☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

病気が治らない訳は?

2013-10-31 09:05:53 | 今日の光明法語


あなたの病気が治らないのは、浮浪者が一ぱい其の部屋につまっていて

ほかの人が入る余地がない家のように、


「 健康 」 の観念と全然反対な恐怖観念、罪悪観念、

憤怒憎悪の感情等が一杯につまっているからである。


福来友吉(ともきち)博士が云ったように

「 観念 」 は 「 生物 」 であり、観念に描いた通りの形があらわれて来るのであるから、

不用な観念は悉(ことごと)く自分の心から追出してしまうようにするのが好いのである。


「 若(も)し君が隣人に対してどう云う考え(想念及び感情)をもっているかと云うことを

正直に告白するならば、君の健康状態や、経済状態や、家庭状態を私は言い当てることが出来る 」 と

ユニティの教祖チャールズ・フィルモアは云っているのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十九日の法語 谷口雅春先生





憎み怨(うら)みなき心境になるには

2013-10-30 09:02:45 | 今日の光明法語


誰(だれ)かがあなたに害を加えたと思って

その罪を憎む観念がもし貴方にあるならば、

即刻(いますぐ) 「 その罪をゆるしました 」 と心にとなえよ。


憎むとか怨むとか云うことは感情であるから、

憎むまい、怨むまいと思っても、

憎み、怨まずにおれないのが凡夫の心のあさましさである。


そのあさましさから逃れる道は、 「 憎むまい、怨むまい 」 と

一所懸命に心に 「 憎み 」 と「 怨み 」 の観念が連想される言葉を念じても、

憎み怨みは去らないのである。


そこで 「 私は貴方をゆるしました。私は貴方を愛しています 」 と

「 罪 」 や 「 憎み 」 と全然反対の語(ことば)を

度々(たびたび)念ずるようにしていると、

自然に自分の心が浄化されて来て 憎み怨みなき心境になれるのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十八日の法語 谷口雅春先生





「 罪 」 の観念は 「 健康 」 の反対観念である

2013-10-29 08:46:14 | 今日の光明法語


健康の観念を心の中に植付けることによって肉体は健康となるが、

健康の観念が確立するためには、

その反対の観念が掃除せられなければならないのである。


健康の反対の観念は、ただ、 「 病気 」 の観念ばかりではないのである。


「 罪 」 の観念も 「 健康 」 の反対観念である。


だから、イエスは 「 汝(なんじ)の罪ゆるされたり 」 と云って、

「 罪 」 の観念を除去するだけで病者を癒しているのである。


「 罪 」 の観念を除けば病気が癒(なお)ると云うことによっても、

「 罪 」 の観念が健康の観念と反対観念であることが判(わか)るのである。


他の罪をゆるさない心が病気を起すのも、

「 罪 」 (健康の反対観念)の観念を心につかむからである。




『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十七日の法語 谷口雅春先生







神愛(しんあい)能(よ)く癒す

2013-10-28 00:08:08 | 今日の光明法語


「 生命の実相 」 を読んで、その示す通り実修していても

病気を治す力が多い人と少い人とがある。

それは一つには其の人の 「 愛 」 の分量の多い少いによる。



二つには場所の雰囲気如何によるのである。



「 生命の実相 」 の中には 「 愛は癒す 」 と書かれてある。



生長の家の飛田給本部にも玄関を入ると 「 神は愛也(なり)」 と書かれており、

その裏面には 「 神愛能癒(よくいやす)」 と書かれている。



そして多くの精神的な疾患や、肉体的疾患がただ十日間の練成だけで癒されているのである。

それは飛田給本部の全体が 「 神愛 」 の表現であるからである。



人が多勢集って毎日神想観する場所には 愛と霊光とが立ち騰(のぼ)って

霊眼で見れば紫雲の雰囲気が漂うているのである。


( 「 生長する青年 」 所載 「 百万人のための哲学 」 参照 )



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十六日の法語 谷口雅春先生






イエスは斯(こ)うして病気を癒した

2013-10-27 01:54:09 | 今日の光明法語


キリストも単に言葉によって病いを癒しただけでなく、

或る場合には手を按(あん)じて祈り、

或る場合には、唾液を患部に指にて塗っているのである。


手を按じ、手を触れ、指にて唾液をつけて行うことが

時として治病に効果をあげるのは、その動作が暗示となって

患者に信頼感と安心感とを与えることになると同時に、


手掌からはプラナ(生命磁気)が放射されるために、

プラナの欠乏から起っているところの病気には著しく効果を奏することがある。


それは恰度(ちょうど)、

ビタミン欠乏症にビタミンを注射するような対症療法的効果を生ずるのである。


一種の動作によって病気が治る場合にも色々の要素が含まれている。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十五日の法語 谷口雅春先生





