☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

浄円月観

2017-02-24 11:23:28 | 神想観

まず正坐 瞑目 合掌し、普通の神想観の如く、無限の智慧、愛、生命、供給、悦び、
調和の世界を観じたる後、( あるいは 最初から直接 )次のごとく繰返 し祈ります。

天地一切の創造主(つくりぬし)にましまして、
吾が生みの御親(みおや)にまします神よ、
あなたの無限の愛を 吾れに流れ入(い)らしめ給いて、
吾れに於いて愛の霊光 燦然と輝き給いて、
すべての人々の罪を赦 し、すべての人々を愛 したまえ。

( この祈りを 数回 繰返す )

神の無限の愛 吾れに流れ入りたまいて
吾れにおいて愛の霊光 燦然と輝きたまう。
吾れに浄円月(じょうえんげつ)の雰囲気 ただよう。吾れに浄円月の雰囲気ただよう。
吾が雰囲気は、やわらかく、あたたかく、清く、うるわし。

すべての人々に平和と喜びとを与え
すべての人々の罪を赦 し、
すべての人々を愛するのである。


( 「 神の無限の愛 ・・・・・・ 」 より繰返 す )


世界平和の祈り

神の無限の愛、
吾(われ)に流れ入(い)り給(たま)いて、
愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給う

その光 いよいよ輝きを増(ま)して 全地上を覆(おお)い給(たま)い、
すべての人類の心に
愛と平和と秩序と中心帰一の
真理を満(み)たし給う。


「 浄円月観 (じょうえんげつかん)」 を行なった後、

神の無限の愛、吾れに流れ入り給いて
愛の霊光 燦然と輝き給い
吾れに 浄円月の雰囲気 漂う。

浄円月の雰囲気 いよいよその輝きを益(ま)して全地上を蔽( おお )い、
全人類をして 愛と平和の想 いを満たし給う。


( 繰返 し念ずる )

谷 口 雅 春 先 生
『 詳説 神想観 』「 浄円月観 」 130~133頁 、「 世界平和の祈り 」 228~229頁

( 各種の神想観の後に、「 世界平和の祈り 」 を 光明思念しますが )
  浄円月観の場合、浄円月観 後 の祈りを繰返 し念ずるのが好いのであります。
※ 昭和30年に録音した浄円月観のCDでは、通常の 「 世界平和の祈り 」 で
  実修されております。



観普賢菩薩行法

2017-02-23 17:33:15 | 神想観

最初、基本的神想観 の 「 もはや吾れ生くるにあらず、神のいのち ここにありて
生くるなり 」 というところまで念じ、この心境が深まった続きとして
次の言葉を念じて下さい。
 
  吾れ普(あまね)く我が全身を観ずるに
  此身(このみ)このまま普賢(ふげん)の身(しん)なり。

  六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)に乗り、花片(はなびら)が悉(ことごと)く
   如意宝珠なる
蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(ざ)し、

  合掌の内に一大如意宝珠を持し、
  全身の細胞 悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
  合掌の如意宝珠 またまた大光明を放つ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  一々の如意宝珠に 三千の御仏(みほとけ)坐(ざ)し給う。
   各々(おのおの)六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)に乗り、
  花片(はなびら)が悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、

   合掌の内に如意宝珠を持し、
   全身の細胞 悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
  合掌の如意宝珠 またまた大光明を放つ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ※ < 一々の如意宝珠に またまた三千の御仏(みほとけ)坐(ざ)し給う。
六牙の白象に乗り、花片(はなびら)が悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、

合掌の内に如意宝珠を持し、
全身の細胞悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
合掌の如意宝珠 またまた大光明を放つ。
> ( ※ 繰返し 念ずる )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
 
全身の細胞の中に三千の御仏、すなわち普賢菩薩が坐って光明燦然と輝いておられる有様を
繰返し観ずるのでありますが、その時、今坐っている自分自身が白い象に乗って合掌して
光明燦然と輝いている普賢菩薩であるとして、その姿をじっと見つめ、それを繰返し念ずる、

細胞の中の三千の御仏と一体に重なっているようにじっと心で見つめ繰返し念ずるのであります。
普賢菩薩を自分と別ではなく、自分の中にある、自分の姿として観ずるのであります。

繰返し繰返し念じておりますと、もう自分が肉体ではなく、普賢菩薩そのものであるという
実感が湧いて来るのでありまして、これは非常に精神統一のしやすい所の神想観であります。
これを繰返して精神統一の極に入りまして、最後に 神想観をやめる直前に、

  吾れ普 ( あまね ) く我が全身を観ずるに
  此身(このみ)このまま普賢(ふげん)の身(しん)なり。
  身量無量(しんりょうむりょう)、色像無辺(しきぞうむへん)、
   音声(おんじょう)無限にして
虚空(こくう)に満ち、

