☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

形よりも理念が先立つ

2013-09-30 08:08:45 | 今日の光明法語


ダリヤの花はその球根から生ずるが、「 花そのものの形 」 は球根と云う物質に

あるのではなく、球根の奥にある霊的世界にある 「 ダリヤの花の理念 」 から

生ずるのである。



理念又は霊は、物質の形に先立つのである。


イエスの理念は、肉体イエスに先立って存在したのである。


だからイエスは 「 アブラハムの生れぬ前(さき)より我はあるなり 」 と

云っているのである。



物質より前に理念があるのである。



素粒子が如何に排列して或る種の物質になるかは、法則によるのである。

そして、法則は知性(心性)である。




『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十二日の法語  谷口雅春先生





物質より心が先である

2013-09-29 16:52:33 | 今日の光明法語


物心一如(いちにょ)的立場から云うならば、事物の根元は 「 物質 」 であると云うのも、
事物の根元は 「 心 」 であると云うのも一如(ひとつ)であると云うことになる。


しかし、「 物質 」 と云うものの概念は、「 知性も感情もないものを物質と云う 」 意味に於いて考えられているのであるから、物心一如と云うことは 「 知性も感情もない物質 」 と 「 知性も感性もある心 」 とは一如と云うことになる。


こうして物と心とが一つであれば、どちらが先なのであろうか。


「 知性も感性もある心 」 を高位とし、「 知性も感性もない物 」 を低位としなければならない。


高位のものは内に低位のものを含み得るが低位のものから高位のものは生れ得ない、従って、心は物質に先立つのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十一日の法語  谷口雅春先生






「 心 」 とは何であるか

2013-09-28 12:51:30 | 今日の光明法語


「 心 」 とはこれを 「 意識 」 とも云い、ものを感ずるところの働きである。
それは自分の存在することを知り、自分の環境を知るところの働きである。


「 意 」 は欲する働きであり、自己の存在を自證(じしょう)するのである。


「 識(しき)」 は外界を知る働きである。


「 意思する自分 」 があることは自明の事実であってそれは証明を要しないのである。


その 「 意思する自分 」 が何がゆえに外界を識(し)ることが出来るのであろうか。


それは内界と外界とが 「 本来一つ 」 のものであり、その波動を一つにするものであるからである。


然(しか)らばその 「 本来一つ 」 のものとは何であろうか。それは物質か、心か?



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 十日の法語 谷口雅春先生





人生の目的は何であるか

2013-09-28 01:54:30 | 今日の光明法語


宇宙の一切、随(したが)ってまた人間の生命も神より生じたるものであるから、自分自身の生命を見詰めると云うことは結局、神を知ることになるのである。


兎(と)も角(かく)人として生れた以上は、「 何が 」 「 何のために 」 「 如何なる理由で 」 「 如何にして 」 地上に生れ出たのであるかを知らなければならないのである。


それを探求することは結局、「 人生の目的は何ぞや 」 の問題に触れるのである。


しかしそれを研究するには 「 心 」 とは何ぞやの問題を解決しなければならぬ。


人生の研究も結局、心によって行われるからである。



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 九日の法語  谷口雅春先生





人間の霊的解放

2013-09-27 14:02:21 | 今日の光明法語


先ず吾々の知らなければならない事は、「 自分とは何であるか 」 と云うことである。


自分を「物質」だと知る限りに於いてその人は「物質的存在」としての制約を受けるのである。


そして自分を霊的存在として自覚し得た程度に随(したが)ってその人は解放され、自由を得るのである。


「人は自己の信ずる通りのところのものとなる」のである。


宗教は病気治しでも家運隆昌術でもないが、「 自己とは如何なるものか 」 を知らしめる結果、

人間が霊的に解放され、その随伴的効果として家運隆昌も起れば肉体の健康をも得られるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 七日の法語 谷口雅春先生