相手に従って救い方が異る

2013-10-26 13:05:34 | 今日の光明法語


人間には色々の階級、色々の魂の進化の程度があるのである。


その救い方にも色々の方便があって一律一遍に偏ってはならないのである。


だから、物質療法あり、暗示療法あり、霊動療法あり、触手療法あり、

色々の療法があって差支えない。


私は栗原保介(やすすけ)氏の純情を愛していて、「この人なら」と思っていたが、

同氏は前にも一色(しき)春峰と云う霊術家について病人を治すことを習った人で、


或る日手掌(てのひら)に霊動を生じ、生長の家を脱退して

手で軽打する教団を設立するに至ったので、

惜しい人だと思ったが、人にはそれぞれの道があるので、

これによって救われる種類の人は救われて好(よ)い。


私は氏の治病教団の発展を祈るものだ。

何事も欠点を見ないで和顔愛語讚歎するのが好い。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十四日の法語 谷口雅春先生






発心・修行・成道・円環

2013-10-25 00:45:50 | 今日の光明法語


「 生命 」 は動くのである。



ただ宿っているだけで動かないのは

生命ではなく 「 死 」 である。



その最初の 「 動き 」 が発心である。

発心即ち道に志す気持が起って来るのは

既に 「 道 」 がその人に宿っているからである。



「 発心 」 は最初の動きであるが、心あれば必ず形にあらわれるのであって、

それが修行又は行為となってあらわれる。



それが修行されるとき、既に宿れる 「 道 」 が成就するのである。

これを 「 成道 」 と云うのである。

成仏と云っても同じことである。



天地にミチ満つる 「 生命(いのち) 」 であるから

これを 「 道 」 と云うのである。



「 道 」 は吾々に宿り、発心として芽生え、

修行として生長し、 「 成道 」 として果(み)を結ぶ。




『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十三日の法語 谷口雅春先生






行持(おこない)が大切である

2013-10-24 08:55:13 | 今日の光明法語


人間に内在する神の国は、放送局から放送されているプログラムのように

現に茲(ここ)にあるのである。


しかし 「 茲にある 」 と単に知ったり思ったりするだけでは、

放送のプログラムが現実にならないのと同じように、

単に本を読んでわかっただけではいかぬのである。


その通りに動き出さないと可(い)かぬ。

この動き出すことを 「 行持(ぎょうじ) 」 と云うのである。


道元禅師は 「 発心(ほっしん)修行、菩提涅槃(ぼだいねはん)、

しばらくの間隙(かんげき)あらず、行持道環なり 」 と云っていられる。


発心と云うのは道に志すことである。

何故(なぜ)、道に志すかというと、すべての人の生命の中には

「 仏の生命(いのち) 」 即ち 菩提涅槃(さとりそのもの)が

既に内在しているからである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十二日の法語 谷口雅春先生






苦痛を 「 罪 」 と思うな、栄光発現の好機と観ぜよ

2013-10-23 08:34:17 | 今日の光明法語


ヨハネ伝第九章に 「 この人の盲目にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか 」 と

弟子がたずねたのに対して 「 神の業のあらわれんがためなり 」 とイエスは注目すべき答をなしている。


吾々の苦痛は、内在無限の神力を発揮せんがための重圧であるのである。

偉(おお)いなる病苦に悩む人が、その内在の力を発揮していることは

同じような病苦に悩む人にとっても偉大なる励ましとなり慰めとなるのである。


両手両脚なくして炊事も洗濯も裁縫もなし得る中村久子女子や、

盲聾啞の三重苦のヘレン・ケラーが普通よりも一層魂の眼がひらいて人々を指導し得る事実を見るとき

多くの人は希望を持つのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十一日の法語 谷口雅春先生





外界の困難は内部の力を招集する

2013-10-22 10:44:31 | 今日の光明法語


人間の内部には、神の無限の可能性が宿されている。


それは自覚されれば発現の最初の出口がひらかれるのであるが、

自覚するだけでは足りないのである。


出口へ押し出す力がなければならないのである。

それが努力である。


しかし努力は、あまり仕事が楽々としている場合には百%働かないのである。

ただ困難や苦痛に面したとき大いなる努力がなされて、内在の偉大なる力が搾り出される。


従って病苦の中に偉大なる著述をする人や、

牢獄の中にいて大いなる仕事をする人なども出て来るのである。


外面的に人間が苦痛に面する時、心は内に向って働くからである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 十日の法語 谷口雅春先生