  六神通(ろくじんずう)自在にして 無限智、無限愛、無限生命なり。
  よく一切衆生の苦厄(くやく)を度(ど)し、一切衆生の病悩を癒すのである。


これを繰返し念じて、やがて終るわけであります。



大日本神国観

2017-02-23 12:36:05 | 神想観

   正坐、瞑目、合掌して、招神歌四首を唱え、次の如く念ずる 。

吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入 ( 居 )( い ) る。

    と念じて、“ ここが実相の世界、神の世界、神霊(しんれい)満ちみつる世界である ” と
    観ずるのである。次に

遥々( はるばる ) と目路 ( めじ ) の限り眺むるに十方世界 悉 ( ことごと ) く 神なり。
吾れ 十方世界を礼拝す。


     と念じ、十方世界の一切のものが 悉(ことごと)く神霊(しんれい)の示現(じげん)で
    あると観じ、

天よ、ありがとう。地よ、ありがとう。空気よ、有難う。
火よ、水よ、温(あたたか)みよ、冷たさよ、天地一切のもの
神の顕(あらわ)れであります。ありがとうございます。


     と念じつつ、神の恵みの満ちたりて、光り輝く実相の世界を静かに観じて、
     その円満完全光明遍照の大宇宙が、十六花弁の金色(こんじき)の蓮華の花の姿にて、
     その中央座( ちゅうおうざ )に スメラミコト の玉座( ぎょくざ )ありと観じ、
    ( 眼の内に描 いて、それを諦視する )

中央に すめらみことの 御座(ぎょざ)あり、すめらみこと 高御座(たかみくら)に坐し給う。
皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の御神霊(ごしんれい)ともなり。


    と念じ、玉座の背後 ( はいご ) 上方 ( じょうほう ) に、
    天主( てんしゅ )・天之御中主大神( あめのみなかぬしのかみ ) ・・・・・・  
    天祖( てんそ )・天照大御神( あまてらす おおみかみ ) ・・・・・・
    天孫( てんそん )・邇々芸命( ににぎのみこと ) ・・・・・・ を始め
    神武天皇より百二十四代の聖天子を中心とし、皇祖皇宗の御神霊が、秩序整然 、
    威儀 ( いぎ ) 端然 ( たんぜん ) と( 千光仏の如く ) 大光明を放ちて 顕現し給う
    荘厳 ( そうごん ) 無比 ( むひ ) の光景を観ずる。次いで

これをめぐりて百官もろもろの司(つかさ)あり。
すめらみこと に向いて礼拝し奉行(ぶぎょう)し奉(たてまつ)る。


    と念じ、その有様を観じ、眼の裡(うち)に百官綺羅星(ひゃっかんきらぼし)の如く、
    玉座を中心に至誠をもって職域に奉行しつつある実情実相を心に描いて観ずる。次に

十方に八百万 ( やおよろず ) の神々あり、護国の英霊あり、
十方 ( じっぽう ) の諸仏 ( しょぶつ ) あり、諸天 ( しょてん ) あり、

すめらみこと に向いて礼拝し守護し奉る。
 

     と念じ、大宇宙の地平線の彼方(かなた)稍々(やや)やや高きところに、
    光明燦然と輝く星の如き神々と十方諸仏、諸天、恭(うやうや)しく 
    すめらみこと に礼拝 し守護 し給える荘厳なるありさまを心に描きて、次いで

すめらみこと の御座 ( ぎょざ ) より御光 ( みひかり ) さし出(い)でて
洽(あまね)く六合(りくごう)に照り徹(とお)らせり。


    と念じて、天皇(すめらみこと)の御座より、金色(こんじき)の光まばゆきばかり
    さし出(い)でて、光華明彩(ひかりうるわしく)、六合に照徹せる相(すがた)を観じ、

六合照徹(りくごうしょうてつ)光明遍照(こうみょうへんじょう)、六合照徹光明遍照 ―――― 

    と幾回も繰返し念じつつ、すめらみこと の御光が恰(あたか)も、太陽の光が全宇宙に
    光被(こうひ)するが如 ( ごと ) く照り徹り、一切に いのちをふり濺(そそ)ぎ、
    之(これ)を生かし之を愛護し給う光明遍照なる実相の世界を心をもって諦視する。

    而(しか)して、すめらみこと の大御生命(おおみいのち)に生かされたる
    一切の生物に心を転じて、

すべての生きとし生けるもの、すべての青人草(あおひとぐさ)、
すめらみこと を仰ぎ見て 礼拝し讃嘆し感謝し奉る。


    と、地上にみちみちているすべての人々が、天皇の御徳(おんとく)を讃嘆し
    感謝し奉る有様(ありさま)を心に見つめつつ、自己もそのうちの一人として
    感謝の念を深く起して、次の如く念ずる。

天皇陛下 ありがとうございます。ありがとうございます。
皇祖皇宗の御神霊 ありがとうございます、ありがとうございます。
百官もろもろの司 ( つかさ ) 様 ありがとうございます。
十方 八百万(やおよろず)の神々様、護国の英霊様 ありがとうございます、ありがとうございます。
十方の諸仏・諸天様 ありがとうございます。


