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