☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

何故、「偽経」を「廃経」にしないのか、背教そのものではないか

2019-02-24 23:11:26 | 今日の光明法語
護法の天使様のご投稿(https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2499)にあるように
< 谷口雅春先生の恐るべきご警告!!-『甘露の法雨』を真似をした偽経を創作して、
それを読むことを勧め、売ると、「霊界からの守護がなくなります」、
「邪霊が復讐を試みる」、「非常に危険」、「末路は必ずよくないのであります」


トキさんの投稿は、「聖経」と「偽経」の違いをより明確に指摘しております。
こんな偽経を読んで どうするのか。何故「廃経」にしないのか、不思議である。

新・トキ掲示板より
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「新経本」読誦の注意点 (10177)
日時:2019年02月22日 (金) 22時36分
名前:トキ

「新経本」を読んで、不具合が出た人の事例を複数聞きましたが、
中には大きな行事で「新経本」を何回も先導で読んでいるのに何も問題がない人もいます。
私の教区にもそう言う人がいるので、内密に事情を聞いて見ました。

「新経本」を読んで不幸になった人の多くは、
「甘露の法雨」などの聖経を読むのと同じ調子で読むので、問題が起こったというのが、
この人の解説です。

一般に、 「甘露の法雨」などの聖経は、

1 神様が谷口雅春先生を通じて書かれたもので、
2 霊界の諸霊に上げるものであるから
3 心を込めて読まなければならない


と言う指示を信徒は受けています。

 しかし、 「新経本」は

1 人間の頭で書かれたもので
2 人間の都合で読むものであるから
3 心を込めて読んではいけない


と言うのがポイントらしいです。

もちろん、読まないのが一番だが、浮世の関係で、講師などはどうしても先導などを
しなければいけない場合はあります。

その場合は、とにかく、「これは人間が書いたものである」と認識し、
他のことを考えながら上の空で唱えると害は少ないみたいです。

「大自然讃歌」などは、生物の教科書みたいな内容ですから、学生が授業中に
教師から当てられて教科書を読んでいるのと同じ感覚でいるといいのでしょう。

ただ、時間の無駄であるのも事実ですが、それは我慢しなければならないでしょう。

以上、ご参考まで。


新・トキ掲示板より
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日時:2019年02月24日 (日) 22時56分
名前:トキ
 「新経本」は、「大自然讃歌」「観世音菩薩讃歌」のことをさします。
 



心を引立てること  谷口雅春 先生

2019-02-22 17:02:22 | 今日の光明法語
心を引立(ひきた)てることを 毎朝の行事にしなければならぬ。
生長の家に入(はい)った当座(とうざ)は 「 心を引立てる 」ことを
感激を以(もっ)て行(ぎょう)じたけれども、いつの間(ま)にか
「 心を引立てる 」 ことを 忘れてしまった人も多勢(おおぜい)ある。
沈滞(ちんたい)すれば黴(かび)が生(は)える。

毎日 「 幸福だ 」 「 有りがたい 」 「 嬉しい 」 「 本当にこれでよくなるぞ 」 などと
云(い)う語(ことば)を出(だ)すようにしなければ、
どこに 生長の家に 入(はい)った値打(ねうち)があるか。

一回でも斯(こ)う云う言葉を出した日は 幸福だが、
一回も斯う云う言葉を出す機会のなかった人は、もう その人の生命が陳(ふる)びかけ、
信仰が退転しかけている。

谷口雅春 先生 『 静思集 』 11頁

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毎日 「 幸福だ 」 「 有りがたい 」 「 嬉しい 」 「 本当にこれでよくなるぞ 」 などと
云(い)う語(ことば)を出(だ)すようにしなければ、
どこに 生長の家に 入(はい)った値打(ねうち)があるか。


毎朝 「 神の子 」 万歳三唱




日本人の愛国心について ― 生命の本源を知る    谷口雅春 先生

2019-02-11 13:45:38 | 今日の光明法語

・・・・・ 愛の範囲が、「自己中心の愛」から「恋人への愛」、それから「父母への愛」、
それから「祖先への愛」となってくるのであります。
それから更には、その祖先の、祖先の、更に祖先ということになってきますと、
それは一方においては 即(すなわ)ち「 神 」に達する。

こうして、縦に広がっては、神に対する愛となり、無限の原始(げんし)において 自分の生命は
神につながって出発し、そして今 現(げん)に ここに神につながって生かされているのであると
いう自覚が起ってくるのであります。

そして、神の御心(みこころ)に適(かな)う生活をしなければならない。そして神の御心に適って
何をしても神が 「 お前はすばらしいことをしたぞ! 」 といって、神様が褒(ほ)めて下さるような
生き方をした時に その時に喜びを感ずる。