    かく念じつつ、光明遍照の調和せる荘厳なる実相世界を心に描きつつ、

既に大宇宙の救済は成就せり。
金波羅華(こんぱらげ)実相の完全円満の相(すがた)、地上に隈(くま)なく反映し実現して
中心帰一、万物調和の永久平和の世界 今 現ず。


一切の生物ところを得て争う者なく、相(あい)食(は)むものなく、病むものなく、
苦しむものなく、乏しきものなし。


実相・現象渾然(こんぜん)一体、実相・現象渾然一体 ・・・・・・ ( 繰返す )

みこころの天に成る世界、既に地に成就せり。
ありがとうございます。ありがとうございます。





蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)

2017-02-23 11:52:15 | 神想観

吾れ、今、五官の世界を去って、普(あまね)く吾が全身を観ずるに
この身このまま観世音菩薩なり。

吾れ 観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)し、
一切の苦厄(くやく)を度(ど)す。

物質 ない、物質はない、物質はない・・・・・
肉体 ない、肉体はない、肉体はない・・・・・
ない、心もない、心もない・・・・・

虚空(こくう)中に 宇宙大の大日輪 (だいにちりん) 浮ぶ。
光明遍照(へんじょう)実相世界 ここなり

ここ 蓮華蔵 (れんげぞう)世界なり。

この 菩薩は 自分自身なり

大日輪の智慧 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・
大日輪の愛 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・
大日輪の生命 吾に流れ入る、流れ入る・・・・・

吾れ 大日輪の智慧なり。吾れ 大日輪の愛なり。吾れ 大日輪の生命なり。

一切のもの吾れに備わり、意(こころ)に随(したが)って集り来たり用足りて自から去る。




神想観のすすめ

2017-02-23 10:22:06 | 神想観

先日、ある先輩から、19種類の神想観を一日2回実修していることを伺いました。

それで、多くの神想観を覚える一助として、主に念ずるコトバを色分けして
みました。

“ 覚える神想観 ” “ できる神想観 ” が 主眼であるので、
詳細については、 『 新編 聖光録 』 『 詳説 神想観 』 を
熟読してくださるようにお願い申し上げます。

主に、日々行じている神想観は、 「 基本的神想観 」 をはじめとして、
「 自己礼拝の神想観 」 「 蓮華日宝王地観 」 「 浄円月観 」
「 観普賢菩薩行法 」 「 大日本神国観 」 「 如意宝珠観 」
「 四無量心を行ずる神想観 」 「 和解の神想観 」 の9種類が主ですが、

これらの神想観は 暗唱して念じておりますが、神想観の “ 前 後 ” に
『 新編 聖光録 』等 を 黙読して、念ずるコトバ と イメージを 確認するようにしています。
そのほかの神想観も日常生活の中に取り入れております。



「 生長の家の食事 」 の神示 < 練成会 編 >

2017-02-20 19:23:38 | 神示

 瞑目 合掌

食事は自己に宿る神に 供え物を献ずる 最も厳粛な儀式である。

一椀を手にしては 是れ今迄 過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が
神によって許されんがための供物であると念(おも)いて食せよ。

二椀を手にしては 是れすべての人の罪 神によりて許されんがための
供物であると念(おも)いて食せよ。

三椀を手にしては 是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を
犯さざらんが為の供物であると念(おも)いて食せよ。

而(しか)して一杯の飲料を手にしては すべての人の罪 この水の如く
吾が心より洗い流 して
心に とどめざらんがための象徴(しるし)と思いて飲め。

ありがとうございます。
いただきます。




「 生長の家の食事 」 の神示

2017-02-20 13:54:23 | 神示
聖書に吾らが祭壇に対して供物(そなえもの)を献ずるに当っては、
先ず兄弟と仲直りしなければならないと云うことが書いてある。
吾らは食事をとるに当っても矢張りこれと同じことをしなければならないのである。

何故なら 食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である からである。

一椀を手にしては 是れ今迄 過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が
神によって許されんがための供物であると念(おも)いて食せよ。

二椀を手にしては 是れすべての人の罪が 神によりて許されんがための
供物であると念(おも)いて食せよ。

三椀を手にしては 是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を
犯さざらんが為の供物であると念(おも)いて食せよ。

而(しか)して一杯の飲料を手にしては すべての人の罪を この水の如く
吾が心より洗い流して心に とどめざらんがための象徴(しるし)と思いて飲め。


若(も)し病人にして医薬を服用する者あらんには それを四口に分けて飲み、
この同じ想念をなして飲めば 病 必ず 速(すみやか)に癒えるのである。

すべての他の人の罪を恕(ゆる)すは、吾らの過(あやまち)をも亦(また)
大生命なる神より恕されんがためである。若(も)し吾等が心を閉じて他を恕さなければ、
大生命の癒能(いやすちから)もまた閉ざされて吾等に流れ入(い)ることは出来ないのである。

( 昭和 五 年 十一 月 四 日 神 示 )