先ず心を幸福にせよ

2013-09-26 12:59:36 | 今日の光明法語


吾々の想念感情が先ず幸福にならなければ吾々の住む世界は幸福にならないのである。


貝類は自分の分泌する液によって、自分の肉体の棲(す)む貝殻を造るかのように、吾々は自分の分泌する想念感情によって自分の住む環境をつくるのである。


吾々は旅行するにも、その旅行を最も楽しきものにするには、旅行案内書を見て、その行路をとるのが最も良き景色であるかを知らなければならないのである。そして、旅行地のどの点に心を注いで鑑賞しなければならぬかと云うことを知らねばならぬ。



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 七日の法語  谷口雅春先生





事物の真相を知れば恐怖はない

2013-09-25 07:35:48 | 今日の光明法語


人生の問題は若(も)しその因って起るところの原因が明瞭になるならば、それは容易に解決することが出来るのである。問題を未解決にし、取越苦労や恐怖心にみたされるのは真相がわからないからである。


真相がわかれば恐怖すべきものは何物も存在しないのである。


第一に吾等が知らなければならない真相は、吾々の想念と云うものが自分自身の心の快不快を変化すると同時に、自分を取りまいている環境、人間、供給、境遇、位置などを変化すると云うことである。


これが真相である。




『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 六日の法語  谷口雅春先生





奴隷にならぬ方法

2013-09-24 00:53:27 | 今日の光明法語


位置を欲するものは位置の奴隷となり、女を欲する者は女の奴隷となる。食を欲する者は食の奴隷となり、金を欲する者は金の奴隷となる。名誉を欲するものは名誉の奴隷となり、酒を欲する者は酒の奴隷となる。奴隷は自由を得ることは出来ないのである。


吾らは如何なる者に対しても其の奴隷的状態から超出しなければならぬのである。人間が如何に民主主義の世界を求めても、自分自身が奴隷である限りは、制度はいくら変っても奴隷であるのである。


制度のことは政治的天才にまかせて置け。人間が奴隷的心境を脱したとき彼はどんな制度の下にも自分が自分の主人公となる。



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 五日の法語  谷口雅春先生





聖者は言葉の音楽で人生を飾る

2013-09-23 10:27:25 | 今日の光明法語


言葉も動作も優美でなければならない。美は調和であり、音楽である。


すべての人の言葉と動作が調和ある音楽を奏でるようになったとき、其処に天国浄土が
実現するのである。


実相に於いては人間はすべて完全であるのである。


聖者は言葉を慎みて悪しき言葉を使わないが、世俗の人はみずからを高くせんとして相手を侮辱又は
見下した言葉を使う。その結果却って自分自身が侮辱せられ、又、わざわいを招くのである。


実相を表現するものも言葉であれば、実相をくらますのも言葉である。



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 四日の法語  谷口雅春先生



唯、善き言葉のみを語れ

2013-09-22 15:39:11 | 今日の光明法語



吾らは苟(いやしく)も言葉を語るならば、善き言葉を語らなければならない。苟も言葉を語るならば誰かを幸福にする言葉を語らなければならない。


人を傷け、人を悲しませ、人を憤(いか)らしめるような言葉を語ってはならない。人を軽蔑(けいべつ)する言葉を語ってはならない。怒気を含んだ言葉を語ってはならない。


「世の中に軽蔑さるべきものは存在しないのである。唯、軽蔑すると云う心のほかには。」と知恵の言葉に書かれているのである。


吾等が唯、優しき言葉、愛の言葉のみを語るとき、其処(そこ)に天国が実現するのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 三日の法語  谷口雅春先生




実相を語らない言葉は只の振動である

2013-09-21 12:33:01 | 今日の光明法語


人が自分を悪しざまに批評するときは、それは神のコトバで無いことを知れ。


神のコトバは必ず善きことのみを語るのである。


悪しき言葉は迷いによって引き起されたる只の空気の振動に過ぎないのである。


悪しき言葉を聴くときには次の如く心に唱えるが好いのである。

「彼は憐(あわ)れなる者である。彼は言葉を浪費することによって自己のエネルギーを浪費し、自己の魂を汚しつつあるのである。自分は決して斯くの如き実相を語らない言葉によって動かされる事はないのである。実相を語らない言葉は単なる空気の振動に過ぎない。」


