☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

人生を善くする根本的悟り (18)

2013-11-28 22:40:14 | 今日の光明法語


心を一転して青空を見よ


それだのに、悪を実在(アル)と思ってそしてそれを掴むんですね。

掴むから現象界にますますゴタゴタが起って、いろいろの雲がかかってくる ー

悲しくなったり、憂鬱(ゆううつ)になったり、雲がかかって来る。


その雲を吹き払う工夫が大切である。

だけども、腹が立つのを抑えたって抑えきれない。どうも仕方がない。

人を憎むまいと思っても憎めてくる。どうも仕方がない。

腹立つ心を抑えようと思ってもどうしてもそれはどうも仕方がない。


そこで、腹立つ心を腹立つ心で抑えようと思っても駄目であるから、

そこでクラリッと向きを変えるんです。


いままで 「 現象 」 の世界の方へ心が向いておったのを、

「 実相 」 の世界の方へ心をふり向けるんです。


雲を掴んで雲を投げ捨てようと思っても駄目である。

雲なぞ吹き払おうと思わなくってもいいんです。


雲を超えて・・・どんなに雲がかかっておっても雲の彼方にはいつも蒼空(あおぞら)があり、

太陽が煌々(こうこう)と輝いている。


だから、雲を掴んでそれを投げ捨てようと思う必要はない。

雲を跳(と)び越えて一躍(やく)して 「 実相常楽 」 の世界に跳び込めばいいんです。

そこから無限の自由、無限の力、無限の生命(いのち)が湧き出てくるのです。



つづく・・・




人生を善くする根本的悟り (17)

2013-11-27 12:35:25 | 今日の光明法語

現象は無いという理由


現象は常に移り変る。

移り変るというのは前のものが消えて次のものが出て来ることです。

消えるというのは本来ナイからなんです。

ナイのをアルと思っているんです。


皆さんが過去に罪を犯したーそんなもの非実在(ナイ)のです。

こんな悪があるーそんなものも非実在(ナイ)んです。

あなたは“神の子”じゃありませんか?

あの人が私を憎んでいるーそんなことも非実在(ナイ)のです。

そんなものは非実在(ナイ)のです。


この世界は神様のお創造(つく)りになった完全円満な世界じゃありませんか。

創世記の第一章に書いてあるように

「 神其の造りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚(はなはな)だ善かりき 」 です。

もう既に善いんです。

悪いものは一つもナイんです。これが実相なんです。

実の相(すがた)なんです。これが生命(いのち)の実相なんです。





人生を善くする根本的悟り (16)

2013-11-25 18:14:13 | 今日の光明法語



こういうふうに『 愛と光との生活 』の本の中で私は説明しておいたのでありますが、

黒住教祖の『 あるものは皆吹き払え大空の無きこそ もとのすがたなりけ 』なんて、

実にいい歌ですね。僕は黒住教が好きなのです。

これは仏教の「空」の哲理にも通じます。


「悪があるある」と思っている限り、それを掴んで払い除(の)けようと思っても、

中々それは払い除けられない。

悪いものがあると思うから ー そして、「 心に思えば思う通りに現われる 」 というのが

仏教で説く“三界唯心”の真理であるから、そうなるのです。


三界とは 欲界・色界・無色界という人間が生まれ出て来る三種の現象界のことです。

“三界”即ち現象界は“唯心”即ち心の現わす所であるというのが“三界唯心”です。


自分は罪悪深重の凡夫であると心で思うから、形の世界に罪悪深重の姿が出てくる。

そんな悪い姿を心で掴むからいかんのです。


そこで必要なのは、『 あるものは皆吹き払え大空の無きこそ もとのすがたなりけれ 』ですね。

だからどんな悪いものも、罪悪深重も、罪の子も、こんな失敗した、あああんな悪いことがあった ー

そんなこと皆な大空に吹き払って忘れるんです。そんなものは本当は非実在(ない)んです。



つづく・・・




人生を善くする根本的悟り (15)