 谷 口 雅 春 先 生
『 神ひとに語り給ふ 』 神示講義 教の巻 ( 258 ~280頁 )

( ※ 練成会では、上記の神示の太文字の部分を、食事前に瞑目合掌して、拝読してから
“ いただきます ” )

「 生長の家の食事 」PDF
http://sninagano.web.fc2.com/image/inori/inori-syokuji.pdf#search=%27%E7%94%9F%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%AE%B6%E3%81%AE%E9%A3%9F%E4%BA%8B%27

【 参 考 】 食後の祈り

「 神の生命と愛とが 食物の形となって われに栄養を与え、
わが生活をして 神の栄光をあらわしめ給う。 」

この食事を 真心をもって作って下いました皆様に 心より感謝致します。
ご馳走さまでした。ありがとうございます。

ああ、美味(おい)しかった。  ( 二拍手 )



神想観 観普賢菩薩行法

2017-02-17 14:13:45 | 神想観
観普賢菩薩行法 - 伝統
2016/02/28 (Sun) 04:29:37

         *『詳説神想観』(P133~138)より

「無量義経」「法華経」「観普賢菩薩行法経」を称して法華の三部経と言います。

釋迦如来が今まで四十年間説いて来た教えはすべて方便の教えで本当のことを説かなかった。
今こそ本当の事を説くぞ、その本当の真理とは、人間は如来のいのちがここに生きている、
無限のいのちそのものであるという事である、とこう説いてあるのが「法華経」でありまして、

それならこの真理を如何にして実現することが出来るかという事が書いてあるのが
「観普賢菩薩行法経」であります。

そしてそれには「大乗の経典を読み、昼夜六時に普賢菩薩を観ぜよ」
という事が書いてあるのであります。

よくお寺などで見ますが、六本の牙のある白い象がおり、
その鞍に蓮華(れんげ)の花のついた宝座(ほうざ)があり、そこに普賢菩薩が坐っておられる。

象というのは「大きい」という事で無限大をあらわし、
白い象の「白い」というのはちょうど太陽光線のようにどんな色もついていず、
どんな色もそこに含んでいる。

あらゆるものが一つにあって、実際はありながらあらゆる相(すがた)が現れていない。
それで、「白い象」というのは無限に大きくして、
一切のものがその中にある虚空(こくう)――全宇宙をあらわす。

六本の牙というものは、仏教で言われている六つの神通力(じんつうりき)を言う。

六神通(ろくじんずう)というのは
天眼通(てんげんつう)・天耳通(てんにつう)・他心通(たしんつう)(他の心を知る神力)・
宿命通(しゅくみょうつう)(この男は前世において何に生れており何の因縁によって今こういうすがたに生れて
こういう経験を受けているのである――というような事が分る)

・神足通(じんそくつう)(空中歩行する、歩かないでも釈迦牟尼仏は「華厳経」の説法をなさったとき
座を立たずして夜摩天という天人のいる世界に昇って行かれたとあるが、ここに居りながら
何処かに姿を現わす通力)・漏尽通(ろじんつう)(漏というのは煩悩の事、煩悩の尽きて無くなる事)
を言う。

そこでこの観では普賢菩薩は虚空に充ち満ち無色透明で相が無い、しかも一切の相を内に
蔵している虚空に跨って、一つ一つの花片(はなびら)が如意宝珠(にょいほうじゅ)である
ところの蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(すわ)って合掌のうちに如意宝珠を持って
精神統一をしているわけなんです。


そして合掌のうちに如意宝珠があるだけでなく全身四百兆一つ一つの細胞が物質の肉体ではなく
如意宝珠そのもので、光明燦然たる光を放っている。

その全身四百兆の如意宝珠の一つ一つに三千の普賢菩薩が六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)上に乗って
合掌していらっしゃる、そして光明燦然(こうみょうさんぜん)と光を放(はな)っている。

そしてその光を放っている普賢菩薩の身体(からだ)の一つ一つの細胞がまた如意宝珠であって、
その中にまた三千の御仏が坐っておられる、その仏の細胞が如意宝珠で、その如意宝珠にまたまた
三千の普賢菩薩が坐っておられて、それがまた無限に続くのですから素晴らしいですね。

これを華厳の重現無礙(じゅうげんむげ)と言うのです。

子供のオモチャによくあるでしょう。
ちょっと大きい箱を買ってやると、その箱の蓋を開けると小さい箱がその中に入っている、
その蓋を開けるとまた小さい箱がある。その蓋を開けるとまた小さい箱があると
いうようにいくらでも箱が入っておる。

そのように吾々の身体(からだ)の細胞一つ一つが如意宝珠で、
その如意宝珠は蓋を開けないでも そこに三千の普賢菩薩が坐っておられる。

その普賢菩薩一人一人の全細胞がまたまた三千の普賢菩薩に満たされ光明燦然(きょうみょうさんぜん)として輝いておる――こう観ずると「人間は肉体ではない」という事が分るのです。