神の栄光は斯く受けよ

2013-10-21 20:51:37 | 今日の光明法語


神より来る栄光を受けようとのみ受動的に待ちかまえるだけでは足りないのである。


「 待つ 」 と云うことは必ずしも静(じっ)としていることではないのである。


神の子らしく愛を行ずること、

神の子らしく清く正しく生きるべく努力すること、

その行と努力そのものが神の栄光に波長を合わすことになるのである。


そして一方には、

喜ぶこと、心を明るくすること、

その他 自分の知り得た光明生活法を実践すること、

現在受けている凡ゆる恵福を、どんな小さな事でも思い出して感謝すること、


これらはいずれも神の栄光を受信するための受入態勢であるのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 九日の法語 谷口雅春先生





最も効果ある祈り方

2013-10-21 20:44:59 | 今日の光明法語


神の最高実現としての人間の使命は、神が心に描かれた 「 完全人間 」 の像を

地上に実現することなのである。


それを実現するためには先ず 「 人間の使命が神の 『 完全人間 』 の理想を

実現するにあるのだ 」 と云うことを自覚しなければならない。


人は自覚しただけのものを実現し得るのである。

しかし自覚が頭脳の表面だけではその実現力は弱いのである。


然らば此の自覚を深めるには祈ること、又は神想観を行うことが必要である。


祈る場合には 「 神よ、この自覚を深め給え 」 では弱いのである。


「 神よ、われを神の最高実現として凡ゆる点に完全に創造(つく)りたまいし事を

感謝します。」 と祈るべきである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 八日の法語 谷口雅春先生





一念不動、実相の完全さを信ぜよ

2013-10-21 08:27:31 | 今日の光明法語


吾々は如何なる仕事をなすにも、心をそれに集中して

右を顧み左を振向きなどしていてはならないのである。


吾々が神想観をするときには、一念不動ただ一事(じ)

「 吾れ神の子 」 「 われ霊的実在なり 」 の実相に心を集中しなければならない。


「 この病気を今治しつつある 」 などと、病気があるなどと

考えてはならないのである。


現にある病気を想念することは病想観になっているのであって、

神想観ではないのである。


現象界は、写真の焼付けみたいなものであって、

あまり短時間だけ焼付けたのでは駄目である。


一定時間中は、ほかの原版と取換えてはならないのである。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 七日の法語 谷口雅春先生






一番根本的な問題は

2013-10-20 22:11:40 | 今日の光明法語


人間の中には、何人(なんぴと)にも 「 神 」 が宿っている。


どんな悪人と烙印を押された人にも 「 神 」 が宿っているのである。


だから、すべての人間は、一個の 「 神社 」 であると云うことができるのである。


神社に参拝して手を合わす人は沢山(たくさん)あるけれども、

人間を 「 神社 」 として合掌しない人は多い。


若(も)しすべての人類が人間互いに、内に神やどり給う 「 神の宮 」 即ち神社として

礼拝することを始めるならば、世界にはどんな種類の争いも、啀(いが)み合いもなくなり、

すべての家庭は幸福になり、すべての人間は健康になり、全世界は平和になる。


此の根本的な問題を忘れていては凡(あら)ゆる計画も画餅(がべい)に等しい。



『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 六日の法語 谷口雅春先生


http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/MYBLOG/yblog.html




美点を選ぶか欠点を選ぶか

2013-10-20 22:06:09 | 今日の光明法語


どんな人間にも、環境にも、美点があり、善き処があるのである。

又、どんな人間にも、環境にも悪しき処、みにくい処があるのである。


甲は周囲の人間及び環境から、よき処のみを認め、その善き処を吸収し、

善き想念のみを起しているのに、


その同じ環境にいて、乙は悪しき処のみを認め、悪しき処のみを心に吸収して、

悪しき想念感情のみを起しているとしたならば、


やがて甲の運命と乙の運命との間には大いなる相異が起ることは当然である。



人間の幸福というものは、ほんの僅(わず)かなやさしい言葉によって得られるのと同じように、

ほんの一寸(ちょっと)した憤激の情から破局を導き出して来る。




『 生長の家 』 昭和二十六年二月号 五日の法語 谷口雅春先生