2013-11-24 22:26:46 | 今日の光明法語


大空に懺悔(さんげ)せよ


淘宮術(とうきゅうじゅつ)などでも、生長の家のように心の法則を説き、

何の年の何月生まれの者は心にこういう性質があるのだから

それを抑えなさいと初歩は教えます。

これは『修養』の境地であります。


しかし、それを抑えよう努力しましても、

中々その悪癖悪性質が直らないことがあります。


そのときはどうするかといいますと

淘宮術では『 大空に懺悔する 』のだそうであります。

淘宮術のことは委(くわ)しく知りませんが、

『大空に懺悔する』と云うのは『 悪本来無し 』と大空に吹き払ってしまうことであります。



あるものは皆吹き払え


黒住教祖も 『 あるものは皆吹き払え 大空の無きこそ もとのすがたなりけれ 』 と

歌われましたそうであります。


斯うして一切の『悪しきものが“ある”』の観念を吹き払って、

自分の中から神々しさを出してゆくと、人間の生命(いのち)の本当の相(すがた)には、

本来 仏の生命・神の生命が宿っているので、至妙(しみょう)常楽(じょうらく)のものである

ということがはっきりと悟られてくるのであります。


悲しいとか、苦しいとかいうことがあるのは、この至妙常楽の本当の相が出ていない、

悟っていないからであります。・・・


つづく・・・




人生を善くする根本的悟り (14)

2013-11-23 19:52:37 | 今日の光明法語


ただの修養では人間は善くなれぬ


修養というものは 『 現象の中で悪いものを それを見別(みわ)けて、

それを握って捨てようとする 』 のでありますが、


それも修養しないよりは結構であるけれども、

それは悪い現象であるとして取扱っていますから、

その悪い現象がどうも捨て難いのであります。


『 腹立つ自分 』 があると思って 『 私はもう腹が立って鬼見たいな心だ 』 と思っているときには

この 『 神々しさ 』 はその人の心の中には無くなって

『 鬼々(おにおに)しさ 』 の人間という自覚が出てくることになりましょう。


そうすると、其処(そこ)に鬼々しさの人間があらわれ、

鬼どもの住む いまわしい地獄の世界があらわれてまいります。


自分を 『 鬼々しい人間 』 だと思っている限り、『 神々しさ 』 は現われてまいりません。

そこに今までの 『 修養 』 というものでは不完全な、物足りなさがあるわけであります。



つづく・・・





人生を善くする根本的悟り (13)

2013-11-22 20:47:58 | 今日の光明法語


その阿弥陀仏と一体の自分を自覚しないで、唯 未来往生のための呪文として

南無阿弥陀仏を唱えるから、だからそういう間違いが起ってくるんです。


「 いまここに仏の命がある 」 「 神々しい仏の命がましますんだ 」 と思うことが必要である。


“ 仏壇の中に金 鍍金(めっき)して光っているあの仏像が仏様で、

自分は罪悪深重の凡夫である ” なんて考えておったら、

どこにも本当の宗教的悟りも本当の救いもないということになるのであります。


そんな悪い自分はナイんだということを悟るのが、これが一向専心である。 ―

「 悪い自分 」 があるから斯(こ)うしなければならぬなんて

考えるのが雑行雑修(ぞうぎょうぞうしゅう)である。


「 悪い自分 」 をなんとか善くしようとするのは、それは修養である。 ―

南無阿弥陀仏の信仰は、そういうものじゃないのであって、

阿弥陀仏が尽十方に満ちていらしてその他には何もない。

もうそんな 「 悪いもの 」 がなんにも無くなる。

光の方ばかり向けば陰がなくなる。

これが宗教の本当の悟りであります。



つづく・・・





人生を善くする根本的悟り (12)