すばらしい神想観であります。


舞鶴にその人が部屋にいると異臭ぷんぷんするというようなひどい《わきが》の
お嬢さんがおられて、舞鶴の長村(おさむら)婦美子講師に相談された。

人間はそんな臭い匂いのするような肉体にあらず、物質にあらず、それはウソである。
その《ほんもの》でないウソを《ほんもの》であると思っているのが迷いである。

《ほんもの》は何であるかというと、人間は仏のいのちであり、普賢菩薩そのものである。

普賢菩薩を前に述べたお寺にあるような、そういう恰好をした仏で、
釈迦牟尼如来が説法された時代に観世音菩薩などと一緒に出現して説法を聴かれた、
そういう菩薩であるというのは顕教的な、表れている表面的の解釈でありますが、

密教的(密教というのは、お経の表面の意味の奥にかくされた秘密の意義を解する教えの意)
に言うと自分自身が普賢菩薩そのものであるというわけです。

すなわち「普賢」というのは「普(あまね)く賢い」――どこにもかしこにも
充ち満ちている智慧そのものである。その智慧によって一切のものができている。
宇宙のありとしあらゆるものはみんな法則によって支配されている。

それが人間智慧によって解明できるということは、
一切のものが智慧によってできているからである。

それで、人間の身体は肉身にあらず、智慧身である。
それを観ずるのが観普賢菩薩行法です。

真言密教では、普賢菩薩を描いた掛軸を目の前一間位のところに掛けて置いて、
それを《じっと》見詰めて精神統一して、その像がずっと自分の方へ入ってきて、
自分自身が普賢菩薩であるというすがたを観ずるのであります。


さてこの観普賢菩薩行法をやんなさいと長村婦美子さんがお嬢さんにすすめ、
長村さんとお嬢さんが向い合って神想観をしたところ、終るとたちまち
その異臭ぷんぷんたる《わきが》が消えておったというような体験もあるのであります。

 
観じ方は次の如くであります。

最初普通の神想観をするのでありますが、
「もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり」
というこの心境が深まった続きとしまして念じて下さい。
 

 『 吾れ普(あまね)く我が全身を観ずるに此身(このみ)このまま普賢(ふげん)の
   身(しん)なり。

  六牙(りくげ)の白象(びゃくぞう)に乗り、花片(はなびら)が悉(ことごと)く
   如意宝珠なる蓮華(れんげ)の宝座(ほうざ)に坐(ざ)し、合掌の内に一大如意宝珠を持し、
  全身の細胞悉く如意宝珠にして 光明燦然として十方世界を照らす。
  合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。

  一々の如意宝珠に三千の御仏(みほとけ)坐し給う。各々(おのおの)六牙の白象に乗り、
  花片(はなびら)が悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、
  全身の細胞悉く如意宝珠にして光明燦然として十方世界を照らす。
  合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。

 ※< 一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。六牙の白象に乗り、花片(はなびら)が
  悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、全身の細胞悉く
  如意宝珠にして光明燦然として十方世界を照らす。合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。

  一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。 』

 
これ※<>を繰返して下さい。

全身の細胞の中に三千の御仏、すなわち普賢菩薩が坐って光明燦然と輝いておられる有様を
繰返し観ずる
のでありますが、その時、今坐っている自分自身が白い象に乗って合掌して
光明燦然と輝いている普賢菩薩であるとして、その姿をじっと見つめ、それを繰返し念ずる、

細胞の中の三千の御仏と一体に重なっているようにじっと心で見つめ繰返し念ずるのであります。

普賢菩薩を自分と別ではなく、自分の中にある、自分の姿として観ずるのであります。

繰返し繰返し念じておりますと、もう自分が肉体ではなく、普賢菩薩そのものである
という実感が湧いて来るのでありまして、これは非常に精神統一しやすい所の神想観であります。

これを繰返して精神統一の極に入りまして、最後に神想観をやめる直前に、

 『 吾れ普く我が全身を観ずるに此身(このみ)このまま普賢の身なり。
  身量無量、色像無辺、音声無限にして虚空(こくう)に満ち、六神通(ろくじんずう)自在にして
  無限智、無限愛、無限生命なり。
  よく一切衆生の苦厄(くやく)を度(ど)し、一切衆生の病悩を癒すのである。 』


これを繰返し念じて、やがて終るわけであります。

「身量無量(しんりょうむりょう)」というのは自分の身体の分量が無限であって、宇宙に拡がっている。
「色像無辺(しきぞうむへん)」というのは物質または霊体として現れている波の体が無辺であって限りがないという事。
「音声(おんじょう)無限」というと、自分の《いのち》のコトバの響きが無限であって虚空に充ち満ちている