神が喜んだら自分が喜ぶというような 内からなる実践道徳の理性 ― または 規範が 内部から
押し出して来て、自分の生命が 縦に拡大して 神の意志と一体になる行動にまで発達することに
なるのであります。これが 「 神を愛する 」 ということであります。

併(しか)し神から発(はっ)し 神につながる我が生命が具体的に生きるためには、
その生きる “ 場 ” がなければならない。それが国であります。
日本の国があって吾々は生き、吾々の祖先も生きて来ている、神武天皇の建国は神話であると
いう人もあるけれども、ともかくわれわれの祖先たる 天照大御神 → 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) →
そして神武天皇という風(ふう)に我々の生命の続きの祖先が日本の国を建てた。

吾々の住んでいる日本の国は、祖先と自分と一体の自覚においては、日本の国は吾々の祖先の
生命の展開であり、正(まさ)に自分の生命の続きなんです。だから自分を愛する者は日本国を
愛しなければならないということになるのであります。

若(も)し神武天皇が日本国をお建てにならなかったら、現在の日本人は存在しないということに
なるのであります。そこに 「 生命の本源 」 を知ることによって、天皇家に対する恩愛の情(じょう)、
報恩の心というものが自然に発生して来(こ)なければならない。

そして吾々自身と吾々の祖先とが生き、かつ生かされて来た日本国を愛さなければならない
必然の要求がでて来(く)るのであります。これが本当の愛国心であります。

谷口雅春 先生 
『 人生を前進する 』 ( 168 ~ 169頁 )




本当の “ 人間つくり ” について

2019-02-11 11:54:15 | 今日の光明法語

人間は 神の最高実現として、宇宙の一切の要素 ― 鉱物的なるもの、植物的なるもの、
動物的なるもの ー をことごとく 内に包含しながら、それ以上に超出するところの
一層高次なるものを発現せしめなければならないのである。

即(すなわ)ち その、「 一層高次なるもの 」 とは 「 人間に宿る神性 」 である。
そして この神性を発現せしめ発揮することによってのみ、人間は 本当に
「 “ 人間たることを得る ” 」 のである。

谷口雅春 先生
『人生を前進する』 ( 227頁 ) 日本教文社



マルキシズムの唯物弁証法に対して、生長の家は生命弁証法であります  谷口雅春 先生

2019-02-03 15:55:25 | 今日の光明法語
唯物史観から唯神実相論へ

どんな制度、環境の世界においても結局 「 自分の心の持ち方一つ 」 で幸福になり得(う)る真理を
宣布する方が、人類に永久の救いをもたらすことになるのであります。

マルキシズムは 唯物(ゆいぶつ)弁証法(べんしょうほう)でありますが、
生長の家は 生命(せいめい)弁証法であります。先(ま)ず「人間は物質である、肉体である」と
世間では措定(そてい)するのであります。ところが人間を物質だと考えると、どうしても矛盾を
生じてくるところができる。

どんなに物質的に富んでも人間には物質だけで幸福になれない部分がある。
そこで「人間は物質である、肉体である、という考(かんがえ)は間違(まちがい)である。
人間は精神である」という「否定」即(すなわ)ち「反措定(はんそてい)」が行われる。

ところが、その「人間は精神である」と こういう命題も、精神というものは、脳髄をこわしたら
消えてしまうじゃないかというので「人間は精神ではない」と「否定」の「否定」が行われる。
それなら精神でなくて何(なん)であるかというと、「人間は霊であり、生命である」というふうに、
物質及び精神を超(こ)えたところの一段高いものが肯定せられる。

肉体を否定し、精神を否定し、その否定をも否定して、人間は霊であり生命であると、
尚(なお)一段高次の存在としての「人間」そのものを肯定するのが 生長の家の生命弁証法なので
あります。

・・・・・

弁証法というものは、それ自身のうちに自己を否定する考えが出て来て、更に一段高いものを
肯定するようになるのでありますから、誰(たれ)でも最初は素朴的(そぼくてき)実在論で、
物質をそのまま実在すると考えるから唯物(ゆいぶつ)史観(しかん)を肯定し、
その唯物史観から唯心(ゆいしん)史観に転(てん)じ、そして更に 唯神(ゆいしん)史観となり、
唯神実相論を肯定しなければならないようになっているのであります。

唯神実相論になりますと、神は絶対でありますから、それを止揚(しよう)して、更(さら)に
それ以上のものを肯定するということはなくなるのであります。

谷口雅春 先生
『 解放への二つの道 』 ( 56~59頁 ) 昭和30年10月20日 初版発行 

※ 措定(そてい)・・・・・ある命題(内容)を肯定的に主張すること。