2013-11-21 21:45:12 | 今日の光明法語


つまり、南無阿弥陀仏と唱えながら嫁いびりをして嫁を虐(いじ)めたりするのは

何故であるかというと、あまりに未来成仏を強調し過ぎて

ここに阿弥陀仏の命がいま生きているのであるということを忘れてしまった、

そして南無阿弥陀仏の本当の意味を忘れてしまった。


意味なしに唯(ただ)呪文(じゅもん)の如く未来往生(おうじょう)のために念仏を唱えながら、

鬼のような心をもちつづけている。


すると、やっぱり三界唯心である。自分の心の思う通りに鬼が現われる。

どうせ此の世の中では私は鬼婆(おにばば)みたいな煩悩熾盛の、

罪悪深重(じんじゅう)の凡夫だから、どうせ悪いことをするのは当たりまえじゃと、

そんな自己劣等感が働いて、罪を作りつづけるのです ―

そんな劣等感を捨てて、今此処に阿弥陀仏と一体の自分があると自覚するのが

本当の南無阿弥陀仏なんです。


ですから大無量寿経には、「一向専心、ただ南無阿弥陀仏と念じたら即得往生・・・」と

お経に書いてある。

“ 即得 ” と書いてあるところに注意して下さい。

即は即座である。そのままである。

そのまま、極楽浄土へいま即座に往くんだ。死んでからじゃない。

いま往くんです、いま行(ゆ)かずして往くんです。

何処(どこ)へも行かなくって此処に既にあるんです極楽が。


自分の生命(いのち)が南無阿弥陀仏 ― 阿弥陀仏に帰一したのだ。

阿弥陀仏に帰命(きみょう)したという自覚が本当に起ったら、

自分の命と阿弥陀仏と一体なんだから、その阿弥陀仏の命がここにいるんだから、

阿弥陀仏のいらっしゃる世界がそのまま極楽の筈である、

そのまま極楽のそのまま此処に阿弥陀仏がいらっしゃる。



つづく・・・




人生を善くする根本的悟り (11)

2013-11-20 23:56:23 | 今日の光明法語

南無阿弥陀仏本当の意味


そこで「 至誠心(しじょうしん)」の問題でありますが、

『 愛と光との生活 』の二百十三頁の終りから四行目のところを、ちょっと朗読します。


「熟(つくづく)考えまするに、至誠心を以(もっ)て南無阿弥陀仏と唱えますと、

阿弥陀仏の命に帰一し、阿弥陀仏と一つになっているわけでありますから、

『此処に仏が在(おわ)す』の自覚が湧いてくるのであります。

『此処に仏在す』の自覚が出来てきましたら 此処に極楽が現前することになるのであります。


お寺にお祀(まつ)りしてある金色(こんじき)の阿弥陀仏を見ますと、

『 神々しい 』 と合掌したいような気持ちが起ってまいります。

その合掌したい気持 ― その心が既に仏である。

既に自分の中に仏が来られたのであります。

仏と自分が一つになったのであります。

至誠の心が自然に湧いて来て自分自身が神々しくなったのであります。


自分自身が神々しくなれば嫁を虐(いじ)めたり、

親不幸をしたりすることが出来なくなってくる筈(はず)であります。

今迄の念仏宗の信者のお婆(ばあ)さんなどが片手で念仏を唱えながら

片手で嫁をいじめたりしたのは、あまりに『未来成仏』を強調し、

現世は煩悩(ぼんのう)具足を強調し過ぎたために、

言葉の力で現世が煩悩熾盛(しじょう)の状態となったのでありまして、

南無阿弥陀仏と唱えるところ、此処に既に仏ましますと自覚出来たら、

決してそんなことにはならなかっただろうと思います 」


このように書かれております。



つづく・・・





人生を善くする根本的悟り (10)