と観ずるのであります。



《自分自身を普賢菩薩と観じよう》 - 伝統

2016/02/28 (Sun) 04:30:51

         *『詳説神想観』(P138~139)より

病気にかかった場合、病気の姿を心に描いて、
それを治そうと考えては却って治らないのであります。
何故なら心で「病気」をつかむからです。

「病気なんて、そんなものは全然無い。神はそんなものを造らないから絶対無い」と、
病気を心から放ち去るのです。

そうして、自分はもう既に、普賢菩薩そのものであり、仏のいのち、神のいのちそのもので
あって光明燦然と輝いている自分だということを《じっと》精神を統一して観ずるのです。

大体、病気というものは「人間は肉体であり、滅ぶべきものである」という人類意識の
あらわれとして出てくるのですから、その人類意識から超出するために、物質でないところの
霊的存在である自分(普賢菩薩)を完全に心の眼で精神を統一して見つめるというわけです。

肉体は心の影にすぎないのであって、 「霊なる自分」だけがあるのですから、
その霊なる光明輝く自分を見つめるのです。
肉体と霊体と二つあるように神想観中に思うと、
「肉体は滅ぶべきもの」という人類意識に引っかかるからいけません。

「肉体なんて無いんだ」とハッキリと断ち切って、神想観をして、
「ここに坐しているのは、霊体そのもの、普賢菩薩そのものがここにこういう姿で現れているのだ」
とその完全な自身の姿だけを心の眼で見つめるのです。

常に観普賢菩薩行法を行なっているものには、常に金剛不壊のオーラがとりまいていて、
如何なる悪波動も、自分に近づくことができないのである。

黴菌といい、ヴィールスといい、いずれもこれは悪しき想念の具象化であるから
黄金色のオーラをもって全身を完全に保護しているものには、
決して侵入することができないのである。

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自己暗示の原理 と 其(そ)の方法

2017-02-16 20:03:30 | 今日の光明法語


市販のブレスレット(198円)( ※ 近くのparco内ユザワヤ・ホビー手芸材料http://www.yuzawaya.co.jp/shop/で購入 )に、市販のストラップ(四葉のクローバー)を付けたもの。( ブレスレットの天然石<カーネリアン8mm>の数が23個なので、23回 数えられるようになっている )。オペロンゴム糸0.6mm×5m、100円を購入して、カーネリアン8mm20個+ウッドビーズ12mm5個にも加工が出来る。20回、25回兼用。ウッドビーズ12mmは、100円ショップ・キャンドウでも購入可。
作り方、紐の結び方はユーチューブで検索。


クーエの自己暗示法

生長の家では、朝 起きて、まだ現在意識が呆(ぼう)としているとき、
この時は 潜在意識に 暗示が一番 受容(うけい)れやすいときですから、
「 わたしは 神の子 仏の子。無限健康、無限愛。無限の智慧が湧いて来て、
何でも善いこと みな出来る 」 と云(い)うような意味のコトバを
二十遍ずつ自分の 「 奥底(おくそこ)の心 」 に印象させるように
低声(こごえ)で唱(とな)えるように 勧(すす)めているのであります。

クーエのやり方では、 「 自分は 是(これ)から 毎日あらゆる点で 一層よくなる 」 と、
唱えるのでありますが、 「 私は 神の子 」 と云う風に 「 神 」 の観念を
附加(つけくわ)えて念じますと、 「 神の力で絶対そうなる 」 と信じますから
効果が一層 多いのであります。


朝 起きた時、及び 眠りかけての、現在意識が まだ ぼんやりしているときに、
「 自分は 神の子 毎日あらゆる点で一層よくなる 」 と自分の心に きかすように
二十遍(ぺん) となえるのです。


そうすると 健康だけではなく、毎日一層 あらゆることがよくなるのであります。
クーエは それを二十遍 となえるために、細い紐(ひも)を二十遍 結んで置いたものを
枕頭(まくらもと)に備えておき、一回 それを唱えると、その結び目を
一回つまぐるようにする。すると、数を心で唱えないでも 二十遍 唱えたことが
分かるのであります。

寝(ね)しなの ‘ うとうと ’ しかける時には、目が覚めた瞬間と同じように
潜在意識が表面に浮かび上がっていて、その時に聞いた言葉は 深く印象されますと同時に、
眠りしなに 心に思った事は、恰度(ちょうど)自動車の運転手が 一定の方向に
ハンドルを執(と)って眠ってしまったように、一度 向けた心の方向のそのままに
心の営(いとな)みが走ってゆくのであります。

だから、寝しなには、朝、目覚めたときに唱えたような善い言葉を 「 心 」 に となえ、
善いことばかり思いながら 眠りにつくのがよいのであります。

寝しなに人を怨んだり、腹立てたり、悲しんで寝たりすると、悪い夢を見たり、
性格が悪くなったり、怒りっぽくなったり、怨みっぽくなったり、憂鬱(ゆううつ)に
なったり、脳溢血(のういっけつ)を起こしたり、そのほか 「 類を以(もっ)て集まる 」 と
云う法則に従(したが)って 悪いことが重(かさな)って来ることになるのであります。

ですから、自分は 神の子だ、嬉しいのだ、幸福なんだ、いいことが来るのだ、と
云うような思いに 心の方向をぐるりと転換して 眠りに入(はい)りますと、
これも  「 類を以て集まる 」 と云う法則 に従って、その人の身辺に 必ず好(よ)いことが
集まって来るようになるのであります。

谷 口 雅 春 先 生
新版 『 真理 』 第3巻 初学篇 第十六章 「 自己暗示の原理と其の方法 」  ( 220~222頁 )


受験生よ、がんばれ!