『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 二日の法語  谷口雅春先生




人間は奴隷になってはならぬ

2013-09-20 23:31:02 | 今日の光明法語


聖者たるものは言葉の手品に惑わされてはならないのである。聖者は言葉がただの空気の振動に過ぎないことを知っているのである。


聖者は人の毀誉褒貶(きよほうへん)の上に超出しなければならない。


なぜなら自己の生命の本質が「神そのもの」であることを知っているからである。


俗世間の毀誉褒貶は、彼ら自身が、わが実相の完全円満なることを見る力がないことをみずから表明しているに過ぎないのである。


他(ひと)によって動かされるものは奴隷である。奴隷のみが世間的名誉を求めるのである。



『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号 一日の法語  谷口雅春先生





五日の法語  黒住教祖の霊的自覚について

2013-09-17 18:13:25 | 今日の光明法語


黒住教(くろずみ)教の教祖・黒住宗忠(くろずみむねただ)は、自分のいのちが物質的肉体の朽ち果てるべきいのちであり、最早、ここ五日しか生きないいのちだと医師から診断されていたとき、


自分のいのちが肉体の化学作用で生きているのではない、


天照大御神の御(お)いのちが此処に生きているのであるという自覚を得ると共に、


有頂に昇る歓喜法悦にみたされ、一週間は、眠ることもせず、ただうれしさに笑いつづけていたが、


やがてその歓喜が静かなる法悦に変って、気がついてみたら、その瀕死の重症であった肺結核が治っていたというのである。


そして人間のいのちは、「吾が生くるに非ず、天照大御神のいのちによって生かされているのだ。」という自覚によって自分の重症が癒(い)えたのだという体験を人に話(はなし)すると、


その自覚が他(た)の人に喚(よ)び覚(さま)されて、またその人の病気が治るというような体験が次から次へあらわれて来て、ついに一大教団をなすということになったのが黒住教なのである。







四日の法語  わが受けし恩恵のうち最大なるもの

2013-09-17 12:25:49 | 今日の光明法語

いろいろと自分を取り巻いている空気や日光や、日常必需の“水”や、家や、建具(たてぐ)や、畳や、敷き物や、花瓶や床の間の置物や ー 外部にある事物を見て感謝することをおぼえたのであるけれども、私たちは、もっともっと感謝すべきものを神から与えられていたのである。


それは、今、此処に自分が生きているいのちが、神の神聖ないのちを与えられているという事実であるのである。


即ち自分のいのちが神のいのちの最高の自己顕現であるということである。


それを発見したとき本当に歓喜が充満し、手の舞い、足の踏むところを知らず、有頂(うちょう)に昇る思いがせずにはいられない筈(はず)である。





三日の法語  全世界に平和をもち来す道

2013-09-17 12:25:34 | 今日の言葉


あなたが感謝の念を起しているとき、あなたは天国を製造しつつあるのだといったが、その天国は決して、あなたの周囲や、身辺にだけ天国を製造しつつあるのではないのである。


心の波はラジオの波のように、宇宙空間に迅速(じんそく)にひろがるものであるから、あなたの感謝の念が、電波の如く達し得る限り、それは、多くの人々の「脳髄・受信機」に感応し、それらの人々の脳髄に感謝の念を起こさしめつつあるのであり、従ってそこも亦、天国・浄土が製造されつつあることになっているのである。


そして世界ぜんたいの人間の大部分が感謝の念に満たされるようになると、全人類が互恵互譲(ごけいごじょう)・相互合掌の心にみたされ、全世界に本当の平和がもち来されることになるのである。