2013-11-19 03:37:55 | 今日の光明法語


“ 言葉の力 ” で実相を喚(よ)び出すこと


それでは、どうしたら実用に供せられるかというと、コトバで唱えるということです。

コトバは創(つく)る力がある。


聖書にも、「 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。・・・

万(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし」と

書いてありますが、言葉に出すんです。

そうすればそれが形にあらわれてくるんです。


「太郎さん」と言うと太郎さんが出てくるんです。

「次郎さん」と言えば次郎さんが出て来るんです。

「太郎さん」と言うのに次郎さんが出てきたりやしない。


だから宗教はコトバを使うんです。

日蓮宗では お題目といって「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という言葉を使う。

或いは浄土真宗とか浄土宗なんかでは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」「南無阿弥陀仏」と

言葉を称(とな)える、即ち言葉によって自分の中に宿っているところの阿弥陀仏なるものを

喚び出す ー これが南無阿弥陀仏です。


南無というのは帰命(きみょう)である。或いは帰依(きえ)と訳した人もあるし、

或いは帰投(きとう)と約した人もある。


自分と言うものを空(むな)しくして仏の生命(いのち)の中へスカーッと投げ入れて、

ここに仏の生命がある”“私は仏の生命と一つである”というそういう思いに変わるんです。

それが「 南無阿弥陀仏 」という言葉の力であって、そのコトバの力によって、

ここに生きている生命は 阿弥陀仏が生きているのである、

本当に阿弥陀さんがここに生きているのである。

自分が阿弥陀になる。なるんじゃない、始めから阿弥陀仏が宿っているんです。

気が付かなかったんです。気が付くんです。思い出すんです。

仏典に、「 衆生(しゅじょう)仏を憶念(おくねん)すれば、仏、衆生を憶念し給う 」 と

いう語(ことば)がありますが、自分が仏を憶(おも)えば、仏を念ずれば、仏を唱えれば、

ここに仏があらわれてくるんです。


親鸞聖人(しんらんしょうにん)も、 「 念仏を称えるには至誠心(しじょうしん)が必要である 」 と

言われた。即ち “ 最高の誠の心が必要である ” とこう言われたんです。

決して唇(くちびる)念仏ではいかんのです。


コトバの力といっても、ただ耳に聞える空気の振動が “ 南無阿弥陀 ” と出て来たら

極楽へ行けるんだったら、こんな簡単なことはない。

それでは、お寺もお坊さんも何も要らん、一ぺん蓄音機に南無阿弥陀仏と吹き込んで、

それを永久に回転するようにしておいたら、皆(みん)な極楽へ往(い)ってしまうが、

そういうことにはならんのであります。

やっぱり、この至誠心が必要である。

霊の底から真心を出して “ ここに仏の命があるんだ ”

“ 私の生命(いのち)と仏の生命とは一つである ” という自覚を喚び起すことが必要なのであります。



つづく・・・




人生を善くする根本的悟り (9)

2013-11-18 00:12:04 | 今日の光明法語


病気を消すには

“肉体”という人間なる生命(いのち)の“産物”がいくら病気しとったって、

貴方は病気していないことになるんです。


その肉体は心の影なんだから、病気している現象を見て“病気”“病気”“病気”と心に念じたら、

念じる通りに現われるから、いつまで経(た)っても病気は消えないということになる。


そこで、その病気の現象みたいなものを見ないで、不完全な現象を見ないで、

現象を超えて実相を観(み)る。「神の子」なるものを観る。


“ここに神の生命(いのち)が生きている” “すでに円満完全である”ということをですね、

それを観るんです。そしたら、その自覚を深めるに従って病気なんか消えてしまうんです。


だから皆さんは常に、「私は神の子である。円満完全である。健康である」ということを

念ずるようにすると宜(よろ)しい。念じなければいかんですよ。


いくら神の生命が宿っておっても、仏の生命が宿っておっても、

念じないのでは、抽斗(ひきだし)の中にはあるが、その抽斗あけて出さないのと同じことである。

“中にある”だけじゃ駄目である。

何でも良いものがあれば、それを抽斗の中へ納(しま)っておいて

忘れてしまっているんじゃ役に立たぬのであって、

その抽斗を開けてそれを出して来て実用に使わなくちゃいかん。


宗教というのも、「人間・神の子」の自覚を単に抽斗の中へ入れておいたんじゃ何の功徳も

ないのであって、それを抽斗の中から出して、実用に供しなければならないのです。




つづく・・・




人生を善くする根本的悟り (8)