日本国の ‘ いのち ’

2017-02-10 19:56:07 | 天皇・国家

日本国の ‘ いのち ’ は、どんな創造的アイディアをもって
出発したかというと 第一に 天照大御神「 天孫降臨の神勅 」 にある
「 豊葦原の瑞穂の国は(世々)わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき
地(くに)なり 」 というアイディアをもって出発し、

第二に 神武天皇の 「 ( 前略 ) 六合(りくごう)を兼(か)ねて都(みやこ)を開き
八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為さん 」 という
建国奠都(てんと)の詔勅(みことのり)に 日本国誕生のいのちが内包する
個性ある創造的アイディアが言(ことば)をもって表現されているのである。

日本国は、その国の王たる者が武力 又は 暴力をもって 権力を掌握したものでないこと、
その国の王者たるものは 神定の霊統を引くものの子々孫々が
嫡々(てきてき)相承(そうしょう)すべきこと ー
これによって日本国家の中心形態のアイディアが定ったのである。

これが 子々孫々 永久に伝えられるべき国家のあり方の第一最大の伝統なのである。
この伝統が生きて嫡々相承している間、日本国のいのちは生きているのである。


『 聖なる理想 ・ 国家 ・ 国民 』 ( 151頁 ) 谷 口 雅 春 先 生



天照大御神 の 「 天孫降臨の神勅 」(「 天壌無窮の神勅 」)
     ↓
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかあまはら)より五伴緒命
(いつとものおのみこと)を引きつれて、天降(あまくだ)って来られて
     ↓ 
神武天皇 の 「 建国奠都(てんと)の詔勅(みことのり) 」
      ( 即位建都(そくいけんと)の大詔(おおみことのり))
     ↓   
   日本国の誕生



祈り求めるには 先ず與(あた)えなければならない

2017-02-10 10:42:15 | 今日の光明法語
現在 「 生長の家 」 が偉大に進展しているのは、
私が 「 與(あた)える心 」 を起(おこ)して
創刊号三年間にわたって どんな利潤の回収をも考えず、
自分の生活は 会社でしながら、雑誌の無代進呈を
継続したからであります。

唯今(ただいま)でも 私の講習会の収入は 全部宗教教団に寄附されているのであり、
私の 『 生命の實相 』 及び 『 真理 』 等の著作権(従ってその印税の全部)は
戦災の遺児(いじ)孤児(こじ)を養っている財団法人生長の家社会事業団に寄附されて
いるのであり、與える心が大きいから、大きく伸びて往(い)っているのであります。
私は 常に 信徒に與えることのみを 実践してきたのであります。

谷 口 雅 春  先 生
『 あなたは自分で治せる 』 第七章 実際的な祈りの仕方 ( 98~99頁 )




尋(たず)ねよ、さらば 見出(みいだ)さん。門(もん)を叩(たた)け、さらば 開(ひら)かれん。

2017-02-07 21:35:15 | 今日の光明法語
「 尋(たず)ねよ、さらば 見出(みいだ)さん。
門(もん)を叩(たた)け、さらば 開(ひら)かれん。
すべて求(もと)むる者は 得(え)、たずぬる者は 見いだし、
門を叩く者は 開かるるなり 」
という言葉は、

大変わたしの好きな言葉でありまして、
まだ わたしが 生長の家の真理を発見する以前に
この一節を 始終電車に乗っても、汽車に乗っても 心のうちで念じて
わが願うことは 成就し、わが叩く門は 成就するという信念を深めるように
努めていた時代があるのであります。

そうすると とうとう この生長の家の門が開かれて、
わが願いは 成就したのであります。

ですから 皆さんも どうぞ、これに倣(なら)って
神は 人間を その愛子(あいじ)として それになくてならないものは
すでに与え給(たま)いているのだという信念を篤(あつ)くし、
実相(ほんとのすがた)においては すでに与えられているところのものを
現象界においても お受け取りになるように お願いしたいのであります。

谷 口 雅 春  先 生
頭注版 『 生命の實相 』 第 30 巻  児童教育篇・聖典講義篇 
山上の垂訓の示す真理 ( 293 ~ 294頁 )




家庭生活を光明化せよ 

2017-02-06 03:33:50 | 今日の光明法語
多くの家庭が平和な 「 生長の家 」 であり得(え)ない主たる原因は、
家族のすべての人たちが、家庭に於(おい)ては 自制(じせい)を失っても
好(よ)いという ルーズな気になることである。

