“ 祈ってあげる人 ” も “ 祈ってもらう人 ” も、赤の他人で、
何(なん)の関係もなかった人間同志だと思えるのであるけれども、
そのような人達は “ 類業(るいごう) ” “ 類縁(るいえん) ” によって
“ 一体(ひとつ) ” に結ばれているのであって、
その祈ってあげる人が、相手の実相完全な姿を 真に悟ったら、
相手と共に 自分自身が救われ、相手が癒され、自分が癒されることになるのである。
もっと広義に考えるならば、地上のすべての人類は “ 類業 ” “ 類縁 ” によって
一体なのである。だから、ある最高の聖者は 「 世界の人類が 一人でも まだ苦しんでいるのは、
私 ひとりの罪である 」 と言い切ったのである。
“ 罪 ” とは “ 包み ” 隠していることであり、一人でも まだ この世に苦しんでいる人が
あるのは、自分がまだ、全人類が 皆 神の子・完全円満であることを 真に 観(み)る境地に
達していない その罪のあらわれだ という意味である。
『 人間苦の解放宣言 』 祈り合いの神想観実修本義 ( 96~97頁 ) 谷 口 雅 春 先 生
何(なん)の関係もなかった人間同志だと思えるのであるけれども、
そのような人達は “ 類業(るいごう) ” “ 類縁(るいえん) ” によって
“ 一体(ひとつ) ” に結ばれているのであって、
その祈ってあげる人が、相手の実相完全な姿を 真に悟ったら、
相手と共に 自分自身が救われ、相手が癒され、自分が癒されることになるのである。
もっと広義に考えるならば、地上のすべての人類は “ 類業 ” “ 類縁 ” によって
一体なのである。だから、ある最高の聖者は 「 世界の人類が 一人でも まだ苦しんでいるのは、
私 ひとりの罪である 」 と言い切ったのである。
“ 罪 ” とは “ 包み ” 隠していることであり、一人でも まだ この世に苦しんでいる人が
あるのは、自分がまだ、全人類が 皆 神の子・完全円満であることを 真に 観(み)る境地に
達していない その罪のあらわれだ という意味である。
『 人間苦の解放宣言 』 祈り合いの神想観実修本義 ( 96~97頁 ) 谷 口 雅 春 先 生