2013-11-17 18:53:00 | 今日の光明法語


“ 生命 ” の実相の中に素直に跳び込め


生命は現象の奥にある神秘ですから科学の対象にはならない。

だから生命を知ろうと思ったら、

その科学的な知識を捨てて素直になって生命の中に跳び込まなければならない。

それが信仰であります。


生命そのものの中に跳び込むといっても何も難しいことはない。

自分に生命が宿っているんだから自分が生命なんだ。

肉体は始終変っているが、谷口は始終変らない。

永遠に変らない生命(いのち)がある、それが自分―神なんだ、

変らない神、不滅の神、久遠の神、永遠不滅の神、それが人間なんです。


それを常に思い出すんです。

病気しているのは肉体なんです。

貴方(あなた)じゃないんです。人間じゃないんです。肉体は人間なるものの産物ですね。



つづく・・・







人生を善くする根本的悟り (7)

2013-11-16 21:32:00 | 今日の光明法語


科学では人間生命を知ることはできない


そこで、その妄想を排(はい)するために真理を知らなければならない。


真理を知るには、人間の賢(さかし)らな智慧によって科学的分析によって、

生命とは何ぞや?ということを知ろうと思ってもそれは駄目である。


生命の実相を知るためには、吾々は人間の智慧を捨てて、

神の智慧を受けなくては駄目なんです。


科学というものは外からものを観察して、それを細かく分析して、

そして現象の事実をずーっとこう集めて、それを系統立てて、

そこに法則を発見する ー まあそういうことをするのが科学ですけれども、

しかしそういう現象の奥に何があるか?ということは、科学の領域ではないわけです。




つづく・・・






人生を善くする根本的悟り (6)

2013-11-15 19:39:46 | 今日の光明法語


何故(なぜ) 『 生命の實相 』 を熟読すると病気が治るか


それで、人生をよくして 此世(このよ)を 「 エデンの楽園 」 のようにするには

どうしたらよいか。


そのためには 自分の生命というものが 神から来たものであるということを

先ず自覚して頂くことです。


病気の人でも、若し人間の生命が 「 神の生命 」 だと

本当にわかったら 病気が治る筈(はず)なんです。

神の生命がここにいるのに、それが病気になる筈がないじゃないですか。


『 生命の實相 』 の本を読んで病気が治るというのは、

人間生命の真理が 誰(だれ)にもよく分るように詳しく書いてあるからです。


キリスト教の天地創造説を書いた創世記の第一章にどう書いてあるかというと、

神様は神のコトバによって一切のものをお創造(つく)りになった。

そして最後に人間をお造りになって、 「 生めよ繁殖(ふえ)よ 地に満盈(みて)よ、

之(これ)を服従(したがわ)せよ・・・」 とこう仰(おお)せられて、

最後に 「 神 其(そ)の造りたる諸(すべて)の物を視(み)たまいけるに

甚(はなは)だ善かりき・・・」 とこう書いてある。


神様が 全能の力によって一切のものをお造りになり、

そして その全能の智慧によって すべて点検なさいまして

“ その造りたる諸の物を視たまいけるに甚だ善かりき ” と

こう仰せられているのでありますね、甚だ善かりきである。


すべて善いんです。すべていいのに、

それに、その人間の生命(いのち)が病気するなんて筈(はず)ないじゃないですか。


それなのに 病気しているのは、人間の生命というものを化学物質の作用だなんて

考えているから ものが逆になっている。


いのちの本当の相(すがた)即ち “ 生命の実相 ” の本当の相が分らない。

唯物論的人間観の智慧の樹の果(み)だけを食って

「 エデンの楽園 」 から追放されている、

追放された世界は 苦しみの世界であって、そこは迷いによって病気も来るし、

いろいろ苦しいものが出てくるのは当たりまえである。

それは妄想(もうそう)によって出てくるのであります。




つづく・・・





人生を善くする根本的悟り (5)