自制は 諸徳のうちで 最も基礎的な徳であるのである。
それは 己(おの)れに打ち克つことである。
「 高き自分 」 が 「 卑(ひく)き自分 」 に打ち克つことである。
本物の自分が ニセ物の自分に打ち克つことであるのだ。

もし自制がなければ、ニセ物の自分が のさばるのであるから、
如何(いか)なるところにも 平和と生長とは あり得ないのである。

・・・・・・・・

家庭は 神の子同士(どうし)が、神の子の生活を実現するための道場なのである。
だから どれだけ美しい言葉を使っても 美し過ぎるということはないのである。
この、家庭は 神の子の生活を実現するための道場だという
根本的態度がきまることが 家庭浄化の基礎である。


・・・・・・・・

諸君よ、あなたの家庭を 「 生長の家 」 たらしめんと欲(ほっ)せらるれば、
心の統制を一瞬時(いつしゅんじ)たりとも 弛(ゆる)めるな。
仮にも不用意な乱れた語調(ごちょう)の言葉を話すな。

すべて あなたの家庭にて つかわれる言葉を
「 神の子 」 らしい洗練されたものたらしめよ。


互(たがい)を尊(とうと)べ。何故(なぜ)なら、あなた達は皆(みん)な
「 神の子 」 であり、 「 神の子 」 の生活を成就(じょうじゅ)するために
家庭を造っていられるのであるからである。

・・・・・・

和顔(わがん)愛語(あいご) と 相互(そうご)の感謝 は、
諸君の家を 「 生長の家 」 たらしむるに 欠くべからざる要件であるのである。


谷 口 雅 春 先 生
『 新編 生命の實相 』 第13巻 家庭生活を光明化せよ 160頁・168頁・171頁




世界に平和を来(きた)らし、人間が幸福になるためには、罪の観念による自己処罰をやめさせることが第一である

2017-02-01 22:52:38 | 今日の光明法語

「 何(なん)といっても、世界に平和を来(きた)らし、人間が幸福になるためには、
罪の観念による自己処罰をやめさせることが第一です。

しかし人類の潜在意識の底深く滲透(しんとう)した 「 罪の子 」 の観念を
抜き去るためには 諄々(じゅんじゅん)と精密詳細に、人間そのものの本質を
説くことが必要であり、またそれを読むことが必要です。 」

谷 口 雅 春  先 生
『 生活の智慧365章 』 はしがき




世界平和の祈り

2017-02-01 01:12:00 | 神想観
神の無限の愛、
吾(われ)に流れ入(い)り給(たま)いて、
愛の霊光 燦然(さんぜん)と輝き給(たま)う(タモー)

その光 いよいよ輝きを増(ま)して
全地上を覆(おお)い給(たま)い、

すべての人々の心に
愛と平和と秩序と中心帰一の
真理を満(み)たし給(たま)う。(タモー)


( 『 新編 聖光録 』 145頁 )
(『 菩薩は何を為すべきか 』 人類光明化運動指針 第十条 63~64頁 )

補注 : 「 給う 」 の現代仮名遣いの ふりがな と 発音について

「 給(たま)う 」 と 現代仮名遣いでは、ふりがなをしますが、
原則として、発音は「 AU 」 の時、 「 OU 」 と発音します。
発音は 「 たもー 」 です。
「 給(たま)いて 」 は 「 たまいて 」 と発音します。

「 こんにちは 」 の 発音は 「 こんにちわ 」
「 私は 」 の 発音は 「 わたしわ 」 の如くです。


以下、某ブログより。

「平和を祈るための言葉」は、谷口雅春先生が嘗て、戦争を抑制する精神的力の結集を訴え、
信徒に実践を求めた祈りです。

『 新版 生活の智慧365章 』 所載( 205~206頁 )。( 追補:旧版 198~200頁 )

原文中の為政者の氏名を、現在の為政者名に私が置き換え、以下の祈りの言葉と
しています。実践の輪を広げましょう。

平和を祈るための言葉 ( 追補:次の如く繰返し黙念する )

われは神と一体である。われのみならず全人類は神と一体である。
それゆえに全人類は神に於て完全に平和であり、争いの心はないのである。

神は全人類の父でありたまい、すべての民族を平和に護りたまうのである。
或る民族が他の民族の領土を侵さなければ、その民族が幸福になれないなどと
云うことはないのである。


この真理をさとるとき、世界に平和は来るのである。
われは全人類にこの真理を放送するのである。
全人類はこの真理の念送を今受信しつつあるのである。

ウラジミール・プーチン氏も習近平氏も蔡英文氏もキム・ジョンウン氏も
パク・クネ氏もドナルド・トランプ氏も安倍晋三氏も、すべての人類が
この真理をさとりつつあるのである。

神の愛がすべての人類に降りそそがれ、神の平和が地上にあまねく臨(のぞ)む。
すでに みこころは天になるが如く地にも実現したのである。
今より後(のち)、人類に戦いあることなく、悲しみあることなく、
地の万民(ばんみん)は天の父を仰ぎみて讃歎するのである。


この祈りは、カードにしてお分けしています。