2013-11-14 21:58:30 | 今日の光明法語


生命の樹(き)の実を食べること


“ 罪の子 ” という人類に対する呪いを解(と)くにはどうしたらいいかというと、

それは 生命の樹の実を食べればいいということになっているのであります。


これは、キリスト教の創世記に、アダムとイヴ 即ち人類の祖先が

“ 智慧の樹(き)の果(み) ” を食べて

“ エデンの楽園 ” から追い出されたとあります。


そして再び “ エデンの楽園 ” に帰って来るためには

“ 生命の樹の実 ” を食べなければならない。


ところがエホバの神様がお怒りになって、 “ 生命の樹 ” のところへ行く道を、

ケルビムという天の使いを遣(つか)わして、

焔(ほのお)の燃えている回転する剣(つるぎ)をその道の真中に置いて、

どうしてもその道を横切って “ 生命の樹 ” に達して “ 生命の実 ” を食べられないようにして

永遠に楽園から人間を追放するようにせられた ー ということが書いてあるのです。


けれども、新約聖書の終りのところへいくと、

人間が生命の樹の実を自由にたべられる世界が来ることが書いてあります。


すなわち 黙示録の第二十二章に、 “ 生命の樹 ” が川の両岸に繁(しげ)っておって、

「 今より後 詛(のろ)わるべき者一つもなかるべし 」 とあります。


これで見るとエデンの常楽の世界が人類に奪い還(かえ)されて、

永遠常楽の常に楽しい世界が現われて来たことが書かれているのであります。


“梅の木の実”を “ 梅の実 ” と称しますように

“ 生命の樹の実 ” というのは “ 生命の実 ” であります。


“ 実(み) ” というのは “ 実相(じっそう) ” です。

実(じつ)の相(すがた)です。


人間が再び “ 生命の実 ” を食べてエデンの楽園に還(かえ)るというのは

“ 蛇 ” 即ち 地を匍(は)う(物に執着する)唯物論に教えられた智慧の樹の実を食(く)って、

人間が単なる物質の化学作用で出来た肉体という塊(かたまり)だというような人間観を吐(は)き出して、

そして本当に生命というものは神の生命が宿っているんだということを自覚したときに、


その時に、天国浄土が奪い還(かえ)されて、

人間は再び “ エデンの楽園 ” のような極楽世界に住むことが出来るという真理を

説いた神話であります。


それで、そのような唯物論的人間観を棄(す)てて、

生命の実相、人間のいのちの実の相が ー 実は物質の化学作用じゃないのであって、

神様の生命(いのち)が宿っているんだということを自覚するですね、

そのときに、 “ 生命の樹の実 ” を食べたということになるわけなんです。


“ 智慧の樹の果(み) ” を食べたとか “ 生命の樹の実 ” を食べるとかいうことは、

象徴的な物語でありまして、一種の神話である。


それを本当に解すると、即ち 生命の実の相は 如何(いか)なるものであるかということを

充分 咀嚼(そしゃく)して 魂の底にしみ込ましめ 自覚することが

「 生命の樹の実を食べる 」 ということになるのであります。




つづく・・・






人生を善くする根本的悟り (4)

2013-11-13 19:18:35 | 今日の光明法語


キリストは全人類を “ 神の子 ” だといった


併(しか)し、キリスト教を伝える人は、大抵 「 キリストだけが “ 神の子 ” であって、

吾々は罪の子である 」 と、こういうふうに言った。


そこからキリストの教えが崩れてきたのです。

キリストはどう言ったかというと、

『「 天にまします我らの父よ、御名(みな)を崇(あが)めし給え、

御国(みくに)を来らしめ給え、御心の天に成るが如く地にも成らせ給え 」 と祈れ 』

と言ったのであります。


この祈りの一番最初の神に対する呼びかけの語(ことば)に、

「 天にまします吾らの父よ・・・」 とあって、

“ 吾ら ” と複数になっています。


“ イエス一人が神の子だ ” とはイエスは言わなかったのです。

即ち 「 吾ら人類全体が神の子だ 」 と教えたのがイエスである。


これを間違えて、教えを崩していったところに ー キリスト自身の教えは間違っていないけれども、

それを伝える人たちが間違えて教えを伝えたから、この世界は罪人ばかりが横行する世界になった。


即ち コトバの力で 人類が呪縛(じゅばく)されてしまって、

罪人ばかりが横行する世界になった。


つまり 言葉の呪(のろ)いで縛られて、

この世界が罪人ばかり集まっている地獄みたいな世界になったわけであります。



つづく・・・